放送作家村上信夫の不思議事件ファイル

Welcome! 放送作家で立教大大学院生の村上信夫のNOTEです。

龍馬の妻 その後のお龍

2010年03月20日 10時20分21秒 | 人間って
史料が語る坂本龍馬の妻お龍
鈴木 かほる
新人物往来社

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 大河ドラマ「龍馬伝」の影響で、坂本龍馬がブーム。
 で、大分 知られるようになったが、龍馬暗殺後、その妻、お龍の生涯。
 龍馬の死後、龍馬の盟友 長府藩の三吉慎蔵が面倒をみ、高知の坂本家へ送り届けている。ここで、有名な乙女姉と合わず、ここを飛び出し、各地を流浪したといわれる。
 横浜の料亭「田中屋」の仲居をしていたが、横須賀の商人 西村松兵衛と出会い、再婚。
 しかし、酔っては「私は龍馬の妻」と西村に絡み、泥酔したという。
 田中屋時代も、気位は高く、大酒飲みで、店の評判は悪かったそうだ。
 龍馬に出会わなかったら、彼女の人生はどう変わっていたのか・・・。
 龍馬ほどの人間を知ってしまったら、どんな男も小さく、つまらない人間に見えても仕方ない。英雄を愛した不幸ともいえる。
 
 これは、ありうる想像だが、酔ったお龍は西村に「お前さんのあの時は・・・」「龍馬はねぇ・・・」「あんたのそこが嫌なのよ」「あの時、龍馬はねぇ・・・ おい、聞いてるのかよ!」ガチャン(徳利が投げられ、割れる音)
 行商人とも伝えられる西村だが、それがたまらなかったのか、一時、お龍の妹と駆け落ちしたという話がある。
 僕は、この西村松兵衛という男のささやかな人生にも興味がそそろられる。

 お龍の死後、西村松兵衛は、お龍の妹と共に墓を作り、「龍馬の妻」とした。
 その想いもまた ・・・。
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%B4%8E%E9%BE%8D から転載 お龍のその後

慶応3年(1867年)、龍馬が暗殺されたとき、お龍は豪商の伊藤助太夫のもとにいた為、難を逃れた。
龍馬死後、三吉慎蔵が面倒をみていたが、慶応4年(1868年)3月にはお龍を土佐の坂本家に送り届けている。龍馬の姉・坂本乙女の元に身を寄せたが、間もなくそこを立ち去る。このとき、龍馬からの数多くの手紙は坂本家とは関係ない二人だけのものとし、すべて燃やしてしまっている。

その後は土佐から京へ行き、近江屋を頼ったり、また、西郷隆盛や海援隊士を頼り東京にでたりした。神奈川宿の旅館・田中屋で仲居をしていたところ旧知の商人西村松兵衛と出会い、30歳のとき再婚し、横須賀に流れた。晩年はアルコール依存症状態で、酔っては「私は龍馬の妻だ」と松兵衛にこぼしていたという。龍馬との間に子はなかったが、明治7年(1874年)34歳の時に松兵衛との間に男児を出産後入籍(戸籍に届けた名前は西村ツル、お龍の妹の中沢光枝の前夫の子と言う説もある)するも、その息子は明治24年(1897年)17歳で死去。以降、酒をあおったり昔からの無理がたたり、明治39年(1906年)、横須賀にて66歳で死去。墓は横須賀市大津の信楽寺(しんぎょうじ)にある。妹の中本光枝と西村松兵衛がこの墓を作ったが、墓碑にはおりょうを「贈正四位阪本龍馬の妻龍子」と刻んでいる。

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