白骨の道 「地を這う虫達の叫び」 ・ メール:kanran@i-next.ne.jp

私の寒蘭栽培と「炭鉱が閉山して崩壊した町」の回顧録
利権に慾る人間の生きざまを赤裸々に綴ります 77歳です

吉井町を飛び越えて佐々町と合併すると言った「井の中の蛙」よ目を覚ませ

2014-03-29 16:00:05 | 日記

佐世保市との合併を希望した吉井町に、街中をまたいで架橋工事が進んでいる、これは松浦市から佐世保市に直通する道路である、つまり子産坂トンネルを通り、吉井町をまたいで妙観寺トンネルを通って佐世保市に通ずる道路です。これで私が、松浦市から椋呂路トンネルと板山トンネル構想は絶対に成功しない、と発言していた事がお解りと思う。

写真中央に、旧世知原町役場が静かに眠っています、右上の建物が合併してから建て替わった世知原小学校です、いずれ町内会長連合会も老人会長連合会も解散するでしょう、何故なら世話人が居ないので組織が弱体化しているのです、佐世保市世知原支所も無くなるでしょう。炭鉱全盛時代は昔の夢なのです、北松十万の炭鉱人口は全国に散らばっています、どうか元気で御活躍を期待します。


イベント町長を首領にした町民 ・ 建設業者と行政の癒着に街宣車も走った (その5)

2014-03-28 20:23:22 | 日記

その昔、世知原役場は公金流用と伝票改ざんは公認だった。私も定年退職してから17年目に入る、公務員は秘密を守るべきだと言われているが。不正や公金横領を隠蔽するのは犯罪である。私の町は産炭地域だったので長年に亘っての陳情の成果で「鉱害復旧事業」が始まった時のことである。急傾斜地帯の水田はコンクリートで固められ、まるで要塞のようである。県庁から検査に来た職員が、町を取り巻く棚田が、コンクリートで固められた風景を見て「全町公園化宣言も台無しですね」と言って唖然としていたことを思い出す。水田をはじめ家屋、道路、墓地から墓石まで全てが国家予算の事業である。県内外の建設業者が設計金額を嗅ぎつけようと役場事務所内をうろうろしていた。これに目をつけたのが、〇〇町長の選挙地盤である世知原ロードレースであった。役場職員が、建設業者に平然と寄付金を要求する、業者は設計金額を聞き出そうとする、建設業者から毎年二千万円近くの寄付金をせしめていたと言われている。工事の入札担当職員がロードレースの寄付金として、現金五万から数十万円を業者から受け取っていたと言われている。このときのロードレース大会会長が工事を発注する〇〇町長だから、必ず業者は寄付をするのである。鉱害復旧対策室長の〇〇氏は〇〇議長や〇〇町長の「虎の威を借る狐」であった。事務費は到底使い切れない、国からの補助金は無駄でも使ってしまうのが、官庁の慣わしである。鉱害復旧対策室に数十人の臨時職員を雇い、他の部局の一般事務職員の給料までこの鉱害経費でまかなっていたと言われている。総務課や税務課など予算の少ない係は、鉱害室長に媚を売って物品を買う、そして請求書を室長に渡すのである。誰もが不正を隠蔽していたのである。業者選定と入札事務を担当した総務課長が助役となり、退職後に〇〇建設に天下りした二名の建設課長こそ貴重な国民の税金を横領した張本人である。昔から公務員の汚職は、役得だと言われていたようだが、行政、議会、監査を完全に分離すれば改善出来ることである。町長の親戚や支持者を監査役にしないこと、土建業者を町議会議長にしないことである、これを叫びつづけてきた私は今でも村八分されている。この時ロードレースの寄付金集めなどに関係した職員が、佐々川に身を投げて入水自殺した。思い出したくない回顧録である、大昔の悲運な出来事として忘れて良いのだろうか・・・

写真は、羽付七曲りの私の竹林から松浦病院を望む

 

「 散る桜 残る桜も 散る桜 」七曲りの桜並木から街中が小さく見えている、私は、この世知原町が嫌いです。


寒蘭の植替えが済みました、恒例により3月21日から24日までに50鉢を植替えた

2014-03-27 10:47:03 | 日記

植替えに使用した石は、園芸土≪ニューさつま≫サイズのMとSです、これに黒曜石パーライト等を混合しています。植え替えた鉢の表面に「寒蘭自生地の黒土」で押さえています、下の写真のように、植え替えた鉢には赤いラベルを立てていますが、植え替えてから殺菌剤、活性剤、真水と10間続けて灌水します。この作業と真夏の3日から4日間隔の潅水が勤め傍らには困難です、私も退職してからは日に4回から5回は蘭舎に入っています、真冬や真夏には夜中の12時頃蘭舎に入って観察しています。趣味と道楽の違いでしょうね・・・こうして春植え替えた鉢の底からは、秋には鉢底から新根が出ています。


・・・ 根捌きは半分くらい切り捨てる事と、根を広げて植付けることが生育の秘訣です ・・・

2014-03-24 21:19:42 | 日記

三年前の23年3月に植付けた鉢です、根の状態を見てください、鉢が割れそうに成長しています。(この鉢は「御国の花」です)

鉢から出した侭の、根の状態と鉢全部の石の状態です、植付けてから三年目です、昨年の新芽が四本出ています (この株は「天馬」です)

根を捌いた状態です、鉢から出した根を半分は切り捨てた状態です

植付けの様子です、肝心な事は根を広げて石を根の中に入れる事が肝心です、鉢は出来るだけ小さめが良いと思います。この写真は鉢が大きめですが解りやすくする為です。植替えについて詳しく知りたい方は昨年のブログを見てください。今年は五十鉢植替えました。

株分け


・・・  春蘭の柄花です ・ 昨日から寒蘭の植替えを始めましたので状態を紹介します ・・・

2014-03-22 18:45:14 | 日記

春蘭の花に癒されています、ある人に依頼されたとは言え、役場に勤務していた時の出来事を思い出して書くのは嫌なことです。当分寒蘭の植替え状況を紹介して行きたいと思います。

下の写真は、≪春光≫です蘭友から株分けを頼まれたので、昨年植え替えた鉢の根を見ました


建設業者と役場職員が癒着した、その時町行政は方向性を見失った (その4)

2014-03-19 12:08:24 | 日記

・・地方公務員の議会での小さな事件を回顧しました・・昔から農村には水道が無かったので、水田の区画整備事業と併せて水道施設を完成させた。ある日の課長会議で、議案の説明をした「農業構造改善事業で集落に設置した水道施設を世知原町上水道に編入する議案」を提案した、ところが上水道の担当課長がこの議案に反対した。私は、効率補助事業で設置した水道を各集落に運営させるよりも町の上水道に合併するのが効率である。と確信していたので前議会の「議決書」通りの議案を作成して提案した、この課長会では私の提案の通り決定した。ところが、議会で、この議案に対して議長傘下の議員から「この議案の作成について、中島さんの本を読んで勉強しましたか」との質問があつたので、私は次のように答弁した「只今のご質問の内容が理解出来ませんので、お答え出来ません」と聞き返した。処が突然に議員が「議長、今の下野課長の答弁は議会軽視だ」と発言した、議長から「答弁内容の訂正を求めます」との要求があつたが、私はそれを拒否した。議長が閉会を宣言した。(町長と私が議長室に呼ばれた、協議の結果、明日の議会で私が謝罪する事となった)翌朝の議会で私は「先日の答弁は適切でありませんでしたので、発言を撤回致します、議会を混乱させた事に対して謝罪いたします」と発言した、その後、議員の質問も撤回されて、この議案は採択されました。私が答弁を拒否した理由は、第一に、議長が理事者側の発言について修正を命ずる権限が無い事、次に議案の審議は、即近日の議決書を優先すると定められている事、私がこの通りに答弁したら、質問した議員と議長の責任そして建設課長との癒着が問題になっていたのです。

上の写真は、木浦原笥瀬地区水田基盤整備前の風景 (昭和30年代に私の自宅正面から見た水田の風景です)

 

写真左下、大阪から企業誘致した鉄鋼関係の会社、写真右の赤い屋根は精神科関係病院のパン工房だそうです、水田は区画整備されて左記の建物に転用されている。


昭和38年に宿中県道の改良工事が完成して、町道、農林道の工事に土建業者が競った (その3)

2014-03-09 09:32:57 | 日記

この写真は、昭和20年代、世知原町の繁華街、県道宿中道路の状況です。左側が世知原郵便局と親和銀行、右側の木立の中が世知原町の役場、その後が世知原小学校です。人口約13,000人の時代です

県道も拡張されて街中は綺麗になりました、今日は長崎県下全域から集まって「せちばるロードレース大会」が開催されています。右側の木立が元世知原町役場の面影を見せています。昭和45年に飯野炭鉱が閉山して世知原町の現在の人口は4,000程だと思います。


昭和30年代に、町長の娘婿が建設業を設立した、その後行政談合が始まった (その2)

2014-03-07 11:21:31 | 日記

世知原には炭鉱住宅の屋根や炊事場を修復する一方で、公共工事を請け負う会社が存在していた。行政は職員の月給も払えなく内払いする状況でした、その役場職員の給料は炭鉱に借金していたそうです。こうした戦後復興のなかで農山村の町政は、農業基本法の設立を国会に呼びかけたのです。この基本法への狙いは農業経営の規模拡大と農業近代化資金でした、水田の区画整備を開始し、農業の経営拡大を目指す農業構造改善事業による茶園100haの造成を開始したのです。水田の区画整理は主に「地元の土建業者」に入札させ、茶園の造成事業は「長崎県土地改良事業団体連合会」に施工させました。板山茶園の造成計画は、熊本農政局に対する42haの保安林解除申請に始まり、国有林の払下げ申請と同時に農業構造改善事業計画書を作成したのです。この事業の管轄が私でしたのでこの記述は事実です。こうした茶園造成で世知原町の農地の75%を区画整理したのです。昭和30年から40年に亘り農政局、長崎県、全国組織の土改連、世知原町、建設業者による「農山村の建設」が始まったのです。


世知原町の行政談合はこうして始まった、終戦直後は行政が直轄で工事をしていた。(その1)

2014-03-02 22:52:25 | 日記

戦後復興の時代、昭和20年から30年代の頃、町村では土建業者の設立もなく町村の直轄工事が行われていた。終戦後は復員軍人や満州等からの引揚者などで失業者が多く、世知原町の炭鉱街では左派による労働争議で警察官舎や労働者会館が放火されて全焼する事件が起きた。その一方では、赤痢の集団発生が起こり一晩で児童など11名の尊い生命が犠牲になった、患者は消防車で小学校に緊急隔離した、その患者数は当時の人口の一割を超す1,300名を有に超えたのである、昭和29年の夏休みの最中の出来事だつた。私は、その時赤痢撲滅にアルバイトをした関係で世知原町役場に就職したのである。

朝鮮戦争の勃発と同時にマッカーサー元帥によるレットパージーが強化され、世知原の炭鉱町でも左翼の町議や鉱員など逮捕者が多く出て町の行政も混乱を極めた。昭和30年4月新しく誕生した前田信義町長は、失業対策事業を開始した、その係に私が任命されたです、セーター編み物機械を貸付てその製品を町で出荷した、炭住のなかに保育所を設置して婦人の労働の機会を図り失業対策事業を開始したのです。この事業では、セーター編み等の家内産業と合わせて、町道や農林道の建設を中心事業とした。

また、農業・畜産・林業を主政策に挙げた前田町制は、植林の為の林道建設の為にブルトーザーを購入して運転手を職員として2名採用した、畜産振興には獣医師を採用し、茶業振興にはその指導員を配置したのです。その後42年にわたって町政に携わって見てきた私が、権力を持った人間が落ちて行く生き様を暴露しますが、これはあくまでも公人職を暴露するものであって、個人格を誹謗したものではありません。

この写真は、炭鉱閉山直後に鉱炭車の引込線で遊ぶ子供達の風景です、右奥は旧世知原町の駅舎で現在の「躍進の泉」です。子供が遊んでいるこの場所が現在「栗迎四区」の中央を通る県道です。


炭鉱町で育ち、炭鉱住宅を這いずりまわって働いた、その後炭鉱が閉山して佐世保市に合併した

2014-03-02 11:52:42 | 日記

炭鉱住宅に八千人の人々が生活していた、その黒ダイヤに群がる商売人、昔から住み着いていた農家等、一万四千人程が住んでいた。そして昭和45年に炭鉱が閉山して現在人口三千人程の過疎町村となり、佐世保市に合併された。閉山と同時に旧世知原町は炭鉱の土地を坪千円程で買い上げ、造成して坪5千円程で分譲宅地として販売した。閉山後に流れ込んだ人間達と、炭鉱の残党、昔から住み着いていた人達が、今漠然と生活しているが何れ町は消滅するでしょう。

当時、政府と日本国民は、石炭産業を見捨て、原子力発電を望んだ。炭鉱の労働力は都会に転出してバブルに拍車をかけて。過って炭鉱の鉱員住宅に出入りする町の職員は少なかった、写真下の石炭ポケットと新抗炭住街、今の「三区や四区」そして川向炭住街今の「かじか区」等のには炭鉱の「地区労務」が設置されており常に鉱員の動向を監視していた。町役場には「炭鉱戸籍」があり一般町民とは区別されていた。当時失業対策事業やレットパージや集団赤痢の撲滅に直接携わっていた私はこうした事が今でもトラウマになっているのである。

この写真は、大東亜戦争では潜水艦の搭乗員として国を守り、復員後は石炭産業の国営化を念じて閉山まで命を削って闘った男の顔、(飯野炭鉱労働組合長)である(私の叔父)。過って炭鉱人口約八千人を抱え長崎県会議員と七名の町会議員を当選させた飯野炭鉱労働組合員は閉山と共に全国に転出して行ったのです