白骨の道 「地を這う虫達の叫び」 ・ メール:kanran@i-next.ne.jp

私の寒蘭栽培と「炭鉱が閉山して崩壊した町」の回顧録
利権に慾る人間の生きざまを赤裸々に綴ります 77歳です

・・地蔵祭り・「昭和29年7月23日赤痢患者1,456名が集団発生して15名の子供達が死亡した」・・

2011-10-29 11:31:52 | 日記

長崎県世知原町の炭鉱住宅「川向」の地蔵祭りです、赤痢集団発生で亡くなった子供を供養するために地蔵祭りが始まったのです

当町では昭和27年に98名の赤痢患者が発生している、翌年はやや下火となり、明けて昭和29年8月学校の夏休み中に古今未曾有の赤痢が大発生した。患者総数1,456名(赤痢患者659名、保菌者723名、下痢等擬患者その他74名)死亡者15名でした。このため隔離病棟が不足し、小学校講堂を隔離病室として使用した。9月1日より教室不足のため児童の学習は、二部授業になった。

集団赤痢の発生源である飯野炭鉱所有の川向水槽は、昭和16年頃に作られたコンクリート製の水槽であり、川向と新坑をまかなう水量が貯められていた。ちなみに数年前から発生していた赤痢患者が無届になっており、上流の汚水がこの水源に流入したと云われていた。また、絶対的発生原因は、この炭鉱所有の上水道には消毒液が投入されていなかった事が判明しているが、この集団赤痢の責任を取った者は誰もいないし、行政の責任者である世知原町(当時は前田信義町長)では、当時上水道施設が設備されていなかった。

夏休みの真昼、喉の渇きで蛇口に口を付けて飲んだ炭鉱の水道水が、赤痢菌に汚染されていた。亡くなった子供達の魂を供養するために、地蔵さんに水を掛けて祈願する川向の炭鉱住民達です

私は高校時代、この赤痢集団発生の防疫に従事する為にアルバイトをした、高校卒業と同時に世知原町に奉職した。当初失業対策事業係として勤務していたが、赤痢撲滅のために一枚の辞令を受け取った、社会課衛生係主事・下野清徳、任命者・世知原町長・前田信義であった。当時の衛生係(後の町長)金子薫恩師の後任として命を投げ打つて早期撲滅をした。その結果世知原町は「日本一のモデル衛生町」として厚生労働大臣の表彰を受けたのです。


飯野炭鉱労働組合の幹部達です、背景の風景で当時の様子が伺われます・場所は現在の「河川公園」です

2011-10-28 13:15:17 | 日記

第三期(昭和29年4月から30年3月)の幹部、組合長・山口大楠、副組合長・岩崎吾市、給与対策部長・吉崎米雄、事務局長・森田英男、生産保安部長・富永年夫、法規労災部長・松田松一、教宣部長・森下喜久年、福祉部長・本村正人等です。場所は、飯野炭鉱事務所横の佐々川で現在の「河川公園」です、背景の家屋は、職員組合と職員寮です、バックの木橋は現在の「大藤公園」に入るコンクリート橋です

第五期(昭和31年4月から32年3月)労組の幹部達です、組合長・宮田義雄、副組合長・岩崎吾市、事務局長・森田英男、給与調査部長・吉崎米雄、生産保安部長・富永年夫、松田松一、教宣部長・茂山三勇、福祉部長・本村正人等です。この写真の場所は、松浦グランド横の飯野労働組合から西八天岳を背にしています、これ等の山は茅場で当時は植林がされていません、バックの家屋は炭鉱の工作場とその後ろは炭鉱の住宅です、現在の四区の集会所付近になります。


   ・・・日本社会党委員長・浅沼稲次郎先生が世知原町小学校講堂前で労組幹部達と記念撮影・・・

2011-10-27 18:45:31 | 日記

世知原小学校講堂(右)前で、飯野労組の幹部達と記念撮影、中央で悠然と立っているのが浅沼稲次郎先生です。 彼は昭和35年10月12日東京千代田区にある日比谷公会堂において、演説中に17才の右翼少年「山口二矢」に暗殺されたのです。


       ・・・・・日向産の「一富士」と西彼杵藤原産の「宝心」です、やや早咲きの花です・・・・・

2011-10-25 11:48:06 | 日記

      

「一富士」は日向産の青大輪一文字で舌点珍花です        「宝心」は藤原産の青更紗、川渕前会長の登録です


寒蘭の「つぼみ」です。今年は開花が早いようです、長崎県北寒蘭会の展示会に合わせて開花を調整中です

2011-10-24 09:12:29 | 日記

       

 白西一の谷です                                金鵄です

      

  丸舌の青花です                                 宝心・早咲きです

長崎県北寒蘭会主催(長崎新聞社後援)の「日本寒蘭展示品評大会」を11月19日と20日に開催します。

持込み時間は11月18日の8時30分から10時30分までとなっています、多くの出展者をお待ちしています。


     国際的労働者祭 「May Day」 昭和30年代です、教宣放送が聞こえる 「起て万国の労働者・・・」

2011-10-14 09:44:42 | 日記

国の基幹的産業であつた石炭産業のメーデーは、労働者の祭典であつた、石炭の町世知原町の全盛期である。以下写真説明です、昔は「駅下」付近です、現在は「栗迎四区」新興住宅地域です、左上のトンガリ屋根の跡が社会福祉協議会で右隣の飯野松浦炭鉱の事務所が石炭資料館になっています

飯野松浦炭鉱のグランドを出発するメーデーの行進、現在は佐世保の市民グランドです

炭鉱グランドを出て、メーデーの先頭を行進する幹部、場所は、現在の市民グランド前付近です

昔の「中段」付近、幅増工事前の無舗装の県道を行進するメーデー、現在の世知原~知見寺経由の県道、中通り付近

 

 


「闘争に燃えた男たちの戦い」・今後当分の間、飯野炭労第五代組合長富永年夫の遺品から写真を紹介する

2011-10-13 19:16:25 | 日記

 昭和三十年代飯野炭鉱労働組合のメーデーの風景、スクラムを組んで先頭に立つ幹部達。暫くは当時の写真を掲載します。

飯野炭鉱労働組合の一千八百人余の同志が結集して、気勢をを挙げる労働者の祭典メーデーの風景、場所は炭鉱のグランド