長崎県世知原町の炭鉱住宅「川向」の地蔵祭りです、赤痢集団発生で亡くなった子供を供養するために地蔵祭りが始まったのです
当町では昭和27年に98名の赤痢患者が発生している、翌年はやや下火となり、明けて昭和29年8月学校の夏休み中に古今未曾有の赤痢が大発生した。患者総数1,456名(赤痢患者659名、保菌者723名、下痢等擬患者その他74名)死亡者15名でした。このため隔離病棟が不足し、小学校講堂を隔離病室として使用した。9月1日より教室不足のため児童の学習は、二部授業になった。
集団赤痢の発生源である飯野炭鉱所有の川向水槽は、昭和16年頃に作られたコンクリート製の水槽であり、川向と新坑をまかなう水量が貯められていた。ちなみに数年前から発生していた赤痢患者が無届になっており、上流の汚水がこの水源に流入したと云われていた。また、絶対的発生原因は、この炭鉱所有の上水道には消毒液が投入されていなかった事が判明しているが、この集団赤痢の責任を取った者は誰もいないし、行政の責任者である世知原町(当時は前田信義町長)では、当時上水道施設が設備されていなかった。
夏休みの真昼、喉の渇きで蛇口に口を付けて飲んだ炭鉱の水道水が、赤痢菌に汚染されていた。亡くなった子供達の魂を供養するために、地蔵さんに水を掛けて祈願する川向の炭鉱住民達です
私は高校時代、この赤痢集団発生の防疫に従事する為にアルバイトをした、高校卒業と同時に世知原町に奉職した。当初失業対策事業係として勤務していたが、赤痢撲滅のために一枚の辞令を受け取った、社会課衛生係主事・下野清徳、任命者・世知原町長・前田信義であった。当時の衛生係(後の町長)金子薫恩師の後任として命を投げ打つて早期撲滅をした。その結果世知原町は「日本一のモデル衛生町」として厚生労働大臣の表彰を受けたのです。