白骨の道 「地を這う虫達の叫び」 ・ メール:kanran@i-next.ne.jp

私の寒蘭栽培と「炭鉱が閉山して崩壊した町」の回顧録
利権に慾る人間の生きざまを赤裸々に綴ります 77歳です

世知原町の行政談合はこうして始まった、終戦直後は行政が直轄で工事をしていた。(その1)

2014-03-02 22:52:25 | 日記

戦後復興の時代、昭和20年から30年代の頃、町村では土建業者の設立もなく町村の直轄工事が行われていた。終戦後は復員軍人や満州等からの引揚者などで失業者が多く、世知原町の炭鉱街では左派による労働争議で警察官舎や労働者会館が放火されて全焼する事件が起きた。その一方では、赤痢の集団発生が起こり一晩で児童など11名の尊い生命が犠牲になった、患者は消防車で小学校に緊急隔離した、その患者数は当時の人口の一割を超す1,300名を有に超えたのである、昭和29年の夏休みの最中の出来事だつた。私は、その時赤痢撲滅にアルバイトをした関係で世知原町役場に就職したのである。

朝鮮戦争の勃発と同時にマッカーサー元帥によるレットパージーが強化され、世知原の炭鉱町でも左翼の町議や鉱員など逮捕者が多く出て町の行政も混乱を極めた。昭和30年4月新しく誕生した前田信義町長は、失業対策事業を開始した、その係に私が任命されたです、セーター編み物機械を貸付てその製品を町で出荷した、炭住のなかに保育所を設置して婦人の労働の機会を図り失業対策事業を開始したのです。この事業では、セーター編み等の家内産業と合わせて、町道や農林道の建設を中心事業とした。

また、農業・畜産・林業を主政策に挙げた前田町制は、植林の為の林道建設の為にブルトーザーを購入して運転手を職員として2名採用した、畜産振興には獣医師を採用し、茶業振興にはその指導員を配置したのです。その後42年にわたって町政に携わって見てきた私が、権力を持った人間が落ちて行く生き様を暴露しますが、これはあくまでも公人職を暴露するものであって、個人格を誹謗したものではありません。

この写真は、炭鉱閉山直後に鉱炭車の引込線で遊ぶ子供達の風景です、右奥は旧世知原町の駅舎で現在の「躍進の泉」です。子供が遊んでいるこの場所が現在「栗迎四区」の中央を通る県道です。


炭鉱町で育ち、炭鉱住宅を這いずりまわって働いた、その後炭鉱が閉山して佐世保市に合併した

2014-03-02 11:52:42 | 日記

炭鉱住宅に八千人の人々が生活していた、その黒ダイヤに群がる商売人、昔から住み着いていた農家等、一万四千人程が住んでいた。そして昭和45年に炭鉱が閉山して現在人口三千人程の過疎町村となり、佐世保市に合併された。閉山と同時に旧世知原町は炭鉱の土地を坪千円程で買い上げ、造成して坪5千円程で分譲宅地として販売した。閉山後に流れ込んだ人間達と、炭鉱の残党、昔から住み着いていた人達が、今漠然と生活しているが何れ町は消滅するでしょう。

当時、政府と日本国民は、石炭産業を見捨て、原子力発電を望んだ。炭鉱の労働力は都会に転出してバブルに拍車をかけて。過って炭鉱の鉱員住宅に出入りする町の職員は少なかった、写真下の石炭ポケットと新抗炭住街、今の「三区や四区」そして川向炭住街今の「かじか区」等のには炭鉱の「地区労務」が設置されており常に鉱員の動向を監視していた。町役場には「炭鉱戸籍」があり一般町民とは区別されていた。当時失業対策事業やレットパージや集団赤痢の撲滅に直接携わっていた私はこうした事が今でもトラウマになっているのである。

この写真は、大東亜戦争では潜水艦の搭乗員として国を守り、復員後は石炭産業の国営化を念じて閉山まで命を削って闘った男の顔、(飯野炭鉱労働組合長)である(私の叔父)。過って炭鉱人口約八千人を抱え長崎県会議員と七名の町会議員を当選させた飯野炭鉱労働組合員は閉山と共に全国に転出して行ったのです