白骨の道 「地を這う虫達の叫び」 ・ メール:kanran@i-next.ne.jp

私の寒蘭栽培と「炭鉱が閉山して崩壊した町」の回顧録
利権に慾る人間の生きざまを赤裸々に綴ります 77歳です

・・・昭和46年12月26日に廃止された元世知原駅と駅跡の躍進の泉公園です・・・

2012-09-29 08:38:14 | 日記

 

国鉄時代は、松浦線吉井駅で乗り替えて、世知原線の執着駅でした。

世知原駅跡の躍進の泉公園です、右方に見えるのが世知原町出身の松浦鉄道株式会社社長中倉万次郎翁の記念碑です、左に見えるのが当時走っていた機関車C11の車輪です。昔の鉄道跡は現在幅員8メートルの県道に変わっています


・・・閉山後・炭鉱の所有地を買収し、宅地造成して復興した町の全景です・(旧)炭鉱の町世知原・・・

2012-09-28 08:38:23 | 日記

左上が、東八天岳です、中央に本道が登っています。惜別の想いで転出された皆さんお元気ですか

写真の左上、右斜面がボタ山です、右下が松浦病院です、この赤色の建物は神経科と内科の病棟のようです。吉井町(右下)から左側に走っているのが昔のままの本道り(県道)です、右側に元国鉄と元川向を利用して新設さた県道が、開作の小塚岳トンネルを通って佐世保市柚木地区に通じています。 


・・・(旧)長崎県世知原町の中心街は飯野炭鉱で繁栄していた・・・

2012-09-26 11:55:34 | 日記

 

この写真は、昭和35年頃の世知原町です、街中は炭鉱街でした写真下方中央が世知原駅、右方三角屋根が飯野炭鉱事務所、中央の高い建物が新抗石炭ポケット、正面から右に登り上がっているのがボタ山です、奥の方には炭鉱住宅の川向の屋根が見えています。

川向入口にあった松浦炭鉱診療所が朝鮮の跡地に移転した、診療科目が増えて病院の増築が進み世知原町の伝染病棟が併設されました。この病院の前を鉄道世知原線が走っていました。


昭和45年に飯野炭鉱が閉山した。今後しばらく、炭鉱の想い出と復興した現在の風景を掲載します

2012-09-18 10:44:41 | 日記

  

    閉山時の惜別の言葉です。

      胸に残る故郷の思い出、去来する数々のできごと、炭塵にまみれし腕でスクラムを組み、

      あるときは酒を酌み交わし、運動会にてはオドケ、ある時は野辺にたわむれた。

      いずくにか 我が友は 想い出を胸におおしく生き抜かん。ふるさと世知原の山紫水明と

      栄を願いつつ ・ ・ ・ ・ ・


その昔・川向部落の炭鉱住宅に住む人達が、子供の霊を供養する為に地蔵祭りを行いました

2012-09-17 18:08:51 | 日記

長崎県の世知原町で、昭和29年の真夏に赤痢が集団発生して患者1,456名を世知原小学校に収容しました、その時15名の子供が亡くなりました。この集団発生の原因は、数年前から発症していた赤痢を保健所に届け出ていなかったこと、飯野炭鉱の水道水が消毒されていなかったこと、この水道の上流で汚物が洗濯されたこと等が原因で起こった人災であると思われます。この時、赤痢撲滅の任命を受けた私は、全町民にクレゾール石鹸水による手洗いの徹底を実施させ、整腸剤としてヤクルトを全町民に配布しました、町内全家庭の衛生検査を実施し、町内医師会の協力を受けて衛生教育を徹底しました。その結果世知原町は、衛生日本一の表彰を受けたのです。この赤痢集団発生は私が役場勤務中に強く記憶に残っている事件です、その写真を再度掲載しました。この赤痢発生の記事を詳しく知りたい方は、2011年10月29日のブログ記事を再度読んで下さい。

川向の人達が赤痢で亡くなった子供達を供養するために、水かけ地蔵さんを担いで街中を廻っています。川向を出発して住宅を廻った地蔵さんが、世知原の本道りを通って世知原バス停から世知原駅の踏切に差し掛かろうとしています。次からの写真は、水かけ地蔵祭りが川向住宅の中を廻っている風景です

 


炭鉱閉山で九千人が消えた世知原町から発信しています、転出者からのメールをお待ちしています

2012-09-13 12:55:09 | 日記

昭和45年に飯野炭鉱が閉山した長崎県世知原町は、当時13,000人の人口が現在3,500人の老人の街と化しています。私も世知原町役場を退職して15年を迎え、老人会のお世話をしています。閉山で転出した友人との約束もあって、昔と今の写真等世知原の現状を発信しています。世知原の石炭は火力発電所や国鉄の機関車に使用されていました、当時石炭産業の国有化運動をしていた飯野炭鉱の組合長(その後教育長をしていた叔父)感化を受けたのか、私は何時もこう考えています、石炭産業の政府買上、国鉄、郵政の民営化、そして市町村の合併等で炭労、国労、自治労等の労働組合が解体して、社会党が自民党に呑み込まれました、そして原子力発電所が建設されました。これらの全てが国の策略でありこの責任は重大であると思います。炭鉱閉山で消えた街、原子力発電所の事故で避難している街等生活に苦しんでいる人々の多い今日、世知原から転出した仲間たちはそれぞれの場所で昔を懐かしみ、私のブログを見て涙しているという。メールを頂いた方々の顔を思い出しては幸せを祈っています。


佐世保市世知原小学校で全校児童がホールインワンに挑戦・老人会がグランドゴルフの手伝い

2012-09-12 08:47:59 | 日記

平成24年9月11日秋空の下で佐世保市世知原小学校で、グランドゴルフのホールインワン大会が行われました、世知原老連会(兼七雄会長)の皆さんが大会の準備や打ち方の指導をされていました、初めての事でなかなか玉に当たりません。

一巡すると子供は覚えが早く、次々とホーインワンの気勢が揚がっていました、見る見る10名程の生徒がチンチンと音を立ててホールインワンをしていました

全教室に四名か五名のお年寄りが入って一緒に昼の給食をしました、このあとグランドゴルフがあるので皆んなも幾分はしゃいでいるようです


昭和30年代・熊野権現神社前から槍巻中道りの商店街付近を見る 「街中県道の昔と今・その8」

2012-09-08 12:52:33 | 日記

炭住街の中段や本坑がある槍巻中通りの繁華街です、道路上の方に架け橋が見えるのは本坑口から石炭を下す炭車道です、写真の遠望は上野原国有林の方向を見ています、山は茅場の状態で植林はできていません。

平成24年8月9日撮影、炭鉱閉山後その敷地を買収した世知原町は宅地造成して分譲しました、中段を槍巻区に本坑を城山区として現在は新興住宅地に生まれ変わっています、人影も減り日々過疎化が進んでいるようです。遠望の上野原地域の国有地と町有地も殆ど植林が出来て深山に変貌しています


昭和30年代・炭住中段部落(左側)から見た権現町の風景 「街中県道の昔と今・その7」

2012-09-07 15:05:21 | 日記

遠望は木浦原方面の山々です、町有林も民有林も植林が出来ていません。道路は未舗装の狭い県道です、二人の炭鉱夫が帰路に向かい、小学生が学校に急いでいる、先にはバイクで出勤している人、早朝の槍巻中通りの商店街です。左の板塀の下が炭住中段、右の電柱の横から真言宗のお寺を登ると炭住の本坑があります。

撮影日は、平成24年8月9日です。右側が、権現町の集会所です、槍巻商店街の全容は殆ど変わっていませんが、道路が二車線に幅増しされています、又遠望の木浦原方面の山々は植林地に変わっています。

右側手前の上段は、飯野炭鉱の中段配給所でした、その下が権現町集会所です、撮影日は、平成24年8月9日槍巻の繁華街より木浦原の山々を望んでいます


長崎県世知原町・昭和30年代の大正町と一丁目付近の風景です、「街中県道の昔と今・その5」

2012-09-06 12:19:34 | 日記

左の塀が元郵便局長の自宅です、その横から入り込んだ奥地が世知原で唯一つの神社が鎮座している、神社の前に新築された世知原中学校が建つている。郵便局長の前が当時豪腕な町長前田信義氏(長崎県町村長会長)の自宅があり、町長の下隣に私が子供の頃釣り道具を買いに行ってい手塚商店、その下が町議をしていた林辰巳氏の精米所がある。この地域は、内科の先生から、歯医者さん、産婆さん、針灸さん、米屋さん、食料品店、呉服屋さん、左官さん、大工さん、石工さん、お寺さん、神官さん、とこの大正町付近は各職種の人々が仲良く暮らしていたのです。


早朝から賑わいを見せている「世知原クリニック」付近です 「街中県道の昔と今・その6」

2012-09-06 11:21:44 | 日記

写真左の「世知原クリニツク」は元郵便局長の屋敷でした、大昔の道路も幅増工事で二車線に改良されています、この路線は知見寺経由のバスが一時間置きに出ており、世知原温泉やまのれん行のバスも出ています。撮影日は、平成24年8月9日です

ご婦人が世知原リニックを出て歩道を渡ろうとしています、この左奥が山口神社と中学校と武道館です、その左下に武田宅と元郵便局跡が見えています、歩道右が手塚商店と林精米所でこの風景は昔のままです。撮影日は、平成24年8月9日です


・・・長崎県世知原町・積雪の本道りです(昭和30年頃)  「街中県道の昔と今・その4」・・・

2012-09-05 12:04:56 | 日記

昭和30年頃の写真です、国見山(770メートル)の外輪山に囲まれた長崎県の世知原町は大雪が降っていました。この写真は、1万3千強の人口で、8千人程の炭鉱人口を有していたゴーストラッシユの世知原町の繁華街です。左側に親和銀行、郵便局、遊郭、その前に世知原村役場や公民館が建っていました。その後県道の幅増し工事でこれらの施設は殆ど移転しています。

撮影日は24年8月9日です、商店街の道路整備と称して何やら色彩を施されていますが、殆ど人影も車も見当たりません、過疎化になった現在この町にこの工事をした理由がわかりません。

24年9月2日の日曜日、一年に一度の賑わいです、これが有名な世知原ロードレースのゴールです。過って皇賞を受賞した公民館前の前田製茶商店の玄関で暑さをしのいでいます。

公民館のゴール前から佐世保市世知原支所の方向を望んでいます。今日はロードレースで賑わっていますが、通常は商店も殆どシャッターが降りています。このロードレースの発展に尽力した元町長の市瀬健爾君に敬意を表したいと思います。


世知原小学校校門前から東八天岳方面を望む・(昭和30年頃)、「街中県道の昔と今・その3」

2012-09-03 11:18:04 | 日記

昭和30年頃の雪の日の本道りです、世知原小学校の校門前から東八天岳方面を望んでいます。

世知原小学校校門から東八天岳方面を望む。左が村上商店です高齢の店主も頑張っています、前方上に見えるのが八天岳、その左下に、こんもりと見える小森辺りが大昔の世知原村役場や郵便局や親和銀行で栄えた場所です。(撮影は24年8月9日です)

小学校校門から西方面を撮影しています、左は文房具店でしたが生徒数の減少で閉店しました、世知原町役場も佐世保市支所に変わり且つて七十人程度を有した職員も8名程度になりました。役場前に移転していた親和銀行も閉店し、写真中央に農協とそのスーパーが在りますが殆ど人影が見えません(撮影は24年8月9日です)


新抗口の真上から世知原町役場方面を望む、炭鉱全盛期の昭和30年頃・「街中県道の昔と今・その2」

2012-09-02 21:18:59 | 日記

撮影者の足の真下に新抗の抗口があります、松浦市の志佐川を越えて坑道が続いているそうです。左が、五十円コーナーの安楽食堂、自動販売機に五十円入れるとコップ一杯の二級酒が出る、一級酒は七分目程で止まる、仕事帰りに呑み仲間と寄ったものだ。右側が、炭鉱関連業の中川商店、その奥の方に世知原町役場や親和銀行や松月旅館があるので人通りが多く見える。当時の人口は一万三千人強で炭鉱人口が八千人とも言われていました。

平成24年9月2日佐世保市「世知原ロードレース」の風景です。昭和45年に炭鉱が閉山し現在人口3千5百人程だと言われますが、今日は日本各地から集まった走者で賑わいました。


子供が歩いている道路の真下に炭鉱の抗口がある (昭和30年頃)・「街中県道の昔と今・その1」

2012-09-02 21:14:32 | 日記

映画看板が貼ってある左の板塀の下(子供が歩いている県道の下)に飯野炭鉱の抗口があります、この坑道で松浦市の志佐川を越えて石炭が掘られていたそうです。昭和30年代の初め、私が世知原町役場に就職した頃の街中唯一の県道の様子です、この写真は右側の飯野信用組合の前から世知原町役場の方向を撮影したもので、西肥バスが来たので慌てて単車から降りて民家に逃げ込んでいます。

平成24年9月2日佐世保市「世知原ロードレース」の風景です

炭鉱閉山後の世知原町は完全に過疎化しています、夕暮れの街中は人影もなく車の音もありません、商店街は殆どシヤツターが降りています。現在街中に人が集まるのは年間に「宮日」と「ロードレース」だけです。