白骨の道 「地を這う虫達の叫び」 ・ メール:kanran@i-next.ne.jp

私の寒蘭栽培と「炭鉱が閉山して崩壊した町」の回顧録
利権に慾る人間の生きざまを赤裸々に綴ります 77歳です

炭鉱町で育ち、炭鉱住宅を這いずりまわって働いた、その後炭鉱が閉山して佐世保市に合併した

2014-03-02 11:52:42 | 日記

炭鉱住宅に八千人の人々が生活していた、その黒ダイヤに群がる商売人、昔から住み着いていた農家等、一万四千人程が住んでいた。そして昭和45年に炭鉱が閉山して現在人口三千人程の過疎町村となり、佐世保市に合併された。閉山と同時に旧世知原町は炭鉱の土地を坪千円程で買い上げ、造成して坪5千円程で分譲宅地として販売した。閉山後に流れ込んだ人間達と、炭鉱の残党、昔から住み着いていた人達が、今漠然と生活しているが何れ町は消滅するでしょう。

当時、政府と日本国民は、石炭産業を見捨て、原子力発電を望んだ。炭鉱の労働力は都会に転出してバブルに拍車をかけて。過って炭鉱の鉱員住宅に出入りする町の職員は少なかった、写真下の石炭ポケットと新抗炭住街、今の「三区や四区」そして川向炭住街今の「かじか区」等のには炭鉱の「地区労務」が設置されており常に鉱員の動向を監視していた。町役場には「炭鉱戸籍」があり一般町民とは区別されていた。当時失業対策事業やレットパージや集団赤痢の撲滅に直接携わっていた私はこうした事が今でもトラウマになっているのである。

この写真は、大東亜戦争では潜水艦の搭乗員として国を守り、復員後は石炭産業の国営化を念じて閉山まで命を削って闘った男の顔、(飯野炭鉱労働組合長)である(私の叔父)。過って炭鉱人口約八千人を抱え長崎県会議員と七名の町会議員を当選させた飯野炭鉱労働組合員は閉山と共に全国に転出して行ったのです



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