久々の晴天に、庭先の紅梅と椿が浮き出ています、ヒヨドリが早朝から花びらをつついています
地滑りした畑の下の家は死後四十九日の供養中です、私の直ぐ下の家と真後ろの家も空き家で崩壊しています。真正面の窓が私の蘭舎です。
久々の晴天に、庭先の紅梅と椿が浮き出ています、ヒヨドリが早朝から花びらをつついています
地滑りした畑の下の家は死後四十九日の供養中です、私の直ぐ下の家と真後ろの家も空き家で崩壊しています。真正面の窓が私の蘭舎です。
意訳:花も人も散りどきを心得てこそ美しい。細川ガラシャの辞世の句。細川ガラシャは明智光秀の娘で、名は玉。細川忠興に嫁いだが、1582(天正10)年明智光秀が本能寺の変を起こし、山崎の合戦で豊臣秀吉に敗れると、秀吉に遠慮した忠興によって幽閉された。しかし、1584年に秀吉の計らいで忠興とガラシャは大阪の細川家屋敷の忠興のもとに戻った。キリスト教に入信したのは1587年で、ガラシャの洗礼名もその時からである。関ヶ原の戦いに際し、石田三成から人質として大坂城に入ることを強要されたが承知せず、家老の小笠原小斎に胸を突かせて死に、細川家の面目を保った。このことは、婦徳(ふとく)の鑑(かがみ)と称えられ、世間の同情は細川家に集まる結果となったのです。 写真は、二月九日の朝積雪の中に咲いていた庭先の雪椿です
旧タイトルは、飯野炭鉱に依存した町の行政と戦後労働組合の活動を回顧したタイトルにしていました、このタイトル・炭鉱のあった町「下野清徳の回顧録2」を変更しました。新タイトルは・白骨の道「下野清徳と寒蘭の世界」に変更しました。ご愛読の程宜しくお願いします。
この写真は、昭和30年代の世知原町政の実態が見えます。左から前田町長・鳥谷町議・森田県議・富永飯野労組組合長・中川社長他労組幹部と組合員と世知原町の有志達です。(この写真は私の叔父富永年夫の遺品です)