週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
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火宅の子供

2011-06-03 01:21:59 | 法話のようなもの

先月、最乗寺で行われた神奈川組仏教壮年会総会の中の研修会にて、『歎異抄』の後序についてのご講義がありました。

同じ阿弥陀さまのお念仏のみ教えに生きる同門の人々の中に、信心の異なる者がないようにと、涙ながらに筆を取り、これを記しました。
この文を『歎異抄』と名づけます。
      (意訳)

そう『歎異抄』という書のいわれが記されている後序ですが、他にも、

「如来よりたまはらせたまひたる信心なり」
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」

など、浄土真宗の要を説いた親鸞聖人の名言も多く記されています。
そしてもう一つ、先日の記事でも取り上げた一文もまた、この後序に記されたものでした。

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」

「煩悩」とは「心身を乱し悩ませ、正しい判断を妨げる心のはたらき」のこと。
「具足」とは「十分に備わっている」ということ。

では、「火宅」は何かというと、『法華経』の譬喩品にはこんなお話があります。

子沢山の大富豪の家に火事が発生する。
大富豪は難を逃れていたが、子供たちは火事に気づかず家の中で遊んだまま。
炎に包まれ、今にも崩れ落ちそうな我が家…しかし、どんなに父親が危ないから早く外に逃げろと叫んでも、子供たちは信じない。

なぜなら子供たちは、ここより安全で良い所なんてないって思っているから。

家の中が安住の地であると信じて疑わない。
遊び戯れ、燃え盛る炎に包まれた家宅の中にいるのに、危険だという感覚も恐怖もない、幼稚な子供。

それが誰かといえば、迷いの世界を安住の地だと思っている、煩悩具足の私自身の姿を指しています。

形あるものは、時と共に姿を変え、あるものは壊れ、あるものは崩されてゆく。
もしくは突然破壊され、強制的に姿を変えられる。
目に見えなくても変化していて、いずれ目に見える変化となる。

すべては因縁が合することによって生じたものだから、因縁によって常に変化し、一瞬たりとも同じ状態のまま、とどまることは叶わない。
関係性の中で、つながりの中で存在するということ…つまりは無常の世界を生きるということ。

その道理に気付かず、その道理を受け入れず、いつまでもいつまでも、変わらぬままで在り続けようと、今が続くと信じることは、今にも崩れ落ちそうな火宅の中で、崩れ落ちることなど想像することもなく、遊びほうけるようなもの。 
迷いの世界を迷いのままで生きること。

火宅無常の世界に確かなものなどありはしない。
この世に生きるということは、屋根のひさしに火のついた家に住むようなもの。
すべてが不確かに移ろい過ぎてゆく。

それでも、そこに真(まこと)があることを、その真が何であるかを、『歎異抄』の一文が教えてくれます。

ちなみに、火宅の中の子供たちは、父親の策によって自ら外へと飛び出してくるのですが…長くなったので、それはまた別の話ということで。