ツルピカ田中定幸先生

教育・作文教育・綴り方教育について。
神奈川県作文の会
綴方理論研究会
国分一太郎「教育」と「文学」研究会

二 「自己表現」を重視する文章表現指導で育つ力―その2

2011-06-25 18:51:08 | Weblog
         『子どものうちに育てておきたい心と表現力-③』

(三)意欲と経験に着目することで思考力・創造性が育ちます
 さらに、文章表現の指導のめあて(Ⅳ)として次のことをあげています。「ものごとをとらえ、とらえなおす過程と、それを文章に表現する過程とを、きちんとむすびつけたところで、子どもたちの認識諸能力(観察するちから、知覚し認知するちから、記憶し表象するちから、すじみちただしく思考するちから、ゆたかに想像するちからなど)をのばしていくこと。」
 このねらいは、「指導要領」でも、にわかに強調されだした「思考力」「判断力」「表現力」を育てようということと、共通するところといってよいと思います。
このねらいにおいても、「自己表現」をする過程の方が、よりはたらく記憶力、再生的な想像力、あるいは新しいものを生み出す創造力、分析したり総合したりするときにも養われる思考力、あるいは要点をまとめる力、そして表象力といった力が育つのだと考えています。
 脳科学者の茂木健一郎さんは、「創造性」、を生む力を、「ひらめきを生む力は、鍛えることができる。」として次のように書いています。
                        (注)『ひらめきの導火線』(茂木健一郎 PHP新書 2008.9.2)

  「ひらめきとは、前頭葉の意欲と、側頭葉の経験のかけ算である。脳の側頭葉では、意欲や目標意識、やる気がつくら れる。側頭葉には、さまざまな経験が記憶、集積されている。両者がうまく結びついたときに、創造性やひらめきが生ま れるのだ。創造性を高めたければ、意欲と経験を結ぶ回路がうまくつながるようにすればいい」

 こう述べているのです。この「意欲と経験」の回路を結ぶ役割をもっているのが、子ども自身が題材を選んで書く。生活を書く。過去の体験を書くと言うことなのです。
 子ども自身が、書きたいことがらを、自分が考え、感じた事実の何をとりあげながら、どう組み立ててどう展開していくか。書き進めていくか。すなわち事実とのつきあわせ、事実の位置づけ、分析などをしながら書いていく。自分のとらえたことを書く文章であるから、自分らしさを時には追求し、時には試行錯誤するなかでひとまとまりの文章を書く。その過程で、思考力や想像力、論理性が養われていくのです。
 また、「ある日、ある時のこと」を、ものやこととむすびつけて、正確に書いて、読み手によくわかるように書くこと。そして、書いた作品を読み合うことを大切にします。書かれている作品の書き方。書きぶりにふれてそのよさを確かめ合います。そして、こういう書き方ができたのは、そのとき、その場面で、よく目や耳、あるいはこころをはたらかせたから書けたのだということから。いろいろな感覚器官をはたらかせてとらえたからその表現が生まれたことをおさえます。
こうした作品を鑑賞するなかからも、日々の学習や生活の中で感覚をゆたかにはたらかせることの大切さを子どもたちは学んでいくのです。その結果として、観察力、想像力、表象力。思考力、想起力を身につけ創造性ゆたかな子どもを育てることができるのです。

(四)今と未来を生きる子どものための表現活動
 このほかにも、わすれてはならない「書くこと」の大切な側面があります。それは、「社会」が子どもたちにもとめる表現力ではなく、子どもにとって必要な表現力であり、未来に生きる子どものために、子どもの時に育てておきたい表現力です。
 子どもたちは今、自分の気持ちをすなおに表現できる機会を失っている子どもたちが多くいます。子どもたちが感じる、喜怒哀楽を、言葉にして表現する機会を失っていると言われています。そうした子どもが、思いもかけない事件を起こしたりもしています。
 2004四年長崎の佐世保市で起きた小学生六年生の同級生殺害事件は今もなお、記憶の残っていることと思います。この事件を起こした女児の「人格特性」について、長崎家庭裁判所佐世保支部が「審判決定要旨」を公表し、それをまとめて、柳田邦男が次のように述べて、心の未成熟の問題と言語化能力が育っていない問題を指摘しています。

(1)自分のなかにあるあいまいなものを分析し統合して言語化する作業が苦手。
(2)幼少期より、自発的な欲求の表現に乏しく、対人行動は受動的。
   自分の欲求や感情を受けとめてくれる他者がいるという基本的な安心感が希薄で、他者に対する愛着を形成し難い。
愉快な感情は認知し、表現できるが、怒り、寂しさ、悲しさといった不愉快感情は未分化で、適切に処理されないまま抑圧されている。
(3)言葉や文章の一部にとらわれやすく、文章の文脈や作品のメッセージ性を読みとることができない。
   相手の個々の言動から相手の人物像を把握するなど、断片的な出来事から統合されたイメージを形成することが困難。このため、他者の視点に立って、その感情や考えを想像し、共感する力や、他者との間に親密な関係をつくる力が育っていない。
(4)情緒的な分化が進んでおらず、愉快な感情以外の感情表現には乏しい。そのため周囲から、おとなしいが明るい子として評されている。
   怒りを認知しても、感情認知自体の未熟や社会的スキルの低さのために、怒りを適切に処理できずに、怒りを抑圧・回避するか、相手を攻撃して怒りを発散するかという両極端な対処行動しか持ち得ない。同級生から、「怒ると怖い子」と評される。(注 『壊れる日本人』柳田邦夫 新潮社 2005.3.30)

また、子どもたちに必要な観点から「読む力・書く力」とは何かという観点から、「誰でもどこでも通用する貨幣としての知識や技能として、読む・書く力が求められている。」(注)としながらも、次のように述べています。

「しかしもう一方でわすれてはならないのは、言葉は貨幣だけでなく、子ども一人ひとりの「私」を象り、子どもの内面を豊かにし、取りかえ不可能な特定の他者との絆をつくりだしていくという視座である。今大人たちが求めているのは、国際学力テスト競争にも勝てる貨幣としての読む力や書く力かもしれない。しかし子どもたちが真に求めているのは、「私」の内面や言葉をつくり出しているテキスト内容や出来事世界を読む経験であり、語る経験であり、書く経験である。そして、それは、その子どもの言葉を聴き認めてくれる人との絆の間に生まれてくる。(注)それは何を読むか、何を書くかという「内容」にあるのである。連続型、非連続型テキストという形や熟考プロセスや技法だけを取り出した指導ではなく、子どもにとって読むに値する知的興味や心を動かす知恵や思考を含む内容の文章、伝えたい・書く内容に値する内容を表現できる場を準備することで、子どもが求め、子どもたちに必要な、読む力、書く力はついていくのではないだろうか。

 子どもたちに必要な『読む力・書く力』とは何か」(秋田喜代美『児童心理』2007.8 金子書房)
秋田は「四 貨幣としての言葉と「私」の言葉」のなかで、OECDのシュライヒャー氏の国際読書学会でのスピーチの最初の「知識は貨幣である」という言葉を引用しています。
(注)秋田喜代美・黒木秀子(編)『本を通して絆をつむぐ』北大路書房、2006
  
 こうした指摘は、子どもの権利条約にももりこまれている子どもの意見表明権を育てるといった考え方に通じるものです。

 このように、子どもの内面を表現させることの大切さが指摘されています。
こうしたことからも、自己の体験と結びつけ表現する「自己表現」に着目した文章表現の指導が、国語科の授業のなかにしっかりと位置づけられなければならないのです。

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