山田ときさんを偲ぶー10
新入のころ④
五月〇日
こっけいな金芳が、朝教室にはいるとすぐ「センセ、キョウ、オヒサママッカニナッタケ」と報告する。
区教育総会で全員出席のため、授業はできない。父母への通信第二号を渡して、授業のないことを話すと「センセイ、キョウ、サッパリベンキョウシナイノガハ」と、物足りないような顔つきをしている。「サヨウナラ」を三、四へんもして教室を出た。西畑の栄、文司は、「センセ、ハタエ、エッタンダガハ」と探していた。一里も離れたからたった三人弁当背負って、船越ししてくるこの子たちには、殊にすまないような気がして、急いで出口まで送った。
五月〇日
入学の当初、帰るまでカバンをおろさず、朝から体操場で遊んでばかりいた岩吉の父から次のような手紙がきた。
「学校はいつたら、朝早く起きるようになつたし、ひとりで顔洗うし、本などをだして見たり、時には、庭などをはいたりするようになつた。自分のことはたいてい自分でするよ うになった。全く別の子どものようになったが、『ゼニケロ(おかねくれ)Jだけはまだなおら ず、毎日『ゼニケロ、ゼニケロ』と、だだをこねる。もういいだしたら十銭も使わないと承知しないので困る。先生何分よろしくお願いします」
もったいないような半紙に鉛筆でこまかに書かれてあった。ぜひの用でもなければ筆など持つことのないこの村の親たちが、忙しいなかに、こうした手紙をよこしてくれることを思うとき、ただ嬉しくなり、大勢のこととて、手の届かないことが、すまなくてならない。この親たちのことを思うとき、何もかも忘れて、仕事に精だそうと励まされる。
西畑の文司は栄と組んでからとてもまじめになつた。いつも鼻汁をどろどろ流して、もん ぺのひもをずるずる引きずって歩く。忠正よ、あなたが学校にきた当時は、これからどうして、毎日をすごそうかと、ずいぶん考えたよ。一力月ぐらいのうち、席についていたことが 何日あつたろう。もんぺのひもをずるずる引いて、ランドセルを背負ったまま、走りまわつてばかりいたね。それがどうしてこんなにおとなしくなったのだろう。あなたの眼はいつも 先生の眼を見ている。そして、すぐに立って発表する。書くことも一生懸命だね。しかし、石板いっぱいに書いでくる字はどれひとつとして字のかっこうをしたものがないんだ。でも、 あなたは、何か覚えようと一生懸命書くのだ。それでよい。しかしどうして字のかっこうにしていったらよいかなあ?まあ、もんぺのひもばかりもきちんと結んでおきなよ。
一時間一時間が終るごとに、他の組は整然とならんで体操場に出る。そして先生たちは、 一時間の役目が終つて、教室にかえる。しかし、あなた方は、体操場で遊ぶよりも、黒反にいたずらを書くことが嬉しいのだね。書きたくて書きたくてしようがないのだね。よし、みんなどんどん書いて遊びなさい。黒板いっぱいに何でも書くがいい。今の教育では、それがいけない、規律正しく、訓練重視といわれるのだが、こうしていたずら書きすることが、あなた方の勉強なのだ汽車でも、子どもでも、名前でもどしどし書くがいい。だが、鐘がなったらすぐやめて、チョークをキチンと箱のなかにしまい、席につきましょよ。いちいち「センセハコボコ(白墨)力シテケ」とことわりにきて、黒板の前にずらりとならぶ。
そのうち、女の子たちは、二人ずつ髪をとかしあい、爪ののびてる子はずらりとならぶ。二十人近くもならんでいるのに、五・六人切きっただけで鐘がなってしまう。
〈註〉戦争にはいる前のあのころは、こんな小さな子どもたちの上にまでようしゃなく訓練訓陳と要求さ れ、教室でこんなにしてごちゃごちゃと黒板にいたずら書きなどをさせる教育は、許されるはずがなかった。私は、あるとき、校長に、「相沢さん、遊び時間に子どもたちを教室に残しておいてるでないか。――そういう教育をしたければ、お山の大将になるんだね。さもなくば私立の何々学園にでも行くがいい。われわれ天下の公立小字校訓導たるものは」と、みんなのまえで皮肉をいわれ、「アッハッハ、ハァ」とちよう笑された。もちろん、それに答え得るようなな確固とした理論も自言も持たなかったし、いわれるままに、ただ歯をくいしばり、胸の動悸を感じるだけだった。 山田とき著『路ひとすじ』(東洋書館・1952年・35~37頁)より
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