中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

児童雑誌の休刊

2011-12-19 10:25:10 | 身辺雑記

大手出版社の小学館は、子ども向けの学年別学習雑誌『小学三年生』と『小学四年生』を2012年3月号で休刊すると発表した。休刊の理由は「成長と変化が著しい小学生世代のニーズに必ずしも合致しなくなった」などとしているようだ。 

 

小学三年生』は1924年(大正13年)、『小学四年生』は1923年(大正12年)の創刊というから90年くらいたっており歴史は古い。私の子どもの頃にはもちろんあったが、定期的に買ってもらっていたかどうかは記憶がない。戦争末期や戦後間もない頃の物資が乏しい時代にも発刊されていたのだろうか。今は書店に行っても、縁のない児童書のところには行かないから、最近のこれらの雑誌がどのような内容のものかは知らないが、昔は付録が付いていた。

 

 1973年には、それぞれ発行部数102万部、82万部を誇ったそうだが、近年は3万~5万部まで低迷したというから激減だ。これでは編集に携わる人達は、やる気が減退するだろう。やはり好みも関心も多様化している今の子ども達のニーズに合わず、興味を持たれなかったのだろう。これも時代の流れというものか。事実上の廃刊かも知痴れないが、装いを改めて再出発するかも知れない。『小学五年生』と『小学六年生』は2009年度末の号で休刊となっている。『小学一年生』と『小学二年生』は今後も刊行を続けるという。

 

今時の子ども達には他にどんな雑誌があるのか一度書店で見てみよう。

 


いちびり

2011-12-18 13:11:00 | 身辺雑記

  卒業生の I君の店で話していたとき、話題が最近あるプロ野球球団の監督になった人物のことになると、I君は「あれはいちびりですよ」と言った。聞き慣れない言葉だったので、どういう意味かと問うと、彼は「ちょっと説明しにくいのですが」と、しばらく考えてから「軽いと言うことですかね」と言った。私もその人物については現役選手時代の印象からそのように感じていたので、何となく分かったような気がした。

 

 しかし家に帰ってから、もう少しはっきりさせたいと思って、Googleで調べてみると次のようになっていた。

 

 「近畿方言の名詞である。ふざけてはしゃぎまわること、あるいはふざけてはしゃぎまわる人(お調子者、目立ちたがり屋)。「調子に乗る」を意味する動詞いちびる(調子に乗る)が名詞化したものである。市場のような活気あるやかましい様子の言葉-いちびることから、目立ちたがり屋やお調子者を揶揄する時に使われることが多い。また人と違う変わったことをしている人を良い意味で褒める場合にも使われる」(wikipedia)。

 

 文例として、

  

 「いちびってんと、ちゃんとせえよ」 (ふざけて調子に乗っていないで、ち       

  ゃんとしろよ)

 「お前はほんまにいちびりやな」(お前は本当にお調子者だな)

 「あの人はなかなかのいちびりやで」(あの人はなかなか人と違う工夫ができ 

  る人だよ)

 

次の日に I君に会ったときに「お調子者、目立ちたがり屋ということのようだ」と言うと、「お調子者とはちょっと感じが違いますね。周囲から浮いていて自分だけで騒いでいるという感じです。お調子者と目立ちたがり屋と混ぜ合わせたようなものかな」と言ったので、いっそうよく分かったような気がして、方言を標準語で解釈するのは難しいなということになった。

 

関西に住み着いて長くなるが、「いちびり」ということばに出会った記憶はないし、これからも私には使いこなせないような気がする。

 

 

 

 

 


サルの親子

2011-12-15 09:44:43 | 身辺雑記

 私の弟は、大阪府池田市にある自宅近くの里山風の場所で生物の観察をしているが、そこにはシカ、イノシシ、ニホンザル、キジなどいろいろなものがいて、「鳥獣戯画」にあるものは全部いると言っていた。 

 

 最近、サルの親子の写真を自分のサイトに乗せていたので紹介する。

 

 

 

  

 

  こういうコメントが付いていた。 

 「サルの群は、我々10人ほどの仲間の姿を認識はしているのですが、先方は我々をほとんど無視しているかのように行動していました。群は食べ物をあさっており柿の実や樹皮などを食べていました。群の中に子連れの親子が2組見られその内の1組が写真の親子です。親猿が樹皮を剥ぎ子猿と共に食べ始めましたがやがて子猿も自らが樹皮を剥ぎだしました。樹皮の内側の僅かな量の形成層を食べていると思われます」

 

 親子の様子が愛らしく微笑ましい。子猿は親猿の仕草を真似しているようで、こうやって学習していくのだろう。子猿の様子が可愛いが、それを見守る親猿の様子には愛情が感じられるようだ。その様子を見ていると、幼い我が子の頭にレジ袋をかぶせて引きずりまわした母親などは、この母猿にも劣ると思ってしまう。


この母親

2011-12-14 09:50:28 | 身辺雑記

 神戸市垂水区の25歳の母親が3歳の長男の頭にレジ袋をかぶせて殺そうとしたとして殺人未遂容疑で逮捕された。

 

 この母親は男児が居間のゴミ箱の外に吐いたことに腹を立て、「ここに吐け」とレジ袋に顔を押し付けた後で、レジ袋をかぶせて、袋をつかんで居間から隣の和室まで引きずった。レジ袋は抜けないように結んであった。男児がぐったりしたために、母親は自分で119番通報し、長男は病院に搬送された。搬送先の病院から兵庫県警に通報があったため母親は逮捕された。

 

 母親は、「反省させるためにやった 。殺すつもりはなかった」と殺意は否認した。男児は一時意識不明の重体になったが、幸いその後自力で呼吸できるようになり、命に別状はなかったが、児童相談所は搬送先の病院から「虐待の恐れがある」という連絡を受けて一時保護の措置をとった。

 

 レジ袋をかぶせられた幼い子が母親に引きずられていく様子を想像するとどうにもやりきれない気持ちになり、いったいどういう母親なのかと思う。幼い子にこのような 暴力的な方法では恐怖心を掻き立てるだけで反省せさせることなどできはしない。どうして吐いたのかは分からないが、普通の母親ならば「どうしたの」と言って気分が悪いのかどうかを確かめ、そうでなかったら「こんな所で吐いてはいけないよ」と諭すのではないか。そうしたら幼くても聞き分けができるだろう。よほど気が立っていたのだろう。多分「殺すつもりはなかった」というのは嘘ではないだろうが、頭にレジ袋をかぶせて結び、引きずったらどういうことになるかくらいの判断はつかなかったのか。

 

 これまでにも子どもに対する虐待は多くあって、中には死に至らせることもあったが、子どもの母親と同居している男が加害者であることはよくあった。その場合でも母親は我が子をかばうことができなかったのかと情けなく思うのだが、今回の場合は母親が加害者だから何とも言えない気持ちになる。子どもは親を選べないと言うが、このような母親を持った子どもは不幸としか言いようがない。

 

 この母親がどのような処分を受けるのかは分からないが、新聞の記事によると、近所の主婦は「優しそうな母親で、長男と散歩するのをよく見かけた。叱っているのは見たことがない」と言ったそうだが、それが事実であれば、ごく普通の母親だったのだろう。危うくかけがえのない我が子の命を奪ったかもしれなかった自分の狂気の行動を深く反省して、良い母親になってほしいと思う。それが子どもへの贖罪だろう。

 

 

 

 


皆既月食と悲劇

2011-12-13 09:43:36 | 身辺雑記

 10日深夜に皆既月食があった。私も観察しようと思って欠け始めた頃に外に出たが、冷たい風が強く、暖かい室内から出た体には応えるので、早々に家に戻り観察は諦めた。野外で生物の観察をしている弟は月食の写真を撮っていたので、それを借りる。

 

 

 

全国各地で同時刻に観察されたので、寒い中を頑張ってこの天体ショウを楽しんだ人は多かっただろう。ところがかわいそうな出来事も起こった。兵庫県加西市で午後11時過ぎに、月食を見ようと外に出ていた12歳と8歳の兄弟が軽トラックにはねられて弟は即死,兄も搬送先の病院で1時間後に死亡した。4歳違いの兄弟と言うと、私の息子たちと同じだから、その頃の息子たちを思い出して、身につまされて胸が痛んだ。両親の嘆きはいかばかりだろうかと思う。

 

許せないのは、この事故を引き起こしたのは53歳の建築業の男性で、呼気から基準値を超えるアルコールが検出され、本人は「酒を飲んで運転していた」と話したことだ。この男は路肩に車を突っ込み、兄弟をはねた。新聞の写真を見ると兄弟が立っていたところにあるガードレールは大きく折れ曲がっていて、ブレーキ痕は見当たらなかったというから、かなり酩酊していたのではないか。

 

酒飲みというのはどうしてかくも自制心が乏しいのか。もちろん酒が好きでも正気は失わず、まして運転などしない人は多いだろう。しかし、飲酒の挙句に運転して事故を起こした例はこれまで後を絶たない。他人は他人、自分は大丈夫という自惚れがあるのか、車を運転していたら飲まないという当たり前のことができないのは、要するに意地汚い欠陥人間で、世の中を舐めているのではないか。

 

 平成6年に22歳の福岡市職員が飲酒運転出乗用車に追突して、幼い子ども3人を死亡させた事件では、危険運転致死傷罪と認定され、道路交通法違反と併合して懲役20年の刑が確定している。今回の事故を引き起こした男はコンビニで酒を買って飲み、事故の約1時間前に市内のスナックに立ち寄っていたが、既に酔っていて眠そうだったということだ。

 

 失われた幼い命は取り戻すことはできない。この男は自分がしでかした犯罪行為に見合うだけの厳しい処罰は受け受けなければならない 

 

 

 

 

 

 


湯たんぽ

2011-12-11 12:36:38 | 身辺雑記

 急に冷え込んできたのに、長く使っていた電気カーペットが切れてしまい使えなくなったので、湯たんぽを使うことにした。湯たんぽは一昨年Hg君の推奨もあったので使ってみることにしたのだが、やはり電気カーペットのほうが操作が手軽なので、昨年は湯たんぽは使わなかった。3年前に使い始めたときにブログに書いたが、再度書くことにする。

 

湯たんぽの「たんぽ」は元来は中国語で、「たん」は「湯tang」、「ぽ」は「婆po」だから、湯たんぽを漢字表記すると「湯湯婆」となる。湯たんぽは既に唐の時代からあったと言う。婆は妻の意味で、妻の代わりに抱いて暖を取るということからきているらしく、いささか艶っぽい。現在は湯壷タンフゥとか湯婆子タンポゥツと言うようだ。上海にいる西安人の邵利明(明明)は暖壷ヌアンフゥだと言った。日本には室町時代に中国から伝わったということだが、湯婆のままでは意味が通じないから、「湯」を付け加えたので湯湯婆となったらしい。

 昔の湯たんぽはブリキ製だったが、買ったのはプラスティック製で、700円足らずの安いものだ。陶器のものもあり、重たいだろうがプラスティックや金属のものより遠赤効果はあるそうだ。街では電子レンジで暖めたりするものや、蓄電するタイプのものもあったが、やはり昔ながらの湯を入れるものが良いようだ。注意書きを見ると、特に「低温火傷」には注意して温まったら布団の外に出すようにとある。火傷は普通は45℃の熱で起こるが、それ以下の熱でも6時間以上同じ部位に触れに触れ続けていると起こるのが低温火傷と言うようで、ゆっくりとやけどするので深部が侵されるので怖いものらしい。それで湯たんぽをタオルでくるむことにして、一晩中布団の中に入れている。

 

就寝する少し前に布団の中に入れておくと、寝る時にはほんのりと温かくなっている。電気カーペットに比べると少し頼りない感じもするが、布団に入って足を湯たんぽに触れていると、熱が脚を伝わって上半身に上がってくるようで、体がぽかぽかと温まって気持ちがいい。電気カーペットだと途中で熱くなり切らなくてはならないが、湯たんぽはその必要がない。これも最近言われるスローライフの一つなのかも知れない。

 

 


幼ない子と出会う。

2011-12-10 11:58:28 | 身辺雑記

  街に出る途中で、赤ん坊を背負った年輩の婦人とすれ違った。赤ん坊の顔が見たかったので立ち止まったが、赤ん坊は向こうを向いていて顔が見えない。婦人は気が付いて立ち止まり、笑みを浮かべて体をゆすって私のほうに赤ん坊の顔を見せてくれた。傍に近づいてみると、目鼻立ちのはっきりした色白の可愛い子だ。

 

 「坊やですか」と尋ねると婦人は笑って「いえ、女の子です。皆さん、どっちですかと言われます」言った。「可愛いですねえ。4ヶ月くらいですか」と聞くと「もうすぐ半年になります。小さいですから」ということだった。しばらく赤ん坊の顔を見てから別れたが、赤ん坊をあやすように体を揺らしながらゆっくり歩いて行く婦人の様子は幼い子への慈みが感じられるように思えた。見たところ婦人は60代のようだったから、あるいは曾孫なのかも知れないが、赤ん坊を背負ってねんねこ半纏を着ている姿は、近頃では見ることはほとんどなく、妻が幼い長男をいつも背負っていた姿を思い出して懐かしかった。今時の若い母親は赤ん坊を背負うことはしないで、ベビーカーに乗せるか、コアラのように胸の前にぶら下げている。背負うと赤ん坊の脚が開いて蟹股、O脚になるとも聞いたことがあり、真偽の程は知らないが、私はねんねこ半纏姿が好きだ。スマートではないから、今時の若作りをしたがる母親は敬遠するのだろう。

 

 これまでにもこのブログに幾度か書いたが、私は幼い子どもが大好きだ。とくにつぶらで澄んだ目に惹かれる.どうしてこんなにきれいな目をしているのかと思う。一点の邪気もない。それに顔のつくりもあどけない。大きくなると皆が皆、美男美女になるわけではないのに、幼い子の顔はなべて可愛い。

 

 

                                西安の袁毅の娘の淘淘(タオタオ)

 

 街に出る楽しみは、美しい女性に出会うこともさることながら、何んと言っても小さい子に出会うことだと思う。幼い子の無邪気な顔やしぐさを見たことで、その日は何か一つ得をしたような気持ちになる。

 


日米開戦

2011-12-08 09:22:30 | 身辺雑記

 昭和16年(1941)、私は小学校2年生で、東京の目黒区にいた。その年の12月8日の朝は寒かった。集団登校するために家の近所に集まっていると、上級生の男の子が「日本はアメリカと戦争をするんだ」と言った。この日までにどのような情勢だったのかは知らなかったから、何となく「そうか」と思っただけだった。学校では校長先生が皆にそのことを話したのかどうかは覚えていないし、家に帰っても両親がそのことを話題にしたのかどうかも記憶していない。ただ「開戦の詔書」は、ラジオが繰り返し報じていたのか、冒頭の「天佑ヲ保有シ万世一系の皇祖ヲ践(ふ)メル大日本帝国天皇ハ昭(あきらか)ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス。朕茲(ここ)ニ米国及英国に対して戦(たたかい)ヲ宣ス」の文言、とくに「天佑ヲ保有シ万世一系の皇祖ヲ践メル大日本帝国天皇ハ」は何となく覚えてしまった。

 この開戦の詔書は長いもので、翌年から毎年12月8日になると、児童達は寒い講堂に集められ、姿勢を正し、頭を垂れて校長先生が厳かな声で朗読するのを聴くのだが、これは幼い小学生にとってはかなりの難行だった。もちろん姿勢を崩したり、ましてや欠伸などしたら、たちまち先生にビンタを張られただろう。途中に何が言われているかはさっぱり分からなかったし、おそらく先生たちにも分かりにくかったのではなかっただろうか。校長先生が「御名御璽」と言うとそれで終わりで、ホッとしたものだ。

 

 とにかくこの日から、日本は大戦争に突入した。最初のうちは華々しい戦果が報じられて、提灯行列や旗行列などが行なわれて大いに沸き立ったものだが、やがてアメリカの爆撃機が飛来して、各地を空襲し甚大な被害を受けるようになった。私の家族は目黒から小石川の祖父の家に引越し、学校も転校したが、その学校は宮城県の鳴子温泉に集団疎開し、その間に東京大空襲のために祖父の家は焼失した。私と妹は大阪豊中の母の実家に移った両親に引き取られ、そこで昭和20年(1945)8月15日の敗戦を迎えた。

 

開戦から70年、戦争終結から66年たった今では、遠い昔のことのように思えるが、あの、私にとっても激動の4年間のことは今もはっきりと思い出すことができる。1971年に「戦争を知らない子どもたち」というフォークソングが大ヒットしたが、今の若い人達は、その孫くらいに当たるだろうから、「あの頃は・・・」と戦争の話をしても興味もないのが多いようだ。「日本ってアメリカと戦争したの?ウッソオ!」などとある女子学生が言ったと聞いたのはもうだいぶ前のことだ。

 

 今頃は「平和」を唱えると幻想だと嘲笑し非難するどころか、核武装が必要などと言う「現実主義者」が少なくないが、やはり、戦争というものが物心ともに人類に大きな災厄をもたらすものだということは、いくら言っても言い尽くせないものだ。広島で原爆の被害に遭い、その惨状を見た私の妻は、いつも原爆の話になると「戦争は大嫌い」と言って涙ぐんでいた。たとえ戦争は知らなくても、妻のような戦争に対する思いを理解して、平和な世界を目指そうという意欲をもつ若い人達が増えるようにと願う。

 

 

 


震災がれき処理

2011-12-07 08:54:21 | 身辺雑記

 3.11の大震災と巨大津波の被害の惨状は、今さら言うまでもないことだが、徹底的に破壊された後に残された膨大ながれきの処理は、到底被災自治体の手に負えるものではない。 そこで国はこのがれきなどの災害廃棄物の処理を引き受けてくれる自治体を募ったが、環境省によると30都道府県の272市町村が協力すると表明した(4月末現在)。受け入れ可能な最大量は被災した岩手、宮城、福島の東北3県の災害廃棄物の総量の約3割に相当するそうだ。放射線への不安から消極的な自治体が多いらしい。

 

 佐賀県武雄市でも受け入れをする予定だったが、このほど受け容れ方針を撤回した。市長によると、受け入れ方針を表明した以降、市のホームページや市長のブログなどに、1000件を超える抗議が殺到し、「受け入れて大丈夫なのか」との不安の声のほかに、「がれきを受け入れるならその苦しみをお前たち(職員)に与える」とか「市や市民主催のイベントを妨害する」などの脅迫もあったようだ。抗議の電話は主に市外からのものだったと言う。どうにもひどい話だ。市外の住民がお節介にもほどがあるし、脅迫じみた言辞などは論外だ。

 

 がれき受け容れに不安を感じ、反対する者はいるだろう。私が読んでいる新聞にも、放射性物質の汚染拡大に不安を感じるからがれきの受け入れは絶対にできない、がれき処理は 国と東京電力が責任を持って処理するよう強く望むという、大阪堺市の45歳の主婦の投書があった。この意見には、では国や東電はこの膨大ながれきの処理をどこで、どのようにやればいいと考えているのかという疑問を感じるが、そのことはさて置いて、このような不安から来る反対の気持ちがあることは分かる。しかし武雄市に寄せられた抗議の中の脅迫じみた声は、不愉快きわまるものだ。

 

 今でも「頑張れ東北」というようなスローガンをよく見かけるが、それを嘲笑うかのような声が出るということは、一部の(「かなりの」かも知れないが)者にとっては、もはやあの大災害は他人事なのかも知れない。阪神大震災の後でも、まだあまり日がたっていないのに、東京から神戸に来た男たちが、「いつまで震災、震災と言ってるんだ」と話していたという記事を読んだことがある。

 

 がれきに限らず「東北」と言うとすぐに「放射性物質汚染」と拒否反応するのも愚かしいと思う。特に福島に対する悪意としか思えないような声は、前にも私のブログで紹介したが、人間らしい心を失った者には嫌悪を感じる 

 

 話は変わるが、岩手県陸前高田市の避難所にいたある6歳の少女は家を失い、母親は少女が大切にしていた人形や絵本が入ったリュックサックを抱えたまま、がれきの下から遺体で見つかったという。医療支援のため訪れた女性看護師が少女に、「サンタさんに何が欲しいの」と問うと、「おうちとママ」と答えたと言う。私はこの記事を読み、涙を催した。この少女に限らず、何もかも奪われ、心に大きな傷を負った人たちが東北には今もなお多くいることを思い、人間性が疑われるようなことだけは言わないようにしようではないか。

 

  

 

 


生きている 生きていく

2011-12-05 09:05:57 | 身辺雑記

高校の教師だった頃、生物の授業で脳や神経系について教えたことがあったが、その際それに関する本を何冊か読んだ。その中に大脳の働きについて「生きている」と「生きていく」の違いについて説明しているのを見た。

 

 「生きている」と言うのは、動物であれ植物であれ、生物に共通した現象で、カビもアメーバーもゴキブリもスミレも「生きている」が、「生きていく」と言うのは、とりわけ人間の大脳前頭葉の働きによる行動だと言う。もちろん人間以外の高等な脊椎動物で、大脳に前頭葉を持つものは程度の差こそあっても、生きていっているが、特に人間の場合は、その非常に発達した前頭葉が、意志や意欲、創造力などをつくり、人間自身を発達させ、環境を変革してきたことが他の動物と違う特長だ。

 

  前頭葉(赤い部分) Wikipediaより

 

 人間として存在する限り、絶えず積極的に生きていかなければならない。高齢や病気、事故のために大脳の機能が損なわれない限り、自分というものを持ち続けることが人間らしいことだろう。もちろん人間らしさには、正義感や道徳心、他や自己を愛し尊重する精神も欠くことはできない。人はさまざまな欲望に捉われ低次元の行動に走ることはあるが、それをコントロールしていくのも人間らしい生き方だ。

 

 中国語で「生きる」は「活huo」と言う。日本語でも「活」は「生きること」という意味だ。活力、活動、活躍、活気、活発などエネルギーに満ちている感じがする。私は、この「活」ということばが好きで、よく「活きる」と書く。このほうが「生きていく」という意味がはっきりすると思う。