中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

どこからどこへ

2011-04-26 09:09:31 | 身辺雑記

宇江佐真理『雷桜らいおう』(角川文庫)の冒頭の一節に、老武士が山あいの峠の茶店の老婆に訊ねる場面がある。

 

「寂しくはないか」

 榎戸が訊ねると老婆は「なん・・・・・」と首を振った。埒もないという

表情である。

「人は一人で生まれて来たものだで、死ぬ時も一人だに・・・・・」

「・・・・・・・・・・」

 老婆の言葉の潔さに榎戸はひどく感動した。いかにもそうだ。

 

しょせん小説の中のことなのだが、何となくこの一節に惹かれた。今は独居生活を余儀なくされている私は、そう遠くない時期に訪れるだろう死を迎えるときにも独りだが、独りで生きている今はやはり寂しいと思う。死ぬ時は一人、これは当然だと思う。ときおり集団自殺などというものがあって、見も知らないのに意気投合(?)した者が集まって自殺する。独りでは怖いからそうするのだろうが、何人一緒であろうと死を迎える瞬間は独りだ。

 

それにしても生命というものはどこから来て、どこに行くものなのか。「無から生じて無に還る」という人もある。これは理屈っぽく言えば正確ではない。生命は無から生じることはない。無性生殖にせよ有性生殖にせよ生命は、必ずその前に存在した細胞、DNAを受け継いで生まれてくる。「無に還る」も完全な無ではない。生命を具体化していた有機物は死後には遅かれ早かれ無機物となる。

 

ある無神論者は「人は暗黒から生まれ、暗黒に還る」と言ったそうだが、私にはこれは納得できる。生まれてくる前のことはまさに暗黒の中にあった。生まれてしばらくすると光が意識され暗黒は消えうせる。そしてやがて死を迎え、再び暗黒の中に沈んでいく。この暗黒は、人が生きていることを意識しないか、意識できなくなることから存在するもので、何もない「虚」と言ってもいいと思う。

 

私は高校生の頃、この「虚」を体験したことがある。気分が不安定になり、神経衰弱、今で言う神経症と診断されて電気ショック療法を受けた。特に忌避しないでそれを受け、すっきりする人もいたようだが、私は怖がったので治療の前に麻酔注射をされた。腕に針が刺され麻酔薬が注入されると体が冷たくなり、耳の奥でザーッという音がしたような感じで、一瞬のうちに暗闇の中に引き込まれてしまった。だいぶ時間がたった頃に覚醒したのだが、それは眠りから覚めたような「夢か現か」というようなものではなく、急に暗闇から抜け出したような気分のものだった。今でも死ぬということは、あの暗闇の中にずっといることなのだろうと思っている。

 

それではあまりに寂しいと思う人は昔から多かったのか、来世ということが考えられるようになった。宗教的には神や仏の下に行くということなのだが、そういうことでなくても仏教には「輪廻」ということが言われる。私は仏教に限らず宗教には疎いからよく分からないが、生命というものは、生き変わり死に変わりながら永遠に続くもので、それが輪廻なのだそうだ。それはそれでいいではないかとも思うが、そうではなく人以外の畜生にも姿を変えながら、永遠に現世を生きる苦しみを味わうのだと言う。

 

輪廻ではなく、人は人として何回も生まれ変わる、来世だけでなく前世もあると言う人は今でもある。人は死んでも魂というものが肉体から抜け出して、しばらくは宙をさまよっているが、やがて次の肉体に入り込んで新しく誕生すると言う。だから今生きている己には必ず前に誰かが存在したということだ。このような肉体と魂とがあるという二元論を信じる人は多いようだが、私には信じることはできない。

 

前に知人から、ある日本の大学の教授の著書をもらったことがあるが、まったくそのような考えを主張したもので、すべての人には前世があると説き、その裏づけの一つとして、米国で催眠術を使って被験者に前世を語らせる「研究者」も紹介されていた。ある女性の被験者が「今は紀元前○○年です」と言って、そこにいる前世の自分を語りだすところもあり、紀元前の時代にいる者が、どうして自分が存在する今が紀元前と分かるのかとばかばかしく思い、ひいては、大真面目で前世や来世の存在を説く著者の大学教授も何やらいかがわしく思われたものだ。それでもひところはこの教授はなかなか人気があり、各地の講演会に引っ張り出されていたようだ。やはり現世だけしかないのでは侘しい、来世も前世もあってほしいと期待する人は多いのか。何人かの知人に来世はあると思うかと尋ねたことがあるが、肯定する答えが少なくなかった。

 

 

やがては私も暗黒、虚の中に還って行くが、その瞬間はどんなものだろうかと思うことがある。しかしその時に何かを感じても、夢から覚めることとは違うから、死んでしまえばその感じたことは再生できないものだ。死というものは生に連続したものではない。死ねばすべては終わる。