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法王が日本人の経験から中国を学ぶ:中国は、教義が普遍的である故にカトリック教を怖れている

2013-03-30 | Weblog

先週ジョージ・カーデナル・ベルゴリオが法王に選ばれた時、世界中の指導者が暖かい祝福をする中で、著しい例外がありました。中国の外相は、宗教の名を使って中国の国内の出来事に干渉するのは止めなければならないとする警告で新法王を歓迎しました。

中国では迫害におびえながら1200万人のカトリック教徒が生活していると言われています。彼らは、国の教会カトリック愛国組織を受け入れないので、地下で崇拝しなければなりません。諸々の緊張状況の中で、北京はバチカンの承認を受けずに司祭の任命権を主張しています。その前に任命権の交渉の試みをして失敗しています。外国の影響を非難しながら、国民の間にある自由なバチカンのカトリック教義が一党支配に影響を与えるのではと政権が脅威を感じていることは確実です。

フランシス法王はこのことをどう考えているのでようか? 彼はイエズス会修道士です。16世紀に創設されて、公式的にはthe Society of Jesusとして知られていて、アジアの布教の手段になっています。400年前の特に日本における当時の経験に中国の現在の状況を反映するいくつかの根拠が見出されます。

カトリック教義は1549年に最初のイエズス会の修道士の1人フランシス・ザビエルによって日本にもたらされました。スペインとポルトガルの宣教師に扇動されて信仰は即座に広がりました。ヨーロッパの影響を憂慮した豊臣秀吉は、1587年に、カトリックの宣教を禁じました。しかし、中国共産党と同じように、秀吉が最も恐れたことは、日本国民がクリスチャンになり団結して彼の政権を脅かすのではないかということでした。

禁止命令の後も、隠れ宣教師は多くの人を改宗し続けたので、秀吉は彼らを弾圧しました。1597年に、26人のカトリック教徒が信仰を理由に処刑されました。大半が日本人で、数人が宣教師かフランシスコ会の司祭でした。新法王と同じ名前のアッシジのフランシスで、最も有名な聖ポール・ミキが創設した宗教組織でイエズス会に属していました。最も若い信者は12才でした。

殉教者は、京都の公共の広場で左耳を切り落とされました。彼らは、真冬の寒い時に、およそ500マイルも離れた長崎に30日かけて行進させられました。2月5日に西坂の丘の頂上で26人が十字架に架けられました。槍で突かれて死ぬまで讃美歌を歌い自分達を殺そうとしている人達への神の許しを請いました。全員が1862年6月に列聖されました。

殉教者の勇気が信者の数と熱意を呼び覚ましました。秀吉の次の将軍徳川家康はカトリック教を1642年に違法として迫害を強めました。信者を探し出すために、幕府はイエスとマリアの像を描いた踏絵を日本人に踏ませました。それを拒んだ者は長崎に送られて殺されました。雲仙の近くで、クリスチャンに生きたまま熱湯をかけるために雲仙の温泉の湯が使われました。

残酷な扱いにもかかわらず、日本人のカトリック教徒は静かに信仰を保ちました。ポール・グリンが「長崎の歌」に書いているように、クリスチャンは農夫や漁師になって地下に教会を造りました。

彼らは、洗礼役のウオーターマンや、降臨節やクリスマスや四旬節やイースターなどの日付を書くカレンダーマンや、総指導者としてchokataまたはヘッドマンを決めました。グリンが記しているように、250年間希望を持った日本人は、キリスト教が復活した時、以下の三つが彼らのカトリックの信仰の印であることを知ると申し伝えました。「聖職者は独身である、聖母マリアの像がある、教会はローマの法王に従う」

彼らの祈りは、ペリー総督の砲艦が日本を開国させた後の1850年代の終わりにようやく報われました。フランスの司祭バーナード・ペティジーンは長崎県南部の大浦に教会を建てて26人の殉教者を祀りました。日本政府はヨーロッパ人だけが入るという条件で教会の建設を認めました。

ペティジーン神父は、日本人の団体が1865年3月17日に彼の教会に来て、聖母マリアの像を見たいと求めた時、驚きました。彼らは、フランス人のペティジーン神父に妻がいないと知って漁師に変装して危険な旅をしたのです。ペティジーン神父は彼らにマリアの像を見せました。女性達の中の1人は、「私達みんなの心はあなたと同じです。」と神父に訴えました。

日本人のカトリック教徒の話は新法王も知っています。2007年のインタビューで、布教の時の信徒の義務を議論している時、当時のベルゴリオ枢機卿は言いました。「200年以上も司祭がいないままの日本のクリスチャン共同体のことを考えています。宣教師が戻ってきた時、彼らはみんなが洗礼を受け、教会のために正当に挙式をし、葬儀はカトリック式で行っていたことを知りました。洗礼を受け、洗礼者だけが持つ使徒としての役割を果たしながら、信徒の命を祝福する恵みの賜物を通して信仰は完全に続いていました。神の愛にのみ生きることを恐れてはいけません。」

この事全てが今日の中国の教会の状態を語っています。その一つ、日本の隠れカトリック教徒を法王フランシスが称賛することで、中国が司祭の選出と教会の支配を試みる悪いゲームをしていることを彼は示唆しています。

聖職者の組織が教会の生命の革新的な部分なので、中国が階級組織以上のものに固執して、主教や司教の任命権をバチカンと争っているのです。それでも、法王は、教会が信者の心の中にあることも、信者が共産党の工作に従わないことも理解しています。

フランシスが西洋人から時代に合わせるために教義に手を加えるようにという要求を心に止めようともしないし、できません。彼は、時間と地勢と文化を超えた普遍性を求める教会を導いているのです。

もし教会が、現代の西洋人が要求しているように司教の独身主義を廃棄したり、中国が望むように法王への忠誠を無くすなら、日本人の信者は驚かされたフランスの司教と同じ心を決して認めなかったでしょう。

普遍性が、教会が生存に危機感を持つ抑圧的な政権を困らせる最大の脅威の一つです。中国が教義の分裂をひたすら願い、中国人のカトリック教徒を世界規模の永遠な宗教団体から引き離そうとしていると疑っている人がいます。

日本人のクリスチャンは、迫害に遭っても妥協をせずに教会の永遠で普遍的な教えに忠実だったことで信仰を持ち続けていることを示しました。そして、それが、ヘロッドから秀吉、又は、中国の抑圧者など圧制者達を真正のカトリック教義が生き抜いた理由です。

               ******************

新ローマ法王の誕生に当たってウオール・ストリート・ジャーナルが書いた記事を訳しました。とても長いのですが、こういう見方もあるのかというおもしろさはあると思います。

秀吉以来、明治初めまで続いたキリスト教禁止令は、江戸幕府という独裁的な組織がその存在を脅かされる怖れを感じてのものだったとしたら、今の中国も同じかもしれません。日本にとっては禁止令によって西洋諸国による精神的支配だけでなく植民地化の阻止にもなったのかもしれないと私は思っています。当時のスペインやポルトガルなどの西洋諸国は、探検船や商船にも数人のキリスト教の宣教師を付けていたそうですから・・・


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3 コメント

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Unknown (せとやん)
2013-03-31 06:24:04
なるほど面白い見解ですね。
こちらは寒の戻りで外に出る気も失せ、高校野球とゴルフ三昧。大阪桐蔭の三連覇だけに興味がありましたが残念ながら達成できませんでした。
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こんばんは (TAKAOSAN)
2013-03-31 19:15:08
私もそう思います。
あそこでキリスト教を認めたら、日本は簡単に植民地化されたことでしょう。
今の中国は、共産党が宗教を禁止しているから、その原則から、当然、カトリックを受け入れるわけにはいきませんね。
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投稿とまっていますが (TAKAOSAN)
2013-04-07 08:35:37
おはようございます。
如何されましたか?
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