蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

西田幾多郎  (bon)

2022-06-07 | 日々雑感、散策、旅行

    関東甲信が昨日梅雨入りしたと発表がありました。平年より1日速く、昨年より8日も
    早い梅雨入りだそうです。九州南部よりも早く梅雨入りしたのは17年振りとか・・。

 

 あの西田哲学で有名な西田幾多郎博士は、昭和20年(1945年)の今日、6月7日が
命日なんですね。 京都大学を退官後過ごした鎌倉、七里ガ浜近くの自宅で75歳の
人生を閉じられたのです。

 『私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、そ
の後半は黒板を後にして立った。黒板に向かって一回転をなしたと云へば、それで
私の伝記は尽きるのである』  これは、西田博士が京都大学を退官するときに述
べられた言葉です。(西田幾多郎記念哲学館HPより)

          西田幾多郎博士
          (ウイキペディアより)

 西田博士は、1870年に、加賀の国河北郡宇ノ気(現、石川県かほく市)で加賀藩
の大庄屋の豪家の長男として生まれますが、若い頃に姉、弟の死、その後自身の長
男、娘2人を亡くし、さらには父の事業の失敗など多くの苦難を味わったとあります。
 しかし、勉学には熱心で、日が暮れるのも気づかずに土蔵の中で漢書籍を読みふ
けったなどのエピソードがあるほどで、師範学校(病気で中途退学)、第四高等学校
(校風に合わず中途退学)を経て、東京帝国大学(選科)へと進み本格的に哲学を
学ぶのです。 ここでも、選科(聴講生なみ)での学歴差別を受けたそうです。

 卒業後、地元石川県の尋常中学校七尾分校の教師を経て、母校である第四高等学校
の講師となり、その後東京や山口の学校の教職に就き、40歳の時、京都帝国大学の
助教授となるのです。

         『善の研究』
          (国立国会図書館より)

 58歳で退官するまでの20年間、人生の壮年期を古都 京都で過ごし、『善の研究』
の出版を皮切りに、次々と論文を発表するなど、西田博士の思索の生涯において極
めて重要な時代であったとあります。
 西田博士が散策した琵琶湖疎水沿いの道は「哲学の道」と呼ばれ、日本の道百選
にも選ばれています。 私らも、若い頃皆して、この道を“それらしく”歩いたも
のでした。

         哲学の道(銀閣寺~南禅寺)
          (ウイキペディアより)

 高山岩男氏(1905-1993年、哲学者。京都帝国大学教授、神奈川大学、日本大学、
東海大学教授、秋田経済大学学長)の言葉を借りてその一面を引用させてもらうな
らば、
 『世間に「京都哲学」とか「京都学派」とかよばれるようになった根源は、西田
幾多郎の「講義」の姿にあると信じている。京都大学教授の停年も近づく数年間は、
大講堂があふれるというだけでなく、学生のほか、近県で教鞭をとる卒業生をはじめ、
他の学部の教授・助教授がそのなかに混じって聴講し、講壇上を和服姿で行きつ戻
りつする西田の姿を追い、水を打ったように静かであった講義風景を、筆者はいま
なお思い出すことができる。』と。

          (ネット画像より

 西田哲学、もちろん勉強しておりませんので、私ごときには到底およびもつかない
ことではありますが、ネットなどを頼りに大体どのようなことが述べられているか、
そしてそれが現代の経営の根幹にも影響しているといわれる部分をピックアップして
みました。

 西田哲学の中で難解な言葉『絶対矛盾的自己同一』について、藤田正勝氏(1949-、
哲学者。京都大学名誉教授、西田哲学会理事)の解説に次のような表現があります。
すなわち、『西田はこの絶対矛盾的自己同一という概念を3つの文脈で使っていま
すが、一つは宗教的な文脈です。あらゆる罪や煩悩を背負っている有限な人間と、
人間を超越した神や仏といった無限な存在は、互いに異質でありながら本質的に結
び付いているという関係を、この概念で言い表しました。わかりにくいかもしれま
せんが、いかにしても救われない人間がいて、初めて神や仏が存在する、つまりそ
の求めに応じるのが神や仏だという意味です。この関係を、西田は絶対矛盾的自己
同一という言葉で言い表しました。 後期には、西田は世界の論理的構造を問題に
しましたが、それもこの絶対矛盾的自己同一という表現で言い表しました。
 私たちの世界は、「時間」と「空間」から成り立っています。過去から現在を通り、
未来へと流れていくのが時間です。他方、空間は現在において成立しますが、その
中には過去的な要素も未来的な要素も詰まっています。その間に生じる矛盾が動因
となって、現在が動いていきます。この時間と空間という対立するものが、対立し
たまま同時に一つに結び付いているという世界の構造についても、西田は絶対矛盾
的自己同一という言葉で表現したのです。
 次に、社会や組織において必ず生じる「全体」と「個」との関係についても、西田
は絶対矛盾的自己同一で説明しています。全体と個とはそれぞれ独立していますが、
各々の個が十分な力を発揮するには全体や自分以外の個の存在が不可欠です。他方、
各々の個が力を発揮するからこそ全体が成り立ちます。組織と組織メンバーと言い
換えてもよいでしょう。これも絶対矛盾的自己同一といえます。』と。

 また、朝日歴史人物事典の一部から、『「あさに思ひ夕に思ひ夜におもふ思ひに
思ふ我が心かな」。あくまでも西洋の論理を追求しながら、根底に東洋の思考、日
本人の心性を踏まえた我々の哲学であった。昭和15年(1940年)文化勲章受章。体系
は一部の批判を浴びる反面、絶対無、場所の論理など、現代の袋小路を突破するア
イデアを蔵するが、生の底知れぬ深淵に対する憑かれたような論理化への努力こそ
が、尽きせぬ魅力の根源であろう。』と記されていました。

          (ネット画像より)

 西田博士の名言をウイキペディア等から・・

『花が花の本性を現じたる時最も美なるが如く、人間が人間の本性を現じたる時は
 
美の頂上に達するのである。』 

『善とは一言にていえば人格の実現である』

『衝突矛盾のあるところに精神あり、精神のあるところには矛盾衝突がある』

『自己が創造的となるということは、自己が世界から離れることではない、自己が
 創造的世界の作業的要素となることである』

                 

 その世界の著名な方々による解説の引用ばかりで気が引けっぱなしですが、今なお
難解な西田哲学が脚光を浴びている理由の一部がここにあるような気がしました。

 

 

Luciano Pavarotti sings "Nessun dorma" from Turandot (The Three Tenors in Concert 1994)

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする