蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

畑開き‛17  (bon)

2017-04-29 | 蓼科浪漫倶楽部 畑

  今年初めての蓼科農園です。  4月25~28日に、蓼科農園 “畑開き” をしてきました。

 山の春は、今年遅いのか ちょうど桜が満開でした。 梅もまだ花をつけ、八ヶ岳には雪が
まだかなり残っていました。 肌をなでる風は冷たく、太陽を浴びていても寒さを感じるほど
でした。

 畑には、厳しい冬を越したタマネギ、ニンニクが青々とした葉を凛々しいばかりに伸ばし、
立派に育っていたのでした。 広々とした畑部分は、既にトラクターで掘り返しが終っていて
きれいな更地に整えられ、ここに、畝建て・マルチをして植え床を作ります。

           雪を残した八ヶ岳      
           

 

冬越しをした蓼科農園           タマネギ、ニンニク
 

 

 今回の畑開きでは、ジャガイモ9列(350個)、サトイモ4列(160個)のイモ類のほか、
ほうれんそう、こまつな、ラディッシュ、サラダ菜、ダイコンなどの種まきをしました。

 サツマイモ、黒豆、スイカ、かぼちゃ、トマト、ナスなどは次回、霜の心配がなくなる
大合宿(5月末頃)で植える予定をしています。これらを植え付ける予定の畝もすべてマルチ
掛けを施し、畝間には防草シートを張り巡らせたため、畑全体を見ると、黒い覆いが掛けられ
た完全武装姿?を呈しているようでした。

小松菜などの葉物             全面黒く覆われた畑全景
 

 

 K邸の春も今年は例年よりも遅い感じで、サクラ、スイセンなどの花もまだ控えの状態で、
ニホンサクラソウの小さな緑の芽が一面に広がっているのでした。 白樺、ニセアカシアなど
もまだ芽吹いていないため、広い庭は明るく、時折、ウグイスの声が響いていました。

 ニホンサクラソウの芽          スイセンはまだつぼみ
 

 

          ヒメコブシもまだつぼみ    
           

 

 部屋では、もちろん暖房を効かせ、野菜たっぷりの水炊きの湯気は、いっそう温めてくれ
るうえ、 今年初めての畑作業を通じて、しばらく振りの再会に話題は矢継ぎ早に途切れる
ことなくいつまでも団欒は続くのでした。

           楽しい夕食               
           


          頑張りました 
           

 

 

お待たせしました。オートスライドです。(4分半です。)

           




           

 

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ちゆきライブ(2)  (bon)

2017-04-24 | 日々雑感、散策、旅行

 先週土曜日(4/22)は、「あさみちゆき 井の頭公園ライブ」に行ってきました。小雨
が来る? などと危ぶまれましたが、無事に大勢の人を集めて和やかな演奏が行われました。
 ビールケースを逆さにして、それが舞台で、
マイクなどの設備も一切なしの、生の生なんで
すね。 今回、196回目に当たるそうで、デビュー15周年目を迎えると言っていますから、
月1回ペースとしても、180回にしかなりませんので、デビュー前からのカウントなんでしょ
う。 何しろ「公園の歌姫」とも呼ばれていました。

 JR吉祥寺駅で待ち合わせて、公園の入り口スグ 近くの「鳥良」でお昼を済ませ、まだ
時間はたっぷりありましたので、土曜日のお昼過ぎ、親子連れなどで賑わう井の頭公園を、
池の周りをゆっくり散策したりしました。
 この公園は、正確には「井の頭恩賜公園」といい、武蔵野三大湧水池の一つ、井の頭池を
中心として 広大な敷地を持ち、1917年(大正6年)に開園されたそうです。サクラの名所と
しても有名で、その時季に来たこともありますが、今はすでに散ってしまい、若々しい新緑
のトンネルを作っていました。

 池には、スワンボートなどがたくさん浮かび、広場では、大道芸が人気を集めたり、土曜
の午後の平和な空間が構成されていました。

 スワンボート              大道芸
  


          鳥の子育て
             

 

 湧水点の一つ、「御茶ノ水」と名が付られていて、その昔、徳川家康がこの名水を汲んで
お茶をたてたとか解説されていました。

          御茶ノ水(湧水点)
            

 

 一昨年初めて、このライブに来たのでしたが、この時は、12月中旬で寒い日でした。
今回は暖かい上に、2度目ということもあり、何となく余裕を感じながら始まりを待つことが
出来ました。

 ボランティアの人たちが、一応観客を整理したり、始まるまでのイベントをしたりして
場を盛り上げていました。いよいよ、彼女が、ギターを背負ってさっそうとやってきました。
 公園の一角に集まった400人ほどの実年たちの拍手に押されて、短いトークの後に、歌が
始まりました。好きな「港のカラス」、自作の「井の頭公園」、「青春のたまり場」など
古めの曲と、「兄弟船」などのカバー曲、そして、自作曲の「おさな子」など、最後に新曲
「出さない手紙を書いてます」で締めくくりましたが、ちょうど1時間のライブは、立ちづめ
で疲れましたが、彼女の伸びのある声の響き、流れるメロディーにしばし酔いながらの楽しい
時間でした。

 


          

 

 一緒に行ったTさんは、最新i-phoneで動画撮影したので、お茶しながら、動画を再生し、
もう一度雰囲気を楽しみましたが、これを一般に公開することはできませんので、残念なが
らここには、その時パチリトしました静止画とu-tubeに公開済みの動画を貼り付けました。

    明日から、今年最初の畑“畑開き”に蓼科へ行ってきまぁ~す。

 

新曲

 

自作

 

 

 

 

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戦友との飲み会 ‛17  (bon)

2017-04-22 | 日々雑感、散策、旅行

 昨日、4月21日(金)は、夕方、昔の懐かしい戦友との飲み会がありました。
JR有楽町駅すぐ前の「ITOCiA」ビル3階の「過門香 點 (カモンカ テン)」というお店
でした。

 戦友といっても、戦争の頃はまだ子供でしたから、もちろん本当の戦争とかではなく、
企業戦士のほうですね。しかし、企業戦士というと何だか悲惨に通じた厳しい苦しいイメー
ジがあるかもしれませんが、ここでの戦友は、悲壮的なそれではなく、いたってあかるく、
自由な発想で、新しい分野に突入せんとする 意気込みに満ちた活気ある職場を構成し、どち
らかというと 自らの考え、思いを精一杯 実現に向けて活動する・・やりがいを感じる楽し
い職場での仲間のことなんです。 そんなツワモノぞろいが、リタイヤ組ばかりでなく、今
まだ 活躍真最中の面々が、今年も集まったのです。 在京メンバーの他、札幌、盛岡の遠方
からの参加もあり、楽しいひと時を満喫したのでした。

         有楽町駅前 ITOCiA
                
 

 そもそも、この職場が発足したのは、27年前、1990年2月1日のことでした。 当時、会社は
慣れない“営業”を始めて5年に差し掛かり、所属する営業軍団は、日本の大企業様への電気
通信設備、ネットワークを主とする営業を担当する大集団で構成されていまして、その集団に
あって、27年目前に突如 新しく発足した 私たちのグループは、これら、大営業集団に共通し
て抱える問題解決部署として創設されたのでした。その名を「システムインテグレーション
(SI)技術」と呼ばれました。

 当時は、客先からの注文や要望を受けて、それに対処して行くという いわゆる“御用聞き”
営業だったところに、これでは“いかん”ということで、この新組織が誕生したのです。
顧客の業務改善や課題解決を目的とした“提案営業”が まだ走りの頃でしたので、大営業
集団は、こぞってその方向に取り組みを始めていましたが、実質的にはあまり成果が上がっ
ていなかったため、これをサポートするなり、さらに本格的な企業への提案を行うというの
が、私たちグループのミッションだったのです。

 システムをインテグレートする・・ということは、単に、ハード・ソフトなどを総動員し
たシステムを構築するということではなく、提案内容が、お客様の経営改善、業務改善など
を目指したいわば戦略的なトータルソリューションに結びつけるというものであるのです。
 これまでの会社の文化には全くなかった行動が求められたのでした。  今になって思えば、
かなり大胆な活動をしたようにも思いますが、当時は、客先からも評価を得たり、それなり
に社会的にも認められていたのではないかと自負しています。

         久しぶり・・
         
 

 これらの状況をうまく表現できてはいませんが、自分たちが作った路線を自分たちがまた
変更したり、そんな前線を進んでいたのだと思います。
 今日も、皆さんの想い出の中に、当時の活動の片鱗が滲み出ているのでした。 最近の
話題や楽しい活動などの報告もあり、皆さん 今まだ青春を謳歌されているようで、この場
にいるだけで新しいエネルギーをいただいたのでした。

 毎回、この会の実施に向け、多忙な中を企画、連絡などご尽力いただいた幹事方にはいつ
もながら ありがたく感謝申し上げます。

         有楽町駅をバックに、今年も元気・・
           

 

 

 

 

 

 

 

 

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銀座界隈‘17  (bon)

2017-04-20 | 日々雑感、散策、旅行

 一昨日、予報では午前中まで嵐が残ると言っていましたが、午前10時頃にはすっかり晴れ
て、日中は夏日になるなど大変良いお天気になりました。

 ランチの会の集合場所は、昨年オープンした、東急プラザ銀座2階の三菱電機大型映像
ルームで 昨年もこのランチの会で訪れたところでした。11:20厳守の時刻には、みんな
集まり、すぐにお昼に向かったのです。何しろ、銀座でお寿司、お得感抜群で、予約は出来
ない・・とあり、開店の 12時前に、入口に並ぶ必要がある・・ そんな、高圧?的な店に
到着すると、狭い入口にすでに先客7人も並んでいたのでした。

       みゆき通り
        

 

 その店の名前は「元祖343寿司銀座本店」といい、銀座5丁目の みゆき通り中程のビル
5階でした。10分待ちで、個室『上杉謙信の間』に通されました。 ここは、昨年5月に
開店した店で、本社は大阪にある「阪神食品㈱」(創立昭和56年)とあり、店舗は大阪の
大国町にもあるそうです。飲食店としては、この寿司だけでなく宴会などが出来るいろんな
店をチェーン展開している新進の会社のようです。

 この店の売りは、「日本初の二枚重ねのお寿司」といって、握りの上に、厚めに切った
刺身が乗って、刺身と寿司が二度楽しめる・・というのでした。何やら お店の宣伝みたいに
なってしまいましたが、店内は静かで、新鮮なネタは味もよく お値段も安いくらい?でした
から込み合う理由がわかりました。 昨年参加された九州のHさんから、丁度タイミングに
合わせたメールが飛び込んできたりの サプライズもあり、色んな話題に盛り上がり、食後の
コーヒーまでいただいて、1時間半も粘ってしまった結果となり、出るときには、入り口に
長い行列ができていました。

 二枚重ねのお寿司           入り口にはまだ列が・・
  
 

 ちょっぴり悪い気もしながら、満足して みゆき通りすぐを入ったところに、お箸の専門店
「銀座夏野」の古風な店内に入りました。 一面、お箸がずらりと並んでいて圧巻でした。
奥まったところには、高級なお箸が並べられ 中には10万円もの値札が付けられたものもあり
ました。 ㈱ビオネットという会社が運営していて、首都には青山、新丸ビルなど 5店舗あり、
全国各地の箸を厳選して仕入れてきたものばかり、1,400種類を超える箸と1,000種類
を超える箸置きを取り揃えるお箸の専門店なのだそうです。 輪島塗はもちろん、若狭塗、
会津塗、津軽塗などなど手に取ってみると、“たかが箸、されど箸”という感じが伝わって
くるのでした。 このような、お店が息づいているとは全く知らなかったです。

銀座夏野本店              店内(一部)
  
 

 見ているだけで、何やら豊かになった感じを抱きながらお店を後に、銀座4丁目の日産ショー
ルームへと向かいました。 火曜日の午後というのに、それは大変な人出に驚きました。
外国の人たちも多く見受けられ、リニューアルされた瀟洒なビル群と この人の流れに改めて
時代の流れを感じるのでした。

        銀座4丁目交差点(4/18 火 午後)
         
 

 日産ショールームでは、スカイライン誕生60周年記念特別イベント開催 ということで、歴
代スカイライン(3代目)と 60th Limited の最新スカイラインが並んで展示されていました。
比較してみれば、3代目のそれは、どこかアメ車のシボレーを思わせる姿があり、車デザイン
にもその流れが明確に表現されていました。最新スカイラインのボンネットを開けてもらい、
しばし、その中に見とれてしまいました。 いろんなパッケージに入った機能部品がまるで、
冷蔵庫にきちんと並べられて収まっているようで、もはや、懐かしいディストリビューターや
はては、バッテリーの姿も発見できませんでした。 外観デザインだけでなく車全体の進化を
目の当たりにしました。

 2階にも展示があり、こちらには未来型の真っ赤なスーパーカー(モデル)が展示されてい
たりして、SFの世界に入りそうな感じでした。 さらに上の階に上ると、ソニーショールーム
があり、もっぱらカメラ、ビデオなどのオンパレードでした。 数寄屋橋交差点の“ソニー
ビル”をリニューアルする2~3年の仮住まい?ということでしたが、最新の4K、100インチ
の超高精細画像に見とれながら、ここでも時代の先端に触れたのでした。

 銀座の柳も芽吹いて、やや暑いくらいの気温に さわやかな風を受けて大勢の人出は活気に
満ちていました。 私たちは、以前にも来たことがある三越9階のテラスラウンジで、ここでも
長々と談笑に花を咲かせたのでした。 中でも、最近とみに都内古跡散策に力を入れている
面々の調査結果や感動の話題に沸騰していました。 年に数回集まるお仲間のランチの会は、
食通(お店通?)の幹事による楽しい企画のおかげで、いつも新鮮で 新しい発見があり今回
も時間の過ぎるのを忘れてしまうほどでした。 17時が過ぎあわててお開きとなりました。

         三越9階テラスラウンジにて
           



 

 

 

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 世界アマチュア無線の日  (bon)

2017-04-18 | 日々雑感、散策、旅行

 今日、4月18日は、世界アマチュア無線の日です。
 1925年(大正14年)にパリでIARU(国際アマチュア無線連合)が設立された日を記念して、
この日が制定されました。今年で92年になります。日本でも、JARL(日本アマチュア無線
連盟:東京巣鴨)が、この日に合わせて記念運用をしたりしたこともあります。

 アマチュア無線は、今ではインターネットやスマホなどの普及で、アマチュア無線局の
数はぐっと少なくなっていますが、最盛期には135万局もあったそうです。1995年
(平成7年)を境に、現在、約43万局だといわれています。 1950年(昭和25年)に
電波法が制定され、アマチュア無線もこの時法制化されています。 2年後の昭和27年に
初めてアマチュア無線局の免許が交付され、アマチュア局が誕生したのです。
 このころ、私は、ちょうど中学に入ったころで、いわゆるラジオ少年よろしく、明けて
も暮れてもラジオ受信機や無線機の製作に没頭していたのでした。 当時、5球スーパー
ラジオが日本でも普及し始めたころで、友達の家のラジオもたくさん作ってあげたのを覚
えています。

 今のような、IT社会ではなかったですから、私たちには、このアマチュア無線やラジオ
の製作は ことのほか興味をそそる対象でした。 中学高学年になるにつれて、私は、無線
というよりは、アンプ(当時の電蓄)の製作に進んで、自作のアンプでレコードなど、低音
を効かせた音量で聞いていたのでした。 音楽を聴くというよりは、むしろ音を聞いていた
のかもしれません。
 で、アマチュア無線に入り込んだのは、会社勤めもすでに管理職になっていたころで、
1978年ころ、当時、“モービルハム”が流行っていたのでした。マイカーに無線機を搭載
してアンテナを振りかざしてドライブする・・あれです。
      
      モービルハム(1978年頃の写真です。)
      
 

 携帯電話などはまだありませんでしたから、職場で、車で旅行をするときなど、走りなが
らお互いに連絡を取り合って、お昼をとる場所とか、お茶の場所とかを決める‥ そんな
楽しみのために 職場の仲間でこぞって免許取得したものでした。これって一応、国家試験
なんですね。 試験会場には、小学生なども来ていて、試験問題の漢字が読めない子もいた
りしました。

 話は個人ごとが続いて恐縮ですが、私の貴重な体験の一つですので、この機会にご披露
させていただきたくなりました。

 1979年(昭和54年)のことです。 このころ会社では、画像や映像関連の開発を担当して
いまして、今でいうインターネットのまだ卵のような新しいサービス(テレマティーク)に
関する国際技術標準規約を作成すべく、国際会議が割と頻繁にあり、私も何度かジュネーブ
(スイス)の会議に出席していました。

 国際会議場の一角(国際電気通信連盟『ITU』本部の旧館4階)に、世界アマチュア無線
クラブ本部(IARC)があり、会議の合間に 屋上にあるアンテナを目印に、その部屋を訪れ
ました。 1979年5月16日14時半(JST23時半)のことでした。 無線設備等を先に見て、
一応使用許可をもらうため、本部事務局を訪ねました。 ちょうど、クラブ本部会長が在室
でしたので、その旨を話すと、とても気安く“どうぞ!”と言ってくれたのです。
 しかし、私の日本でのアマチュア無線免許は当時『電話級』(最も低いクラス)でした
から、扱える無線機器の電波出力は10W(ワット)までしか許されていないのです。ところ
が、ここにある無線機器の出力は1kWもある すごいものでしたので、念のために恐る恐る
“あのぉ~ 私の日本の免許は電話級なので、10Wまでしか扱えないんですけど・・”と
正直に言ってみましたら、“OK! ここは日本ではありませんから・・”と返事が来て、
なるほど!と思いました。

 ITU本部旧館               本部室入り口と会長の名刺
     


 意気揚々と、無線機の前に座り 初めて触る高出力の無線機の取説を見ながら、出力電波を
調整しました。無線機器は日本製でしたが取説はすべて英語で書かれていて、半分ヤマ勘で
ダイヤルを回したりしました。 屋上のアンテナ(6エレメント)も 机上のツマミで方向を
調整することができます。 はやる気持ちを抑えながら、アンテナの指向性を日本に向けて
電波を発射しました。
 
      無線室の機器2種(どちらの機器も日本製でした)
 

 

 “ハロー CQ ジャパン ジス イズ フォーユーワンアイティーユー フロム ジュネーブ 
スイッツアランド コーリング ユー アンド スタンバイ”  日本向けに電波を出して
いますので、何もこのように言わなくても、日本語でやればよいものですが、普段コールを
呼び合うときはこのようにしていますので つい・・・。

 “ハロー CQ JA CQ ジャパン ステーション・・スタンバイ” すると~
“4U1ITU ジス イズ ジュリエット ? ワン ブラボー オスカー・・” おっ、
ジュリエットはJで日本だ!  聞こえた!! 周波数は、21.260MHzでした。
 

“ジュリエット クエッスチョン ワン ブラボー オスカー、 ジス イズ 4U1ITU 
プリーズ ゴー アヘッド”・・ 電波強度は弱かったですが、言葉ははっきりと聞き取れ
たのです。 遥か、日本と交信できた! “マイ ホーム コール JK1P・・”でこの後は
日本語で。 他の局が待機しているので、これで失礼します。 他の局さんどうぞ・・。 
やはり、珍しい局(4U1ITU)と交信したい日本の局がたくさんあり、もううれしいやら、
慌てるやら、有頂天状態になっていたと思います。 4U1ITUというコールサインは、この
場所だけに割り当てられたもので、1つの国レベルと同じ扱いなんですね。

 わずか30分ほどで、電波状態は急に悪くなり 交信不能となりました。 無線室には、
アメリカ、ドイツ、カナダのアマチュア無線家がおられ、しばし、日本のことなど雑談した
後、ログ(交信記録)を付け、QSLカード(交信記録証)を書いて、別室のIARC会長に
挨拶をしてホテルに帰りました。
 まだ、興奮冷めやらず、熱い頭に疲れを感じながら、仕事以外の大きな成果を得たのでした。

          交信証(QSLカード)
           

 長々とお付き合いくださいましてありがとうございました。


    私のQSLカード2種(クロユリと その後イギリスチェスターの街の写生)
 

 

 

 

 

 

 

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イースター  (bon)

2017-04-16 | 日々雑感、散策、旅行

 よくご存知の復活祭(英語: Easter, ドイツ語: Ostern,)です。
 キリスト教において最も重要な祭で、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目
に復活したことを記念・記憶する日とされています。復活祭は「春分の日の後の最初の満月の
次の日曜日」と定められていて、2017年は春分の日が3月20日で、その直後の満月は4月11日
(火)で次の日曜日は4月16日(日)で、今年は今日、4月16日が復活祭の日なんです。 ちな
みに、昨年のイースターは、3月27日でした。
 そして、復活祭前に約40日の準備期間があり、これを「四旬斎(しじゅんさい)」とか
「大斎(おおものいみ)」などと呼ばれているそうです。 この期間は、伝統的に肉類、卵、
乳製品を食べることが禁止られていて、イースターにこれらが解禁されてご馳走をいただく
のだそうです。 丁度、春の訪れと生命の復活を祝う・・というのですね。

    イースター・エッグ(共に、ネット画像より)
   


 イースターでは、古くから卵やウサギを飾る習わしがあり、「イースター・エッグ」と
呼ばれ、きれいに飾り付けられた卵が出されます。 色で飾った鶏卵はもちろん、チョコレー
トで出来た卵や プラスチックの卵にキャンデーなどを詰めたものなどもあるそうです。
 卵とうさぎは、豊穣のシンボルで、卵は新しい生命と信仰を、うさぎは多産で豊穣の象徴
であるとされ、共に春を祝う行事として用いられてきたとあります。

 イースター・エッグについては、菓子業界がいろんな形のものを工夫したりして、砂糖細工
やペーストリーの装飾技術を駆使した繊細な作りのものもあるそうです。また、西方教会では、
イースター・バニー(イースター・ラビット)と呼ばれるウサギが楽しまれるそうです。

 日本では、イースターをクリスマスやバレンタインデー、ハロウィンに続く第4のイベント
として 商戦逞しく注目しているようですが、日本はキリスト教国ではないということもあり、
他のイベントに比べて、イースターはちょうど花見シーズンや卒業・入学シーズンにあたる上、
毎年、日付が変わるという要素もあるからかあまり定着していないように思われます。

 

 

/

 

 

 

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今頃のベランダ  (bon)

2017-04-14 | 花鳥風月

 といっても、ありきたりで特別にお見せするモノは、何もないのですが・・。 
昨日、パチリとしました。 ベランダですから当然、みんな鉢植えです。

 今年のソメイヨシノは、早々と東京で3/21に開花宣言がありましたが、その後寒い
くらいの日が続き、まだお花見を楽しんでいる地域が多いと思います。

 ベランダでは、ソメイヨシノより早咲きの“陽光さくら”は、すでに花が終わり葉が
出始めています。 入れ替わりにレンギョウ、ハナモモ が彩を添え、春が深くなりつつ
あることを告げています。
 
ハナモモはバラ科の植物で、さくらより前に咲くとあるのですが、こちらでは少し後・・。
この花にも小さな実ができますが食用には適さないのですね。

        ハナモモ
         

 

 ようやく、チューリップが咲きました。かっては、アラジン、クイーンオブザナイト
などの品種を楽しんだこともありましたが、最近は、まるきり素朴そのものの普通の種です。
 
チューリップの和名は、鬱金香(うこんこう)と呼ばれていますが、牧野富太郎博士の
図鑑には“ぼたんゆり”と書かれているとか・・。ユリ科の花なんですね。

        チューリップ
         

 

 ムスカリは、先のブログ記事でご紹介しましたが、すでに峠を越して、もう終わりを
迎えています。 公園の桜と手前の市民農園、そして窓際のムスカリの今です。
近くの幼稚園の区画がすぐ隣で、その手前が私の区画なんです。(写真は4/10です)

 公園の桜、市民農園、ムスカリ     園児たちの区画(その手前が私の区画)
 

 

 十二単(アジュガ)は、蓼科のK邸から来たものですが、昨年、全体に枯れて来ました
ので、まだ青みのある3株だけ別に移しておいたものです。これで、また来年に向けて増え
てゆくのですね。

         十二単
          

 

 お馴染みのツタンカーメンのえんどうに、花がついてきました。もう何年も、繰り返し
プランターで栽培していますが、幸い他の品種と交配せずに、ツタンカーメンが維持されて
います。 市民農園のおじさんにもお分けして3年目、今年も楽しまれているようです。

         ツタンカーメンのえんどう
           

 

 最後に、南側の花置きに並べています盆栽仕立ての小鉢です。 写真は、そのうち、
左から、真っ赤な葉をつけている出猩々、唐かえで、クチナシ、楡ケヤキの順です。
木瓜、白梅、黄梅、は終わっています。

         花置きの小鉢たち
          

 

 花木では、続いてハナミズキ、ドウダンつつじ、ヤマボウシ、フジ(カピタン)がつぼみ
を膨らましています。 花後のさざんかの6鉢の植え替えを始めました。覚悟して始めました
が、1鉢目を昨日、2時間かかって、まだ途中、とにかく土が固く骨が折れます。今日で完成
させるつもりですが、この調子では1か月はかかりそうで思いやられます。

 

 

 

 

 

 

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メートル法  (bon)

2017-04-12 | 日々雑感、散策、旅行

  このようなことは、普段全く気に留めないことですが、カレンダーには、昨日4/11は、
「メートル法公布記念日」と添え書きがあり、記念日ということに因んでちょっとネット
を調べてみましたら、なんと! 大変厄介な事柄であったのだと改めて知ることになりま
した。  ウイキペディアだけでも派生を入れるとかなりの量の記述がありましたが、
ポイントを絞って以下にまとめてみました。

 メートル法公布記念日というのは、1921年(大正10年)4月11日に世界的な単位のメー
トルを使う事に決める“メートル法”が日本で公布されたことを記念する日なんですね。
これまでは、尺貫法が使われていました。 しかし、メートル法が完全に実施されたのは、
それから40年近くもたった、1959年(昭和34年)からで、尺貫法を用いないように決めら
れたのは、さらに7年後の1966年(昭和41年)3月31日以後である とありました。
  それまで使われていた尺貫法から新しいメートル法に変えるというのは、やはり生活や
産業に深く浸透しているだけに難しいのですね。 このことは世界においても同じ状況で
す。 アメリカは、いまもヤードポンド法で、長さは“メートル”ではなく“マイル”
ですよね。

           メートル法完全実施記念切手
            (ウイキペディアより)
 

 『メートル法(metric system)とは、長さの単位であるメートルと質量の単位である
キログラムを基準とする、十進法による単位系のことである。』とあり、『メートル法
は、18世紀末のフランスにおいて、世界で共通に使える 統一された単位制度の確立を
目指して制定された。当時の世界には同じ物理量に対して様々な単位があり、しかも同じ
単位系の中でも、複雑な換算を必要とする単位が併用されているものもあった。人間の
行動範囲が狭い間は、その地域だけで単位が統一されていれば良かったが、人間の行動
範囲が広くなり、グローバリゼーションで商取引等が行われるようになると、 単位の
不統一が大きな問題となってきた。』 とその経緯と理由が述べられています。

  1790年、フランスで “世界中に様々ある長さの単位を統一し、新しい単位を創設する
ことが決議された。”のです。 これを受けて、翌年、“地球の北極点から赤道までの
子午線弧長の1000万分の1を長さの単位「メートル」が定義された。”のです。 地球の
円周を4万キロメートルと定義した・・とありましたが、なぜ、これを単位として定義し
たのか? おそらくは、人間社会で不変なものを基準に当てて決めたのだと思いますが、
このあたりの議論がどのように展開されていたのか知りたいところです。

 そして、質量が、このメートルを基準として、1立方デシメートルの水の質量を1キロ
グラムと定め、面積の単位としてアール(100平方メートル)、体積の単位として乾量用
のステール(1立法メートル)と液量用のリットル(
1立方デシメートル)が定められたの
でした。

 メートル法を導入するため、1875年に 各国が協力して努力するという主旨の“メート
ル条約”が締結されたのです。

 日本は、それから10年後の1885年(明治18年)に、このメートル条約に加入し、4年後
にメートル原器の交付を受けました。そして、明治24年に尺貫法と併用する形でメートル
法が導入されたのです。 このとき、新たに基本単位の漢字を創作したそうです。 メー
トルmは、グラムgは、リットルLはなどで、それぞれの補助単位にも漢字が創作
され、メートル法が早く普及するよう努めたとありました。 そして、冒頭にあります
ように、1920年(大正10年)に、メートル法を公布して尺貫法を廃止しましたが、使い
慣れた単位を移行することへの根強い抵抗もあり、本格的な普及は、メートル法の使用を
義務付け、尺貫法の使用を法的に禁じた1951年(昭和26年)施行の計量法を節目として進
められましたが、その完全実施は1996年(昭和41年)までかかったということなんですね。

         メートル原器
          (ウイキペディアより)

     (1960年以降、メートル原器を長さの基準とすることをやめ、物理現象による長さの定義に
       改められ現在は、「299,792,458分の1 光秒」が1メートル、とされて
いるのだそうです。)

 ヨーロッパに比較して、アメリカ合衆国では、メートル法はほとんど普及していなく、
いまだにヤードポンド法が主流ですし、イギリスでも、国内向けにヤード・ポンド法を
用いており、国外向けにはメートル法を用いて、使い分けをしているといいます。

 

 近代、科学や工業の発達により、他の物理量についても単位が必要となり、メートル
法を基礎としながらも、それぞれ違う大きさを持った単位が作られたり、異なった物理
量を基本として単位系が作られたりしたため、各種の単位系が無秩序に存在することと
なってしまい、これらの単位系を再統一する必要が生じました。 それが、派生した
単位系の一つであるMKSA単位系を元として作られた国際単位系SI)なんです。
 SIは、フランス語でSystème international d'unitésの略ですが、これはメートル法
がフランスによって発案されたことに由来しているのです。 MKSA単位系は、メートル
 ( metre = M)・キログラム (kilogram = K)・秒 (second = S)・アンペア (ampere = A) 
の4 つの単位を基本単位とする単位系です。 日本工業規格(JIS)は、1991年に 完全に
国際単位系準拠となりました。  

 日本では、伝統的な単位からメートル法に転換するのに、長時間をかけてその導入を
図りましたが、インドでは、導入にあたって、それ以前の単位の使用の禁止、全ての政府
出版物・法律の再発行、教育システムのメートル法への変更をほぼ同時に行い、2年間で
完全移行に成功し、オーストラリアやニュージーランドなど多くの国でこの方法が用い
られたそうです。


 現在、世界のほとんどの国ではメートル系は公式に使用されていますが、一部の伝統
的な単位が今まだ使われているものがあります。 いくつかの例がありました。

  • カメラは、1/4-20または3/8-16の取付けねじを使って三脚台に固定するように 
    ISO 1222:2010で規格化されているが、この寸法はインチによるものである。

  • 自動車のタイヤの空気圧は、ブラジル・ペルー・アルゼンチン・オーストラリア・
    チリ・イギリス・アメリカなど多くの国で重量ポンド毎平方インチ(psi)で計測される。

  • 北欧の建築作業者の間では、厚板や釘がよく古いインチ・ベースの名前で呼ばれる。

  • 不動産の取引ではよく伝統的な単位が使用される(香港やインドでは平方フィート、
    日本・韓国・台湾では坪)。

  • 配管において、かつて国際的に受容されていた標準との整合性のため、インチ単位の
    管および管用ねじの規格が明示されている。

  • 自動車の車輪の直径はインチ単位で計測されることが多い(それに対し、タイヤの
    幅はミリメートル単位で計測される)。

  • コンピュータ業界と印刷業界では解像度の表現にdot per inchやpixel per inchが
    使用され続けている。

  • テレビやモニタの画面の大きさは、多くの国で対角線のインチ単位の長さで表現される。
    ただし、オーストラリア・フランス・南アフリカなどでは、インチではなくセンチ
    メートルが使用される。日本でも画面サイズをインチで表現した数字となるが、
    「インチ」の表記を使えないので、代えて「型」と表記する(例、50インチサイズの
    画面を「50型」と表記する)。

  • 電子工業において、各種の部品(コネクターやネジなど)のサイズは1/10インチ
    (2.54ミリメートル)単位で設計するのが支配的になっている。これを変更しようと
    すると、互換性の問題が生じる。サーバーを格納するラックも19インチラックと呼ば
    れるものが普及している。

  • 航空業界では航空発祥の地であるアメリカの影響と伝統からヤード・ポンド法が使わ
    れ続けている。特に高度はフィートで示され、管制で高度を指示するのに使われる
    フライト・レベルはフィートが基準となっている。

  • 日本の住環境に適した尺度として、日本家屋の設計基準としては尺を基準として
    設計者の思考上、使われることがある。しかし、設計図面上の寸法はあくまでメー
    トル法を用いて表記される。また、日本の映像業界(テレビ・映画・特撮等)では、
    セットを建てる際などに尺貫法を使用している。

  • ベニヤ板などの板材の大きさを表すのに「3×6(さぶろく)」「4×8(しはち、
    んぱち)」などといった呼称が用いられることがある。これらの由来は長さを
    尺(曲
    尺)で表したもので、前者は3尺×6尺(= 90.9cm×181.8cm)、後者は4尺×
    8尺
    (= 121.2cm×242.4cm)の大きさの板材を指すことが多いが、いわゆるコンパネ
    と呼ばれるコンポジットパネルでは同一の呼称を用いて
    も 91cm×182cm や 90cm×
    180cmの製品が存在する。また、建設工事や建築現場で使用される仮設の鉄板は、
    その縦横の寸法を表すのに「5×10(ごっとー)」などといった型番の呼称が用いら
    れる。その鉄板の縦横の寸法が5尺×10尺だからである。

  • 軽トラックの荷台は3尺×6尺に余裕(メーカーにより差がある)を持たせたサイズと
    なっているが、この寸法は主な客層の一つである畳や襖を扱う小規模工務店の使い
    勝手を考慮しているためである。また市販の荷台用品は逆に荷台に合わせたサイズで
    製造するため、荷台マットやパネルは一枚が3尺×6尺、収納用品も幅が1尺(収穫用の
    籠)か3尺(蓋付きコンテナ)に合わせている。このため、多数の籠と細かい道具を
    使う農家や漁師にとっても結果として利便性が高くなっている。

  • 建築や不動産関係者間では土地の面積や床面積として、36平方尺(畳2帖の面積に相当)
    を表す「坪」を念頭において業務を行っている。不動産取引自体に「坪」を使うことは
    なく、「坪あたり○万円」が使われることは無く、「3.3平方メートルあたり○万円」
    と表記されるが、取引当事者の思考上は「坪」の概念があることは確かである。
    (坪(約3.305 785 124 m2)と3.3 m2とでは、約0.18%の差があるので、厳密には
    「坪当たり」ではなく、あくまで、3.3000 m2当たりの表記である)。

  • 「一升瓶」は1800 mL ± 15 mL の液体を入れる瓶、「一斗缶」(日本工業規格Z1602-
    2003では「金属板製18リットル缶」と呼称)は19.25±0.45 リットルの液体を入れる
    缶の名称として用いられる。

  • 剣道では用具の規格等の呼称として随所に尺貫法時代の名残が見られる。例えば、
    竹刀の長さは慣用的に(曲尺の)寸単位で表され、「三八(さぶはち=約115cm)」
    「三九(さぶく=約118cm)」等と呼ばれる(ただし、現行の「剣道試合・審判細則」
    上における竹刀の長さの規定はcm単位である)。また手刺防具においても、布団の
    刺し目の間隔を曲尺基準で「1分5厘(=約4.5mm)刺」「1分(=約3mm)刺」などと表す。
    袴の号数の呼び方は鯨尺の寸単位で表した裾丈の長さが基になっており、「25号」の
    剣道袴であれば裾丈がおよそ94.7cmとなる。

  • 包装食パンの重量の単位として「斤」が用いられる。舶来品の1ポンド(453.6g)から
    由来して、450gを1斤(英斤と呼ぶ)として売買していた名残である。時代とともに
    1斤の重さが少なくなっていき、現在は公正競争規約により1斤は340g以上と定められ
    ており、「斤」を商品に表示する場合は保証内容重量の表示に1斤が340g以上である
    旨を併記することが義務付けられている。

  • 真珠の取引単位は直径はセンチメートル、ネックレス等の長さはインチとされ、
    質量はグラム表記したことで混乱を招いた歴史があることから、世界的に「もんめ
    (momme)」(単位記号は mom )が国際単位として使われている。
  • 木造建築や和裁などの分野では、尺や鯨尺が現在でも使われており、計量単位の規制が、
    我が国の伝統や文化の中で著しく不便を生じさせている場合は、その度合いを最小限に
    留めるよう、制度の柔軟な運用を行うこととしている。

  • 「尺相当目盛り付き長さ計」(尺相当の長さの目盛りが付いているが、値はメートル
    の物差し)は、メートル法による物差しとし、合法であるという判断がなされ、これ
    に基づき販売が認められている。1/33mごとの目盛りは曲尺相当、1/26.4mごとの
    目盛りは鯨尺相当というように、表記上はメートル法が採用されている。文化財修復
    及び畳職人用等の竹製ものさし、および金属製ものさし。鯨尺尺相当目盛付の長さ計は、
    和裁用の竹製ものさし。

  

 ま、いろいろとあり、長々とお付き合いをいただきましてお疲れさまでした。
最後に、子供のころ、長さの単位を覚えるのに、唱えた言葉を思い出しました。

 キロキロと ヘクと出かけた メートルが デシに負われて センチ ミリミリ
                          cm  mm

な~ん ちゃって!

 

 

 

 

 

 

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皇太子結婚記念日  (bon)

2017-04-10 | 日々雑感、散策、旅行

 今上天皇が皇太子であった時のお話です。

 1959年4月10日に結婚式を挙げられました。 58年前の4月10です。

 前年の11月の宮内庁発表に、『皇太子明仁親王殿下は、正田英三郎氏 長女 美智子嬢と
約されることに決定した』とあり、日本中の大きなニュースとなったのです。 これまで、
皇太子妃は、皇族か五摂家といった特定の華族から選ばれるのが慣わしでありましたが、
この度 始めて平民から妃を迎えられることになったのでした。

 日清製粉グループ本社の創業者・正田貞一郎の三男、正田英三郎氏の長女、美智子さま
が当時の皇太子、明仁親王殿下と結婚されたのです。 正田家は、一族の中から文化勲章
受賞者 2人を出す名家とはいえ華族ではない平民の実業家なんですね。正田家も美智子さ
んも、「家格が違いすぎる」と頑固に拒否されたそうですが、皇太子の「柳こうり一つで
来てください」というお言葉に心を動かされたとありました。当時、美智子さまの皇太子
評「ご清潔で、ご誠実で、ご信頼申し上げられる方」は流行語にもなりました。

 このお二人のご婚約は、多くの国民が支持し、4月10日の結婚、皇太子御成婚パレードが
テレビで生中継されると、沿道には多くの熱狂的な群集が押しかけ、さらにテレビ中継で
日本中がフィーバーし、明るい話題で国中が盛り上がったのでした。

            ご成婚パレード
        (ネット画像より)
 

  余談になりますが、当時はまだモノクロのテレビでしたが、テレビ放送が始まって7年
で受像器はそんなに普及していなく、結構高価なものでしたが、翌年(1960年9月)に
カラーテレビ放送が計画されていて、この、皇太子ご成婚の放送(1959年4月)を見るため
無理して買った大勢の人たちに、問題が残らないように、カラー放送が始まっても、モノ
クロのテレビでも映る(当然モノクロで)、そして、カラーテレビでもモノクロ放送が映る
という難しい技術問題がクリアされたのでした。
  カラーテレビの計画は数年前から知らされており、各地の街角などで、実験放送があり
ましたが、見上げるブラウン管のカラー映像は、画面の周辺の色味が変化したりして、全体
としてはまだまだ・・という感じでしたね。

  そんな晴れやかな、結婚式が4/10でしたから、丁度、私が大学に入学する、入学式が
この10日だったのですが、当時の大学総長が、正田栄三郎氏(美智子さまの父)の実兄で、
正田健次郎氏(数学者、文化勲章受章)であったために、この時の入学式が数日変更されて
実施されたのでした。

  ま、個人的には、こんな想い出もありますが、30年後の1989年に天皇に即位され、年号が
平成に変わり、すでに在位29年を経るのです。昨年8月には『お気持ち』が述べられ、退位
について、現在、有識者会議において鋭意検討が進められています。 「有識者会議は今月
13日に報告書の概要、21日に最終報告書を公表する予定で、政府は退位を可能にする特例
法案に報告書の内容を反映させ、骨子を大型連休前の今月下旬に与野党に提示後、連休明け
に法案を国会に提出する方針だ。」と報じられています。 

 

 

 

 

 

 

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尖石遺跡  (bon)

2017-04-08 | 日々雑感、散策、旅行

 今月下旬には、いよいよ約5か月ぶりに今年の “畑開き”、蓼科農園が始まります。

私たちの畑は、JR中央本線の茅野駅から八ヶ岳の麓へ上る中ほど、標高1000mの高原地帯、
茅野市豊平というところで、八ヶ岳の峰々に抱かれた大自然の中に畑があります。

 表題の、尖石遺跡は、下図に示しますように、畑から車で10分くらいのところにあり、
かって、「尖石縄文考古館」を訪れ、縄文のビーナス、仮面の女神などの国宝にお目に
かかったことがありました。また、畑仕事を終えて、温泉「縄文の湯」のお世話になって
います。

      

 尖石遺跡は、縄文時代中期(約5000年くらい前)を代表する著名な遺跡として、1942年
(昭和17年)に国指定史跡に、‛52年には特別史跡に指定されています。その後、‘93年に
追加史跡として特別史跡に指定された 与助尾根遺跡 とともに、現在では、これらを一体
化して,「尖石・与助尾根遺跡」として扱われることもあるそうです。

       尖石遺跡
          (茅野市HPより)


 手元にある会報の記事「尖石・与助尾根遺跡」(山田康弘氏、国立歴史民俗博物館教授)
によれば、この遺跡が学会に初めて発表されたのは、1893年であり、もともとは「南大塩の
遺跡」と呼ばれていたそうですが、1920年頃以降、遺跡が立地する台地に三角錐形をした
高さ1.2mの岩(『とがりいしさま』と呼ばれていたそうです。)のあるところから、尖石
遺跡と呼ばれるようになったとあります。

        とがりいし さま
                   (ウイキペディアより)
 

 発掘調査は、ずっと継続され、1930年頃からは宮坂英弌(ふさかず)がほぼ独力で本格
的な調査が進められ、33基の竪穴住居跡のほか、数多くの炉址、墓、貯蔵穴(土坑)、
土器埋設遺構、配石遺構などを掘りだしたという。 戦後に入って、与助尾根遺跡の方も
発掘を行い、28基の竪穴住居跡のほか、多数の土器や石器を発掘し、縄文時代の集落をほぼ
全貌を明らかにしたことになるのです。

 このように、各種の遺構が一つの遺跡から検出されるということから、尖石遺跡が単に
住居の集合体、居住区のみによるものであったのではなく、用途や機能に応じた様々な
“場”を内包しながら全体として一つの「ムラ」として機能していたと推定できる とし、
縄文時代の集落研究において画期的なものであったと評されています。
 ウイキペディアには、これらの出土品から、当時の生活が、ワナ猟とクリ林、黒曜石の
交易が行われていたと考えられたり、あるいは、狩猟・採集以外の何かの生業、例えば
焼畑農業が存在したのではないかなどと考えられているのです。

 1980年に設置された尖石縄文考古館には、これらの遺跡から出土された資料だけでなく、
茅野市棚畑遺跡から出土した土偶、国宝「縄文のビーナス」(1995年指定)、中ッ原遺跡
から出土した土偶、国宝「仮面の女神」(2014年指定)が展示されています。 

 縄文のビーナス          仮面の女神 (共に尖石縄文考古館HPより)
    
 
 
 
 遺跡といえば、中学生の頃、修学旅行で登呂遺跡を見学したことがあり、一昨年には、
青森県の三内丸山遺跡の広々とした集落を巡ったりしました。

 今また、蓼科の畑の合間に、これらの出土品を観賞するだけでなく、当時の集落や生活の
あり方について、機会を見つけてもう一度訪れてみたいと思いました。 標高1000mの冬季
には厳寒の この地にどうしてこのような集落が存在したのか・・やはり大きな謎が残って
いるのです。


 

 

 

 

 

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大大阪  (bon)

2017-04-06 | 日々雑感、散策、旅行

 昔の話です。 かって大阪市が日本一の人口であった時代、大大阪(だいおおさか)と
呼ばれていたそうです。

 大阪は、天領として非常な繁栄を見せており、18世紀後半ころには、そのピークとも
いえる状況となり、当時の首都(現在の京都市)を人口で上回っていました。その後も人口
増が続き、19世紀後半には、大阪への遷都の話も出たそうですが、これは東京に決まり幻
に終わったそうです。

 幕末、明治維新に大阪は没落しますが、明治3年に大阪砲兵工廠、大阪造幣局ができて
新しい産業が起り、復興の道を歩み、その後には綿紡績業も集積し、大正11年には、大阪
は貨物トン数全国一位の地位を確保するまでに発展するのです。 人口も明治初め28万人
だったのが、22年には47万人となり、元禄時代の42万人を越えます。そして、大正
12年(1923年)の関東大震災で被災した人達が、大阪、横浜、名古屋、神戸に移住し、
大阪市は急激な人口増となり、さらに、大正14年(1925年)の市域拡張(西成郡、東成郡
すべて編入)により、人口211万人となり、東京市を上回る日本一の大都市となったのです。

        日本の都市人口推移(現在上位10都市)
       
           (ウイキペディアの統計数字から抜粋してグラフ化しました。)
 

 日本最大の都市であったのみならず、世界主要都市の6番目だったといいます。 
この頃(大正前期ころまで)、大阪府立中の島図書館、大阪中央公会堂などの建造、大正
後期から昭和初期にかけて、大坂城天守の再建、御堂筋、大阪市営地下鉄御堂筋線など画期
的な建設があったそうです。

        大阪中の島図書館中央ドーム
            (中の島図書館HPより)
 

 ところが、大阪市の転機は1930年代前半に早くも訪れ、1932年(昭和7年)、東京市は市域
拡張により、人口 497万人の いわゆる大東京市が誕生するのです。そして、第一次世界大戦
後の恐慌や昭和恐慌で、繊維や金属産業が大打撃を受け衰退し、戦時下の統制経済等の政策
により、東京に対し大阪の相対的地位は次第に低下して行くのです。
 それでも大阪は、当時は東京に次ぐ日本第2の都市
であり、西日本の中心都市としての繁栄は
なお続いて行くのですが・・。

  1960年代後半より、東京一極集中が始まり大阪の衰退は急速に進み、高度経済成長期の終
焉から安定成長期以降それが決定的となり、1978年(昭和53年)の大阪市の人口は横浜市に
抜かれ、本格的な東京一極集中時代となるのです。 この間、1970年には日本万国博覧会が
開催されたが、大きな流れは変えられなかったのです。

  考えてみれば、政府、およびそれらの外郭機関が殆ど集まっている首都圏での活動は、それ
ぞれに情報発信源であり、企業等からの参画は情報収集の上からも優位であると想像されます。
この優位性は、単に地理的に近いというのではなく、自らの問題意識から情報を抽出する、
あるいは気付く機会が得られることにあると思われます。

 ICTは、距離と時間を超越した優れた情報伝達手段を提供しますが、伝達すべき情報そ
のものの抽出(認識)は、受信者とは別人であり、受信者の問題意識にフィットした情報の
意味が必ずしも伝達されるとは限らないのです。このことは、とりもなおさず、国の主導的
会合、問題解決会合に同席するなどの行動に直結するため、ますます集結する傾向が強めら
れるのではないでしょうか?

 今日のように、極度に首都圏一極集中が形成されると、その求心力は、ますます強められ
てくるのでしょう。情報発信活動を、政策的に分散されない限り、この傾向は続くと思います。

 上のグラフから、地理的にやや隔たりのある北海道において、道内の一極集中が札幌市に
おいて顕著にみられるようです。都市機能の一層の充実とともに、生活基盤、教育・文化・
娯楽等の充実が図られ、企業人のみならずその家族等の移住が促進され巨大集中都市が形成
されるのかもしれません。

 一つの事象として、大学などの存在もその要因を形成するのかもしれません。大学は、学
生の集合だけでなく、教養・文化活動の基盤を形成し、印刷・出版等の周辺活動が活発化す
ると考えられます。 明治9年(1886年)帝国大学令により設立された大学も、明治10年
(1887年)の東京帝国大学をはじめとして、1897年に京都帝国大学、1907年の東北帝国大学、
続いて九州、北海道と来て、大阪帝国大学は6番目、最後はその 8年後の名古屋帝国大学と
なっています。 歴代の首相、幹部の考え方もありますが、日本列島を俯瞰した時に、東京、
京都があり、次に東北、九州、北海道という流れを見ることが出来ますが、京都に近い大阪
は やはりその設置順位は後位となっているのでしょう。

 「都市とアートの物語―大大坂誕生と奮起する画家たち」(橋爪節也氏、大阪大学総合学術
博物館教授)によれば、画家、美術の観点から、この大大阪について次のように述べられてい
ます。 当時の都市問題研究誌から『大大阪は、日本最大都市であることは事実であるが、
未だ“われわれは大大阪市民なり”として世界に誇るだけの文化都市でもなければ経済都市
でもない』、『初の公立館を東京、京都と競った美術館開館も、震災と恐慌のため当初の大正
13年から昭和11年にずれ込む。全館を学芸員による常設企画館建設計画も平成4年まで実現し
なかった。工芸学校もバウハウスの教育を日本で最初に取り入れながら今も高等学校に留まリ、
芸術大学として実現していない。』

 また、当時の画家の言を引用して、『学術、文化、芸術などの仕事をするには、大阪はあ
まりに周囲がのんき過ぎ、簡単であり、陽気過ぎるようであり、気の利いた芸術志望者は、
多少 大阪よりは憂鬱である東京へ逃げて行く。それで、大阪は常に文芸家、芸術家は不在で
ある。』

 以上は、やや際立った見方かもしれませんが、何となく深遠で哲学的?な底流に根差すこと
が少ないのではと感じるところがあるように思えます。

 

昭和3年のヒット曲

 

 

 

 

 

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エディブルフラワー  (bon)

2017-04-04 | グルメ,Romantic cook

 昨日のNHK「おはよう日本」で、取り上げていました。
 エディブルフラワー (edible flowers)つまり、食べられる花、食用花です。

 これまで、花を食べる・・というと、菊、菜種(菜の花)、シソの花くらい かと思って
いましたが、なんと、きれいな色をしたナスタチューム、ベゴニア、ペチュニア、パンジー
まで食べるとは、思ってもいませんでした。
 それで、少し、状況を把握するために、調べてみた・・という次第です。

        ナスタチュウム(ワサビのような辛みがある・・)
         (ネット画像より)
 

 ウイキペディアには、『植物の花を食材として用いること、また、食用に供せられる花の
ことである。食用花(しょくようか)。 狭義には味ではなく食卓の彩りを目的として使用
されるものを指す。広義にはブロッコリーやカリフラワーなどの味を目的として野菜として
食用にされるものや、ボリジやタイムなどの香りを目的としてハーブとしても利用されてい
るものも含む。』とあり、 確かにブロッコリーなども、言われてみれば花のつぼみを食べ
ますね。それと、今頃の季節に ふきのとう のまだ花が開いていない蕾をサッと揚げたのは、
チョットほろ苦くて好きですね。春の香りがして・・。 

 『花を食べる文化は世界中に存在する。 日本にも存在し、ふきのとうや菜の花が季節の
野菜になっているほか、黄色の「阿房宮(あぼうきゅう)」やピンクの「もってのほか」と
いう菊の花が おひたしや酢の物として食べられたり、刺身のつまなどに用いられたりして
いる。 桜の塩漬けは桜湯などにして楽しまれている。また中国ではニラや金針菜のつぼみ
が食材として、キンモクセイの砂糖漬けやバラの花弁が菓子に用いられる。東南アジアでは
バナナの花が野菜としてサラダなどに利用される。ヨーロッパでも数百年も昔から、食卓の
飾りだけでなく食用に花が用いられており、これが1980年代に日本で増加し始めたイタリア
ン・レストランでサラダなどにして用いられたことから、これら欧州の食用花の文化が知ら
れるようになった。それぞれの花に独特の香りがあり、蜜に由来する甘みがあるもののほと
んど無味に近く、食材としての汎用性はあまりない。あくまで色鮮やかさで目を引くための
食品である。』 とあり、なるほどそういうことか・・と認識を新たにした次第です。

 菊の花を食べるのは、見た目だけではなく、 その効能に、発ガンの抑制・コレステロー
ル・中性脂肪の低下や栄養面でも、β-カロテンやビタミンC、葉酸をはじめとしたビタミン
B群などの 抗酸化作能力の高い栄養素を含み、紫菊花には抗糖化作用があり、アンチエイジ
ングとしても注目されている、とありました。

 日本では、菊は、奈良時代に既に中国から伝来していて、赤紫色のボサッとした「延命楽」
という菊花はよく酢の物などに出てきますが、山形では、“もってのほか”新潟では“かき
のもと”などと呼ばれているそうです。また、刺身などに添えられている黄色の小さな菊花
は“阿房宮(あぼうきゅう)”というそうですが、こちらは青森県八戸の特産だとか・・。

        かきのもと
         (ネット画像より)
 

 菊は、何となく、あぁ、そうなんだと思いますが、私はこれまで刺身のつまなどの黄色い
花を食べたことがありませんでした。ましてや、色鮮やかな、ナスタチューム(キンレンカ)
などを口に入れるとは思いもよらないのですね。
 テレビでは、新潟県阿賀野の農家が取材されていて、キャスターが花をそのまま口に入れて
“ワサビのような辛さ”がする・・などと言っていました。 これらの食用花は、日本では
その生産量の9割が愛知県豊橋市が占めているそうです。

 日本エディブルフラワー協会というのがネットにありました。このHPで紹介されている
食用花は、上述した以外に、アリッサム、インパチェンス、キンセンカ、キンギョソウ、
千日紅、デージー、ナデシコ、プリムラ、ペンタス、マリーゴールド、ヒマワリ、鳳仙花、
ノースポールなどなどがありました。これらの殆どを育てたことがありますが、まさか食べ
られるとは・・! もちろん、肥料や、消毒など、食用ともなれば、それなりのことが施さ
れるのでしょうけど、私には食べられそうにもありません。

 テレビでは、ケーキの表面にパンジーやナスタチュームの鮮やかな花びらが、また、サラ
ダの上にも花びらが散らされていたり華やかな演出がなされていました。

              ババロア
         (ネット画像より)


          サラダ
              (日本EF協会HPより)

 

 

 

 

 

 

 

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4月の話題  (bon)

2017-04-02 | 科学・生物

 今年の4月は、冷たい雨で始まりました。 気温は2月並とかなり低く、先月下旬に早々と
開花したソメイヨシノも足踏み状態です。 今日は晴れましたから気温も上がるでしょう。

 難関を突破した新入学生や、新社会人たちは、いよいよ期待に胸を膨らませていること
でしょう。あの宝塚歌劇団では、26倍強の激戦を突破して、松岡修三(創始者、小林一三の
ひ孫)の愛娘が1回で合格したと報じられていました。

 新年度がスタートし、後期高齢者保険料軽減特例が見直され保険料は値上げに、国民健康
保険料なども値上げとなる一方、子育て支援は手厚くなり、給付型奨学金も導入されるよう
です。 若者やこれからの世代に手厚い支援が向けられるのは大いに好ましいことではあり
ますが、高齢者にとっては、ますます生きづらくなってくるような気がします。

 韓国大統領が逮捕され、新政権誕生による日韓関係の懸念が予想されたり、世界中の話題
を独り占めしているトランプ大統領は、拙速とも思える大統領令を次々と発し、世界不安を
募らせています。 そんな中、先日のユニクロの柳井社長談に、“米国内生産を強要される
なら、撤退する。米国消費者に安価な商品を提供できなくなる。”とありましたが、実に
明快です。

 このまま、ドル高が進むようなら、貿易収支改善から、かってのレーガン政権下の「プラ
ザ合意」のような措置を取る可能性もささやかれています。 英国のEU離脱交渉が始まり、
その行方が困難視されていますが、フランスなど“欧州選挙イヤー”を控え、国際的な混乱
に陥る可能性も否定できない情勢です。

 国内では、原発再稼働問題、辺野古移転、天皇退位、豊洲と都議選などなど問題山積の
新年度がスタートしたのですが、 一方では、プロ野球も開幕し、いよいよ春の兆しが間
近かです。 NHKの「おはよう日本」の阿部渉アナ、「ニュースセブン」の武田真一アナは、
共に9年間NHKの顔として親しまれてきましたが両者ともに人事異動となり、ちょっぴり
寂しい気分と共に新しい顔ぶれに期待がよぎります。

 ベランダでは、この時季、ムスカリ、陽光ざくらが今年もきれいな花をつけてくれていま
す。ムスカリ、陽光ざくらのペアは、‘11から連続記事アップしていますからもう常連なん
です。しかし、これまでの記事を見ますと、このペアの他、他の花たちやツタンカーメンの
えんどうも早や花を見せているところから見れば、今年のそれはまだまだ咲きそうになく、
やや遅いのかもしれないと、季節のずれを感じています。

 ムスカリは場所を変えて、市民農園を超えた公園の桜をバックにパチリとしていますが、
まだバック(公園)のソメイヨシノの方は、1分咲き?の感じで全体がほんのりピンクが
かったようです。

       今年のムスカリ(4/2)
         
 

 陽光ざくらは、ソメイヨシノより早めの花ですが、今年はやや遅い感じです。それでも
濃い“さくらいろ”は、ベランダを華やかにしてくれています。

       陽光ざくら(3/31)
         
 

 いただきもののクンシランは、その後植え替えていますが、このところずっと咲いてい
ます。

       クンシラン(室内3中)
        
         

 しんがりとしては、ショボイですが、キュウリの種を蒔いてみました。オランダあたり
で人気だとかの「カクテル(ミニ)キュウリ」です。約1か月弱になりますがこんな状態で
す。
 発芽温度が25~30℃必要というので、段ボールの中にアンカをタオルで巻いて、その上に
置いて大事にしてきました。暖かくなってからは、日中はに当たりの場所に出して、夜は
室内に取り込む・・。タネ8個を播いて、5つ出ていますが、うち1つは途中で曲がって
しまい、もう一つは、2本が同じところから出ていますので結局、うまく行っても3本とな
り、中旬頃に畑に定植しようとしています。10㎝ほどのミニキュウリで、イボイボが無く
ずんぐりした香りプンプンのキュウリです。是非、収穫出来ればと期待しています。

        カクテルキュウリ
         


      まだ蕾が硬いハナモモ(4/2)・・おまけ
           
        

 

 

 

 

 

 

 

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