蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

収穫祭2014  (bon)

2014-10-30 | 蓼科浪漫倶楽部 畑

蓼科農園の今年の収穫祭は最高でした。

 29日までの4日間とも素晴らしいお天気で、暖かで風もなく、八ヶ岳の山並みがくっきりと映え、
周囲の森はさながら錦絵のような紅葉に彩られていました。 近くには、時季を過ぎたススキの白い穂が、
陽光を浴び、紅葉とのコントラストを一層引き立てていました。

         秋色に染まる 八ヶ岳
              

                    
                       阿弥陀岳
                         

  

                   


 畑のなかに、俄かに作ったブロック仕立ての2つの “かまど” には、一つは、芋煮の大きな鍋が三角支柱に
ぶら下がり、もう一つには、鮭のチャンチャン焼きがセットされ、たき火の煙と美味しい匂いがあたりを覆っていました。

 里芋、ダイコン、ネギ、春菊、みずな、カボチャ などのとりたて野菜をふんだんに使った料理は、
周りの景色に溶け込んで、ひときわ美味しくいただきました。

           
             楽しいひと時 
                   


 


 春の畑開きから、植え付け、除草などの今年を振り返りながら、自然の恵みに感謝しつつ、大豊作の里芋や、
さつまいもなどの収穫をしました。

                

 

 まだ陽の高いうちに、K邸に戻り、夜の部が始まりました。恒例のようになっていました “パティオ” での
バーベキュー、ファイアーストームは、さすがに気温が下がり取りやめ、室内での宴会がいつまでも続くのでした。

                


                    パティオの秋
                          

 

 翌日は、ゴルフ組、散策組に分かれ、夕方までそれぞれの楽しみを過ごし、関西、群馬の遠方の人達4名は、
収穫した野菜を満載して、また来年を約束してお別れとなりました。
残る6名は、もう1泊し、畑などの後片付けをして、今年の収穫祭イベントを終了しました。 

 来月(11月)中旬の “畑じまい” で、すべての整理をして蓼科農園は冬季休眠に入ります。
今年の農園も、あと1回を残すのみとなりました。


 お楽しみオートスライドです。 (約6分です。)
 





 



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今週はパーティが2つ  (bon)

2014-10-25 | 日々雑感、散策、旅行

今週は、パーティが一昨日と本日の2つ続きました。  ありがたいことです。

 一昨日(10月23日)のは、恒例のもので、電信電話記念日である10月23日に因んで、毎年帝国ホテルにて
1,000人を超える大パーティです。 1年ぶりの人もいますが、もう30年もあっていない人たちとも会える唯一の
パーティで誰もが楽しみにしています。 会場では、かっての仕事関連のこと、最近のこと、業界のこと、
健康のことなどなど話題は、タテ・ヨコに広がり、知っている懐かしい人たちみんなには、とても会うことはかないません。
これまで、久しくお会いしていた先輩の中には、もう来られない人たちもいます。

 もう一つのパーティは、今日(10月25日)、大手町のサンケイプラザでありました。
こちらも恒例で、高校全校の東京支部の総会で、既に60年以上の歴史を持つ由緒ある同窓会パーティです。
毎年お馴染みの人達が多く、次第に参加者は決まってくる傾向にはあるようですが、新しく参加されるフレッシュな
人たちとの交流も楽しいものです。 会場での出席者の年齢差は47~8才もの開きがある、そんな世代を超えた
集まりは同窓会ならではのことでしょう。 そして、今回は、お母さんとその娘さんの親子出席や、同期生夫婦の
出席などが紹介され、突如のサプライズに会場は沸きました。
私たち同期の出席人数は、いつもダントツの多さを誇り、総会終了後の別会場でのコンパも楽しいひと時です。

このような機会を通じたりして、また新しいエネルギーをいただいているのかもしれません。

              記事と関連ありませんが、 ベランダに咲く “つわぶき” です。
                                  

 

因みに、1番目のパーティで、電信電話記念日というのは、

1869年10月23日に、東京~横浜間の電信線架設工事に着手したことにちなむ記念日をいいます。
電信(電報)は、佐久間象山らが文献をもとに電磁式電信機の試作などが行われましたが、その後は
幕末の混乱の中で電信の普及は無かったようですが、明治維新後の1869年(明治2年)に英国の通信技師を招き
横浜燈台役所と横浜裁判所の間に電信回線が敷設され通信が始まり、同年中に、東京・横浜間で電信による
電報の取り扱いが始まるや、数年で電信網は全国に張り巡らされました。
この電信網は、1877年(明治10年)の西南戦争においても大いに活用され、政府軍の勝利に貢献したとあります。

 

 明日から29日まで、蓼科農園の収穫祭イベントです。 お天気もよさそうだし、行ってきまぁ~す。

 

 

 

 

 

 

 

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御嶽山の標高  (bon)

2014-10-23 | 日々雑感、散策、旅行

 何の前触れもなく、紅葉が始まった週末のお昼時、2014.9.27 御嶽山は噴火した。
死者56人、行方不明者7人を出し、10月16日には、二次災害の危険から来春まで捜索を中断することとなりました。

 他人事でなく、私も19年前(1995.8.19)に御嶽登山をしたのでした。
この記憶がありましたので、当時の写真を探してみました。
若さが残る面々は皆さん元気そのもので、楽しそうに写っていて、とてもこの山が今回のような惨事を招くとは
思いもよらない明るい風景がそこにありました。

 ここで、御嶽山の標高(高さ)が違っていることに気が付いたのです。
現在の標高が、私たちが登頂した19年前のそれより 4m 高くなっているのです。

以下の写真から、山頂の表示を見て下さい。

1995.8.19に私たち(三究会)が登頂した時の写真です。
      

 

読売新聞2014.10.22朝刊1面(噴火9分前の写真だそうです。)
                   

 

どうして、このように違うのか不思議に思いました。 何時、どのような理由から標高に違いが生じたのか? 
国土地理院に問合せすることにしました。

 回答は、その日のうちに来ました。 
私たちが登頂したころは、三角点の標高が示されていたそうです。その後、点検・補足調査などの際、
三角点より高いところがあり、訂正したとのことでした。
日本の著名な山1003について、平成3年に、標高を新たに公表したそうです。
 

 → 疑問。平成3年は、1991年で、私たちの登山はそれより4年後の1995年8月ですから、公表されてからも
なお4年も放置されていたということになります??

 でも、ま、いいか・・!

 

 ついでですので、当時の写真の一部を以下に載せておきます。(山頂付近の写真です、)
  

  


 

 

 

 

 

 

 

 

 

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マユハケオモト  (bon)

2014-10-21 | 花鳥風月


  昨日は、1日中2人の大臣辞任のテレビをやっていました。 些細なことが問題にされ、わずか1か月半で、
辞任に追い込まれる極めて程度の低い事案にあきれてしまいます。 こんなつまらない揚げ足を取り上げる
野党も、全く大人げなくつまらないが、そんなことで辞任しなければならない大臣もはずかしい。
大きな、大事な問題が山積しているというのに・・。 落胆が大きい。

 

 お化粧をした後など、眉の周りの残りかすなどを刷く “ハケ” のような花を咲かせるところから
この名前が付けられたのだと思います。 花の形が、そんな風なんです。

 マユハケオモト(何ともひょうきんな花・・)   
  


                 アップしました。
                      

 

 マユハケオモトは、別名ハエマンサス(学名:Haemanthus albiflos)といい、アフリカ、南アフリカに
約60種類が分布するヒガンバナ科 マユハケオモト属の
球根性の植物です。 生育サイクルやその形状などから
大きく2種類に分けることができるようですが、マユハケオモトは、夏休眠・冬生育型で9月下~11月上に開花します。 
日本へは明治時代の初期に渡来したそうです。


 昨年、10月下旬、蓼科農園収穫祭の時、滋賀県のN氏が、3つ花を付けたマユハケオモトの鉢をわざわざ
持参していただいたのでした。 我が家に来て1か月ほど花は咲いていましたが、花軸が長く伸びていて、
土からはみ出しそうになっていましたので、もう少し土の中に植えこもうとしているうちに、土からポロリと取れて
しまったりして、慌ててキチット植え替えることにしたのでした。
しかし、根が殆どなく、土の上にヒョッと置かれているような感じなので、このまま枯れてしまうのかと案じていました。
 その内、分厚い葉っぱが、少しずつ伸びているようでもありましたが、この秋になって、白い花が伸びてきました。 あぁ、よかった。

 大変面白い形で、そんな経緯があって、1年後に無事開花した姿をアップし、感謝してお礼を申し上げます。 
ありがとうございました。

        ネット画像をもう一つ上げておきます。
                  

 

 

 

 

 

 

 

 

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月の満ち欠け  (bon)

2014-10-19 | 日々雑感、散策、旅行

 時代は古代、紀元前〇年であるとイメージしてください。

その頃の人々の生活の中で、時、時間という概念をどのように取り入れていたのでしょうか?

 最近皆既月食があり、その直前が十三夜で、ちょうど今年は171年ぶりに閏9月(旧暦)があることから、
来月11/5が、閏9月13日となり、もう一度十三夜の月が見られるという。
このくだりを先の(10/7)ブログ記事で勉強しているうちに、そもそも、なぜ1年は12か月なのか?
 1日はなぜ24時間なのか?  など仲間内で、このシンプルすぎるテーマが出てきました。
そして、それらを理解して行くうち、とうとう “そもそも時の概念はにあった” と思えるようになり、
このテーマで少し考えを巡らせてみたくなりました。

 

 冒頭の古代に戻って、生活の中で感じる種々の現象は、日の出、日没があり、だから昼と夜がある。
植物では、芽が出て葉が茂り、花が咲いて実がなる。暑い時期があり、寒い時期がある。
それらの中間も勿論あります。 これらはすべて太陽が起因している現象でありますが、なかなか科学的な
捉え方は出来ていないのですね。

 もう一つ “月” があります。 これは夜だけの観察でしかありませんが、月には満ち欠けがあります。
新月から新月(あるいは満月から満月)のように、周期的な変化を繰り返しています。
どうやら、29~30回の夜を数えて元に戻ることが発見されたのでしょう。 約29回で月の満ち欠けは一巡する。
さらに、一巡する回数を記録して行けば、季節が暑い頃から次の暑い頃に一巡するまでに約12回
月の満ち欠けをカウントすることが分かってきました。

つまり、夏から夏に一巡する期間を1年と定義すれば、この1年に、12回の “月の満ち欠け一巡”
すなわち12か月があることになります。

 紀元前8世紀頃には、1年は10か月とされていたそうで、3月が始まりとされていたそうです。
(だから、2月が一番最終月) 
その後、紀元前47年に、ジュリアス・シーザはエジプト遠征に勝利し、新しく暦を制定したのでした。
この時、第5番目(3月から数えて)の月を自分の名前に変更してJuly(7月)とし、時のローマ皇帝
アウグストゥスの名前を誕生月である6番目の月に当てて、August(8月)と変更した。そして、1月と2月を加えて、
1年を12か月と制定しました。
このため、もともとの7番目から10番目までに付けられていた呼び名がスライドされて、9月がSept.(7) 
10月がOct.(8) 11月がNov.(9) 12月がDec.(10)と呼び名がずれてしまっているのです。
(このくだりは、先刻、仲間の指摘通りです。)
なお、このシーザの暦を “ユリウス暦” といい、1年の始まりは1月と定められています。

 

 1日が24時間と定められているのも、やはり、この12分割から来ているのですね。
日の出から日没までを12分割、さらに、夜も12分割して時を刻んでいたそうです。昼と夜の長さが違って
いたりしますから、当初は、昼の1時間と夜の1時間は同じではなかった。
これでは、不便だというので、日の出から次の日の出・・つまり1日を通して24分割(等分)することとなったのですね。
BC147年頃ギリシャの天文学者ヒッパルコスにより、1日を24分割すると提唱されたそうです。

 

 ところで、月の満ち欠けに戻って、“月齢” ということを少し見てみたいと思います。
つまり、新月(朔)が0歳で、満月(望)が15歳、満月が次第に欠けて齢を重ねて29歳ちょっとで0歳に戻る。
このことですね。 この月齢を、計算してみたいと思います。以前にもこのブログで、ご紹介しましたが、
堀源一郎氏が天文月報(1965年7月号)に発表した簡易月齢計算式を再度以下に引用しました。

 A=({(y-11)%19}×11+Cm+d)%30

ここで、Aが月齢、yは西暦、Cmは下表の数値、dは日にちです。 

 %は剰余演算子(%の右数値で割り算した余り)

 Cmの値

   月

  1

2

3

4

5

6

7

8

9

10

11

12

   値

0

2

0

2    2

4

5

6

7

8

9

10

 

仮に、今日、2014年10月19日23頃の月齢は、

 A=({(2014-11)%19}×11+8+19)%30

  =(8×11+27)%30

  =115%30

  =25  月齢は25歳  となります。 (正確には25.4)


 10月のお月様 (ネット画像より)
           

 

 旧暦(太陰太陽暦)では、1朔望月=29.53日で、1年=354.4日となり、季節の循環を司る太陽が天球を
一巡する周期 365.24日と合わなくなり、旧暦では季節とのずれが生じますから、3年に1度閏月を挿入して
これを是正しているのですが、これについては、先のブログ(10/7)の記事に譲ります。

 なお、日本で、旧から新暦になったのは、明治5年のことで、明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日に
制定されました。(グレゴリオ暦が導入されました。)



 






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蓼科農園 収穫祭準備と玉ねぎ定植  (bon)

2014-10-17 | 蓼科浪漫倶楽部 畑

 台風18,19号と立て続けに列島を脅かし、各地に雨・風による大きな被害を残しました。

 19号一過の翌朝は、風雨も収まりやや気温が高い・・そんな日が、蓼科農園に向かう日となりました。
10月14~16日の短い日程は、下旬に予定されている “収穫祭2014” に向けての準備と
玉ねぎの定植がメインの作業予定でした。

 東京練馬で育苗した “玉ねぎ” の苗をここ蓼科農園でうまく育てるためには、農園の気候、特に低気温と
霜の影響を考慮したタイミングに合わせた定植時期と その時の苗の大きさを適正にするため、
逆算した種まき時期の微妙な読みをpookyは巧みに計算しているのでした。

  周囲の田圃や畑の様子です。
          黄金色した田圃
             

           ソバ畑
             

 

 10月14日の蓼科は、午前中とは打って変わって気温が下がり、もう冬を思わせるような曇り空となりました。 
この夜、富士山には初冠雪があり、2日後の帰路、中央道の正面に映るその勇姿には、往路にはなかった
すっぽりと白い帽子を載せていました。

                   

 今回、pookyが関連している菜園の若いスタッフ嬢2名の参加があり、深まる秋の農園に明るい花が咲きました。
彼女たちは、さすが手慣れているだけあって、苗の植え付けも手際よくこなし、みんなで2畝合計7~800本の
たまねぎの定植が出来ました。ビニールシートをカバーし冬越し準備も完了しました。

            玉ねぎ2畝
                  


            収穫祭準備も完成した農園
                   

             順調な さといも(左) と さつまいも

                  

 

 前回(9月上)移植したイチゴは、苗の力不足からか1割程度しか根付いていませんでした。対策を検討中です。

 

 お待たせしました!!スライドショーです。(約3分)

  





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松尾芭蕉  (bon)

2014-10-13 | 日々雑感、散策、旅行

また、台風(19号)が来ています。

   昨日の日曜日、孫の通う高校の文化祭に行ってきました。
 孫は、軽音楽部に所属していますが、なんと、ステージで弾けるようにヴォーカルをやっていました。


 昨日、10月12日(旧暦)は、松尾芭蕉の命日だそうです。
松尾 芭蕉(寛永21年 –元禄 7年10月12日)は、江戸時代前期の俳諧師で、現在の三重県伊賀市の出身。
名は忠右衛門宗房といい、俳号を 初め実名宗房、次いで桃青、そして
芭蕉(はせを)と改めた、とあります。 
芸術性の極めて高い句風を確立し、後世では
俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の
一人である。

               俳聖芭蕉翁
                   (ウイキペディアより)

更にウイキペディアには、

 9月に、門人の2人の不仲を取り持つため、奈良から生駒 暗峠を経て大坂へ赴いたが、うまく行かず、
この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した芭蕉は一時は回復したが、29日夜に下痢が
酷くなって伏し、容態は悪化の一途を辿り、10月5日に御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、
門人たちの看病を受けたが、8日、「病中吟」と称して

       旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

を詠み、10日には遺書を書き、そして12日申の刻(午前4時頃)、息を引き取った。と記されています。

 芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り
岐阜の大垣まで旅した紀行文 『おくのほそ道』 がある。

<おくのほそ道>
 芭蕉が、弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日に江戸深川のを出発し

      行く春や鳥啼魚の目は泪

を矢立の初めとして、日光、陸前、陸中、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前を通り、美濃大垣まで、
全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間の紀行文です。懐かしいその序文を、再記してみます。

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老を
むかふる物は、日々旅にして 、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、
片雲の風にさそはれて、漂泊の 思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、
や ゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきに
あひて取もの手につかず、もゝ引の破をつヾり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先
心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、 

    草の戸も住み替る代ぞひなの家 

 彌生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かに みえて、
上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。
千じゆと云所にて 船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。

    行く春や鳥啼魚の目は泪 

 是を矢立の初として、行道なをすゝまず。 人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、
見送なるべし。

 

  折角のいい雰囲気のところで、またまた無粋な字句をハサミ、誠に申し訳ありません。

実は、今年の夏、東北を旅しましたが、期せずしてランチの会の友人もほぼ同じ時期に東北旅行で、
果たしてランチの会では、その話に花が咲きましたが、この会の別の友人が、今回の二人の東北旅行に、
“新・奥の細道” と題した “地図” を作成して持参してくれたのでした。

      新・奥の細道
                

 

芭蕉は、平泉あたりから、山形、立石寺の方に回って行きますが、この新・奥の細道は、そのまま、
青森まで進むのです。

ランチの会では、ひと時 芭蕉の奥の細道談議に花が咲いたのでした。   

   明日から、蓼科農園に行ってきます。今回は、来る収穫祭の準備などで・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

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コロンブス  (bon)

2014-10-11 | 日々雑感、散策、旅行

 パキスタンの少女、マララさん(17)が、今年のノーベル平和賞に選ばれました。女性の教育を
受ける権利を主張し続ける、その姿、独自の言葉に現れた彼女の強い信念と行動に感動しました。
そして、その彼女を平和賞に選んだ選考委員会の識見と現世界へ発した強い意志にも。

 

 明日、10月12日は、コロンブス・デーとかで、アメリカ合衆国で多くの銀行などの公共施設が
定休日となり、学校も休みとなるところがあるという。

コロンブスは、“新大陸発見 イ・シ・ク・ニ・(1492年)”、“コロンブスのたまご” でよく知られています、
あのコロンブスです。

                    (ウイキペディアより)

 で、少し調べてみましたら、“新大陸を発見” などというのは、少し違うのではないか・・というのですね。 
新大陸といっているのは実は、アメリカ大陸のことで、ここにはこれ以前からインディアンやインディオなど
のモンゴロイド系先住民族が一万年以上前から居住し独自の文化を築いていたわけだから、
“新大陸” という言葉そのものがヨーロッパ中心で世界を見ていたことに過ぎないといっています。
だからむしろ、一般的には、コロンブスの功績は 「大西洋航路の発見」、つまりヨーロッパと
アメリカ大陸を結ぶ 「航海路を発見した」 というのが、妥当ではないかとしています。 
なおコロンブス自身はアメリカ大陸を最後までアジアだと誤認しており、“新大陸” と気づく事は無かったそうです。
               コロンブス航海地図 
                     (ウイキペディアより)

                  

 そしてもうひとつ、ウイキペディアなどの記述からは、コロンブスは相当な悪辣・残虐な人物のように
感じました。 英雄・・なんて、子供の頃、教えられたように記憶していますが、
考えてみれば、
文化が進んでいない国、民族を騙し、搾取し、奴隷化した昔の侵略を思えば当然なのかもしれませんけど。

 彼の このような側面は、否めないところですが、この時代の冒険家、事業化?としては、やはり
前人未到の偉業を成し遂げた、大した人であることには違いありません。そして、地球が球体であるなど、
知識も優れ、さらに政治的手腕にも長けているようですね。 
少し、抜き読み的に、短くご紹介しておきたいと思います。

 

クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus、1451年頃 - 1506年5月20日)は
探検家・航海者・コンキスタドール、奴隷商人とあり、イタリアのジェノヴァ出身といわれている。
大航海時代においてキリスト教世界の白人としては最初にアメリカ海域へ到達したひとりである・・
と記されています。

 コロンブスは、ポルトガルに移り、地図の製作や積極的な情報活動などから、西回り航路を着想し、
具体的な航海企画を作り、ポルトガル王に提案(1484年頃)することになるのです。
王室諮問委員会で検討されたが、彼の要求が大きすぎたこともあるなどから、結果は認められなかった。 
8年を過ごしたポルトガルを後にして、スペインに渡り、彼の企画案を要人に説得して回り、ついに
伯爵の胸を打ち、王室にて検討される道筋を得たのです。 
はたして、女帝イサベル1世の心を動かし(1486年)、王室諮問委員会で2度にわたり検討されるも
結論は持ち越された。なかなか返答がもらえなかったうちに、とうとう1491年には否定的結論が届き、
万策尽きたコロンブスはさすがに諦めてフランスに向けて旅立った。
しかし、運とは面白いもので、翌1492年懸案のグラナダが陥落したことで、スペインの財政に余裕ができ、
もともと乗り気であったイサベル1世は、俄かに勢いを得てコロンブスの計画を承認したのです。
時、既にコロンブスはフランスに向けて旅立っていて、この女王の決定が伝令され、劇的な出来事と
なりました。

 1492年4月17日、グラナダ郊外のサンタ・フェにて、コロンブスは王室と “サンタフェ契約”
締結しました。その内容は、

  1. コロンブスは発見された土地の終身提督となり、この地位は相続される。
  2. コロンブスは発見された土地の副王及び総督の任に就く。各地の統治者は3名の候補をコロンブスが推挙し、この中から選ばれる。
  3. 提督領から得られたすべての純益のうち10%はコロンブスの取り分とする。
  4. 提督領から得られた物品の交易において生じた紛争は、コロンブスが裁判権を持つ。
  5. コロンブスが今後行う航海において費用の1/8をコロンブスが負担する場合、利益の1/8をコロンブスの取り分とする。

というものだったそうです

 1492年8月3日、大西洋をインド(インディア)を目指してパロス港を出航したのです。
大西洋を西に行けばアジアに至ると信じていたのですね。 航海中、乗組員の不平不満が募り、
小規模な暴動まで起きるほどだったが、なだめながらとうとう、10月11日の日付が変わろうとする時、
ピンタ号の水夫が陸地を発見しました。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領して
サン・サルバドル島と名づける。 これが新大陸なんですね。 この日から、300周年を記念して
10月12日を “コロンブス・デー” と制定して祝うようになったそうです。


 しかし、上陸した島でコロンブス一行は、地元インディアン達から歓待を受け、水や食料の他、
オウムや綿の玉、槍やその他見たことのないたくさんのものが贈られた。コロンブス一行はそれを
ガラスのビーズや鷹の鈴と交換したりしたが、コロンブスの興味は、ただ黄金にしかなかったとあります。 

コロンブスの手記・・
 「私がインディアに到着するとすぐに、私が見つけた最初の島で、彼ら原住民(アラワク族インディアン)
たちに、私に差し出さなければならないものがこの品々の中にあるのかどうか教え込むために、
私は力ずくで原住民の何人かを連行した。」

「彼らは武器を持たないばかりかそれを知らない。私が彼らに刀を見せたところ、無知な彼らは刃を
触って怪我をした。 彼らは鉄を全く持っていない。彼らの槍は草の茎で作られている。
彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう
50人の男達と共に、私は彼らすべてを征服し、思うままに何でもさせることができた。」

「原住民たちは所有に関する概念が希薄であり、彼らの持っているものを『欲しい』といえば彼らは決して
『いいえ』と言わない。逆に彼らは『みんなのものだよ』と申し出るのだ。彼らは何を聞いてもオウム返しに
するだけだ。彼らには宗教というものがなく、たやすくキリスト教徒になれるだろう。
我々の言葉と神を教え込むために、私は原住民を6人ばかり連行した。」

・・・コロンブスに対する認識が変わりました。

 

逸話: 日食や月食を利用して、科学の進んでいない地域の人々をだました。

逸話: マルコ・ポーロ『東方見聞録』からの知識にもとづいて、「発見」したキューバ島や
エスパニョーラ島を当初ジパング(日本)と思った。

名言: 航海することが前提であり、生存することが前提ではない。

名言: 創造は難しく、模倣は易しい。

逸話: コロンブスの “たまご”   コロンブスの帰国歓迎式典では、皆がみな彼を賞賛したわけではなく、
“誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。当たり前のことだ” と水を差す人がではじめた。その時、
コロンブスは卵をとり、“誰かこの卵を立てることが出来る人はいますか” と謎をかけたのである。
何人かが挑戦してみたが、誰も立てることは出来ず、ついには怒り出す人が出る始末となった。
コロンブスは卵を引き寄せ、テーブルで軽くたたいて卵を立てて見せたのである。一同は、
そんなことをすれば、立つのは当たり前だ、といったことに対して、“皆さん、創造(初めてすること)は、
困難だが、模倣は容易だ” と切り返した。というおはなし・・。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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赤い月2  (bon)

2014-10-09 | 日々雑感、散策、旅行

 昨夜の皆既月食ショー、全部見ました~。

♫ アレハ~サンネンマエ・・、 2011.12.10にも皆既月食の赤い月を見ることが出来ました。
このブログでは、
その3日前に、記事 “赤い月” をアップしていますので、今回はその2弾です。

 たまたま、一昨夜のビッグニュース、“青い光の発光ダイオードの実用化に成功した日本人3人の科学者が、
今年のノーベル物理学賞の栄誉に輝いた”が流れ、誠にうれしい限りの中、青い光のお月様
(ブルー・ムーン)の方は、昨夜 “赤いお月様” でした。

 3年前のブログ記事(2011.12.7)を、ちょっと引用してみますと・・

『3日後の12月10日夜は、皆既月食が見られます。昨年も12月21日のこのブログでもご紹介しましたが、
月食は割と頻繁に起こっていて、今年は6月16日に続いて2回目とのこと。 あッ、そんなにあるなら
特段珍らしくもない・・・と思うのはちょっと早いかも? 今年6月のは、皆既時刻が明け方5:13だったので
皆既のまま沈んでいるし、昨年12月のは、17:17だから欠けたまま昇って来た。

 今回の皆既月食は、ちょっと遅めですが21:45から欠け始めて23:05~58の間、南の空高くで
赤い月(皆既月食)が日本全国で見られるという11年ぶりの好条件なんだそうです。
次回は、3年後の2014.10.8にあり、宵の口から欠けはじめて今年と同じように全経過が見られるという。
その先はというと、2015.4.4、2018.1.31 が良くてそれ以降はあまり良い条件ではないらしい。 
皆さん! 健康で元気なうちにちょっと寒いけれど“赤い月”を観察しておきましよう。』

というモノでした。 あれから、早や、3年が経ったのです。

   昨夜の赤いお月さま(アストロアーツより)       
              

 


   皆既月食 (国立天文台HPより)
            

 

 皆既月食中の月は、赤銅色ともいわれ、赤っぽい色をしています。月が地球の影に入っ完全な真っ黒にはならないのです。その理由は、太陽光が地球の大気によって屈折や散乱され、
うっすらと月面を照らすためです。赤くなるのは、朝焼けや夕焼けの原理と同じように波長の長い
赤い光のほうが大気中を通過しやすいためです。(ネットから拝借しました。)

 昨夜は、空も晴れていましたから、18時過ぎ頃から、チョクチョク ベランダに出て観察しました。
もうすでに始まっていて、左下の方が欠けていましたが、次第に皆既食になり、薄い雲があったのか、思ったほど(前回ほど)赤くはならなかったようでした。 20時頃から、薄い雲が流れて、
見え隠れ・・の感じでしたがまぁ、堪能しました。

 

    余談です。 昨夕、ベランダの大鉢から、ミョウガが採れました。
         しばらく見ないうちに、花を付けていました。
                        

 

 

 

 

 

 

 

 

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閏(うるう)9月と十三夜  (bon)

2014-10-07 | 日々雑感、散策、旅行

昨日(10/6)は、旧暦9月13日で、十三夜でした。

 生憎、大型で強い台風が浜松あたりに上陸するなどで、お月見どころではありませんでしたが、
この “十三夜” で、メール仲間うちで話題が飛び交ったのでした。
台風の方は、関東でも午後から風も穏やかになり、暑めの太陽が照り、台風一過の良いお天気になり、夕方には
きれいな夕焼けとなりました。18時前のベランダには、十三夜のお月様も美しい姿でお出ましでした。

 夕焼け(富士山の頂上部分が見えます)      十三夜のお月様(18時前頃 東30°方向)
     

 

 ランチの会を中心にしたメール仲間で、九州(福岡)在の友人が、一昨日に、ススキと栗を用意して、それに
日本酒の銘酒をスタンバイして、十三夜に備えたが、お天気が心配だと言ってきました。 

旧暦8月15日が “仲秋の名月”、そしてこの名月を観た人は、翌月の(旧暦9月13日の)十三夜(の月)も観る・・
というならわしが古くからあり、日本独自の風流を楽しむのですね。
お供え物から、仲秋の名月を “芋名月”、十三夜を “栗名月” とか “豆名月” と言ったりもしたそうです。

 話題が飛び交った理由は、この十三夜が今年は、171年ぶりに来月もう1回あるということから発展しました。

  ベランダから北方向(遠く日光方面の山々)        南方向(夕焼けに鴈のような雲・・)
     

 

ちょっと硬い話になりますが、お付き合いのほど、よろしくお願いします。

 太陰太陽暦(旧暦=天保歴)は、月の満ち欠けを基準に1か月を定めていて、その月の1日(ついたち)は
必ず新月(朔)が当てられ、朔から朔の前日までが旧暦の一か月で、平均29.5日となり、これを12か月、
大の月と小の月を大体交互にして、

  1年: 29.5×12=354日 (太陽暦=新暦は、365日ですから、11日短い) となります。

 毎月の始まり(1日)を “朔日(ついたち)” といいますね。 おふくろなんかは、“今日は、おついたち”とかいって、
この日、仏さんにお供えをしていたのを覚えています。

 現在(明治5年から)使われている新暦(太陽暦=グレゴリオ暦)は、季節と大体合ったカレンダーとなっていますが、
旧暦では、月の満ち欠けを基準にしているため、ひと月の日数が少なく、これを続けて行くと、次第に季節とのズレが生じ、
3年も続けると約1か月ズレてしまいます。 これを補正するために、3年に一度、“閏月”を挿入して、一年を
13か月とするのです。 具体的には、19年に7回(メトン周期)の閏月を挿入しているのです。

  つまり、19年では、 12×19+7=235か月となり、旧暦の1か月の日数は 29.530589日なので、
         旧暦での19年は、 29.530589×235=6939.688日 となります。

一方、新暦(太陽暦)で計算すると、365.24219×19=6939.602日  で大体等しくなります。

このようにして、旧暦(太陰太陽暦、天保歴)では、閏月を挿入して季節とのズレを解消(補正)していたのです。

 では、この閏月をどのようにして挿入していたのか、長くなりますが我慢して読んでみてください。

 旧暦(太陰太陽暦)は新月(朔)の日を1日(朔日)として、何月かは二十四節気のうちの12の中気[〇月中]に
よって次のように決まっています。(二十四節気については、このブログの2012.3.5の記事をご参照ください。)

  雨水[1月中](新暦2/19頃)の直前の朔の日……旧暦1月1日
  春分[2月中](新暦3/21頃)の直前の朔の日……旧暦2月1日
  穀雨[3月中](新暦4/20頃)の直前の朔の日……旧暦3月1日
  小満[4月中](新暦5/21頃)の直前の朔の日……旧暦4月1日
  夏至[5月中](新暦6/21頃)の直前の朔の日……旧暦5月1日
  大暑[6月中](新暦7/23頃)の直前の朔の日……旧暦6月1日
  処暑[7月中](新暦8/23頃)の直前の朔の日……旧暦7月1日
  秋分[8月中](新暦9/23頃)の直前の朔の日……旧暦8月1日
  霜降[9月中](新暦10/24頃)の直前の朔の日 …旧暦9月1日
  小雪[10月中](新暦11/22頃)の直前の朔の日…旧暦10月1日
  冬至[11月中](新暦12/21頃)の直前の朔の日…旧暦11月1日
  大寒[12月中](新暦1/21頃)の直前の朔の日 …旧暦12月1日

ここで、また復習ですが、月の満ち欠け(朔望)の周期は約29.53日で、中気と中気の間隔は単純にみると
約365.24日÷12=約30.44日ですから、中気と中気の間隔のほうが月の満ち欠けの周期より長いため、
中気と中気のあいだに新月(朔)が2回あって、中気に朔のない場合が起きてしまうことがあるのです。

旧暦で何月かは中気[〇月中]によって決められているので、中気に朔のない場合は前の月に閏をつけて
閏〇月としています。 これが閏月で、約3年に1回、19年に7回あるという風にしているのです。  
 前出の復習になりますが、

   19年の暦月数   12月×19年+7月=235月
   朔望月   29.530589日×235月=6939.688415日
   太陽年   365.242194日×19年=6939.601686日
で、19年に7回の閏月を入れて、太陽の位置による19年の長さがほぼ同じになります。
(これをメトン周期、章法(中国)といっています。)

たとえば、ネットでの例から具体的に見てみますと・・
『2009年の場合、夏至[5月中]と大暑[6月中]のあいだに新月(朔)が2回あったので閏5月ができました。
  5月24日…朔……旧暦5月1日…夏至の直前の朔の日
  6月21日…夏至…旧暦5月29日
  6月23日…朔……旧暦閏5月1日…閏月
  7月22日…朔……旧暦6月1日…大暑の直前の朔の日
  7月23日…大暑…旧暦6月2日

2012年の場合、穀雨[3月中]と小満[4月中]のあいだに新月(朔)が2回あって閏3月ができます。
  3月22日…朔……旧暦3月1日…穀雨の直前の朔の日
  4月20日…穀雨…旧暦3月30日
  4月21日…朔……旧暦閏3月1日…閏月
  5月21日…朔……旧暦4月1日…小満の直前の朔の日
  5月21日…小満…旧暦4月1日        』

ややこしいですが、よく見ると分かりますね。 更にネットには、次のような解説もありました。

『ちなみに1843年から190年間の閏年(/の次の数字が閏月)は次のとおりです。
  1843/9|1846/5|1849/4|1852/2 |1854/7|1857/5|1860/3
  1862/8|1865/5|1868/4|1870/10|1873/6|1876/5|1879/3
  1881/7|1884/5|1887/4|1889/12|1892/6|1895/5|1898/3
  1900/8|1903/5|1906/4|1909/2 |1911/6|1914/5|1917/2
  1919/7|1922/5|1925/4|1928/2 |1930/6|1933/5|1936/3
  1938/7|1941/6|1944/4|1947/2 |1949/7|1952/5|1955/3
  1957/8|1960/6|1963/4|1966/3 |1968/7|1971/5|1974/4
  1976/8|1979/6|1982/4|1984/10|1987/6|1990/5|1993/3
  1995/8|1998/5|2001/4|2004/2 |2006/7|2009/5|2012/3
  2014/9|2017/5|2020/4|2023/2 |2025/6|2028/5|2031/3  』

で丁度、9月が閏月となるのは、1843年から171年目の今年にあたるのです。

記事の最初に、今年は、十三夜がもう1回(計3回)あるといいましたが、171年ぶりに、閏9月13日(十三夜)が、
新暦の11月5日に当たりますので、この日も十三夜となる・・ということなんですね。
正確には、“閏十三夜”といえるかもしれません。

 

 新暦(太陽暦=グレゴリオ暦)の閏年はご存知ですね。 閏年の2月に1日追加する。 なぜ、2月なのか? 
古代では、2月が最後の月であったから・・??

  1. 西暦が4で割り切れる年は閏年である。
  2. ただし、100で割り切れる年は閏年ではない。
  3. ただし、400で割り切れる年は閏年である。

 

ところで、長くなって恐縮ですが、旧暦2033年問題というのがあるのはご存知でしょうか?

 春分を基点に太陽黄経360度を15度づつ24等分して決められた、定気法(空間分割法)では中気と中気の間隔は
約29.44日~約31.46日のあいだで変化します。で、定気法(空間分割法)を採用している旧暦では、中気と中気の
あいだが約29.83日より短かくなる時季に、1つの朔望月に2つの中気が含まれて暦月の月名を決められなくなる
可能性があることは既に理解されました。

 そこで、2033年秋~2034年春の旧暦の日付が、具体的に天保暦の置閏法にしたがってどのようになるかと
いえば・・(ネットより)

2033年7月26日(火)

7月1日

2033年8月23日(火)

処暑[7月中]

 

2033年8月25日(木)

閏7月1日

2033年9月23日(金)

秋分[8月中]

8月1日

2033年10月23日(日)

霜降[9月中]・朔

9月1日

2033年11月22日(火)

小雪[10月中]・

11月1日

2033年12月21日(水)

冬至[11月中]

 

2033年12月22日(木)

閏11月1日

2034年1月20日(金)

大寒[12月中]・朔

12月1日

2034年2月18日(土)

雨水[1月中]

 

2034年2月19日(日)

1月1日

2034年3月20日(月)

春分[2月中]

2月1日

2034年4月19日(水)

3月1日

2034年4月20日(木)

穀雨[3月中]

 

となり、閏月が7月と11月の2回あり、しかも10月が存在していないのですね。

 しかし、天保暦では冬至・春分・夏至・秋分を含む月は11月・2月・5月・8月と決まっているため、冬至の日の直前の
新月(朔)の日である11月22日(火)は旧暦11月1日、秋分の日の直前の新月(朔)の日である9月23日(金)は
旧暦8月1日となり、そのあいだの新月(朔)の日は10月23日(日)の1回しかないため、9月か10月のどちらかが
無くならざるをえないということに・・。

11月22日(火)の新月(朔)の日から12月22日(木)の新月(朔)の日までのあいだに小雪と冬至という2つの中気が
あり、優先順位からこれを11月とすると10月が無くならざるをえないことになるわけですね。

1月20日(金)からの暦月に大寒と雨水の2つの中気が含まれている点と2月19日(日)からの暦月に中気が
含まれていない点については、12月と1月は必らずしも中気と月名が一致していなくてもよいことと、中気を
含まなくても閏月にしなくてもよいという弾力性があるため、1月20日(金)からの2ヶ月は12月と1月ということで
問題はありませんが、2033年はそれだけの弾力性では対応しきれないという問題があるのです。 
なので種々の修正案が検討されています。

 

 今の日本では、旧暦に関する行事などは、ありませんから関係はないといえばないのですが、中国や韓国では、
春節や秋夕(チュソク)などの行事が今も盛んですし、日本でもカレンダーなどには、旧暦も書かれているなど、
影響はないとは言えないですね。

 

 これまでに、ブログアップしました関連記事です。立春と冬至(2014.1.31)、中秋の名(2013.9.19)、
うるう(閏)(2012.2.28)、二十四節気(2012.3.5)、十四夜・・(2011.10.10)、十五夜(2011.9.12)、上弦の月・下弦の月(2011.1.25 月齢の計算式など)

 

 風流な話題が、硬いお話になりました。 お疲れさまでした。

 

 

 昭和10年にヒットした~

 

 

 

 

 

 

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ロコモティブシンドローム  (bon)

2014-10-05 | 健康、医療

今日は、朝から冷たい雨が降っています。 大型で、強い台風が接近しているという。上陸の恐れもあるというから、
油断大敵です。 御嶽山の捜索も今日は中止が発表されました。

 先週の金曜日は、久しぶりに御前様となり、懐かしい超混雑した山手線にもまれて帰宅しました。混雑した電車も
全く気にならない程、楽しい食事会で、その余韻が、混雑を無視させるほどに満ちていたからかもしれません。 
24~5年前に、当時私が担当していた部署に入ってきた、入社1~2年目の新入社員の人達との食事会だったのです。 
初々しい当時の彼、彼女たちも今は、50歳で、それぞれの職場の役職をこなしているバリバリの幹部。 
そんな人達の中での年寄りの立場は、懐かしいクラス会の中の高齢の先生みたいな感じなのかもしれません。 
そんなうれしい食事会を他所に、年齢相応の話題を一つ・・。 前座が長くなりました 


 加齢のせいか、若いころと違って、無理がきかないどころか、めっきり疲れを感じるようになりました。体力ガタ落ち、
筋力なくなり、気力も失せ加減・・もう静かにしているしかありません。 
えっ、まだ何かをやりたい気がある? いえいえ、平穏にそこそこ健康であれば、もう言うことはありません。

 少し前に届いていた会報を見ていましたら、表題の解説(中村耕三氏:国立障害者リハビリテーションセンター総長)が
目に止まりました。
これまでにも、聞いていましたが、改めて読んでみると、私なんぞもまさしく現状のトレンド線上にあると思いました。
世の中の大きな問題の一つなんだそうです。 で、内容について、少し曲解している部分もあるかもしれませんが、
以下に私見も入れながらご紹介したいと思いました。

 

 そもそも、ヒトの器官系統を分けると、大きく、植物性器官と動物性器官に分けることができ、前者には、
栄養物などを取り入れる消化ー呼吸系(呼吸系)、これを全身に配る血液―脈管系(循環系)、産物を外に出す
泌尿―生殖系(排出系)があり、後者には、対外の刺激に応ずる感覚系(受容系)、刺激を導く神経系(伝達系)、
そして運動系(実施系)がある。 つまり、最後の運動系が、運動器の総称なんですね。

 ロコモティブシンドローム(locomotive syndrome)とは、運動器症候群のことであり、略して“ロコモ”と
呼ばれています。 運動器を大まかにいえば、四肢(手足)、脊柱(背骨)、であり、組織レベルでは、骨や軟骨、
筋肉、靭帯などを指すのです。

 で、超高齢化社会に入って、この運動器に大きな課題が生じているのですね。つまり、運動器の障害により
歩行機能が低下する “ロコモティブシンドローム” なんです。

 加齢で、なぜロコモとなるのかの背景には2つあるとしていて、一つは、そもそも二足歩行という不安定な
歩行様式がその基本的な背景だという。 そして、もう一つは、この運動器を50年以上も長期にわたって使って
きていることによるといっています。 このどちも、極めて当然のことであり、だからどうする?ことも出来ないわけで、
ただただこれを軽減する方策を自ら実施することと、ハード・ソフトを含めての支援策の必要性が求められているのです。

解説では、これまで国民的課題が4つあるという。 第1の波は、骨・関節結核であり、第2の波は、ポリオで、
第3の波は、高度経済成長時代の産業災害による外傷で、このロコモが第4の波だといっているのです。

そこで、個人レベルでのロコモの気づき法と評価法が挙げられています。 すなわち、ロコチェックとして、
次の項目が指摘されています。

 ロコチェック

1、片足立ちで、靴下がはけない

2、家の中でつまづいたり、滑ったりする

3、階段を上るのに、手すりが必要である

4、横断歩道を青信号で渡りきれない

5、15分くらい続けて歩けない

6、2㎏程度の買い物をして持ち帰るのが困難である

7、家のやや重い仕事(掃除機の使用、布団の上げ下ろしなど)が困難でさる

 

これらのうち一つでも該当すれば、対策を取ることが勧められています。

 更に、もっと直感的にわかるチェック方法として、“立ち上がりテスト” と “2ステップテスト” が挙げられています。
立ち上がりテストとは、40㎝くらいの高さの椅子に腰かけて片方の足で立ち上がるテストです。 
ちょっとやって見て下さい。両足でもやって見て下さい。40㎝だけではなく、30、20、10㎝でもやってみては・・
といっています。 これで、自身の下肢筋力がどの程度であるか自覚しやすいというのです。
60代では、40㎝からだと半数以上が片足でクリア出来るそうです。 私もやってみましたら、左はOKでしたが、
右はちょっとダメで、右の方が弱いことが分かりました。

もう一つのテスト “2ステップテスト” は、図にありますように、大股で2歩進んだ時の最大2歩幅を身長で割った値を指します。

           2ステップテスト
                 (ネットより) 

 

すなわち、         (最大の)2歩幅(cm)÷身長(cm)=2ステップ値

となります。
 このテストでは歩幅を測定していますが、同時に下肢の筋力・バランス能力・柔軟性など歩行能力が総合的に
評価できるそうです。ただ、両足をそろえて、最大の歩幅(大股)で2歩進みますので、滑ったり、バランスを崩したり
危険が伴うので注意が必要で、場合によっては介護者がいると安全ですね。

 で、この “2ステップ値” が、図のような、中央の白い部分入っていれば標準なのだそうです。

            2ステップ評価
               (ネットより)
 

 これらのテストの結果、機能改善に向けてどうすればよいか? に対してロコモーショントレーニング(ロコトレ)が
勧められています。 足腰の筋力強化、バランス力の強化が必要ですが、多くの場合既に膝や腰に変性が
始まっていることがありますから、過剰な負荷をかけないことが大切だとも言っています。
これら
に気を付けた上で、“開眼片足立ち” と “スクワット” が有効だと勧められています。 
その他、ウオーキングや衝撃の少ないスポーツへの参加なども良いそうです。

 季節も良くなってきました。 務めて戸外へ出てウオーキングなどを楽しむのはいかがでしょうか?

                            


元気なところで~
 





 

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ホトトギス  (bon)

2014-10-03 | 花鳥風月

 ホトトギスが咲いてきました。 山野草の部類ですが、若葉や花にある斑点模様が、鳥のホトトギスの胸にある
模様と似ていることからこの名がつけられたとか。
百合(ゆり)科で、学名をTricyrtis hirta (トリキルティス ヒルタ)というのだそうです。
漢字では “杜鵑草”、 鳥の方は、杜鵑ですね。
知りませんでしたが、 別名  “ユテンソウ(油点草)”  とも呼ばれているそうです。


 ベランダのホトトギスです。                                      アップしました
     


で、調べてみますと、この種類には、何と沢山の種類があることが分かりました。
  ふつうに見かける(ここで咲いた)のは、

 “台湾杜鵑” で最も一般的ですが、花が黄色い、“玉川杜鵑草”、“黄花の杜鵑草”、“黄花の突抜(つきぬき)杜鵑草”とか、
“高隈杜鵑草”や、その他、 “山杜鵑草”、“山路の杜鵑草” などたくさんありました。

 

属名にある “Tricyrtis(トリルキルティス)” というのは、“3つの距(きょ)” という意味で、花の基部に3つの距が
できるところから付けられたとあります。
距(きょ)というのは花びらやがくが変化した突起状の部分で中は空洞になっているといいます。 
先にアップしました、“サギソウ” には、あごひげを伸ばしたような、1本の長い距が下に延びていました。

ホトトギス、今頃はpookyさんちも大きな花が一面に咲いていることでしょう。

 

久しぶりに、ナツ・カヨで・・

 

 

 

 

 

 

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十二の巻  (bon)

2014-10-01 | 花鳥風月

これって、植物の名前なんですね。

読んで字の通り、“ジュウニノマキ”です。学名をHaworthia fasciata (ハウォルチア・ファスキアタ)というそうで、
南アフリカ原産の常緑多年草、多肉植物です。 更にいうと、ツルボラン科・ハウォルチア属なのだそうです。
寒さには弱いとあります。

 先日の園芸友の会で、講師先生から株を皆さんにいただいたものです。早速、ありあわせの鉢に植えてみました。
乾燥気味に育てるとかで、あまり水をやらず、放置気味にしておくという、便利なものです。 
でも、ネットで見たりしますと、ファンがかなりいるようで、うまくすると珍しい花を咲かせることができるようです。

            いただきものの 十二の巻
               


 なぜ、このような “十二の巻” という名前が付けられたのか? 
散々調べてみましたが、どうも極め付けを見つけることはできませんでした。 面白い名前ですね。 
こじつけた感じが否めませんが、一つだけ・・。

 この仲間(ハウォルチア)には、300以上の種類があるそうで、大きく、“硬葉系” と “軟葉系” の2系統があり、
その硬葉系の中に、“ハウォルチア・十二単”、もしくは “十二の爪” というのがあって、それから交配によって派生した
種類といえる、とありました。 では、元の、“十二単” というのは、どこから来た? 
まぁ、それは、その昔誰かが、その姿を見て、思わず “十二単” といったのかもしれませんね。

          ハウォルチア・十二単
              (ネットより)

 

 “十二単”といえば、春先に咲く、ムラサキあるいは白色をした花があります。
アジュガの種類ですが、花の成り立ちが、十二単を着たように、何段にも咲く、その姿から命名されたようですね。

           十二単(アジュガ)
             (平成12年)

 

 名前のことは、はっきりとしませんが、そういうことにして、ネットに解説された部分を以下に引用さっせていただきます。

“ハウォルチアはたくさんの種があり、どれも個性的でその魅力は一言で語り尽くせるものではありません。
ジュウニノマキはその中でも親しまれ、広く普及している種のひとつです。日本の気候では春・秋によく生長して
夏や冬は生育が緩慢になるか休眠します。

 先端が細長くとがったやや肉厚の細長い葉を放射状に出し、葉の外側に白い横しま模様が立体的に入るのが特徴で、
その姿はシマウマや霜降りの様です。 草姿はアロエを小さくしたようにも見えますが別物の植物です。
個体差が大きく、葉色や横縞の姿が異なる品種があります。 代表的なものに、白い模様の幅が広いものは
「ワイドバンド」や黄色っぽい縦縞がぼんやり入る「白蝶」などがあります。

 生長はゆっくりで、高さは15cm程度に収まる小型種ですが株元からよく子株を吹き、株全体は径15cmほどに
広がります。 春から夏にかけて、細い花茎を長く伸ばして茶色い筋の入った白い花を数輪咲かせます。”

              十二の巻の花
                  (ネットより) 

 

 私は、知りませんでしたが、昔から人気のある多肉植物なんだそうです。


 

 

 

 

 

 

 

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