蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

プロスキーヤー  (bon)

2015-01-30 | 日々雑感、散策、旅行

 三浦雄一郎氏のことです。

 少し前に届いた会報に、三浦さんが、2014.9.26に、北海道大学クラーク会館で講演をされた時の講演録が
掲載されていましたので、そこから抜粋してご紹介したいと思いました。

 今年は、各ゲレンデとも雪が多いと聞きます。この時季スキー好きの皆様には心を躍らせていることでしょう。
最近のスタイルは、もちろん2枚板のスキーが普通ですが、いわゆる “スノーボード” という幅広の1枚板に
横向きに両足を載せて滑るタイプで、服装もカラフルで奇抜ながらのものが多く見られます。
オリンピック種目にもこの種の競技がいくつかあり、珍しく思ったりしました。

 三浦さんの講演は、9月にありましたが、恐らくこの時季でなければ時間が取れないのでしょうね。
82歳にしてなお、トレーニングに励んでいるとのことです。

                (ネットより)
 

 私ごとで恐縮ですが、30年近く前に、勤務地であった石川県に河内村という人口1,200人ほどの村があり、
そこのお若い村長さんと親しくしていた頃、この村の山に 三浦雄一郎氏設計・監修のスキー場を開くということで、
そのスキー場オープンイベントに協力することになりました。
スキー場は、“金沢セイモアスキー”(現、白山セイモア カナダのマウント・シーモアに因んで)といい、
オープン初滑りに三浦さんが招かれたのでした。 で、私たちが協力したオープンイベントは2つありまして、
一つは、金沢セイモアスキー場ゲレンデを、三浦さんが滑る姿を、金沢のメイン 香林坊の大和デパート前広場の
大画面に、衛星ライブ中継したのです。 当時、日本でも通信衛星を打ち上げ、災害時にも通信が確保できるように
していましたが、これを今回は、スキー場オープンイベントに活用したのです。 もちろん臨時の手作り設備として
構成し、この地にも衛星通信システムが活用できることをPRしたのです。
香林坊ステージでは、三浦さん他のスキー映像の合間に、地元奥様連中の清らかなコーラスライブがあり、
寒い中、舞台衣装で頑張っていただいたのでした。時に、町中の話題となり、新聞にも取り上げられました。

 このイベントに協力したもう一つは、オープニングのために大勢の若者を集める事でした。
当時、私のところでは、19~23才くらいの地元女性の会を作っていましたので、そのメンバーに声をかけ、
“金沢セイモア1泊ジョイ” を企画しました。 河内村村長には、ロッジ1泊と、1日リフト券を無料としてもらいました。 
スキー場開きも無事に済んだ夕方、ロッジは若者で大変なにぎわいようで、食事の後のディスコパーティでは、
三浦さんも大喜びで、もともとはパーティにはチョコット出て帰られるところを、あまりの楽しさに予定を変更して、
その日はもう1泊されたのでした。

         金沢セイモア オープニング(1987.12.19)
                   


      楽しいパーティの夜
              
 

                       
 

 その後、ニュースにもなった “80歳エベレスト登頂成功” の偉業を成された三浦さんも、当時のこんな愉快な
遊び好きの側面を発散されたのでした。今回、この講演録を読んで、今また懐かしい当時が想い出されました。

 前置きだけで終わるかと、心配でしたが、以下に講演録を抜粋します。

 三浦雄一郎氏は、1932年に青森で生まれ、子供の頃は病弱でしたが、お父さんが宮城県スキー連盟の
会長であったことなどから、小学生のころから蔵王でスキーを楽しんだそうです。 高校時代には、青森県代表の
スキー選手として、国体はじめ全日本選手権などに出場し、高校選手権では3年連続優勝したそうです。
北大を受験すると決めてからも、冬休みもスキーの大会と合宿で、いつ勉強するのかと先生に心配されました。 
受験に向かう時、折角札幌に行くんだからと、スキーを担いで行き、試験までの1週間近くを叔父の家に世話に
なりながら藻岩山でスキーをやったりしました。 入試に “滑る” は禁句ですが、運よく合格したのでした。
入学式の前の春休みに北大スキー部の合宿を聞きつけて、入学前に既にスキー部に入部したのです。
で、入学式当日は、新入生の中で雪焼けした顔で目立っていたといいます。
北大では、同級生に作家の渡辺淳一がいたそうですが、彼(三浦)は、獣医学部に進み、国家試験には合格した
そうです。 北大を卒業して、そのまま助手として勤めるうち、学長の秘書と結婚しましたが、研究室に閉じこもる
ことが性に合わず、26歳で北大を辞職しました。

 オリンピック選考会で、青森代表になりますが、出場枠の問題で抗議したため、オリンピックどころかアマチュア大会に
出場できないなど、アマチュアスキー界から永久追放されます。 それからが厳しいトレーニングが始まるのですね。 
立山で歩荷のアルバイトをして足腰を鍛えた。 すでに学生時代に最大70kgの荷を担いでいましたが、
ここでは、100kgの荷物を担いで、朝4時に美女平を出発し、夕方弥陀ヶ原や雷鳥沢などに荷物を運んだそうです。
この歩荷を7~8年続けたそうです。 休日にはもちろん剣岳の平蔵谷や八つ峰の長次郎谷で山スキーを楽しんだ
のでした。

 1962年に、アメリカでプロスキー選手権が開催されるという記事が目に止まり、“アマチュア大会はダメでも、
プロの大会なら” と応募して、オリンピックのメダリストたち世界の一流選手が出場する中、いきなり8位に
入賞しました。 その賞金を元手に、帰りは、ヨーロッパ各地を周遊し、世界スキー武者修行をしたそうです。
そして、思いはキロメータランセ(スピードスキー競技)出場に移り、1964年のイタリア大会に東洋人で初参加
したのです。 最終レースでは、マッターホルンの3,820m地点から40度の急斜面を時速140~150kmで滑降し、
時速172.08kmの世界新記録を出したのでした。

 同じ1964年に、パラシュートを装着して富士山から直滑降したことは有名ですね。 そして、1970年には、
エベレストの8,000m地点からスキー滑降をしたのでした。その後、世界7大陸最高峰から滑降を達成したのです。

 しばらく目標を失っていたら、この人でもメタボになり、血圧が高く、動脈硬化が進行し糖尿病なども併発し
余命3年と宣告されたそうです。 しかし、一念発起して再びトレーニングを開始するのでした。足首に1㎏ずつの
重りを付け、背中に10㎏のザックを担いで1日中過ごしたり、時には、両足に10kgずつ付けたりし、食生活も
改善しました。 そうして、2003年 70歳でエベレスト登頂に成功し、2008年には75歳で再び成功しました。
“次は80歳で” と思っていた矢先に、ジャンプに失敗して、骨盤、大腿骨を骨折し半年寝たきりになりましたが、
絶対にエベレストに登るという強い気持ちのお蔭で、1年足らずで松葉杖で歩けるようになり、トレーニングを
再開したのです。 足首に1㎏ずつ付ける他、登山靴に鉄板を差し込んで重くし、ザックには20~30kgの錘を
入れたりしました。 こうして迎えた2013年、ベースキャンプに到着するまでの行程がリハビリになったのか、
5月23日世界最高齢の80歳22日でエベレスト登頂に成功したのでした。

最後に、「まさに、Boy’s be ambitious わが北大の建学の精神です。この言葉を心に、私自身もこれから
さらなるチャレンジを続けたいと思います。」 と結ばれています。

 気さくな、ユーモアたっぷりな人柄の中に、たぎる思いがいつまでも宿っているのですね。

 今日は、関東平野部でも朝から雪が舞っていて、窓外は一面真っ白にお化粧されています。

 

 

 

 

 

 

 

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ふるさと納税  (bon)

2015-01-28 | 日々雑感、散策、旅行

 月曜日(1/26)夕の国谷さんの番組(NHKクローズアップ現代 19:30~)で、掲題の “ふるさと納税” が
取り上げられていました。 
 この言葉は、以前から知っていたし、どこかの県知事がこの制度を使って他県に納税したとか、話題になったことも
記憶にあります。 
ところが、この番組を見て、その内容を全く知らなかったことに気が付き、ホント、何も知らなかった、世の中に
遅れていることを思い知らされたのでした。 
無知だったのは私だけだと思いますが、敢えてここに簡単に述べておきたいと思いました。

 例によって、ウイキペディアのページを見ますと、“ふるさと納税とは、任意の地方自治体に寄付することにより、
寄付した額のほぼ全額が税額控除される日本国内の個人住民税の制度。ただし一定の制限や限度がある。
「ふるさと寄附金」とも呼ばれる。” 
“2008年4月30日に公布された「地方税法等の一部を改正する法律」により、個人住民税の寄附金税制が
大幅に拡充される形で導入された。  地方自治体に対する寄附金のうち、2,000円を超える部分について、
個人住民税所得割の概ね1割(2016年からは2割(予定))を上限として、所得税と合わせて全額が控除される。”
というものです。

  (city do より)

 

 ふるさと納税といっていますが、法律的には“寄付”なんですね。そして、自身の出身地などの故郷に関わらず、
全国のどこの自治体に寄付をしてもいいのです。
ただ、以下の2つ条件があります。
   ①    収入などによって、限度額があります。(次の図をご覧ください。)
   ②    確定申告を行う。

                      限度額(目安)
           (総務省より)
 

 で、具体的に、どういう事かといいますと、

ある人が、お目当ての自治体に、自身の限度額範囲で寄付をします。その寄付額から2,000円を減じた額が
確定申告により、所得税・住民税が還付されるということです。 そして、寄付を受けた自治体は、“お礼” の意味から、
特産品やその他の特典などを寄付者に送るのです。特産品として、お米、和牛、カニなどの海産物、高級フルーツなど、
寄付額の50%程度の価値のあるものが送られてくるというのです。 全国の8割以上の自治体でこれをやっている
ということで、今や、ネットを見ますと特産品の “カタログポータルサイト” などがたくさん作成されていますし、
チラシやカタログなどもあるようです。 

          カタログポータルサイト
            (ネットページより)
 

最近急激に人気が出て来ているとかで、ある特産品などに特別人気が高く、寄付期間が早めに締め切られる
ところもあるそうです。 特産品に人気が集まり、その産業が活性化され、雇用も増加するなど、自治体にとっては、
財政が潤う上に、地域活力増殖に役立っていてうれしい悲鳴を上げているところがあるようです。
反面、このような特産品などの目玉企画がなく、還付金ばかりが増加して、逆に財政を圧迫している自治体が
あります。 ある自治体では、還付金が税収を上回っている、いわゆる赤字のところもあるなどの問題が生じて
いるようです。

 ネットを見ていますと、特産品ベスト3がありました。

      1位、長野県平戸市   海産物、平戸豚、平戸和牛、米、野菜、酒
       2位、佐賀県玄海村   トラフグ、真鯛、高級フルーツ
       3位、北海道上士幌町   十勝ナイタイ和牛

  番組では、これら特産品の他に、その自治体が取り組む長期的な施策、例えば、森を開墾して新しく植樹する
などの高原体験オーナー募集や、スポーツ選手育成プロジェクトへの参画などもあり、定期的な訪問・参加活動
などをする際の、旅費や宿泊費の特典を付けた例なども人気があるようでした。

 また、上に示しましたこれまでの条件が、2015年度に制度変更が予定されているようです。

  ・確定申告が不要 つまり、寄付者が確定申告をしなくて良く、寄付を受けた自治体から、
    寄付者 が居住する自治体に連絡され還付される。
   ・限度額が倍に拡大予定  概ね住民税の10%→20%となる予定。

 

ふるさと納税制度は、もともと、地方の子供たちが成長すれば大半が都市部に移動して、その地方が空洞化
してしまうことを補う意味を含めて創設されており、地方活性化に対し
ては、確かに効果的、速攻的であるようですが、
反面、都市部などでは財政を圧迫し、住
民サービスに影響を来すような深刻な問題が生じる可能性があります。
 また、そもそもの
目指す意味がずれてしまって、特産品の通信販売みたいな色彩が強くなっているなどの意見も
あるようです。

 いずれにしましても、一度お試しに、どこかに納税(寄付)を検討してみるとしましょう。
もちろん、寄付先の自治体は、欲しい特産品から選びますね~。



 

 

 

 

 

 

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雨にぬれても  (bon)

2015-01-26 | 科学・生物

 一昨日の記事、“愛宕山” の末尾の音楽(u-tube)に、たまたま表題の “雨にぬれても” をアップしましたら、偶然、
その夜のテレビ映画に、この歌が主題歌の西部劇 “明日に向かって打て” が放映されました。 
最近のテレビでは、EPG(番組表)機能によって、1週間程度の番組が画面で読めるようになっていますが、
このような機能も使っていなかったので、全くの偶然でした。  “なんだ!こんなことってあるのか?” と一人驚きました。

 で、その夜、21時からのテレビ映画 “明日に向かって打て” を観ました。
1969年のアメリカ映画で、数々のアカデミー賞を受賞しており、当時話題作であったのです。 実在の二人の
銀行強盗の逃避行が、緊迫した状況の中でも 独特のユーモアあふれる会話と共に描かれた名作です。

               明日に向かって打て
                   (ネット画像より) 


 ご存知の方には、不要な話ですが、あらすじは、もともと銀行強盗を繰り返す二人が別の二人組と組んで
ユニオン・パシフィック鉄道の列車強盗を繰り返し、鉄道会社はついに、最強の刺客を雇いひたすら彼らを猛追する。 
二人は、スペイン語が達者な恋人と共に南米ボリビアに移り、ここでも銀行強盗を重ねていくうちに、すっかり
ボリビアでも有名になってしまった。 
 やがて足を洗い錫山のマネージャーに雇われて給料袋のガードマンとなるが、給料袋を運んでいる時に
山賊に奪われてマネージャーは殺されてしまう。 二人は山賊を襲い給料袋を取り返した。 
しかし、二人は既に強盗を働くお尋ね者になっていた。
アルパコ鉱山の給料袋を奪って、近くの村の宿屋で食事をしていたところを 地元警察に見つかり 打ち合いと
なったが、やがて大勢の警察本体が取り囲み、二人は銃弾の雨に打たれてしまう・・と 
まぁこんなあらすじで、ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード演じる二人の強盗が西部の荒れ地、岩山を
馬で逃げたりするシーンの圧巻振りに堪能しました。

                主役の二人
                    (アマゾンHPより) 

 

 まったく意識せずに、たまたま記事アップした音楽が、その日のテレビでその映画が放映されるなんて、
しかも、50年近くも前のアメリカ映画が・・・。こんなことがあったと、ブログ記事に記録させていただきました。

 

ふたたび、この映画のシーンと主題歌を・・

 

 

 

 

 

 

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愛宕山  (bon)

2015-01-24 | 日々雑感、散策、旅行

 東京港区にある 新橋に近い愛宕山は、海抜26mの都心の最高峰です。
大正14年にこの頂上に建設された局舎から、日本最初のラジオ放送JOAKが始まったのでした。
 一昨日(1月22日木)は、終日冷たい小雨にけぶっていましたが、久し振りのランチの会では、楽しく盛り上がった熱い談笑の中
大満足でした。

 新橋駅の集合目当ての名物SL(C11型)は、全面塗装のため大げさな囲いがめぐらされ、その姿を見ることはできませんでした。

                  JR新橋駅日比谷口広場 (SLは白い囲いの中でした)
                    


赤レンガ通りを進み、完成まじかな“新虎通り”(幻のマッカーサー通り)を北上し、以前仕事関係でなんども歩いた愛宕界隈に来ました。
新しい新虎通りは道幅も広い(100m道路)が、極端に幅広(13m)の歩道は、完成後は路上カフェなどで飾られた、さながら
“東京シャンゼリゼ” を連想させました。

 新虎通り:正面に虎ノ門ヒルズ                その反対側は、汐留方向です
    

 

 ランチ                               愛宕神社(正面が男坂ですが、左トンネル脇のエレベータで)
    

 

 長めのランチを済ませ、愛宕山頂上の “NHK放送博物館” へ足を運びました。
会社務めの頃、この山頂公園で花見を楽しんだことが想い出されましたが、86段の急石段 “男坂” を上ったものでした。
今回は、トンネル脇のエレベーターにて難なく頂上まで運んでもらいました。 何度もこの界隈に来ていながら、放送博物館に入るのは
初めてで、懐かしいラジオや放送技術、設備に時の過ぎるのも忘れ、展示や放送文化に引き込まれてしまいました。
個人的な懐かしい記憶の他、ここには、今日のランチ会のメンバーが30年も前に職場で奮闘していた映像関連のテーマに
充満していましたから、メンバー共通の想い出がそこここにあり、思いは一気に当時にタイムスリップし、垂涎のひと時を過ごしました。

 NHK放送博物館                      懐かしいラジオ
   


 堪能して、すぐ近くの “虎の門ヒルズ” 51階まで昇り眼下の東京タワーなどを目にし、メンバー誰しも通ったことのある昔の職場の
一つがあったそのビルが 今、新しく高層ビルに生まれ変わった、まさにここなのでした。

 今回のランチの会には、10数年ぶりに、先輩H氏が参加され、想い出の地にリニューアルされたこのビル1階ラウンジで、
再び時間も忘れて談笑に興じるのでした。
H氏は、今年87歳を迎えられましたが、大変お元気で、当時の職場の雰囲気そのままでした。矍鑠として、その闊達な会話、
広い知識は メンバー一同に若さが逆流する形となりました。 氏が、シリーズ寄稿された “江ノ電沿線新聞” を今年初めに
突然送られてきたことが、再会の端緒となったのです。

            虎ノ門ヒルズ1階の “どらえもん” を囲んで~
                  

 

 いつものランチの会より、かなり長めの集いは夕暮れまで続き、会社人の帰宅時刻に入っていたのか、それぞれ混雑した電車へと
お別れしました。

 今回も企画してくださった、OHさんありがとうございました。次回は、少し暖かくなった頃でしょうか、再会を楽しみにしています。

 直後に、同行仲間のKさんが、鉄道唱歌 の替え歌を作詞され、このページへの掲載が許可されましたので、
以下にご披露します。 鉄道唱歌のメロディーでどうぞ~ (注:ミニプロとは、この会の名前です。)

   

   
出発一声 新橋を 早や ミニプロは離れたり
    そぼ降る雨も ものかはに 行くは東京シャンゼリゼ

   早目に着きたる レストラン ステーキ・魚に舌鼓 
       サラダ デザート 取りどりに 鑑定団で盛り上がり

    愛宕の山の博物は 大正・昭和の放送史 
     学芸員の解説に 感心しきり 見学者

    愛宕の社を参拝し 目指すは ヒルズ虎の門
      東京タワーが 霞みたる 51階 いや高し

    珈琲舎(カフェ)で交わす 言の葉に 心はいつか20代 
      時を忘るる 茶話の会 あたりは 早やも夕間暮れ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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一休と良寛(後) (bon)

2015-01-22 | 日々雑感、散策、旅行

先のブログの続きです。
 “狂と遊に生きる(一休・良寛)”(久保田展弘著、2000.6)の記述から、その人の背景など・・印象に残ったところの記事、後篇です。 

 今回は、 “良寛さん” です。  この本の他、ウイキペディアなども参照しました。

 

 良寛(1758年~1831年)は江戸時代後期の曹洞宗の僧侶(禅僧)で、歌人、漢詩人、書家です。俗名を 山本栄蔵 または 
文孝(ぶんこう)といいます。号は大愚

 良寛は越後国出雲崎に、地区の名主であった父の四男三女の長子として生まれ、純粋でのんびりとした性格のまま成長し、
名主であった父の後を継ぐ名主見習いの2年目に突如出家(18歳)し、曹洞宗光照寺にて修行をするとあります。
この頃のエピソードに、“出雲崎代官と漁民との間に争いが起こった時、仲裁に入った文考が、双方の悪口雑言を、そのまま
それぞれ相手方に伝え、事態を一層険悪なものにした”  とあり、 “そのバカ正直をとがめる代官に、文考は「人を騙すような者が
利口だと言われるような世の中は間違っている」と嘆いた”  のだそうです。 それにしても、18歳の青年が父を捨て、名主の跡取り
息子が家を出るという異常とも思える人生に飛び込んだのでした。

 しかし、その生涯をたどる手立ては極めて少ないそうですが、それは良寛が禅僧でありながら、いかに宗派や僧籍にこだわる事なく、
ただ民の中で “あるがままに” 生きていたかを物語っていることに他ならないのです。 父は、山本家に婿入りし、名主となるが
もともとその才覚に長けていなく、むしろ俳人「以南」として名が知れるほどで、良寛もこの父に似たところがあるというか、
名主としての経営的センスに欠けるどころか、調停役なども全くできない人であったそうです。 
この頃、全国各地に米騒動が頻発し、越後にも天災・悪疫が襲い、凶作により餓死者を出し、村人の争いを調停し、盗人の処刑に
立ち会わなければならなかった良寛が見たものは、救いのない人間の哀れな世界であったとあり、両親の説得にも関わらず、
良寛は頑なに修行を続けたのだそうです。

出家後、22歳(1779年)の時、玉島(岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚を "生涯の師" と定め、師事することにより、
良寛の人生は一変するのです。 良寛という法名もこの時に授かったそうです。

 北陸と瀬戸内の陽光を浴びた景色、気候は正反対ともいえる違いがあり、ここでの修行僧のスケジュールは、それこそ厳しい
生活規則の中で、良寛は昼行燈から生まれ変わるのです。 年月を経て、良寛が修行に夢中になっていた時には、たわいもないこと
として見過ごしていた、日常のその一事が、目の前に意味をもって浮かび上がってくるのでした。 自分が、修行という構えを脱ぎ捨て
た時、かの仙桂和尚(座禅もせずに、畑ばかりをしてみんなに食べさせていた)が底知れない意味をもって迫ってくるのです。

厳しい修行の合間には、子供たちと手まりをついたり、かくれんぼしたり、また、行脚の旅に出たり、黙々とした一途な日常を過ごし、
印可を受けるまでになりましたが、その円通寺の住職になるでもなく、33歳の時、円通寺を辞し、ふるさと越後への長い行脚に
出るのでした。  ただ1本の杖と鉄鉢を手に、良寛は禅林という、本来、超俗であるべき世界を離れ、しかも世俗の価値観からも
離脱したのです。 「昼行燈」の栄蔵が、故郷を離れて20年振りに、大愚良寛となって飢饉に喘ぐ越後へと向かうのでした。 
錦を飾って帰るわけでも、両手を広げ、友人知人のまえに笑顔で帰郷の声を上げるわけでもなく、世間の価値観で見れば、
敗残者の身なりで・・。

          良寛像
              (ウイキペディアより)
 

乞食僧良寛の帰郷は、しかし、生家のある町ではありませんでした。既に両親は他界していて、10人の兄弟も何人かは先んじて
いましたが、弟が後継ぎとしている家にもよらず、それをやり過ごした、海べりの空小屋を転々とした後、国頭山の中腹にある
“五号庵” に入り、そこで亡くなるまでの30年ほどを過ごしたのです。

         きてみれば わが故里は 荒れにけり 庭もまがきも 落ち葉のみして

おそらく、自分の生家の前を通った時の思いであったのでしょう。 そして、自らが住む五号庵は、

        わが宿は 竹の柱に 菰すだれ

                    五号庵
               (新潟観光HPより)
 

何となくさびしい、わびしい感じがしますけれども、良寛にとっては、そんな外面的なことに腐心している訳では決してなく、
そこに俗世を超越した信念にむしろ充実した自由な心だったのではないかと思われます。 
前編の “一休” と比較しますと、一休は、禅の正当性を直截にいい、現実の教団禅を告発し続け否定しましたが、しかし、良寛は、
居住空間に徹底して寄り添うことによって、自然のありようを平明に歌い、自分の内面を抑制しながら告白し、現実の禅を否定して
います。 一方は、“狂”に傾き、一方は、“遊”に自身を放下しています。

        かすみ立つ 長き春日を 子供らと 手まりつきつつ この日くらしつ

        子供らと 手まりつきつつ 此のさとに 遊ぶ春日は 暮れずともよし

 定住の寺も檀家もなく、常に乞食僧であり、行脚の人であったその人の仏法は、無所有でいて揺るぎない良寛の日々そのもので
あったのです。 良寛がそこにいることによって和気が充ち、その人と語ることによって、こころが打ち解け、和んでくる・・そんな人
なんですね。

        生涯懶立身     生涯、身を立つるに物憂く
           謄々任天真     謄々、天真に任す
           嚢中三升米     嚢中、三升の米
           炉辺一束薪     炉辺に、一束のたきぎ
           誰問迷悟跡     誰か問わん、迷悟の跡
           何知名利塵     何ぞ知らん、名利の塵
           夜雨草庵裡     夜雨、草庵のうち
           双脚等間伸     双脚、等間に伸ばす

著者意訳は、“将来何をして、どんなえらい奴になろうなんてことは、私の性に合わない。自然に任せ、あるがままに悠然と生きている。
頭陀袋には三升の米があり、囲炉裏
の傍には一束の薪がある。それだけでいいじゃないか。迷いだ、悟りだといって、古人のたどった
道をたどるつもりもない。まして、名誉だの利益だのという、そんなことに関わる
つもりもない。夜の雨が草庵の屋根を打つ音を聞いて、
二本の脚を思わず前に伸ばして
いるだけだ。”

こんな良寛にも、後年三人の女性との交流が伝えられています。 

 60歳になろうとする良寛は、若いころ知り合いであったと思われる7つ違い(下)の維馨尼(いきょうに)を通じて、読みたかった
万葉集の借用を頼んだのがきっかけで、双方、深い恋心に結ばれたそうです。 彼女は、万葉集4千5百余首のうたの中から、

短歌190首を抄出しましたが、その内の三分の一が恋歌である相聞歌で占められていたとか。 彼女のそうした思いが、いつしか
良寛にも熱い思いを抱かせていったのです。 彼女は、また良寛のために献身的な、托鉢に4年間も出たりして、とうとう58歳の
人生を閉じてしまいます。 
 良寛の晩年5年間を彩る子弟の交わりがあります。長岡藩士の娘は18歳で医師と結婚しますが、離縁して剃髪して貞心尼となります。 
幼いころから読書好きで、歌を詠んでいた貞心は、そのころ詩歌や書でも広く名の知られていた良寛に、強い憧れをもっていた
のでしょう。 勝気で、自分の人生を選び取ることに積極的な貞心は、ひとたび良寛に会うや、もう引くことを知らない人のように
接近したそうです。   貞心尼30歳、良寛70歳のときです。

その後、貞心尼は、病床にある良寛を献身的に見守り、心身のすべてをかけて尽くしたのでした。 

貞心を待つ良寛は、

          いついつと まちにし人は 来りけり 今はあひ見て 何か思はむ

そして貞心は、師匠良寛に、

         いきしにの さかひはなれて すむみのも さらぬわかれの あるぞかなしき

さらに、良寛の返歌、

         うらを見せ おもてを見せて ちるもみぢ

いのち燃える晩年でした。 享年74歳。

貞心尼は、良寛没後5年後に、必死に集めた良寛歌集「蓮の露」(はちすのつゆ)を編むのです。
良寛に向き合う貞心、貞心に向き合う良寛、この二人の熱い思いがここに収められているのです。

 最後に、貞心がほとばしる情熱と、あたりを憚ることを知らないその積極的な出会いは、一気に深まっていったそうですが、
その出会いの歌を・・。

 はじめてあひ見奉りて

           きみにかく あひ見ることの うれしさも まださめやらぬ ゆめかとぞおもふ

 良寛の返歌、

           ゆめの世に かつまどろみて ゆめをまた かたるもゆめも それがまにまに

 

良寛辞世の句

           「散る桜 残る桜も 散る桜」

 

“生家跡には「良寛堂」が建っていて、その中には、良寛が生涯肌身離さず身につけていた念持仏「枕地蔵」が収められている。 

石塔に刻まれた句には

           いにしえへに かはらぬものはありそみと むかいにみゆる さどのしまなり

とあり、堂の裏手には良寛の坐像がある。”

  以下には、良寛の格言、ことばを列記します。全部で90ほどあるようですが、その一部です。
一見すると当たり前のことですが、多くの部分で自分にも当てはまると愕然としてしまいます。

・ことばの多き
・口のはやき
・手がら話
・人のもの言いきらぬ中に物言う
・はなしの長き
・こうしゃくの長き
・自まん話
・物言いのはてしなき
・ことわり(理屈)のすぎたる
・人のはなしのじゃまする
・しめやかなる座にて心なく物言う
・酒にえいてことわり(理屈)言う
・親せつらしく物言う
・物知り顔に言う
・へつらう事
・あなどる事
・人のかくすことをあからさまに言う
・己が氏素性の高きを人に語る
・さしたることなきことをこまごま言う
・役人のよしあし
・子供のこしゃくなる
・おしのつよき
・よく物のこうしゃくをしたがる
・老人のくどき
・口をすぼめて物言う
・品に似合わぬ話
・よく知らぬことを憚りなく言う
・学者くさき話
・風雅くさき話
・人のきりょうのあるなし
・おれがこうしたこうした
・さとりくさき話
・茶人くさき話
・あくびと共にねん仏

 前・後編とも、なかなかこなれていなくて、理解しがたいところが多々あったと、誠に申し訳なく思う次第です。 お疲れさまでした。

私自身としては、このお二人の生きようは、時代が違い、その行動や表現も全く違っていますが、人間の持つ業が如何に世を
進めているかという反面、それが迷いの根源となっているという因果に気が付きました。

 

 

 秋のささやき

 

 

 

 

 

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一休と良寛(前) (bon)

2015-01-20 | 日々雑感、散策、旅行

 一休さんも良寛さんも、子供の絵本などによく出て来た懐かしい感じがする人ですね。

もう、10数年前に買ったシリーズ単行本12冊は、殆どページをめくらないまま本箱に入っていました。
このシリーズは、“仏教を生きる” 全12巻(中央公論新社、2000年)で、執筆者、解説者(鼎談)はそれぞれ専門の
方々で編纂されています。 で、このうち “狂と遊に生きる(一休・良寛)” (久保田展弘著、2000.6 ¥1,600)から、
私として初めて知る新しい事柄や驚き、その人の背景など・・印象に残ったところをかいつまんで記事アップしてみました。
お二人を一度にアップすると長くなりすぎますので、記事を前・後二つに分けて掲載させていただきました。

 で、今回は、“一休さん” です。

一休さんは、通常、一休宗純といわれていますが、室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧、詩人です。
1394~1481の88歳と長命です。 南北朝時代が終結し、幕府は第3代将軍足利義満最盛期の頃、北朝方の
後小松天皇のご落胤として、京都嵯峨の農家で生まれたと伝えられています。 南朝の天皇から三種の神器を
移されて間もない北朝の天皇の寵愛した相手が南朝系の女性(一休の母)であったため、宮中を追われて、
民間に入って一休を産み、一休はついぞ父には会うこともなかったという運命の人だったようです。
6歳というまだ子供のうちに、禅寺 “安国寺” に入り、出家し、「周建(しゅうけん)」となり、この頃が、いわゆる “とんちの一休さん” であったようです。早くから詩才に優れ13歳で既に評判となり、その後名前を「宗純」と
あらためますが、22歳の時、大徳寺に入り、禅宗の課題に対して、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ
風ふかば吹け」 と答えたことから高層より “一休” の道号を授かるのです。
なお「有ろじ(有漏路)」とは迷い(煩悩)の世界、「無ろじ(無漏路)」とは悟り(仏)の世界を指すとあります。

             一休和尚像
             (ウイキペディアより)
 

 一休の時代は、いわゆる応仁の乱を挟んで、混乱の世の中が続く上、度重なる飢饉にも見舞われた地獄絵のような
時代だったようですが、反面、明、朝鮮との交易によって富を蓄え力のある守護大名や、堺の商人を始め町人経済が
大きな力を持ち、このような戦乱続きの世に文芸、茶道、連歌、猿楽などの文化が栄えたという不思議な時代だった
のですね。 生きることに喘ぐ庶民との間にあまりにもひどい乖離があったのですね。禅僧は、中国直輸入の文化の
指南役を務めるなど、豪商や武家を相手に伽藍が文芸の世界となり、茶道に遊ぶ僧の姿がそこにあり、一休は、
こうした “直指人心、見性成仏” を離れた曖昧な禅を徹底して否定するのでした。 殊勝げな形式ともっともらしさ
へのうなずきに対する徹底した否定は、一休の人間性の復活への叫びではないか、著者は断言するのです。
高僧門下に向かって、“欲の深い連中が法を説き、厚かましく恥を知らないただの畜生” と一休は罵倒するのです。
一休は、晩年までほとんど定住の寺を持たず、一所不在の行動の中に打ち出された禅、それが一休の禅であり、
そこには絶えず人との交流があったのですね。 広く、能楽や茶道に秀でた文化人の他、真宗本願寺第八法主の
蓮如とも深い交流があったそうです。

 この程度では、到底、一休の目指す禅への取り組みや精神性を伝えることは無理ですが、とにかく型破りに見えるくらい、
その言動や行動が、常識的な観点での “” に見えるのですね。 しかも、直接的で、妥協がゆるされない・・
そんな信念の人のようです。 そして、そこに飾り気がなく、ネット記事から、彼のうたと人柄など、以下のような
記述があります。

  • 門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし]
  • 釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな
  • 秋風一夜百千年(秋風のなかあなたと共にいる。それは百年にも千年の歳月にも値するものだ)
  • 花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖 はもみじ、花はみよしの
  • 女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む
  • 世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり
  • 南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ

人柄として、

  • 印可の証明書や由来ある文書を火中に投じた。
  • 男色はもとより仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の森侍者(しんじしゃ)という側女がいた。
  • 木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を批判したものであったとされる。
  • 親交のあった蓮如の留守中に居室に上がりこみ、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした。その時に帰宅した蓮如は「俺の商売道具に何をする」と言って、ふたりで大笑いしたという。

 一休による風狂破格の世界を呈する漢詩集 “狂雲集” は、仏門の求道者の自分を詠んでもいるが、
女色に耽溺する自己をも詠むなど、まさに、この書名のように狂雲集の世界は尋常一様でないと評されています。

 この詩集の中に、“美人の陰に水仙化の香有り”と題した詩を引用します。

  楚台応望更応擧   楚台にまさに望むべし、更にまさに擧ずべし
  半夜玉床愁夢間   半夜、玉床、愁夢の間
  花綻一茎梅樹下   花はほころぶ一茎、梅樹の下
  凌波仙子遶腰間   凌波仙子、腰間をめぐる

 この本にある意訳は、“美しい女の体を求め、今まさにそこに上ろうとするのは、真夜中の二人のベッドの、
愁いをたたえた夢の中であった。花はほころぶひと茎、梅樹のもと、波に身をゆだねる仙女、その腰の間をめぐる” 
とあり、さらに、ここで、花が女陰を、梅樹は男根を象徴するとすれば、その情景は男女の愛の営みそのまま
ということになる・・と。 時に、一休76歳の冬の寒い一夜であったそうです。

 盲目の美女、森女(しんにょ)と晩年を共に暮らす中で、一休の森女に対する信頼の純粋さと、その愛をうたった
詩があまりにも率直でありすぎ しかも公表してしまっているのです。 著者は、“一休にとって、森女は、光だった
にちがいない。それは同時に、森女にとって一休は、手に触れることのできる光だったのではないでしょうか。”
と述べています。

              一休寺(酬恩庵:京田辺市)
                  (ウイキペディアより)
 

 長くなりましたが、最後に、“一休さんの頓智” のいくつかをネット記事から再掲(コピペ)しておきます。

 屏風の虎退治 

足利義満が一休に出した問題の一つ。

「屏風絵の虎が夜な夜な屏風を抜け出して暴れるので退治して欲しい」と義満が訴えたところ、
一休は「では捕まえますから虎を屏風絵から出して下さい」と切り返し、義満を感服させた。

このはし渡るべからず

桔梗屋が一休に出した問題の一つ。

店の前の橋を一休さんが渡ろうとすると、「このはしわたるべからず(『この橋を渡るな』の意)」と書いてある。
しかし一休は、「この(はし)渡るべからず」と切り返し、橋の真ん中を堂々と渡った。

後日談で、同じ問題に加えて「真ん中も歩いては駄目」と難題を出されたが、「橋に乗らねばよいのだろう」と
敷物を敷いてその上を歩いて渡ってきた。

 七曲りの松

京都に、「七曲りの松」があった。
「この松をまっすぐに見た者には金一貫文与える。大徳寺住職・一休」 という立て札が立った。金一貫文は、
今日なら百万円である。
以後、松の周囲は人だかりで、何とか一貫文をかせごうと、人々は、松の木をまっすぐ見ようと
努力した。 だが、一向に見ることができない。ついには梯子をかけ、上から見るものまで現れる。

「一休さんがウソを言われるはずがない。どこからか見えるのであろう。」  蓮如上人が通りかかられた。
「また一休さんの悪戯か。よし、私はまっすぐに見たから一貫文もらって来よう。」と、一休のところへ。

「真っ直ぐに見たから、一貫文もらいたい。」「蓮如か、お前は駄目だ。立て札の裏を見て来たか。」裏には、
「但し、本願寺の蓮如だけは除く」とあった。 一休は蓮如上人にはすぐ見破られてしまうことが分かっていたのだ。

蓮如上人は再び、七曲がりの松の所に戻られた。「どうでした、一貫文、もらえましたか」
「いや、一休が堪忍してくれと、謝ったから、許してやった。」「一体、どこから、真っ直ぐに見られたのですか」
「この松を『曲がった松じゃなー』と見るのが、まっすぐに見るということだ。曲がりくねった松を真っ直ぐに見ようと
しているから、見ることができない。曲がった松は、曲がった松と見るのが、本当に、まっすぐ見るということだ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

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今日の蓼科から  (bon)

2015-01-18 | 蓼科浪漫倶楽部 畑

  蓼科の原村役場屋上に設置されたカメラから、現在の付近の様子がライブ出来ることは、以前にもご紹介しました。

 昨日は、小雪がちらつく寒々として、八ヶ岳など遠方は皆目見渡せないようなお天気でした。
原村Aコープは、畑作業のある時に、いつも食材買い出しなどで利用していますが、さすが昨日は、粉雪の中で
いつも見慣れた姿ではない風景でした。

 今日は、朝から晴れていて、遠く北アルプスの山々もはっきりと確認できます。
以下に、いくつか見慣れた部分の今の状態を、切り取って貼り付けました。 
もし、ご自由にご覧になる方は、“原村HP” を開いて、ライブカメラの部分を選択してください。 
この時、Javaのセキュリティーが、“高” 以上になっていると、接続できません。  その場合は、java configure の
セキュリティを “中” に設定するとうまく行きます。   是非、お試しください。
 (観察終了後は、javaセキュリティを元に戻すこともお忘れなく・・)

 以下の写真は、 今日(1月18日)10:30頃の状況です。

 八ヶ岳(真ん中が横岳、右に阿弥陀・赤岳が重なる、左硫黄岳)

       

 

 畑の方向です(原村役場から車山方向の途中に畑があります。尖り石遺跡もこちらです。)
           (今頃畑は、雪の中・・)

 

 いつもお世話になるAコープです。(ライブカメラでは、人、車の動きが分かります。)
               

 

 諏訪湖から、北アルプスがはっきり見えます。(昨日は、何も見えませんでした。)
                  

              大キレットの左すぐが、北穂、唐沢、奥穂、左端が西穂、キレットから右少しで槍、もう少しで常念岳 

 今日は遠望が効き、ラッキーです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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藪入り  (bon)

2015-01-16 | 日々雑感、散策、旅行

 今年の “暦” の睦月(1月)をみていると、14日が、14日年越しで、15日が小正月、そして今日16日は、
藪入り・閻魔詣りとあります。 また、14日は、大阪四天王寺の“どやどや”の奇祭があったことをテレビで報じていました。

 藪入りについては、ご存知の方も多いことと思いますが、私は、7月16日の藪入りは何となく聞いて知っていましたが、
1月のはあまり聞いたことがありませんでした。 しかし、ウイキペディアなどには、“薮入りとは、かつて商家などに
住み込み奉公していた丁稚や女中など奉公人が実家へと帰ることのできた休日で、1月16日と7月16日が
その日に当たっていた。7月のものは「後(のち)の藪入り」とも言う。”  とあり、1月の方が、先にあったのですね。
つまり、盆と正月のお休み・・ってとこですね。

更に続けて、見て行きますと、
“藪入りの習慣が都市の商家を中心に広まったのは江戸時代である。本来は奉公人ではなく、嫁取り婚において
嫁が実家へと帰る日だったとされるが、都市化の進展に伴い商家の習慣へと転じた。六のつく日に行われることから、
関西では
六入りとの呼び名もある。”

                   商家(町屋)例
                (ウイキペディアより)

 

“藪入りの日がこの二日となったのは、1月15日(小正月)と7月15日(盆)がそれぞれ重要な祭日であり、
嫁入り先・奉公先での行事を済ませた上で実家でも行事に参加できるようにという意図だったとされる。そのうちに、
地獄で閻魔大王が亡者を責めさいなむことをやめる賽日であるとされるようになり、各地の閻魔堂や十王堂で
開帳が行われ、縁日がたつようになった。” 
子供の頃に、おふくろが お盆の16日は、“地獄の釜も休む”(今日こそは、あくせく働くことをしなくてもいい~)
などといっていたのを覚えています。

 これらの日は、単にお休みとして、実家などに帰るだけではなく、商家の主人は奉公人たちにお仕着せの着物や
履物を与えたり、お小遣い、さらには手土産を持たせて実家へと送り出したそうです。実家の方では両親がこの日を
楽しみに待っていて、親子水入らずで休日を楽しんだのだそです。
また、遠方から出てきたものなど実家へ帰ることができないものには、芝居見物や買い物などをして休日を楽しんだ
そうです。   何だか微笑ましい光景が浮かびます。

 明治維新後は、産業化の進展に伴って労働者の数が増大したため、藪入りはさらに大きな行事となったそうで、
この頃、藪入りの日は浅草などの繁華街は奉公人たちでにぎわい、なかでも活動写真(映画)などはこれによって
大きく発展したとあります。

なぜ “藪入り” というか?については、諸説あり、藪の深い田舎に帰るからという説や、“宿入り”(実家へ帰る)からの
転訛などの説がありました。

         以上ウイキペディアより、つまみ食いしました。

 

 落語“藪入り”から~

 

 

 

 

 

 

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「たわけもの」(Nob)

2015-01-15 | つぶやき

「たわけもの」という言葉は日常生活でよく耳にしますし自身使ったりもします。時代劇などでも、主人が「この、たわけもの」と一喝するシーンをよく見かけます。

 小生はこの「たわけ」の語源に関し全く知りませんでしたし検証することもなく今まで使っていました。殆んどの人はご存知なのでしょうが・・・。

昨日拙宅がある地区の自治会役員会(小生は昨年役員の一角に就任を余儀なくされた)の新年会があり、その席で役員の1人が解説してくれました。

拙宅の周りは、周辺にまだ田んぼ・畑が散在する地区ですが、自宅周辺には5-6姓の同名の苗字の家が沢山あります。その方々のご先祖はお百姓さんで先代が亡くなりその子孫が相続で土地を受け継いだ一族がそこに屋敷を建て同じ苗字の家が並んでいるのです。小生は東京に事務所がある会社に勤務していましたのでここに居を構えて以降も近隣の人たちとの交流が少なく役員会で初めてお会いした人が多かったのですが、役員会では近隣の話をする時は皆さんが苗字だけではなくフル・ネームで呼んでいるのです。小生にはどの人とどの人がどういう姻戚関係にあるのか分からず、「覚えるのが大変ですわ」という話をしたら、役員の一人が同姓の人が多いのは「田分け」の結果で、「たわけもの」の語源は相続で田んぼを分けることからからきているのだと次のような話をしてくれたのです。 

農民が自分の跡をつがせるために、子供に田畑を分け与えるが、子供が二、三人もいると、一人当たりの面積が少なくなり、また田畑をもらった子供たちが自分の子供たちに、その子供が自分の子供に…というように、田畑をどんどん受け継いでいくと、しまいには一人当たりの面積が少なくなり、全員が食べていけなくなる。それで「田分(たわけ)」は、愚か者のする事だというので、阿呆、馬鹿という意味で「たわけもの」と言うようになったのだと解説してくれました。

 その解説を聞きなるほどと感心し、帰宅後インターネットで検索してみました。

「語源由来辞典」によると下記のように纏められていました。

QOT

たわけ者の「たわけ」は「田分け」と書き、子供の人数で田畑を分けると、孫の代ひ孫の代に受けつがれていくうちに、それぞれの面積は狭くなり、少量の収穫しか入らず家系が衰退する。

そのような愚かなことを馬鹿にして「たわけ者」として呼ぶようになったとする説が多い。しかし、「たわけ」という言葉は「ばかげたことをする」「ふざける」などを意味する動詞「戯く(たわく)」の連用形が名詞となった言葉であるため、「田分け」の説は「

戯け」と「田分け」を洒落た俗説で、「戯け者」が語源である。

UNQOT

 

この歳になるまで小生は「たわけ者」の語源を考えることなく、単に「馬鹿者」という意味で使っていました。「知らぬは自分ばかりなり」。恥ずかしい限りです。

昨年暮れにテニス仲間の1人が他界しました。彼の位牌に向かって奥様に代わり捧げました。

 ちあきなおみ 冬隣

 

 <iframe src="//www.youtube.com/embed/L2bAqCV9pEM" frameborder="0" width="420" height="315"></iframe><iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/L2bAqCV9pEM" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

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成人の日  (bon)

2015-01-14 | 日々雑感、散策、旅行

 阪神淡路大震災から20年が過ぎます。 12日、神戸では、復興と共に成長してきた新成人1万人の成人式が
行われたとありました。

 思えば、はるか?昔に成人式を迎えた我が身を振り返り、一瞬その頃の心境などに想いが行きました。
1959年1月15日がその日でした。 大阪市の区役所に、新成人が集合して、式典が催されましたが、何人くらいが
集まったのか? 
どんな話があったのか? などの記憶は全くありません。 ただ、その時、自身が社会的にも成人した
んだ、社会が認める立場になった
のだ・・ というような自覚が湧いてきたように思います。 そして、ケースに入った
印鑑(認印)をもらいましたが、これは今も残っています。 
式の後、友達仲間で、確か、京阪沿線の“成田山大阪別院”に行った記憶があります。

  成人式発祥の地記念碑(埼玉県蕨市)      成田山大阪別院
 (ウイキペディアより)     (成田山HPより)

 

 当時は、学生でしたから大体は大人扱いをされていて、自分の思うように行動できていましたから、20歳になった
からといって
その行動には大した変化はありませんが、意識の中でそのことが認識されたような印象が残っています。 
翌年は、いわゆる
“'60安保”で、御堂筋を編隊を組んで、機動隊と向き合ったことなど、今となっては血気盛んな年頃
だったのですね。

 一昨日からのテレビでは、各地の成人式などの映像が報じられていますが、取材に応じた彼らの言葉から、
当時の自身の意識よりもはるかに大人びているように感じましたが、皆さんはどうでしたでしょうか? 
この成人式もビジネス化して派手さが増しているようにも思いますが、それよりも、若者が都市部に出てしまって、
都市部の新成人は、着実に増加しているようですが、郡部の新成人は、減少しているところが多いとのことです。
 それでなんですが、今年の報道などを見て感ずるのですが、地方での成人式が注目されてきており、福岡県
柳川市では、新成人数名の実行委員会が運営する “柳川市成人式” が今年も開催され、東京など大都市から
この式典に参加する機会を作るなど、地方での活動が活発化しているように感じました。

 横浜市の新成人は、36100人とかで、その式典は横浜アリーナにて午前午後の2回に分けて実施されたそうですが、
午前だけで1万2000人が出席したとか 全国最大だそうです。 千葉県浦安市では、毎年、東京ディズニーランドで
開催され、お馴染みキャラクターのアトラクションで賑わっていたようです。
変わったところでは、この日、新潟燕市では、“熟年成人式” として、80歳(60歳+20歳)の皆さんが楽しそうに
参列してましたし、“1/2成人式” などもあるのだそうです。つまり、10歳式が全国の小学校などで増加しているそうです。
30歳の “三十路式” などもあるようです。

   AKB48グループ新成人たち 
              (YAHOO画像より)

 

 今年、新成人は全国で126万人であったそうで、昨年より5万人多く、21年ぶりにに増加したそうです。
また、成人の日は、1948年の祝日法により制定され、1999年までは、1月15日でしたが、2000年に、
ハッピーマンデー制度が導入されてから1月の第2月曜日と定められたのでした。

 

  当時流行っていたjazz~

 

 

 

 

 

 

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今年の侘助  (bon)

2015-01-12 | 花鳥風月

 9年前に園芸友の会の講師先生から頂いた、10㎝ほどの “白侘助”(椿)は、6号鉢(直径15㎝くらい)に植えて
いますが、今、高さ50㎝、横幅40㎝くらいに成長していて、今年はどういう訳か、たくさん白い花が咲いています。 
例年は、あまり手入れもしないためか、4~5つ程度の花しか付かなかったのですが、小さな鉢植えだからと
思っていました。

   今年の白侘助です                   アップにしたところです。
    

 

 昨年、夏過ぎ頃に、化成肥料や液肥を時々やってみたことが、功を奏したのかもしれません。
 しかし、一般論として、植物に肥料を多くやると、葉ばかりが繁る “栄養成長” (強いて区分すれば、C:炭素分)して、
花や実を疎かにする・・ つまり、子孫を残す必要が無いと考えてしまうのです。 蘭などの花をきれいに咲かせるには、
水やりを控えめにして “いじめ” る方が良いのだと言われます。 これは、“生殖成長”(肥料成分は、N:窒素)と
呼ばれています。

 今年の我が家の侘助を見ると、むしろ肥料のお蔭で、花がたくさん付いたのですから、一般論でいう栄養成長は、
“肥料のやりすぎ” にあたり、我が家のは、平年の肥料が “少なすぎ” であったことになります。 
そういえば、ハナミズキなどでも、肥料を適度に与えないと翌年の花付きが悪いようです。

 

 ところで、この侘助、かって当ブログにも、“侘助”(2013.12.14)、“侘助のおちょぼ口”(2012,2,1)で
記事アップしましたが、ここではもう少しツバキ類について述べてみます。
ネット検索した多くの記事からつまみ食いの形で、以下にまとめてみました。

 ツバキの仲間は、それこそたくさんの種類があって、昔から珍重がられていて栽培が盛んに行われ、風流な名前を
付したり、数えきれないほどの品種があるようです。

 ある販売店のHPには、ツバキ類を分類して、次のように掲示して、それぞれに、たくさんの品種を写真にて
紹介していました。

古典椿 ・侘助椿 ・ヤブ椿 ・雪椿 ・ユキバタ椿 ・香り椿 ・葉変わり椿 ・原種椿 ・錦葉椿 ・しだれ椿 ・雲竜椿 ・外国椿 ・実の多くつく椿 ・サザンカ ・雪椿原種

これらは、ある程度の学術的分類に加えて、趣き や形などから命名されていると思われるものもあります。

 ツバキの仲間は、おおむね次の3系統に分類できるとありました。

  ・ヤブツバキ系:  子房に毛が生えていない  日本原産で ツバキ

  ・サザンカ系:   子房に細かい毛がある

  ・トゥツバキ系:   子房に白く長い毛が密生する 中国原産で、ワビスケ

また、明治43年(1910)に、牧野富太郎博士はワビスケ系の品種郡に対し、東京の栽培品の6品種について
次のとおり発表した とありました。

 ①   数奇屋 、②   初雁、 ③   侘介(白侘助)、 ④   紅侘介、 ⑤   桃色侘介、 ⑥   胡蝶侘介 

  かってのブログでは、ツバキとサザンカの区別について述べましたが、ここでは、ツバキと侘助の違いを述べておきます。

   ヤブツバキ系:葯(雄しべの先端部分)は正常で花粉を付ける。筒咲き

   トゥツバキ系(侘助):葯は退化して花粉を付けない。 猪口咲き

で、我が家 白侘助の写真と、ネット画像のヤブツバキ白を比べて見て下さい。

      ヤブツバキ(白) “一休”
           (ネット画像より)

 

ヤブツバキ(白)も見た感じでは、殆ど侘助みたいですが、よく見ると雄しべの先の黄色い部分(葯)がはっきりと
確認できますね。


 侘助は、秀吉や千利休など当時の茶人に好まれたとあり、(今でも茶花として珍重がられています)
京都、石庭で有名な “竜安寺” や、徳大寺の信長の追善供養に秀吉が建立した“総見院” 境内にその老木
(樹齢400年以上)があります。

    竜安寺の胡蝶侘助
             


           侘助をもう一度~
                  (ネット画像より)


 
 侘助という名前についても、いくつかの伝説があり、いずれも秀吉や利休に関係したお茶どころのものですが、
朝鮮戦役の時に加藤清正が朝鮮より持ち帰り、秀吉に献上したとか、利休の下僕の“侘介”が利休のために育てた・・
などが目立つところです。

 

 さだまさしの曲から
   

 

 

 

 

 

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新年の集まり  (bon)

2015-01-10 | 日々雑感、散策、旅行

 恒例の新年の集まりは、1/8にありました。

 少し早目に家を出て、最寄駅の一つ手前の “桜田門” で下車し、皇居方面とは反対の国会議事堂方面に出ました。
国会議事堂→国交省→外務省→金融庁、文科省など 何の面白味もない霞が関界隈を歩いて、飲み会の会場に
向かうことにしたのです。

 第189通常国会は、1月26日に召集され、6月までの会期に重要法案がどのように処理されるのか? 
今は人影の殆ど見られない 夕方4:30頃の界隈は、各省庁玄関付近に寒風にさらされた守衛たちが見えるだけの
静かな 不気味さを感じながら歩いていました。
わざわざ、師走選挙までして、意気揚々の政府与党が今年、どのように推進して行くのか “強い経済” を造る、
“地方を創成” する・・ など期待通りの成果に結び付けられるのか・・
飛躍の前の静かなタメである・・  そんな思いもチラッと感じながら、会場に足を運びました。

国会議事堂(赤の信号がなかなか青に変わりませんでした。)
            

 

霞が関坂(下り坂の右側に外務省)
                  

 

霞が関ビル(前面には総合庁舎、金融庁、文科省が、右奥(頭が見える)が霞が関ビルです)
                         

  この霞が関ビルの右側に7階建ての新霞が関ビルがありますが(写真には写っていません)、このビルに、
年号が平成に変わるか変わらない頃、職場があり、ここに5年半ほど勤務していました。大企業向けの提案営業を
大々的にやっていたことを楽しく思い出されてきました。

 

 新年集まりは、50数年前の同期入社の同じ技術部門の集まりで、毎年相互の去就や、当時の話題など騒がしい程
活発に話が飛び交うのでした。
久しぶりの人、所要で欠席された人もいますが、肩に力の入らない、ほど良いお酒の力も借りて何とものどかな
雰囲気に包まれてしまうのです。 今回もそうでしたが、話題の中に出てくる事柄、さらには人物に、そうでなければ
思い出すことの無い想い出が、今また蘇り、瞬時にタイムスリップして、まさしく時空を超えた充実した楽しい会合と
なりました。
会がお開きになっても、話題の調子は下火にならず、数寄屋橋方面まで歩いて、寒中にもかかわらず、
大勢で込み合ったビヤホールのお客となり 今少し楽しい話題を重ねるのでした。
 来年もみんな元気で・・・ 

 

懐かしいところで~

 

 

 

 

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傘を売る   (bon)

2015-01-08 | 日々雑感、散策、旅行

 一昨日(1/6)は、二十四節気の “小寒” で、寒に入りました。 
 太平洋側では、それこそ晴れの日が多く、これから立春までが一年でも最も寒い “” となります。 こんな
雨の少ない時期の話題として、相応しいのかどうかわかりませんが、いつものH氏から配信されるメールに面白い
記事がありましたのでご紹介したいと思いました。

 何かしら、昔、子供の頃(終戦直後)傘が無くて、学校にも行きづらかった記憶がありますが、最近では、どこの
家庭にも何本も傘があって、それも大きな傘の他、携帯用の傘なども何本もあって、我が家でも、ついぞ傘のこと
などに目が行かなかったのですが、そういえば、デパートやスーパーなどでもカラフルな傘がたくさん売られて
いるのには気が付いていました。 しかし、気が付いているだけ・・でしたが、この記事を見て、“なるほど” 
最近の流れみたいなことの一面が分かったような気がしました。

 このメーカーは、㈱シューズセレクションで、ブランド名を “ウオーターフロント” といって、そこのHPを開いてみると、
さらに驚きがいっぱいありました。
製品の一部の紹介欄には、「薄い、細い、短い、軽い、和柄、16・24本骨、オートマチック、1枚張り、機能、
トウィーティー、バラエティ、ご当地傘、UV PROTECT、キッズ、ビニール傘
」などの項目があり、それぞれに
何点かの傘が紹介されています。 価格も500円程度から3000円位で、大変お手軽。 
何やら、宣伝しているような感じですが、HPからの印象です。
ちなみに、シューズセレクションのシューズは、靴ではなく、SHU’Sと書かれています。

 機能 (バッグに優しい)                 ご当地傘例(鹿児島:桜島ファイアー) ¥2,000 
        ウオーターフロントHPより)

 

      いつも前置きが長くなりご迷惑をおかけしています。以下に、記事をコピペします。

*********************************

 『晴れの日に、傘を売る。』‐支持率ナンバーワンの傘を生んだ「良品薄利」の経営  
         林 秀信 著   阪急コミュニケーションズ  2014/04 208p 1,500円(税別)

   1.晴れの日でも売れる傘

  2.傘の黒澤プロダクション

   3.唯一の才能、それが「傘づくり」

   4.傘のことだけ考えて生きる

 【要旨】近年、500円の傘といえば、コンビニで売っている使い捨て感覚のビニール傘が思い浮かぶ。ところが
同じ500円でも、品質は数千円級、使い捨て
どころかファッション性にも富んで2本でも3本でも揃えたくなる傘がある。
ブランド名は《waterfront(ウォーターフロント)》。国内洋傘市場の17%を占め、年間1870万本を売り上げる。
本書は、《ウォーターフロント》を世
に送り出している(株)シューズセレクションの社長である著者が、顧客に感動を
与える革命的な傘「スーパーバリュー500」シリーズの開発と販売に至っ
たエピソード、品質へのこだわり、
低価格を維持するためのコスト削減の努
力、経営理念、さらには、そもそも傘づくりに魅せられた少年時代の思い出
から、人生観、そして究極の傘づくりの夢までを綴っている。

  ------------------------------------------------------------

 ●「人類を傘から解放する」という大いなる野望を抱いて

  傘にとりつかれ、ああでもない、こうでもないと、夢中になって傘づくりをしているうちに、わが社の傘は、
おかげさまで日本国内の洋傘市場で17%
のシェアを占めるまでになりました。
 新聞や雑誌などでは、このように「シェア」と表現されますが、僕は、これはお客様の「支持率」だと思っています。
《ウォーターフロント》を「い
いね」と思って買ってくださるということは、その傘を支持してくださるということだからです。
それに「シェアが増えた」ではなく、「支持率が上がっ
た」と言ったほうが、ずっと気持ちがいい。「たくさんのお客様からの
支持」 
ととらえるほうが、断然気分がいいのです。

  傘の年間販売数は、約1億1100万本(2013年)。日本の人口に近い本数が、「毎年」買われていることになります。
僕の傘はその17%ですから、だいた
い1870万本。これは日本一だそうですが、100人いたら83人は
《ウォーターフ
ロント》のことを知らない、ということでもあります。 だから、欲張りかもしれませんが、「もっともっと
支持されたい」 というのが、僕の願いです。

  「いずれ人類を傘から解放する」という大きな野望もあります。朝出かけるとき、ほとんどの人が天気予報を見て、
「今日は雨が降らないか」をチェッ
クしているのではないでしょうか。僕は、その必要がなくなるような傘をめざして
いるのです。雨が降るかどうかをいちいち気にしない、「万年筆くら
いの大きさ」で、しまうときは手で畳まなくても
自然に元の形になる「折り
畳まない折り畳み傘」が、僕の目標です。

  ●「タクシーのワンメーターより安くしたい」で決まった500円

 「より品質の良いものを、できるだけ安く」――そのような信念のもとに研究開発を始め、改良を重ねて誕生したのが、
「スーパーバリュー500」シリー
ズです。何十色もあるカラフルな500円の折り畳み傘で、《ウォーターフロント》を
支える大黒柱に成長しました。
 薄さ2.5cmの「ポケフラット」、直径3.5cmという超スリムな「ぺん細」、5段折でスマートフォンくらいにまで
小さくなった「スーパーポケミニ」な
どのラインナップがあります。

  この「スーパーバリュー500」を世に出したのは、いまから10年以上前の2000年。おかげさまで、なかには
1アイテムで月間売上30万本という大ヒッ
ト商品も生まれました(ポケフラット)。できるだけ手ごろな値段でいい傘
買えるようにしたい、という僕の夢が、傘づくりを始めてから14年後に、
ようやく実現したのです。
 どうして500円なのかというと、当時のタクシーのワンメーターが600円くらいだったので、それより安くしたいと
いう思いからです。つまり、値段が
先に決まっていたのです。

  初めて発売されたときは、「価格破壊だ」と言う人もいました。それまでの折り畳み傘は、だいたい3000円くらい
のものが多かったので、500円という
価格はたしかに衝撃的だったでしょう。でも僕は、これは「破壊」ではなく、
「新たな価値の創造」だと思っています。「500円で、ここまでいいものができますよ」ということを、たくさんの人に
見てもらいたかった。
 たとえばメッキ加工なども、定価1万円の傘と同じ工程でやっていますので、剥げたり、錆びたりしにくい。
そういう傘をつくっていけば、「安くたっ
て、いいものはいい」ということが、お客様にもわかっていただけるでしょう。
 ですから、僕がいちばんうれしいのは、500円の《ウォーターフロント》を5年も6年も使っていただいている、
というお話をうかがったときです。

 ●カラフルさで顧客を引きつけ、店全体の売上アップに貢献
 シューズセレクションの傘は、値段だけでなく、カラフルな品ぞろえも大きな特徴です。店頭にずらりと並んだ
色とりどりの傘を見て、雨の日でもな
いのに、つい買ってしまった、というお客様のお話を聞くと、とてもうれしくなります。
 こうしたお客様の行動パターンを生み出すために、小売店に対するアプローチとして、他のメーカーとは違った
納入方式をとっています。それが「アソー
ト方式(多種類セット納入)」で、これは「スーパーバリュー500」を売り出すに
あたって、いちばん効果的だと考えたやり方です。

  たとえば、12色セットで計36本のユニットでも、単純に1色3本ずつ、ということはありません。ユニットとしての
色のバランスを考えて組み合わせ
ているのです。通常、傘は紺か黒、あるいはビニールというのが定番ですから、
売場は地味になりがちです。しかし、パステルカラーをベースにした
《ウォーターフロント》の売場はとてもカラフルで、
それによってお客様を
引きつけることができ、「選ぶ楽しさ」を提供することにもつながります。
 そのため、ひとつのアイテムに何十色・柄というバリエーションを用意しています。「ポケフラット」で言うと、
全部で192色・柄あります(2014年
2月現在)。だから、「何色も持っています」と言ってくださるお客様も多い。

  色の組み合わせは、当初から当社で決めさせていただいています。というのも、小売店が色を決めると、
どうしても売れる色ばかり選んでしまいがち
だからです。
 たとえば、都心の駅前のお店はサラリーマンのお客様が多いので、黒や紺など沈んだ色がよく出ます。
だからといって、売場も暗い色ばかりだと、購買
意欲がそそられません。それでは、急に雨が降ってきたときなど、
必要に迫
られたときしか売れなくなってしまいます。
 僕の考えたアソート販売の特徴は、カラフルさにあります。カラフルな傘がたくさん並んでいると、見ているだけで
楽しくなる。そうすると、あまり
売れなかった色も売れるようになって、全体の売上がアップします。

 ●思いもよらない用途をお客様自身が考えてくれる
 僕の心の中には、5、6歳の子供のころに見た、ひとつの懐かしい情景があります。当時の僕は、時間さえあれば、
番傘をつくっている近所の職人さ
んの家に勝手にあがり込んで、傘がつくられていく様子を見ていました。水をはじくよう
油が塗られた紙を、職人さんが骨組みだけの番傘に1枚1枚貼っ
ていくさまを、飽きることなく、いつまでも眺めて
いたものです。   
「傘ってきれいだな」
 初めはものめずらしさからだったと思いますが、幼かった僕は、だんだん傘に惹かれていきました。長じてのち、
上京してさまざまな仕事をやってい
た僕が、最終的に40歳で傘をつくるようになったのは、幼いころのこんな原風景が
あったからだと思います。
 気がつけば、傘づくりを始めて30年近く経ってしまいました。ほかのことはまるでいけませんが、傘に関する
アイデアだけは次々とあふれてくるのです。

  傘をつくり始めたときから、僕は「雨が降らなくても傘は売れる」と思ってきました。だから、「晴れの日だって
売れる」 というのがわが社の傘のキャッチ
コピーです。多くの企業が「いまは不景気だからものが売れない」と
言いま
すが、不景気だからこそ、安くていいものを探している人は多いでしょう。傘だって新しい価値を生み出せる
はずです。
 たとえば、正月のお年賀として。また、バレンタインデーに、500円のチョコと500円の傘をセットで。ほかにも
結婚式の引き出物として名前入りの傘を
用意されたお客様もいますし、モデルハウスの内覧に訪れたお客様への
ノベ
ルティグッズとして注文してくださったハウスメーカーもありました。
 豊富なカラーとデザイン、低価格で高品質だからこそ、さまざまな使い方ができるのが、シューズセレクションの傘
なのです。だから、僕たちが思い
もよらなかった用途を、お客様自身が考えてくださる。本当に勉強になります。

  このように、生活のなかでも可能性はどんどん広がっていくわけですから、天気は関係ありません。晴れていても
傘は売れるのです。

 

コメント: 500円のビニール傘は、どう考えてもプレゼント商品にはならないが、同じ500円の傘でも「ポケフラット」や
「スーパーポケミニ」なら結婚
式の引き出物にしても恥ずかしくない。品質やデザインの違いだけの問題ではない。
仮に、「ポケフラット」と全く同じ傘を、売れ筋だからという理由
で黒と紺しか作っていなかったとしたら、誰も
結婚式の引き出物にしようと
は思わないだろう。《ウォーターフロント》の傘の価値は、売場まで含めたトータルな
マーケティング戦略が生み出しているのだと思う。まさに「新し
い価値の創造」である。
※文中の小見出しは書籍からの引用ではなく、情報工場が独自に作成しております。
  

                                    Copyright:株式会社情報工場

 

 

 

 

 

 

 

 

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高尾山詣2015  (bon)

2015-01-06 | 日々雑感、散策、旅行

 昨日、5日(月)、すでに7~8年恒例になりました、高尾山に初参りしてきました。
良いお天気恵まれ、日中は10℃を超える暖かい春のような日差しの中、楽しく散策してきました。  
月曜日でもあり、例年よりも
薬王院参りの人出は少なく、参道にて順番待ちすることもなくスイスイと進めましたし、
落ち着いた感じで良かったです。

学生の部活初訓練の山登りや、初出勤の会社ぐるみの参詣などが目につきました。

 山頂からの、いつもの角度に富士山と大山を望むことが出来ましたが、横浜、江の島方面は春霞?のようで、
遠望が利かず残念でした。 

山頂から、1時間弱の一丁平までの山道に出る “シモバシラ”(氷の華) を求めて登るのも恒例になっていて、
“今年はどうかな?” と
いいつつ、キョロキョロしながらの散策も脚にほど良い刺激を感じ晴れやかな気分になりました。 
シモバシラは、2つ、3つほど
見つけましたが、やや斜面の上の方でしたので写真には撮れませんでした。 
 山頂までは、多くの人達で賑わいますが、ここから先のこのシモバシラも含めて人影はぐっと少なくなり、
歩くうち、温まった身体に、
頬に当たる冷ややかな風がむしろ心地良さを感じるのでした。

                 薬王院本殿への階段
                      

 

 高尾山頂より、富士山 と 大山 (見える方角は左右逆で、15~20°くらいです。)
    

 

 高尾山頂駅                            2013年のシモバシラ
    

 

 下山して、いつもは最寄駅近くでお茶するのですが、今回は、送迎バスにて10分ほどの温泉に向かいました。
疲れた身体に温泉はとても気持ちが良く、湯上りに一杯もあり、ひと時今年の抱負など語りながら、満足して
お開きとなりました。

 今年も、通常モードが始まりました。

 

 

 

 

 

 

 

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円周率  (bon)

2015-01-04 | 日々雑感、散策、旅行

 突然ですが・・
昨年暮れ、昔の職場仲間の忘年会の後、数人でお茶しながらの話題の一つにひょんなことから掲題の話が出ました。 
飲み会の後の話としては、いささかかたぐるしい話題で、一体どのような集団? と思われるかもしれません。
しかも、すでに年金受給者の語るような代物ではないのですけれども・・。

 しかし、ちょっと立ち止まってみると、この円周率というのは、誠に奇妙であり、優れものというか、ロマンに満ちた
係数なのですね。 
 円周率とは何か? それは、“円の周長の直径に対する比率として定義される数学定数である” と定義されて
います。 つまり、円の半径と円周長とを関係付ける係数なのですね。

     円周率とは (半径1の円が1周する様子)
           (ネットが画像より)
 

 半径rの円の円周Lは、L=2πr で表され、すべての円は、相似形ですから、係数πは、すべての円に共通です。
また、円の面積Aは、A=πr²、球の体積は、V=4/3πr³、表面積は、S=4πr²です。 何やら、中学生に戻った
みたいですね。

          昔、円周の近似値の求め方例(円に内接する正多角形の辺の長さの和)
                (ネットより) 


 この “π” は、無理数なのですね。 無理数とは、つまり2つの整数の商(分数)では表すことができない数で、
小数展開は循環しない とあります。 つまり、小数点以下の数字は、決して循環することなく、永遠に続くのです。
最近のコンピュータでは、12兆桁あたりまで計算されているそうです。 ウイキペディアによれば、2000年頃に
発表された5兆桁までの計算で、各数字の出現回数が発表された結果は、

       0:4999億9897万6328回

       1:4999億9996万6055回

       2:5000億0070万5108回

       3:5000億0015万1332回

       4:5000億0026万8680回

       5:4999億9949万4448回

       6:4999億9893万6471回

       7:5000億0000万4756回

       8:5000億0121万8003回

       9:5000億0027万8819回

だそうで、どの数字も大体同じくらいの出現回数ですが、“8” が最も多く、“6” が最も少ないですね。
また、小数点以下762桁目から “9” が6個続く、999999があることや、2009年には筑波大学で、
“0” が12個続くことが発表され、5億何万桁目から “123456789” が最初に並ぶ・・など、いろいろと面白い
内容が発表さているのです。

 

 しかし、不思議というか、面白いというか、円という最も基本的なありふれた図形の中に、このような奇妙な、
不可解な数字が潜んでいるのですね。
何やら遠大な宇宙を感じさせる自然の贈り物のように感じられます。

  ついでに、この円周率π=3.141592・・ を暗記している人がいるのです。とてつもない桁(何万桁)を暗記して
いる人もいるとか・・。 私は、高校の頃 数学の先生から面白半分に伝授された31桁を今でも覚えているのですが、
これをもう少し延長した56桁の覚え方がネットにありましたので、以下に引用します。
しかし、これを覚えたからといって、何かの役に立つ保証は全くありません。

 

産医師異国に向こう産後厄なく産婦みやしろに虫さんざん闇に鳴くころにや弥生も末の七日あけむつのころ
草の戸をくぐるに皆いつかはと小屋に送る

3.1 4 159 2 6 5   3 5 897 9 3 2 3 8 4 6 2 64 3   3  832 7 9 5 0 2 8 8 41  9   7   1   6        
93      9 9    37 5       105 8 2 09

 

 ところで、昨夜(4日の未明)には、しぶんぎ座流星群の極大時でしたが、月明かりのために殆ど肉眼観察は
無理のようでした。 私は、未明にベランダに出てみましたが、寒さに震えるばかりで、木星らしい輝きを仰いだ
だけで早々に引き揚げました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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