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蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

時代は変わった!(4)―大学

2025-05-24 | 日々雑感、散策、旅行

 普段はほとんど関心すらない大学ですが、少し前あたりから新聞などの情報が通り
過ぎる時、そういえば昔とはだいぶ変わっているな! と感じることがあります。 
もちろん教育内容など、大学そのものの中身ではなく、流れというかトレンドみたいな
外回りの変化なんですが、一般の大学ももちろんですが、女子大学についても大きく
様変わりして来ていると思われるのです。

 そんな感じから、キチっとしたデータ分析などではなく感覚的な印象を列記してみました。

 

 日本における大学は、明治10年(1877年)創立の東京帝国大学(東京大学)以降明治
30年には京都帝国大学が創立され、その後日本の各地に国立大学が設置されるほか、
明治初期には、これらの官立学校の他、私塾の伝統から生まれた福沢諭吉の慶應義塾や
新島襄の同志社、法律に特化した専門分野に、専修学校、明治法律学校、イギリス法律
学校他が次々と登場しましたが、大正8年(1919年)施行の大学令により、一斉にそれ
ぞれ「大学」として認定されたのでした。 専修学校は専修大学に、明治法律学校は明治
大学、イギリス法律学校は中央大学さらには、法政、日大、早稲田、同志社など全22校が
認可されています。

 現在日本に大学はいくつあるか? については次のグラフにありますように、この
50年間で大学数、学生数とも約2倍に増加しているのですね。

      大学の数、学生数の推移(1971年~2021年)
      (教育業界ニュースより)

 最近のデータによれば、2024年で、大学数は813校(国立86、公立103、私立624)と
あります。また、学生数については、下記のグラフのように、18才人口は、1992年の
205万人をピークに、急激に減少傾向にあるものの、進学率が上昇しているため2017 年
まで増加し、63万人をピークにその後減少傾向になると予測されています。

     学生数の推移 (1980年~2040年)      
                             (文科省より)

 さらに、今年(2025年)1月時点では、18歳人口は109万人にまで減少し2040年には
74万人になると推定されています。昨年(24年)63万人だった大学進学者は40年には
46万人まで減ると推計されています。昨年の大学数813校のままだとすれば、定員の3割
近くが埋まらなくなる計算となります。

 文科省の中央教育審議会(中教審)の大学のあり方答申(2025.2.21)では、大学の
統廃合や定員削減を進める必要があるとしています。日本私立学校振興事業団の報告では、
24年度の募集人員に入学者数が届かなかった(定員割れ)私立大の割合は過去最悪の
59%に達したとあります。 大学や短大を運営する学校法人の2割が経営困難に陥ると
見られ、具体的な方策をこの夏ごろまでに策定するとあります。(文科省)

 学生募集に苦しむ私立大が地元自治体に公立化を要請する事例が起こっているという。
学生の減少はすなわち支援金支給の額の減少につながり、自治体からの援助を求めている
わけですが、自治体側からすれば、大学の存続で若者の流出や地域経済の衰退を食い
止められるとの期待がある。また、公立化以外の道を模索する動きもある。例えば、
市や県、企業と連携した人材育成を目指すといった形で・・。

 

 このような状況は、女子大についてもより深刻のようです。1875年にはお茶の水東京
女子師範学校が開校し、私立では、1901年の日本女子大学があります。その後の女子大は、
人文、家政系が中心で開校されて来た傾向にありますが、女性のキャリアの選択肢が
広がるにつれ、女子大の存在感が薄れる傾向となってきているようです。また、共学
志望の高まりに加えて総合大学に「女子枠」を設置して取り込みを図る大学にも押され
気味となり、逆に女子大の看板を下ろして男子を呼び込んだり、理系学部を新設して
生き残りを図る動きが加速しているという。

        女子大数の推移(1948年~2023年)        
                       (安東由則教授論文より)

 昨年度(2024年)の女子大数は71校で、1998年度の98校から男女共学への転換で2割
減となっている。今年も5校が男子を受け入れるそうです。

 一方、女子の大学進学率が上昇し、男女共学の総合大学に目を広げる女子が増え、
総合大学にも「女子枠」を設けて女子の割合が増えているそうです。早稲田では、90年代
初め女子の割合が2割程度であったのが現在は4割にまで拡大しており、東大でも女子が
増えているそうです。

 これまでの女子大は、社会の要請を受けて理系学部の新設や、デジタル、環境などの
学部を新設して女子学生を呼び込もうとしています。 '22年には奈良女子大に、‘24年
にはお茶の水女子大に工学部が設置されています。この傾向は、今年安田女子大は理工
学部、大妻女子大はデータサイエンス学部、来年には昭和女子大に総合情報学部を計画
するなど他の女子大も建築デザイン学部など目白押しです。

 

 以上見てきましたように、今大学は苦境にあり、今後を見通せば大学の適正数の見直し
や学部の編成見直しなど必然の感じもします。また、これら少子化の影響は比較的小さい
と思われる国立大学も、2004年の国立大学法人化以降、支援予算額が減少され、より
自立の道が求められてきましたが、その経営においては、外部資金の調達や企業との
共同研究等においても、時代の流れに沿う研究などは効果的であるかもしれないが、
基礎研究等すぐには事業化に向かない研究は将来的に重要であっても取り組み難い実態
があるのですね。

               

 一方では、通信制のマンモス大学「ZEN大学」が、今春開学しています。入学定員は
3500人に上るとあります。学校法人「日本財団ドワンゴ学園」が運営するすべてオン
ライン(インターネット)で単位取得できるのだそうです。授業料は年38万円で国立大
標準額約54万円より3割安く「経済的な理由や地域的な理由で、『学びたいのに学べない』
学生を受け入れたい」としています。

 通信制は、1947年に学校教育法によって制度化されて、法政大、慶応大など6校が
開校していますが、現在では50校に及ぶそうです。当初は、郵送テキスト形式が主流
だった通信制も、その後テレビによる放送大学へ、現在はインターネットによりオン
ライン授業だけで卒業が出来るのだそうです。

 通信制といえば、学生は働きながら学ぶ社会人が主体だったけれども、ZEN大学への
出願者はその64%が高校3年の「現役生」だそうです。

 

 数年前に、コロナ禍で、オンライン形式が見直されたこともあり、今やオンラインは
定着しているかに見えますが、果たして大学をオンラインだけで卒業して、人格形成や
人間コミュニケーションなどリアル学生生活で得られる部分は欠落してしまうのでは
ないかと懸念されるところではあります。

               

 以上、極めて上滑りの感が否めませんが、この50年を見ても大学周りの状況は大きく
変化してきていることが分かりました。時代が進むにつれて物事には「効率化」が求め
られますが、本当にこれだけが重要であるのかどうか、疑問に思えるところが多くある
のです。古い体質が抜け切れていないのかもしれませんが。

 私らの頃の大学の授業料は、年9000円でしたね。それを半期ごとに納める式でした。
もっとも、新卒の初任給も2万円弱が相場でしたから・・時代の比較にはなりえませんが・・。

 

 

 

 

嗚呼玉杯に花うけて

 

 

 

 

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ヒバリ   ⁻

2025-05-20 | 日々雑感、散策、旅行

 先週 土曜日(5/17)の読売新聞地域ページの「動物日記」に『ヒバリ』(日本野鳥の会
埼玉、海老原美夫氏)が取り上げられていたのを見て、ハッと昔の懐かしい光景にスリッ
プしました。小学校の頃、それも1年生ごろですから大昔に奈良県(田原本)に疎開して
いた頃を想い出しました。
   5月頃の暖かい日の広い田畑のあるそんな風景に、空高いところでヒバリがせわしなく
鳴いている‥まるでカンヴァスにかかれた絵のような光景が目に浮かんだのです。無邪気な
子供は、平和でのんびりしていました。

 それほど鮮明ではなく、ただそんな風な景色が思い浮かんだ迄ですが、終戦後、小学
2年生の3学期に、大阪に戻って来て南区の小学校に転入したころは、市内の真ん中でした
が、そこでもヒバリが空高く鳴いていたかどうかは覚えていないのです。

          (CANON野鳥写真図鑑より)

 ヒバリをネット(ウイキ)や図鑑「日本の野鳥」(山と渓谷社、1988.5.1第4冊)で
見ますと、『全長17cm。全身茶色で、頭には小さな冠羽があります。空中でさえずる
他に、牧柵、石など周辺より少し高い場所に止まって、よくさえずります。日本全国に
分布していて、繁殖もしますが、北海道では夏鳥です。河川敷や野原のひろいところで、
太陽にとどけとばかり高く高く、鳴きながら舞いあがり、はばたくヒバリ。』

 続いて『ヒバリは朝を象徴する鳥であり、西洋では、その歌声は清浄な愛をあらわす
とされ、夜の愛をうたうナイチンゲールと対をなす鳥です。イギリスには「子ヒツジと
共に寝てヒバリと共に起きる」ということわざがあります。』いいですね~。

 ここで、ナイチンゲールとは鳥のことで、和名では「サヨナキドリ」(小夜啼鳥)という
そうです。夜に美しくさえずる鳥を指しているとか。「西洋のウグイス」とも・・。

ナイチンゲール(Nightingale)は、night in galeとなれば、「強風の夜」の意です。 

 ヒバリは、漢字で 雲雀 ですが、他にもいろいろな呼び方があるとあります。日晴り、
告天子(こうてんし)、天雀、姫雛鳥など。英語では、larkやskylark・・お馴染み?

         (野鳥フォトアルバムより)

 子どもの頃に聞いた話を想い出しました。なんでも、ヒバリは利口で、空から地上に
降りてくるときは、巣の少し離れたところに降りて、そこから歩いて巣に向かう・・
巣を見つけられないために。ところが、どこか抜けていて、飛び立つ時は、巣から直接
出るので、巣のありかがはっきりとわかる・・。そんな話が、ネットのどこかに載って
いるか調べてみましたが見つけることは出来ませんでした。本当のことなんでしょうか??

                 

 ヒバリは、スズメ目、ヒバリ科の鳥で、大きさなどは上述の通りですが、歩き方に
特徴があるとあります。小鳥の多くは、ピョンピョンとホッピングしますが。ヒバリは、
脚を交互に出しながら歩くウオーキングなんだそうです。セキレイ科とムクドリ科の鳥も
ウオーキングなんだそうです。チドリは、ウオーキングですが後ろ足を前足に交差する
ように歩く
「チドリ足」で、カラスは、ウオーキングもホッピングもどちらもするん
ですね。

                 

 すぐに横道にそれてしまいますが、このヒバリの鳴き声を、民話ではお天道様に金を
貸したので、舞い上がって催促しているというのです。 『日一歩、利トル、利トル』と・・。
とてもそのようには聞こえてきませんが・・。

 

 

 

 

鳴き声をたっぷりとどうぞ・・!

【解説付き】ヒバリの鳴き声(さえずり・地鳴き)

 

 

 

 

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浅草三社祭‘25  ⁻

2025-05-18 | 日々雑感、散策、旅行

 東京の初夏の風物詩の一つ、浅草三社祭は5月16~18日に行われます。今年は昨日
17日(土)が雨に降られていま一つ盛り上がりに欠けていましたが、中止にならず
神輿を担いで練り歩き、沿道には傘をさした観光客らが大勢見物していたようです。
過去10年でも22年23年に雨だった以外は大半良いお天気で大体25℃前後だったよう
ですが、今日の最終日(5/18)は28℃と真夏日近くになると予想されています。

       雨の三社祭(17日)
        (共同通信より)

 私が三社祭に行ったのはもう30年も前になりますが、その日は大変暑い日でとに
かく人がいっぱいで、お茶に入るのも、お昼をするのにもどこもいっぱいで、よう
やく
店内に入れても、注文のものが目の前に届くまでにずいぶん時間がかかった記憶
あります。お店の人も、神輿担ぎに出ているとか、そんな混雑状態でも誰からも苦情
などはなく、楽しい活気に満ちたお祭りだった印象でした。

 三社祭は、勇壮な神輿の渡御のようなイメージでしたが、初日の大行列でのサギ踊り
や芸妓連の手古舞さらには「びんざさら舞」の奉納など結構楽しそうで賑わうのですね。

   シラサギの舞          びんざさら舞
    
            (共に東京新聞より)

 三社祭というのは、浅草神社が祀る祭神が3柱あるからで、その神様たちは、浅草寺の
創建に貢献した土師真中知(はじのまなかち)、檜前浜成(ひのくまはまなり)、檜前
武成(ひのくまたけなり)の3人で「三社様」と呼び、浅草神社の大例祭です。
 浅草神社は、浅草寺に向かって右横にあります。

 11年前に、高校同期の「同窓会東京開催」の時、浅草寺を見学しましたが、時期的に
12日でしたから、その時のバスガイドさんからもこの「浅草三社祭」の紹介があり、
三社様の謂れなども勉強したのでした。

                

 拙ブログで、三社祭と検索してみましたら、なんと5つの記事がヒットしました。
古い記事順に、2013.3.19の「スカイツリーと浅草界隈」と題して、翌年5月に高校
同期の「同窓会東京開催」で懇親会(お台場のホテル日航)をした翌日観光コースの
下見として、浅草寺近くのお昼処の予約やバス駐車場の確認などを済ませた記事に
三社祭が少し取上げていたこと、そしてその翌年 2014.5.17には「浅草三社祭」と題
して、同窓会東京開催に関連付けて日程がすぐ近いところから三社祭を取上げていま
した。

 また、「浅草観音祭」(‘15.3.15)の浅草寺の観音様のお祭りの中でもふれていました。
そして、拙ブログ’17.5.22の「スペースガード」もヒットしたのですが内容的には、浅草、
三社祭とは無関係な記事でしたが、恐らく直近に三社祭があったことに触れていたのか
と思います。
 で、ここでの記事は、スペースガード(隕石などから地球を守る)に関するコン
ファレンスを取上げていますが、その会場がなんと、先(この5/11)に実施された、
日本理化学協会100周年記念式典と同じ会場で、記事に載せてある会場写真は、まさ
しく先日私が着席していた席が、演壇のすぐ前だったことから、今また想い出された
ということなんですね。

      日本科学未来館ホール(「スペースガード」コンファレンス)
       (読売オンラインより)

 

 拙ブログにはもう一つヒットした記事がありました。‘22.4.10「江戸の治水」です。
浅草三社祭とは無関係ながらも、浅草がその中心にありその昔の吉原遊郭、そして
それの移転させた理由や墨田堤の桜、さらには現在の六区の前身である興行地を集中
的に設置したことによる地盤固めの効果を得たことなどが書かれていました。

 

 三社祭から、いろんなことが想い出されてひと時タイムスリップしてしまいましたが、
今日はお天気も晴れて、盛り上がる最終日となることでしょう。

 

 

初日のyoutube動画です。

浅草三社祭はじまる!伝統の大行列に外国人観光客釘付け!浅草寺 浅草神社 白鷺の舞 Tokyo,Sensoji Temple. Asakusa Sanja Matsuri Festival 2025

 

 

 

 

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次世代コンクリート    ⁻ 

2025-05-16 | 日々雑感、散策、旅行

 えッ、と意表を突かれた様な感じがしないでもないですが、コンクリートなんですね。 
コンクリートは、はるか昔 産業革命期から発展して来た建設における基盤技術で、今日
でもコンクリートのない社会は考えられない。 そんなコンクリートですが、近年材料と
なる「良質の砂」や「セメント」は、資源不足や地球温暖化といった課題が顕在化して
おり、これら二つの材料を使わない「次世代コンクリート」を作る研究が進められている
のです。


 手元にある会報に「次世代コンクリートの開発について」(酒井雄也氏、東京大学生産
技術研究所准教授)の記事に目が留まり、普段あまり陽があたらなかったところに新しい
目が向けられていて、地味な分野ですが大事な基盤ですので、概要ですがここに取り上げて
みました。 
 これまで見過ごしていましたが、昨年(2024年)の5月(8日)の読売新聞オンライン
記事にも取り上げられていました。

                

 コンクリートは、セメントと水を混ぜた「セメントペースト」を接着材として、砂、
砂利を一体化した建設材料で、コンクリートは水の次に大量に使われている物質といわれ、
世界市場は1兆ドルにも及んでいるそうです。

 体積的に見ればコンクリートは、砂・砂利が7~8割を占め、セメントの量は僅か1~2割
程度ですが、このセメントを製造する過程で石灰石を1450℃という高温で焼くため、CO₂が
発生し、全世界のCO₂排出量の8%に相当するとか、地球温暖化防止の観点から今日的
課題となっているのです。
 さらに、環境保護の視点から砂採取が制限され、世界的な砂不足になっているという。 
また、廃棄されたコンクリートの瓦礫は、せいぜい道路建設時に砕いた瓦礫をアスファルト
の下に敷く程度の利用で、循環利用が出来ていない などの課題が顕著になってきている
のですね。

                 

 このような問題から、次世代コンクリートの開発が進められているのです。 もちろん、
セメントや砂などとは違った素材(代替材料)によるコンクリート(成形体)の開発が
主眼ではありますが、これまで長い期間使用されてきたコンクリートは、材料の採掘、
運搬、製造における物流ネットワークは最適化されているうえ、設計、施工方法も確立
されており、新素材の開発においては、これらの既存システムをも十分考慮する必要に
あるのですね。

 

 このような状況の中で、会報記事では、新しい材料として4つの方法が示されていました。
すなわち、

 ①圧縮成形コンクリート これは材料そのものは同じですが、コンクリート瓦礫を粉砕
してその粉を常温で圧縮成形する方法です。つまり再生するのですね。セメントと水の
硬化物は、低圧力、常温で塑性流動する性質を利用する。
 ②植物性コンクリート 驚きますが、コンクリート瓦礫を粉砕して廃木材の粉体を
混合し、加熱圧縮成形して成形体を製造するのだそうです。 200℃程度に加熱すると
木粉が軟化し、これを加圧して隙間を充填することで硬化体が得られる。この方法は、
原料の混合割合によって性質が変化し、強度を変えることができるが、耐水性が課題
として残る。 原料の廃木材に代えて、植物一般が利用可能であるほか、植物が接着剤
として作用することから瓦礫の粉体も様々な材料に置き換えが可能である。

        植物性コンクリート(上段:廃木材と瓦礫、下段:製造した形成体)
        (会報より)

 ③廃棄食材を原料とする素材  これは食材が原料そのもので、その食材を粉体にして、
加熱しながら圧縮することで成形体を作成するのです。 食材中の糖分の融点近くまで
加熱し、圧縮することで糖分が流動して隙間を埋め、食物繊維が補強材として作用し、
高い強度が得られる。 原料によって強度は異なるが、課題は耐水性、耐火性であり改良が
進められている。 大阪万博のギャラリーの天井材としても利用されているようです。 

        廃棄食材から製造(左から、キャベツ、伊予柑の皮、タマネギの皮)
         (会報より)


 ④砂の直接接着 これも驚きですが、砂(シリカ)とエタノールと触媒(アルカリ金属)
を混合して加熱して、液体状の有機ケイ素原料にした後に砂に戻すことで、砂を砂で
接着して硬化体を得る方法です。 基本的な加熱温度は240℃としているが、最近では
110℃での加熱で硬化体を製造する方法も検討されているという。 この110℃とは、月面の
昼間温度であり、加熱装置が不要であるためなのだそうです。つまり、将来月面での
建設材料が得られることを想定しているのですね。また、この方法は「生コン」への
可能性も期待でき、現在建設現場で流し入れるような場合にも適用されるでしょう。

 

 専門用語を極力使わないで概要を紹介しましたので、分かりずらいところが多々あった
かもしれませんが、身近にどこにでもあるコンクリートが気が付けば、セメントと砂から
ではないものが出回っている時代が来るかもしれないのですね。

 

 

 

youtube動画に、講義のようなのがありましたので、興味のある方はどうぞ・・

セメント - Climate Tech Day 2023

 

 

 

 

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38ウエブ May ’25    

2025-05-14 | 日々雑感、散策、旅行

   -定例になっているオンラインミーティングは、5/12(月)夜8時から始まりました。
皆さん少し前から開始されていたようで、私が入室した時には、既に皆さんお揃いでした。

    このグループは、入社同期の皆さんで構成され、昨年の「入社60年記念会」を控えた
ころには、大勢の参加者で賑わいましたが、最近では10人前後が定常のようになって
います。 

            今回のメンバー
          

 私が入室した時、たまたま、話しが途切れた感じとなっていましたので、個人的な
嬉しいことがあった・・と切り出し、先(5/11)の日本理化学協会100周年記念式典に
出席して、母校(高校)に感謝状が送られた顛末などを報告のような形でお話しました。

 皆さんの頭の中には、その昔の高校時代の思い出がよみがえって来たようで、その後
しばらくは高校時代、当時のあれこれが展開されました。 私の母校は、女学校がその前
進ですので、1928年に新制高校となり男女共学が奨励されたことに関し、その頃の思い出
話が懐かしく語られ始めたのでした。

 私の高校では、360人/学年 で男女はほぼ半数の割合でしたから、どの高校でもそうだ
と思い込んでいましたが、今回皆さんの高校時代の男女の比率みたいな話題に進み、
例えば茨城では、学年に女子は10人ほどしかいなかったとか、栃木、長野などでもそんな
感じで、女子は1割程度だったようです。東京の府中でも女子が1/4程度だったとか・・。
皆さん、母体が旧制中学だったのかもしれないですね。女子高は結構残っていたとか・・。

 大阪などでは、新制高校が誕生する時、近隣の旧制中学校と女学校が、半数づつ交流
していたので、全国でもそうかと思っていましたが違っていました。

                

 最近の高校授業料無償化についての話題もありました。 私立の授業料バリアーが
なくなり、公立高校への希望者が減少し、定員割れを起こしている‥とくに大阪など、
早期から無償化を実施していたので、今年度公立高校定員割れの増加が顕著であった
とか。 ごく最近、このような状況を受けて、公立高校の併願を認める制度改革意見が
あるようです。

 

 上述のような高等学校の話がひと時続いた後、大学から企業等への就職時の、学生や
大学側の見方や方針がどのようであったかなどに話題が発展したのでした。

 やはり、時代の流れの中で製造、流通、金融・・などなど、その時期の人気企業に
応募が集まる傾向にあるようですが、不況時には安定した公務員などもターゲットに
なっていたのかもしれません。今回集まっているメンバーはみんな技術系というか昔で
いえば「理科系」ですから、皆さん希望は叶っていたのでしょう。

 皆さんどうしてこの会社を選んだのですか? みたいな質問が誰からか出て、地味だ
けれども規模が大きく面白そうだからとか、とても難しいと聞いていたので、挑戦した・・
など、ピリットした回答はありませんでしたが、世間でいうところの同期間のライバル
意識みたいなところはあまりなかったような気がする‥のは異口同音の思いで、企業の中
では珍しい部類に入るかもしれませんね。逆に言えば、のんびりとして競争社会には
相応しくない‥そんな感じなのかもしれません。

                

 そんな話も、遠い昔の物語の一片でしかなく、現状の激動時代にあって私たちの会社は
どういう方向に進めばいいか、具体的なところなどは皆目知る由もありませんが、やはり
稼ぐ相手は、もはや国内ではなく世界ではないか‥そういう方向に会社をかじ取りして
行くことが望ましいのではないか? など外野筋から好きなことを言っているうちに、
21時が回り、そろそろお開きとなりました。

                

 前回、最近胃もたれのような症状があり、すい臓がんの疑いがあると言われた御仁は、
幸い精密検査の結果異常なしとのうれしい報告もあり、明るくお別れとなりました。

 

 

 

森田公一とトップギャラン 青春時代

 

 

 

 

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母校が感謝状を受ける   

2025-05-12 | 日々雑感、散策、旅行

 昨日(5/11)の日曜日、東京お台場の日本科学未来館、未来ホールにおいて、日本理化学
協会 創立100周年記念式典が文部科学省学術政策局長はじめ200名を超える列席者のもと
挙行され出席して来ました。 式典は全員起立により、開式の辞に続いて国歌斉唱で始まる
厳粛なものでした。式辞、来賓祝辞の後、わが母校と日本理科教育振興協会の 2団体に
感謝状が授与されましたが、母校がこのような光栄に浴したことに関係者一同大きな喜びを
かみしめています。

 日本科学未来館          式典会場 (S氏撮影)
   

         式辞   
          

 

感謝状を受ける母校校長(S氏撮影)     謝辞が述べられる
   

 

      未来ホールは階段式でした
       

 

 感謝状が贈られた理由については式典の中で、百年のあゆみとして披露されました。 
今から100年前の5月に母校、(当時)大阪府立清水谷高等女学校において、同協会の創立
総会すなわち全国から300余名の理化学関係教員による「全国中等学校理化学教員審議会」
(会長:嘉納治五郎:教育者、講道館柔道で知られる)が3日間にわたり開催され、文部省
(当時)諮問への答申案の作成およびその他研究発表が行われたのです。

 この答申を基として、後に理科教育振興法が制定され、今日に至る我が国の理科教育の
進展に繋がる意義深い創立総会であったのです。

                

 100年前(1926年、大正15年)の当時、明治から始まる我が国における理化学教育の
必要性が叫ばれてきつつも戦争や不況からなかなか着手されずに時が過ぎ、そのうち各地の
学校で理科教育についての模索が始まり、とうとうそれが全国的な動きとなり全国的審議会
へと発展したのですね。理化学教育には、「実験」の要素が必須であり、これに対する
指導者のほか器具、機材等が一つの大きな問題であったようです。

 この全国的審議会が大阪のわが母校で行われた経緯については、ひとえに嘉納治五郎
会長の胸の中にあり、今さら問うことは出来ませんが、いくつかの史実からそれが必然で
あったことが推測されるのです。すなわち・・

 ちょうどその頃、大阪で「電気博覧会」が開催されており、審議会の終了後見学の意義が
あること。清水谷高等女学校は、大阪府立第一高等女学校として認可をうけ、そもそも
日本初の女子大学設立用地として定められた「清水谷の地」に、設立された第一高女は、
いわゆるナンバースクールとはせず、開校時には設立地名すなわち「清水谷高女」として
スタートしたのです。
 1901年開校当時から、大阪府立清水谷高女は政府閣僚のほか、関係者ならびに財界
からも渋沢栄一、新渡戸稲造らの講演を得る等、広く脚光を浴びる存在であったこと。
さらには、明治2年には、日本初の理科学専門学校「舎密局(せいみきょく)」が、清水谷の
地に至近距離(大阪城の西側)に設立されていたこと。  など、嘉納会長の胸中には、
当然これらの史実が宿り、中でも日本初の女子大学設立時、「清水谷の地」の決定会議
にも参画されていたのです。
 嘉納会長は、審議会の1年前(大正14年10月)にも、母校で講演されています。

               

 このような経緯から、当時のわが母校において、授業と並行して行われた審議会がその
スタートであったのです。大正15年の審議会議事録にも、閉会の挨拶の中に母校に対する
丁重なる謝辞が記されているのです。

             

 豊洲駅から「ゆりかもめ」で、林立する巨大ビル群の中をテレコムセンターまで乗車
しました。    途中の景色を少しだけですが・・(ゆりかもめ車内から撮影)

 

    豊洲市場            有明付近
  

        東京ビッグサイト
         

 

 

 

 

Giuseppe Verdi, La traviata - Libiam ne’ lieti calici (Harding/ Lombardi/ De Tommaso)

 

 

 

 

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三究会オンライン(26) 

2025-05-10 | 日々雑感、散策、旅行

 このところ久し振りが続いて、およそ半年振りに昨夜(5/9)三究会オンラインがあり
ました。 この会は、40年超 前に職場を共にした、山好きのグループで、コロナまで
30数年の夏山行きを楽しんでいましたが、コロナ直前あたりからは、みんな同じように
年齢を重ねて山登りはスローダウンし、もっぱら「三究会」のモットーとしている
「自然」「味」「お湯」の内、お湯(温泉)と味がメインとなっていました。

 コロナ以降、しばらくの沙汰止みから、オンラインなる飛び道具による談話会に移り、
今もこのように、時々の語らいの場があるのです。 これって、大変好都合なんですね。
移動しなくて良い、遠くに離れていても大丈夫、自宅でのんびり参加できる・・など、
高齢にはもってこいの仕掛ではあります。ただ、お湯とか味など会の目的からすれば、
全くそぐわない仕掛ではありますが、やむを得ない・・ですね。

      久しぶりのメンバー(富山×2、石川、福井、大阪、埼玉)
        

 

 特段の決まった話題はなく、各自の出来事や近況などを順不同で語り合う・・そんな
談話会ですが、ホスト役の Y さんは、会長職を2つも抱えていて、この年度末に向けた
まとめなどに忙殺され、おまけにPCが突然ぐずり出し、とくにメールがこれまで通りに
行かず、何とか回復させるため夜中まで奮闘を続けたりしていて疲労が出たのか、お医者
に行くと帯状疱疹との診断が出てしばらくダウン状態にあったとのこと。

 日頃便利に使って、それが日常に組み込まれている時に突然の不具合に遭遇すると、
それは大変なことになるのですね。 PCに限らず、なんでもそうですが、突然のアクシ
デントにであって “大慌て” になるのですね。

          (キープデザインより)

 久しぶりの談話会で、もっと話が盛り上がるかと思いきや、寒い冬を通りようやく
春に入る期間は大したイベントが無かったようで、皆さん変わりなく過ごされていた
ようです。異口同音に、フレイルが進行した・・との実感や、筋力がこれほどまでに
落ちてしまった・・など、往年の活動の記憶があるだけに、その落差に殊の外 気を落と
している発言が目立っていました。
 用事で外に出たり、思いついた時に運動したりするだけでは、やはりフレイルの進行は
避けられず、定常的な運動やそれなりの活動参加を試みなければならない・・とは頭では
理解しつつも実行が伴っていない・・のが原因なんですね。

          (イラストくんより)

 

 夏山の経験だけですが、みんなしてあの重いザックを背負いながら、何時間も歩いた
想い出ははるかに遠くかすんでしまって、その何分の一でも、昔と同じでなくてもそれに
代わる何かを見つける・・そのことは理解しつつも実行が伴なっていないところに問題が
ある。

      夏山の想い出 (常念岳にて 1989年)
      

 

 どうも、今回の談話会は、意気消沈?の話題とPC(パソコン)ソフトに関する不具合
解消問題が大半を占めて終わってしまったようで、少々物足りなさが残りました。
 まあ、たまにはいいや!  それでもみんな、久しぶりの顔合わせが出来て言葉を
交わし合えたのでした。

 

 

 

Evenord-Bank Flashmob Nürnberg 2014 - Ode an die Freude

 

 

 

 

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京都賀茂競馬

2025-05-06 | 日々雑感、散策、旅行

 連休中、各地でいろんなお祭りやイベントが賑わっているようです。  能登では
2年振りに勇壮な曳山行事、七尾市の「青柏祭」や秩父でも芝桜(羊山)に合わせた
「秩父屋台囃子」の20連太鼓が鳴り響くなど、緊迫する世界情勢の中でも平和なひと時
が流れています。

 京都、上賀茂神社の競馬(くらべうま)が今年も人気を集めているようです。 
この行事はほとんど記憶に残っていませんので、改めて詳細を振り返ってみました。


 5月の上賀茂神社は忙しく、15日には1500年の歴史を持つといわれる「葵祭」が
ありますが、競馬の発祥ともいわれる「賀茂競馬(くらべうま)」も人気があります。
 5月1日には、賀茂競馬の本番(5月5日)に走る順番を決める行事(足汰式=足ぞろえ
式)が行われます。1頭ずつが馬場を走る「素駆(すがけ)」、2頭が走る兢馳(きょうち)
などの儀式が行われます。今年のそれは早や、youtubeにありましたので 文末の映像に
載せておきました。

 足汰式(5 /1 )では、先ず素駆により出走順を決める「番立(ばんだて)」が行われ、
組み合わせが決められるのです。そして本番さながらに、決まった組み合わせで2頭
ずつで競馳が行われるのです。現在の競馬で見られる「発馬機」ように一斉に並んで
スタートするのではなく、
同時にスタートしますが、2頭の馬は、1馬身ほど離れて
スタートし、ゴール時点で、この差が広がっていれば先行馬の勝ち、縮まっていれば
後方馬の勝ちとなるのですね。

       足汰式
        (京都新聞より)

 そしていよいよ5日が本番。乗尻(のりじり=騎手)は左右の馬に分かれ、左方は
打毬、右方は狛鉾の舞楽装束を着け、社殿にて儀式の後、2頭ずつ競馳が行われるの
です。 この競馬(くらべうま)は、平安時代、1093年(寛治7年)に、天下泰平と
五穀豊穣を祈って宮中で行われていた競馬会を神社に移したことに始まる神事だと
あります。

          賀茂競馬(くらべうま)
           (京都新聞より)

 お話が後先になりましたが、上賀茂神社はその昔、天武天皇六年(677年)に、山背の
国により賀茂神宮が造営されrたことに始まるとあり、平安京遷都以降は歴代の天皇が
行幸・奉幣祈願され、終戦まで伊勢神宮に次いで全国神社の官幣大社の筆頭であった
そうです。

 1994年(平成6年)には、23万坪の境内全域が「古都・京都の文化財」の一つとして
世界文化遺産に登録されています。

       上賀茂神社
        (そうだ京都、行こうより)

 

 ところで、通称、上賀茂神社、下鴨神社といって、同じ「カモ」でも字が違いますが、
正式な名称は、上賀茂神社は賀茂別雷神社(かもわかれいかづちじんじゃ)といい、賀茂
別雷大神を御祭神とする神社で、下鴨神社は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)が正式
名称で、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)がご祭神です。

 どちらの御祭神の名も「賀茂」の字が使われていて、もともと二つの神社があわせて
「賀茂社」と総称されていたのを、いつの頃からか、上賀茂、下鴨と呼ばれるように
なったとか・・。全国に賀茂社の末社は約1000社近くあるそうですが、それらも
「賀茂」「加茂」「鴨」と様々に使われているとあります。

 

 

 

 

京都・上賀茂神社で賀茂競馬「足汰式」(2025年5月1日 京都市北区)"Ashizoroeshiki" ceremony held at Kamigamo Shrine in Kyoto

 

京都・上賀茂神社「賀茂競馬」(2025年5月5日 京都市北区)Kamo Horse Racing at Kamigamo Shrine, a World Heritage Site in Kyoto

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憲法について

2025-05-04 | 日々雑感、散策、旅行

 普段、憲法については殆ど勉強などしないで、新聞などのメディアが耳の傍を通り
過ぎている状態ですが、年に一度、ちょっとばかり身を入れて考えてみる機会にして
います。 といっても、表層をなでる程度でしかないのですが、ネット画像で憲法審査会の
一幕を見るにつけても、様々な意見が飛び交いそれぞれの意見が交わることがないように
思われるのです。

 読売新聞の調査結果(無作為3000人、回答率67%)から、憲法を「改正する方が良い」
は60%、「改正しない方が良い」は36%で、4年連続で改正意見が6割台とあります。 また、
憲法施行から今年78年を迎え、戦後の日本は、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重
という原則を守り、今日の社会の安定と発展を実現してきた役割を「評価する」は85%に
および、「評価していない」の14%を大きく上回っています。

       (読売新聞オンラインより)

 しかし長い年月のうちに、現実との乖離があることも事実であり、とくに昨今では、
ロシアのウクライナ侵攻をはじめとして、日本周辺の安全保障環境について、「脅威に
感じている」は88%におよび、「感じていない」は10%にとどまっていました。

               

 憲法改正論で常に問題視される戦争放棄を定めた9条1項を改正する必要は「ない」
が80%で、「ある」は17%とあり、9条2項(戦力不保持など)について改正する必要が
「ある」47%で、「ない」49%と割れています。 
 昨今の周辺脅威を考えれば、ある程度の防衛力を保持する必要があるのでは、との
意見もあり、たとえ日米安保条約が強固であったとしても、日本がそれなりの防衛力を
強化しないと、それでなくてもトランプ政権下ではおぼつかない限りですが、さりとて、
防衛力を増強しても大した守りにはならないのではないかとの見方もあるなど現実解は
どのあたりにあるのか? また9条2項にしても、現行憲法下ですでにミサイルや戦闘機等
が配備されて来ている現状を踏まえれば、捉え方の相違‥かもしれません。

 昨今のデジタル、AIによる新しい課題が続出している問題については、表現の自由や
通信の秘密は尊重されなければならないけれども、現実的に公共の福祉が脅かされている
事態を何とかしなければならない事項ではあります。ただ、これらについてもどこまでを
法律で、どこからを憲法で‥となると、難しい問題ではあります。
 先の兵庫県知事選等でのSNS問題は公職選挙法で対処できる事項かもしれないですが、
データの取り扱い、事業者等への規制など広い範囲となれば法律でとどまらないかも
しれないですね。

                  

 衆参両院で実施されている「憲法審査会」は、発足以来25年が経ち、多くの議論が
交わされてきていますが、先の世論調査で、各政党が憲法に関する議論を「もっと活発に
行うべきだ」は全体で74%を占め、支持政党別に見ても、自民支持層73%、立民支持層
76%、日本維新支持層9割弱、国民支持層82%、無党派層70%で、いずれも活発な議論を
求めています。

 拙速に結論を求めるのではなくても、長期的には憲法改正が望ましいという国民の
意識はあるように見えます。 憲法改正には、衆参両院それぞれの3分の2以上の賛成で
発議し、国民投票で過半数の賛成を得る必要があるわけで、やはりそのハードルは高い
ところにあります。

 国民投票法についての審査会のyoutubeを見ましたが、一瞥した画像だけでも2時間超で、
枝野会長のもと多くの会派の方々の積極的、活発な意見交換が行われ、俄かにはまとめ
きれない印象が強く持たれました。昨今のデジタル、ネット環境を踏まえた国民投票が、
それらに影響を受ける懸念が十分にあり、これをどのように正しい在り方に導くか、
ちょっと考えただけでも大変難しい課題が山積しているように思われます。 つまり、
選挙活動に利用する新聞、放送におけるCMの問題、ネットCMの問題、更にはネットに
おけるアカウントや既存有力サイトに対するあり方、外国からの介入などこれまでほと
んど関係しなかった新しい課題が取り沙汰されていました。

 昨年も拙ブログに憲法関連記事をアップしていましたが、「緊急事態条項」などに
ついてもさらに議論を深めてほしいところです。

 

 

 

HAUSER & Caroline Campbell - Quizás, Quizás, Quizás (Live in Italy)

 

 

 

 

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令和の時代に

2025-05-02 | 日々雑感、散策、旅行

 元号が、平成から令和になって、7年目となりました。平成31年(2019年)4月30日を
もって終了し、翌日5月1日午前0時、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の規定に
基づいて、第125代天皇は退位し上皇となられ、第一皇男子徳仁親王が第126代天皇に
即位されたのです。 「平成」から「令和」に改元されました。
 「令和」の典拠は、はじめて日本の古典(国書)万葉集から選定され、当時いろいろな
うんちくが取り沙汰されていました。

 当時の模様が、拙ブログ「令和スタート」(2019.5.2)にありましたので、以下にコピぺ
しました。

  *****

  昨日、5月1日から『令和時代』がスタートしました。 一昨日から、テレビなどは、
殆どの時間、天皇退位、新天皇の即位を中心とした関連報道番組で埋められていました。

          (ネット画像より)

 4月30日深夜から5月1日午前0時に亘る、新時代の変わる瞬間を祝うイベントが全国
各地で開かれて 大勢の若者たちで賑わっている様子が紹介されたりして、“あぁ、
日本中が新時代を歓迎しているんだ!”などと改めて、思い入った次第でした。
 婚姻届を提出するため、役所は深夜早朝から業務を開始していたり、令和の初日早朝
に合同結婚式を挙げる複数のカップルなども報道されたり、「令和」ゆかりの地、福岡・
大宰府からの中継も行われたり・・平成・令和一色の感じでした。

       各地のイベント例
         

 202年ぶりの退位ということですが、政府は今回の退位に関する一連の形式・儀式には
かなり工夫が凝らされていたそうです。
 それは主に、憲法第1章 天皇の第2条『皇位は、世襲のものであつて、国会の議決
した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。』  また、第4条、『天皇は、
この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。』との
部分であり、退位が天皇の意志で行われたり、譲位ではないことのために、皇室典範
特例法(政府が定めた)による退位であることとされ、先の『高齢による体力的な観点
からの退位』に関するビデオメッセージは、天皇の意志ではなく、『お気持ち』であり、
政府は、そのお気持ちを慮った手続きをとったこととしているのです。
  神器についても、天皇から直接皇太子に引き継ぐのではなく、一旦、定位置に戻し、
新天皇は、それを改めて定位置から受ける形をとることによって、譲位ニュアンスになら
ない配慮があったとのことだそうです。

 光格天皇の場合とはこの点が大きく異なるとあり、その背景にはいろいろな検討が行わ
れたと推測されるのでした。  そのため、退位、即位が、2日にわたり、同じ宮殿
「松の間」での儀式が行われることとなったのでした。

 憲法違反の問題を回避し、種々の事案が混乱なく行われるとの検討による一連の日程
など、ひとまず無事平穏の中で滞りなく執り行われたことは、関係者一同ホッとされてい
たことでしょう。

 報道を眺めながら、日本の古来からの伝統儀式の一端を垣間見ることが出来、改めて
その歴史に触れたような気がしました。

  *****

 文末のyoutube動画も当時のものを貼り付けましたが、大変な賑わいだったのですね。

 令和になってからの主な出来事を、基準なく選んで下記に挙げました。令和ですから
まだ記憶にも新しいものばかりですが、それでも改めて振り返って(日本だけ)みると、
それぞれの瞬間が過去のものとして想い出されてくるのですね。

・2019年 7月京アニ放火事件。日本でラグビーワールドカップ開催。消費税10%に。
・2020年 新型コロナのパンデミック。内閣総理大臣 安倍晋三→菅義偉に。
・2021年 東京オリンピックが1年遅れで開催。内閣総理大臣 菅義偉→岸田文雄に。
・2022年 成年年齢が20歳から18歳に。7月安倍晋三銃撃事件。
・2023年 こども家庭庁発足。新型コロナ感染症2類→5類に。5月広島サミット。
     GDP世界4位に。
・2024年 能登半島地震。大谷翔平50-50達成。日本被団協がノーベル平和賞。
・2025年 大船渡森林火災。トランプ関税さわぎ。大阪・関西万博。

 そして、気候変動の影響で、夏の酷暑のほか、大雨や土砂災害、台風による被害が
大きかったことが記録されています。
 今年もこれからの時季を迎えます。トランプ政権は、関税混乱の他、地球温暖化にも
悪影響を及ぼしています。

 

 

 

 

一青窈 - ハナミズキ

 

 

 

 

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不思議な日本語(60)

2025-04-30 | 日々雑感、散策、旅行

 気温が高く、暑かったり、そうでなかったり不安定な4月も早や最終日となり、明日
からは5月です。新しい人生のステップを踏み出した若者の皆さんには、ようやく緊張を
休める踊り場となる大型連休が来ます。ここで一息ついて、いよいよ本格的なスタートを
切るのですね。

 昔には、5月病などと言われた時代もあったようですが、最近ではそれほどの人は
少なくなったのではないか、サバサバとドライに構えているのではないでしょうか?

                 

 さて、勝手に始まったこの「不思議な日本語」も今回で丁度60回目となります。
いつ始めたのか? を探がして見ましたら、5年前の2020.5.27がその第1回目でした。
大体月一に記事投稿していますから、今回の60回は、まぁ、真面目にやってきたという
ことなんですね。

 折角のキリバンなので、なにか・・と思いながら、アイデアも浮かばなくて、あまり
面白くもありませんが、数字を含んだ言葉を拾ってみました。    以下に並べてみますが、
もっとあると思います。まぁ、思いつくままに流してみました。

 

先ずは一から順に・・

・『一』 「一日千秋」「一心同体」「一事が万事」「一刀両断」があり、 「一蓮托生」は
仏教の言葉で、死後はみな同じ蓮華の上に生まれ変わる‥ ということから、仲間と
運命を共にすること、または深い愛情で結ばれる意となります。 「一部始終」では、
一部と始めから終わりが一緒にありますから、『一部なのか始めから終わりまで全部
なのか?』と言いたくなりますが、実はこの「一部」というのは、そもそも「書物の
一冊」を指す言葉だそうで、「一部始終」は「書物の一冊の最初から最後まで」という
意なんですね。そこから、物事の詳しいいきさつを指すようになったのだそうです。

            (ac-illust.comより)

‣『二』 「二進も三進も」これ、にっちもさっちも・・なんですね。   「二束三文」は、
江戸時代に金剛草履という丈夫な草履を二足でわずか三文という安い値段で売られて
いたことから非常に安価で売ること、または値段が非常に安い意を表す言葉ですね。
  「二つ返事」 はい、はい と2回返事をすることが由来だそうで、快く承諾する、
気安く承諾する意ですね。 「二兎追うものは一兎も得ず」。  「二番煎じ」は、一度煎じた
茶葉を再び煎じる行為をいい、それが転じて、過去のものを真似たり、ヒット商品に
便乗したりして、新鮮味のない、つまらないものを指しています。

 

 ・『三』 「三日坊主」は、かつて、食うに困った人がお寺に入って生活したり、また、
修行を積んで仏教への理解を深めるため出家する人がいましたが、厳しい修行や質素な
生活に耐えられず、三日経つと出家を諦めて還俗してしまう人がいたのですね。「三日」は、
実際に3日間という意味ではなく、非常に短い期間つまり、すぐにやめてしまうことを
表す比喩として用いられているのですね。

 「三々五々」は、唐の詩人李白の漢詩『採蓮曲』の一節「三三五五垂楊に映ず」が
由来だそうです。これは、楊の木の影に三人五人がちらほらと見え隠れしている様子を
表し、そこから、数人ずつがひとかたまりになっている様子を指すようになったとあり
ます。数人ずつがバラバラに解散したり、集まってきたり・・。 「三人寄れば」一人
二人ではよい知恵が浮かばない場合でも三人集まれば文殊(菩薩)のような素晴らしい
知恵が授かる・・一人二人より多くで考えた方が良い‥というのですね。しかし、大勢で
やるとかえって発散してまとまらなくなる恐れもありますから要注意です。 「三行半
江戸時代の離縁状が三行半で書かれたのだそうです。
 「三面記事」こちらは明治時代の新聞(4ページもの)からで、社会面や雑多な記事・
事故などは 3ページ目にかかれていた。 「三りんぼう」暦の上で凶日とされている日
です。もともと江戸時代に「三輪宝」は、天、地、人の三つの中心に宝が位置することを
意味して吉日とされていたが、誰かが「よし」を「あし」と書き違えたことから、逆の
意味で解釈されるようになったという説があるそうです。本当?

         (ac-illust.comより)

 ・『四』 「四面楚歌」秦の始皇帝亡き後、項羽と劉邦はともに秦を亡ぼすが、楚軍
率いる項羽、漢軍率いる劉邦の2大英雄はついに戦いをまみえることとなり、激しい
戦はそのうち漢軍が優勢となる。項羽は、四方を漢軍に囲まれ、漢軍兵士たちが歌う
楚の歌に取り囲まれてしまうのです。「史記」項羽本紀の故事から、敵に囲まれて孤立し、
助けがないことの意ですね。 「四方八方」。  「四六時中」江戸時代は一日を12刻に
分け、12を2×6として、一日中のことは「二六時中」といわれていたところ、明治に
なって24時間制が導入されたため、四六時中(4×6=24)となったと・・。なぁ~んだ!

 ・『五』 「五里霧中」後漢の頃、道術によって5里四方にわたる霧を起こしたという
故事に由来するとありますが、5里に意味があるわけではないでしょうね。 「五十歩百歩」。

         (いらすとやより)

 ・『六』 六の付く言葉は、思い出せなかったので、ネットでカンニングをしました。
六波羅蜜」が出てきました。仏教におけるこの世でおこなう6つの修業、つまり
布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧・・ですがどれも難しそうですね。 ついでですが、
波羅というのは、仏教の戒律の中で最も重い罪を言うとあります。六波羅は京都の地名で、
六波羅探題などがあります。

 

 ・『七』 「七転び八起き」七回も失敗しても八回目で成功する‥との意味で、何回
失敗しても失敗を恐れるな・・の意味ですね。七とか八はごろ合わせみたいな感じです
かね。 「七不思議」いろんな地域に7つの不思議がある‥というのですが、7は、特別な
数字のようで七草、七福神、ラッキーセブンなど・・まぁ、たくさんある?というくらい
の意味でしょうか。  「七つの子」これもたくさんの意で、たくさんの子供たちが親
ガラスを待ちわびている‥そういう情景を歌っているようです。

         (noteより)

 ・『八』 「八つ当たり」八は、方角では、全方位を意味していて、手あたり次第、誰かれ
なく‥などの意味に使われているようです。「八方美人」「八方ふさがり」もそうですね。
なぜ八なのでしょうか? 東西南北の4つとその間の北東、南東、南西、西北の4つで
八方。 

 

 ・『九』 「九分九厘」殆どの意ですね。次の「十中八九」とどのような違いがあるので
しょうか? 一般的には同じ意味に使われるようですが、字面から計算すると、九分
九厘は99.9%、十中八九は80~90%ですから、九分九厘の方が確率的には高いですね。 
九死に一生」は、九分通り助からない命が奇跡的に助かるとの意ですが、上手いこと
言いますね。 

 

 ・『十』 「十人十色」これに似た言葉として、「各人各様」、「百人百様」、「三者三様」
などがありますね。 「十中八九」。 「十把ひとからげ」いろいろのものをひとまとめに
して扱う意で、十はいろいろ・・ですね。 「十手」10本の手に匹敵する働きをする
ところから・・。

         (LINE NEWSより)

 

 ・『その他いろいろ』 「三十六計」中国の古代兵法には36の計略があり、そのたくさん
ある計略の中でも「三十六計逃げるに如(し)かず(が勝ち)」で、逃げることがいちばん
よい策であるという意味。転じて、あれこれ面倒なことが起こった場合には、後日を
期して逃げるのがもっとも適切な処置であることをいっているのですね。 「五十歩百歩」。
百戦錬磨」。 「千載一遇」。 「千変万化」。 「万感の思い」。 「万事休す」。  

百万ドルの夜景」百万ドルは1億円超ですから、それは素晴らしい夜景なんですね。
日本三大夜景は、函館山(北海道函館市)、摩耶山(兵庫県神戸市)、稲佐山(長崎県
長崎市)とあり、私はすべて経験していますが、稲佐山の時だけは、お昼時でしたので、
残念ながら夜景は見損ねています。
 「億万長者」要するにお金持ちのことですね。一般的に10億ドル(約1500億円、トラ
ンプ変動あり)以上の資産を持つ人のことを指すとあります。世界には3000人以上の
億万長者がいるそうです。

 話が大きくなったところでお後がよろしいようで・・。 

 

 

 

ブラザーズ・フォア 「七つの水仙」 The Brothers Four - Seven Daffodils

 

 

 

 

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アコースティック・スプリングコンサート

2025-04-28 | 日々雑感、散策、旅行

 やや肌寒いどんよりとした曇り空の土曜日(4/26)のお昼過ぎ、掲題のライブコンサート
に出かけてきました。JR中央線、国立(くにたち)駅前にある旧国立駅舎広間で無料の
コンサートでした。

 先の拙ブログ「戦友との飲み会」でご一緒する、その昔職場を共にした仲間の一人、
Oさんが出演するからです。 Oさんは私よりもずっと若く、毎年の「戦友との・・」の
幹事役を引き受けてくれています。 今年も幹事役を果たされながら、ご本人は丁度
その日が、娘さんの晴れの結婚式と重なったため、飲み会の方は当然欠席されました。
結婚式はなんと、石垣島のビーチで行われたとのこと、さぞかしエメラルド色した海を
背にビーチは賑わい甘い香りに包まれたことでしょう。

 

 そんな彼は、以前から自作の曲やカバー曲をギターの弾き語りでやっていると聞いて
いました。ここ2~3年は、あちらこちらの喫茶店風ライブハウスで演奏されていて、
今回は初めてのストリート風(街路ではなく、駅舎風広間ですが)のライブだったそう
です。

 前置きばかりが長くなりましたが、先ずはこんな風でした。

     Oさんのライブコンサート(旧国立駅舎にて)       
          

 

 この広間は、駅舎の中を再現していて、入り口は、改札口がありドアはありませんし、
広間の中には木製のイスが作り込まれ、ステージの後ろは、切符の出札場所らしい造り
となっていました。

       改札口を入るとそこが広間(左奥がステージ)
        

 

 アコースティックサウンド愛好会が主催されていて、音響設備はバッチリとされて
いますがその他の飾り物などはなく、唯々出演者との間近なトークとライブ演奏がすべて
でした。演奏曲が終わると、客席から大きな拍手が起き、広間は既に一体感に満たされ
ているのでした。

 Oさんは、すべてオリジナル曲 4曲の演奏でした。

1、『カレンダー』 
2、『君のいない街に春が来る』 
3、『転んだらブルース』 
4、『夏ミカン』

 それぞれに想い出があるのでしょう。それに曲を付けて自演する・・その楽しさは、
本人が一番であることは勿論ですが、このような場でライブ演奏により聞き手にも伝える
喜びがうまれ、次第にそのことが生きる意義の一つとして体幹に埋め込まれてくるので
しょう。

   どの曲も素晴らしい演奏でした。 Oさん、ありがとう!
        

 慌てて、手持ちのデジカメを取り出して、動画撮影してみました。もちろん手持ちで
ブレていますし、おまけにデジカメのサインがバッテリー切れを点滅させて、ハラハラ
焦りながら‥何とか最後までたどり着くという有様でした。
 そんな動画を失礼ながら文末に掲載させていただきました。もとより、普通のデジカメで
にわか撮りのため十分にお伝え出来ませんが雰囲気だけでも・・。

 

 素晴らしい演奏を聞き終えて、Oさんの次の人は女性でウクレレ演奏でした。
彼女のステージを聞き終えて会場を後にしました。

 旧駅舎と現在の高架駅をバックに、全景を収めました。

       

 

 

 

 Oさんのステージ『君のいない街に春が来る』 (手持ちデジカメ動画です。)
アコースティック・スプリングコンサートから


 

 

 

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仮面

2025-04-26 | 日々雑感、散策、旅行

 仮面は、英語でmask、仏語ではmasqueで、「マスク」でありますが、野球の主審や
捕手、剣道、フェンシングで顔にかぶるのはマスクで仮面ではないですね。口や鼻を
隠す、コロナでお馴染み、習慣的にすらなっている衛生目的のものもマスクで仮面では
ないですね。

 ウイキペディアによれば、日本で仮面が確認されている最古のものは、縄文時代
(5000年以上前)の土面などや弥生時代の木製の仮面があるそうですが、いずれも神、
精霊、動物(実在架空を問わず)等に人格が宿ると信じられ、古くから宗教的儀式、
儀礼あるいはそれにおける舞踏、さらには演劇等で用いられてきました。このような
場合に装着するのはマスクではなく仮面と言われています。

       縄文時代のお面
        (ウイキペディアより)

 このような仮面舞踏(儀礼)は、アフリカや南洋諸島等で古くから民族的な儀式と
して行われてきています。日本でも「なまはげ」など種々ありますね、

 なぜ、「仮面」のテーマを選んだかといえば、少し前に手元に届いた会報記事に
「仮面という装置の力」(吉田憲司氏、国立民族学博物館長)と題して、著者ご本人が
アフリカ、ザンビア東部の村に住み、仮面の調査をする傍ら村の正式メンバーとして
儀式に参加され、仮面舞踏の意義などを発表されていたからです。

 村の儀式でつける仮面には2種類あり、躍り手の頭部に装着する覆面や木製仮面と
踊り手がその中にすっぽりと入る被り物(動物が多い)がある。覆面や仮面は死者の
霊の化身とされ動物の被り物は森からやって来た(つまり、村の外から)野生動物を
表しているとあります。最近の被り物にはヘリコプターもあるそうです。 外から
やって来たもの・・。

        アフリカ・ニャウ地方の仮面(例)
         (哲のphoto boxより)

 このような行為は、遠く隔たった地域でもよく似た習慣や制度・信念が認められる
がこれら相互に交流があったとは考えにくいのです。つまり人間の中にある根源的な
ものの探求に繋がるのではないかと思われる。『地域と時代を問わず、仮面に共通した
特性として、特に注目されるのは、それがいずれも、人間の知識や力の及ばぬ領域、
すなわち「異界」の存在を表現したものである。』と述べられています。
 異界といえば、ギリシャの祭典での仮面や現代のカーニバルでの仮面まで、日本で
いえば、能・狂言や民族行事の中の仮面から現代の、月光仮面やウルトラマンに至る
まで『仮面は常に、「異界」から一時的やって来て、人々と交わって去って行く存在を
可視化するために用いられてきた。』と。

 さらに仮面にはこれらの可視化のほかにもう一つの力というか意義があるようですね。
仮面という装置を装着した踊り手は、霊が依り憑きその霊になりきるともいわれるの
です。 しかし、芸能化した仮面や子供たちが好んで被る仮面(お面)にはこのような
霊の依り付きなどの宗教的な意義は見いだせないですから、仮面には、このような2面が
あるといえます。とはいえ、ウルトラマン仮面をかぶった子どもは、ウルトラマンに
「なりきれる」のですね。

              

 仮面にはこのようにいろいろな「力」があるのですね。中世ヨーロッパでの仮面
舞踏会(マスカレード)では、宗教的な意味ではなく、顔を隠すという目的が強く、
このような状態で身分や素性を問わず男女が交遊出来たなどの意味合いも大きいと
思われるのです。 たしかに、舞踏会でなくても、仮面をかぶるとそれまでの自分とは
違った自分になったような気がする・・のは、ある意味自分というものの一部、特に
潜在意識みたいなものを、顔を隠すことで顕在化させる力?を持った装置なのかも
しれません。

 また、いわゆる変装マスクというのもあります。仮装大会などでのものや、タイガー
マスク、フランケンシュタインなど、さらには政治家などの頭・顔部分の被り物なども
ありますね。

 30年ほど前に、ニューオリンズの街で求めたお面で今も飾っています。
        

 

 

 

アフリカではなくタイの動画ですが・・

チェンカーン Mask Festival 2022①

 

 

 

 

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穀雨    ⁻

2025-04-22 | 日々雑感、散策、旅行

 この20日から5月4日までは、二十四節気の「穀雨」なんですね。 ネットを見ます
と『初夏直前の豊かな春』とあります。 丁度ゴールデンウイークと呼ばれるこの時期、
一年の中でも最高のシーズンで大型連休があります。 郊外に出れば、あちらこちらに
鯉のぼりが明るい空に泳いでいることでしょう。

 都心の真ん中、日比谷公園の今頃は、一面チューリップの色とりどりが優しい春風に
揺らいでいますが、今年のyoutube画像では、一面のネモフィラとのコラボした晴れ
やかな海を演出しています。 

      今年の日比谷公園(4/15)
       (同youtubeより)

 

 60年ほど前のこの時期、入社してまだ学生気分が抜け切れていない、そんな若者に、
公園の花の鮮やかな姿は 沸き立つエネルギーを与えているようにすら感じたもの
です。 
 ネモフィラといえば、これも随分以前の話ですが、園芸友の会のバスツアーで
「国立ひたち海浜公園」を訪れた折、広い丘一面に植えられたネモフィラの素晴らしい
景観が想い出されます。今年の同公園の動画から拝借しました。

      ひたち海浜公園ネモフィラの丘(4/20のyoutube)
       (ANNニュースより)

 

「穀雨」は、「春雨が降って百穀(ひゃっこく)を潤す」と言われ、いろいろな穀物、
更には植物全般にとって潤いの雨に生育が促進される季節を表しているのですね。
穀雨の次の節気は「立夏」ですから、もうすぐ夏が近づいている‥そんな時期ですが、
昨今の春は短く、すでに「夏日」が顔を出してきています。

 花でいえば、藤の花が咲き始めています。 藤といえば、あしかがフラワーパークの
大藤が有名ですが、樹齢160年ともいわれ、600畳敷の藤棚一面に紫色の藤が垂れ下がる
姿はそれは見事ですね。いつだったか、訪れた時もそうでしたが、今年も多くの 人々を
呼んでいるようです。 私たちが行った時の帰りにシャクナゲの丘のようなところにも
寄りましたね。

        藤の花
        (ウエザーニュースより)

 

 この藤は、日本固有種だそうですから、日本を代表する花と言える・・とあります。
そして、春から夏へとふたつの季節にまたがって咲くので、「二季草(ふたきぐさ)」と
いう異名もあるそうです。

 このあたりの記事は、ウエザーニュースのページから拝借していますが、もう一つ
「お茶」が取り上げられています。
♬夏もち~かづく 八~十八夜・・  で、立春から数えて88日目は、5月1日なん
ですね。お茶の木の若葉がキラキラとお日様に輝く丘の緑は、生気に溢れるパノラマ
を呈しています。

 

        お茶の木
        (ウエザーニュースより)

 

 例年より長く楽しめた今年のさくらも、いよいよ若葉に取り替わり、緑の季節へと
舞台が変わる頃、このところ関東も良いお天気で、戸外で動いていると汗ばむ気温と
なっています。あの猛暑が来るまでの短い期間のお楽しみです。
 花たちは、このほかツツジ、ボタン、ヤマブキ、シバザクラ・・と盛りを迎えて
います。

 我が家(集合住宅)は、2/10から大規模種修繕工事期間で、来週あたりからよう
やく足場の解体が始まるようで、長く感じたジャングルのような薄暗いトンネンル
からもうすぐ抜け出せるようです。 植木たちも、しばらく我慢していました。
もうあと10日ほどで・・。

 

 

 

茶摘 懐かしい歌 唱歌

 

 

 

 

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戦友との飲み会 ‘25  -

2025-04-20 | 日々雑感、散策、旅行

 はや夏日の到来を受けて、気温変化に追随できぬまま一昨日(4/18)は、1年振りの
飲み会に行ってきました。戦友との・・ですが、もとより戦後生まれの人達(私を除い
て)の集まりですから、戦友とはこれ如何に・・ですが、35年ほど前の職場を共にした
皆さんの活動ぶりがまさしく戦場のような混とんとした中での営業活動に創意と技術を
結集した真剣勝負に挑んでいた頃の仲間なんですね。
   戦争のように、相手を攻撃するようなことはありませんが、ただ初めて経験する競争
社会の場に出て、百戦錬磨の先輩企業にもまれて営業活動を展開するそんな職場を、
やや大げさに表現したのです。

 この飲み会も随分続いていますが、皆さん高齢化してきたということで、幹事の計らい
で今回は、17時半の開始でした。未だ日中のように感じながら会場ののれんをくぐり
ました。

 途中に見える大型クレーンが活躍している場所は、当時会社のあったところで、
現在再開発中です。
          
             右のビルは、東京電力本社ビルです。

 

  会場(お店の)周辺はまだこれから・・みたいな様子でした。
  
    (銀座 コリドー街)         (その並びのお店で・・)

 

 しかし、今回の話題は、いわゆる当時の想い出話は殆ど出ませんで、たまに関連する
話題でちょこっと飛び移る程度で、もっぱら現状のトランプ関税についての大臣交渉の
ホットな話題などについて意見が広がっていました。
 当時に関連した話題としては、大規模受注後のシステム構築から維持管理まで、当該
お客様サイドの人脈がその後も脈々と続いていて、皆さん既にリタイヤされ新天地で
ご活躍・・など、その後のつながりの深さが披露されたりしました。これらの話題は、
当然当時もそれなりに脚光を浴びていた案件でもあり、懐かしさひとしおに感じるの
でした。

               

 当時、この分野にシステムインテグレーション(SI)なる用語が導入されていました
が、いわゆる、それぞれの企業が抱える、あるいは変革を目指した総合的な課題解決・
目標実現を目指した、情報通信システムの構築を図る‥ということなんですが、企業
それぞれの実態、課題の抽出は区々ですから、それらをどの様に取り上げて最適解を
求めるか・・そこにポイントがありました。もちろん経営的な面から捉えることになり
ますから、それらの資料や社内報に至るまで幅広い視点からこれらの問題解決を図る
必要がありました。

 

 このような職場は、ひな形がなく、常に新しい取り組みの連続でありましたが、一つの
方向性を見出し、それらを提案書にしたためプレゼンに至るプロセスが最大の苦心で
あり最大の喜びとなるのでした。そんな熱い思いを胸に秘めた今や高齢者の仲間入り
した面々の楽しい飲み会なんですね。

                

 今回は、都合がつかなかった人が多く、集まりは少人数で少し寂しい感じはありました
が、和歌山や札幌からの参加があり、ひと際盛り上がり途中写真を撮るのも忘れてしまい
ました。

      最後に、お店の出口手前で・・
        

 

 早い時刻に始めたので、終了してもまだ宵の口で、外に出ると若い人たちがいっぱい
たむろしています。 皆さんこれからという人たちであたりは混雑していました。
   この界隈を、今頃の時間帯に帰路に向かう‥なんてことは、当時は考えもつかないこと
でした。

 

 

 

東京の花売り娘 懐かしい歌 歌謡曲

 

 

 

 

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