蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

与謝野晶子  (bon)

2015-05-29 | 日々雑感、散策、旅行

 与謝野 晶子は、1942年(昭和17年)のこの日(5月29日)に満63歳で死去しました。
本名は、与謝野志よう(しよう)、ペンネームの“晶子”の“晶”は、本名の“しょう”から取った
そうです。 旧姓は“鳳(ほう)”といい、実兄の鳳秀太郎(1872年明治5年生)は、電気工学者で、
東京帝国大学教授、電気学会第8代会長を務めた学者です。1921年(大正10年)に、夫・鉄幹と共に
文化学院を創設しています。
 また、孫には、あの政治家、与謝野薫(第74代内閣官房長官)がいます。

 鳳志ようは、大阪堺市で営む老舗和菓子屋「駿河屋」の三女として生まれました。家業は没落しかけて
いましたが、9歳で漢学塾に入り、琴・三味線なども習い、高校に入学する頃には『源氏物語』などを
読み始め古典に親しんだといいます。『めざまし草』、『文学界』や紅葉、露伴、一葉などの小説を
読むのが一番の楽しみであったそうです。

 20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになり、1900年(明治33年)、浜寺公園の旅館で
行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と不倫の関係になり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に
短歌を発表。 翌年東京に移り、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』を刊行し、当時、
古い道徳に対する反旗として大きな反響を呼んだそうです。浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した
のでした。 後に鉄幹と結婚し12人の子供をもうけています。

 与謝野晶子                みだれ髪(表紙)
    (ウイキペディアより) (ウイキペディアより)


 また、日露戦争に際し、旅順包囲軍にある弟をしのんで、『君死にたまふことなかれ』を発表
(1904年明治37年)。 その後も次々と活動を続ける中、鉄幹の後を追って、パリに行き、イギリス
ほかを歴訪した後、帰国後 女性教育の必要性を説き、1921年(大正10年)に、夫らの協力者と共に、
お茶の水駿河台に文化学院を創設します。男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させた
とのことです。

 子だくさんで、おまけに鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の職につくまで
夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘したそうです。多忙なやりくりの間も、創作を続け、
残した歌は5万首にも及ぶとか。『新訳源氏物語』など古典についても多くの業績を残しました。
また、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した
女傑の一人です。
 今から73年前に亡くなっているのですね。お墓は、多磨霊園にあるそうです。
 

 今日から、今年2度目の蓼科農園、“大合宿”に行ってきまぁ~す。 
4月下旬の春合宿では、畝つくり、じゃがいも、さといもなどの植え付けをしました。
今回は、八ヶ岳の雪がなくなった・・ので、霜の心配がなくなり、ナス、キャベツ、カボチャ、
スイカ、ピーマン、バジル・・などの苗ものを どっさりと植えつける予定になっています。
これらの苗は、東京練馬のpookyが、丁度この時期に良い背丈になるように逆算して種まきをして、
丹精込めて育苗したものです。(今年、気温が高く伸び過ぎのキライありとのこと です。)

お天気も良いようで、作業もはかどることでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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アジサイなど  (bon)

2015-05-27 | 花鳥風月

 例年同じものばかりで恐縮ですが・・、今年のアジサイは、春に植え替えてキチットしましたので、
大変元気でノビノビと
大きく成長しました。
 これは、ガクアジサイの一種で名前を 「隅田の花火」 と付いています。 
その形から名づけられたのでしょう。
 これも、もう10年以上の住人ですが、こんなに大きくなったのは今年が初めてです。
(今までは、何も世話をしなかった?)
 アジサイ(紫陽花、学名 Hydrangea macrophylla)は、アジサイ科アジサイ属の落葉低木の一種で、
原種は日本に
自生するガクアジサイ H. macrophylla f. normalis なのだそうです。
 園芸ではガクアジサイから変化して 「額咲き」 と呼ばれることもあるとか。
また、花序が球形ですべて装飾花となった
アジサイを 「手まり咲き」 とも呼ばれるそうです。 
真っ白い“アナベル”など、豪華ですし、“柏葉アジサイ” など、その形が
ちょっと変わったのも
あります。 漢字で、「紫陽花」 と書きますが、これは唐の詩人白居易が別の花(おそらくライラック)
付けた名を、平安時代の学者、源順がこの漢字をあてたことから誤って広まったとされています。
へぇ~そうなの!

アジサイ「隅田の花火」          アップしました
   

 

1日後には、花火の真ん中に青い小さな花が咲いていました。 これらがみんな、花火に
なるわけではないのです。

              (5月28日)

 

そして、周りのサツキ(咲き過ぎ)と、ひっそりとしたルリフタモジの3ショットです。
                 (5月28日) 

 

 もう一つ、盆栽仕立てのクチナシにも花が付きました。
これも、今年、久々に植え替えましたので元気元気です。丁度、花が同時に咲き、撮り頃となりました。
これは、一重の花ですが、八重咲きの鉢植えは、まだ蕾が硬く、しばらく暇がかかりそうです。
 クチナシ(梔子、巵子、学名: Gardenia jasminoides)は、アカネ科クチナシ属の常緑低木であり、
野生では森林の低木
として自生しますが、むしろ園芸用として栽培されているようです。果実が
漢方薬の原料(山梔子=さんしし)となるほか、様々な利用があるといいます。

 花言葉は、「幸せを運ぶ」「清潔」「私は幸せ」「胸に秘めた愛」 とありました。

 くちなし(盆栽)        角度を変えて
         

 

おまけで、オリーブとイチジクもアップ・・しました。
 このオリーブも、長い住人ですがあまり実を付けないのです。
春には、写真のように、一面の花(ちっとも美しくありません)が咲き、これに実が付くとは思えない
のですが、それにしても
例年3~5個くらいで、何のお役にも立っておりません。
ものの本によれば、この種は、1本では結実しにくいとあり、他の種を
側に置けばよいのでは・・
といっています。何年か前に、挿し木にして、1本だけ大きく育ったのですが、これも同じ種ですから
意味がないのですね。
 それで、もう1本違う種を買い足そうと思ったりしますが、今手元にある種がどんな種であるか
わからないので、これも躊躇して
しまいます。 
まぁ、いっか! ということで、毎年この時期を迎えているのです。
 オリーブ(橄欖、学名:Olea europaea)は、モクセイ科の常緑高木で、埼玉あたりでは、冬も屋外で
十分です。

          オリーブの花
                     

 

 最後に、イチジクです。
これも春に植え替えをしましたら、元気に成長しています。 といっても、30㎝ほどの鉢植えなので、
木にとってはやりにくいと
思っているに違いありません。 
 で、今年は、わりとしっかりとした実が5つ出来ています。
昨年も、もう少し小振りのいちじくを食しましたが、大変甘い品種でした。 

なので、今年、楽しみなんです。 早く色づかないかと・・。

           イチジク
                     

 

 

 石原裕次郎忌(7月17日)を「あじさい忌」というそうです。

 

 

 もう一つ、五木ひろしの歌から

 

 

 

 

 

 

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夏野菜(市民農園)  (bon)

2015-05-25 | 花鳥風月

 夏野菜の定番、トマト、ナス、キュウリが元気に育っています。 
道を隔ててすぐ前にある市民農園の一区画(15㎡)にこれらの野菜を植えています。

 蓼科農園の畑開き(春合宿)の帰路、pookyに依頼していました、これらの苗を農家から受けて、
帰宅してすぐに植えつけました。4月27日ですから、ちょうどひと月目くらいでしょうか。

 狭いところなので、ナス科のトマト、ナス、ピーマンなど、連作を避けるため、畝の計画はまるで
パズルを解く感じになっています。 3月には植えつけるジャガイモがあり、春遅くまで収穫が出来る
ブロッコリーや 6月下旬まで冬越しのタマネギがあるために、これらの畝のやりくりが必要なんです。

 前置きが長くなりましたが、どんな具合なのか写真をアップしました。
 (朝、6時前頃のスナップなので、色温度がまだ低く鮮明度がイマイチですが・・) 

 既にエンジンのかかった、キュウリの他、そろそろのトマト、まだこれからのナス、サトイモはやっと芽が出て来たところです。

 では、ご覧ください。

キュウリ                 トマト
   


 ナス                     サトイモ
   


 収穫間近なジャガイモ           タマネギ
  


 

そして、ピーマン用に準備している畝です。
       (これから植えます。) 

 

 

 

 

 

 

 

 

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目がかたい  (bon)

2015-05-25 | 日々雑感、散策、旅行

 フッと、子供の頃に聞いたような感じの言葉が頭をよぎりました。

子どもが、夜になってもなかなか眠くならない状態のことをいうのです。

“今日は、ぼくちゃん めェかたいね~”  そんな感じですね。

 

 方言なんでしょうけど、どこの方言でしょうか? そして、なぜ、“かたい” というので
しょうか?
 どうでもいいことなんですが、ちょっと気になりましたので、調べてみました。

 

 京都、但馬地方の方言のようですね。 こちらには、他に “ほたえる”(ふざける)、“わや
(台無し)などの懐かしい言葉もありました。 
で、この 目がかたい というのは、岐阜、鳥取、香川、長崎、大分あたりの方言でもある
そうです。 結構広い範囲で言われているのですね。

            おめめ
             (ネット画像より拝借しました。)

 

 また、この “かたい” とは、どのような意味から来ているのでしょうか? 

 “かたい” には、堅い、固い、硬いと3通りの漢字が該当します。YAHOO知恵袋に、次の
ように記述されていました。

『 “堅い” は、“もろい” の反対語で、“カタい” の内容は “内部までしっかりと詰まっ
ていて強い様子“。 例としては、「志が堅い」「身持ちが堅い」「堅い材質の机」「手堅い
守備」「義理に堅い男」「堅い儲け話」などの使い方が挙げられます。 関連した表現には、
「堅実」「堅牢」「堅固」「堅持」などがあります。


 “硬い” は、“軟らかい” の反対語です。「硬式テニス⇔軟式テニス」「硬水⇔軟水」
「硬化⇔軟化」の「硬」です。ですから、“カタい” とはいっても、“軟らかいのとは正反対
のカタい様子” を表現する場合に使われる、といったほうが理解が早いかも知れません。

 「態度が急に硬くなる」(「硬化⇔軟化」)「硬い表現」(⇔「軟らかい表現」)「硬い
骨」(⇔「軟骨」)「硬い土質」(⇔「軟らかい土質」)「硬球」(⇔「軟球」)さらには
「硬派」(⇔「軟派」)などが代表的な使い方の例として挙げられます。


 “固い” は、なかでももっとも多く使われています。 反対語は “ゆるい” が妥当でし
ょう。 
これは「固い決意」「固い守り」(「固守」)「固い信念」「固く持ち続ける」
(「固持」)
「固く辞退する」(「固辞」)「頭が固い」「固い革のハンドバック」といった
ように、
“しっかりしていて、強く、丈夫な様子” を意味する “カタい” の表現に用いら
れます。 
関連した表現には「固体」(⇔「液体・気体」)「固執」「固陋(ころう)」
「頑固」などがあります。』

 

 以上から、“目が堅い” は、目(頭)がしっかりとして、夜更けになっても眠気がさして
こない状態なんですね。 
 でも、なぜ、子供に限って使うのでしょうね? 恐らく、子供は、誰でも夜になれば、す
やすやと眠りにつく・・(のが普通)であるのに、なかなか眠くならない(普通と違った)
状態を特別に指して言ったのではないでしょうか? 
 大人は、眠くなったり眠くならなかったり、様々ですよね。

 また、“口が堅い” というのもありますね。 意志が強く、余計なことをへらへらとしゃ
べらない。

 “頭が固い” は、融通が利かないコチコチ人間でしょうか。

 

    

 

 

 

                                                                                          

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ベランダは今  (bon)

2015-05-23 | 花鳥風月

     ベランダの花たちのお話です。

 今年に入って、地上20m余りのベランダの移り変わりを、これまで9つの記事でご紹介させていただき
ました。
 珍しくもない、殆ど手入れもしていない貧弱な花たちを、わが子可愛さで記事アップしてきました。
1月の侘助に始まり、2月は白梅、黄梅、紅梅、3月にはクンシラン、ムスカリ、サクラと華やかになり、
4月は花の最盛期で、こぶし、レンギョウ、はなもも、スイセン、イチゴ、中旬には、赤・白のハナミズキ、
ドウダン、十二単、そして、5月に入り チョウジソウと白花カスミソウと来ました。
今回、5月下旬の様子を恥ずかしながらアップさせていただきました。

 これまでの中で、イチゴは元気の良い花が次々と咲きましたが、肝心の結実がなく、とうとう
ランナーが出てくる始末で、トータル 赤くなった実は5つほどしかなく、見た目は割とおいしそう
でしたが、順調でなかったし、気乗りがせずに食するのはやめにしました。

  ベランダでは今、中央付近に直径50cmくらいの紺色の鉢に1m位のサツキにたくさんの花が
付いています。1つの株ですが、赤い花がメインで、真っ白い花もあり、赤白が1つの花に混じった
のもあり、これらはどのようになっているのでしょうか? このベランダに来て、すでに12年が過ぎますが、
突然、途中4~5年は殆ど花を咲かせず沈黙していたのです。
これらの花にも、体調や気分の良し悪しみたいなものがあるのでしょうか。

 サツキです。               この木の上部枝です
  


 フェンス側に、ヤマボウシが白い花を上に向けて咲き始めました。
同類のハナミズキに並んでバトンを受け継いでいるようです。秋になると、ぼつぼつ突起が付いた
極小さな機雷?のような赤い実がたくさん付きます。

        ヤマボウシ
           

 

 ルリフタモジ。 この、優雅にも思える名前については、かって、当ブログにそのいわれについて
述べましたが、要するに瑠璃色をした“ふたもじ”つまり二文字で、これは、その昔、宮中言葉で
“ニラ”を指していたとのこと。一文字は? それは、“葱”のことで、
昔は“き”といっていた。
わけぎ、あさつき・・など、“き”で、その後関東では、下部の白い根の方を食する“ねぎ”と
なったとか。 
横道にそれましたが、もう数年前に、友人から頂き物で、毎年春から秋間近かまで咲く強い花です。

         るりふたもじ
              

 

 みかんです。これは温州ミカンで、小さな鉢植えで、15年くらいのものです。毎年、数個の甘い
みかんを恵んでくれます。この小さな木は、先日来、甘い香りをまき散らして、花の後には、かわいらしい
小さな実が付いているのです。 葉っぱ10枚くらいに1つの実を成らせるのがポイントだそうです。
もちろん、実を取るためのものではなく、面白みを味わうのが目的です。こんな小さなモノでも、
柑橘なので、一丁前に“アゲハチョウ”が寄ってきています。

  みかんの花             小さな実です
  

 

 以上の写真は、昨日パチリトしたものですが、もう少ししますと、アジサイやいちじくなどを
撮りたい頃になりますので、再度、自己満足?記事アップとなるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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古事記から(4)  (bon)

2015-05-21 | 日々雑感、散策、旅行

大国主命(オオクニヌシノミコト)

 スサノオノミコトの六世の孫にあたる子として、オオクニヌシノミコトが生まれるのですが、
またの名をオホナムヂノ神といい、この他計五つの名を持っています。
そして、オホナムヂには大勢の兄弟がいました。

 因幡の白ウサギ

 さて、オオクニヌシのたくさんの兄弟の神さまたちは、この国をオオクニヌシに譲ってしまいました。
その訳は、この神さま(八十神)
たちはみな、イナバ(因幡=鳥取県東部)に住む美しいと評判の
ヤガミヒメに求婚しよう
という下心があって、一緒に連れ立ってイナバに出かけた時に、この神さ
たちは、オホナムヂ(オオクニヌシ)に荷物の袋を背負わせ、従者のように
して連れて行きました。
 やがて、気多の岬にやって来たとき、そこに毛の全くない裸のウサギがふせって泣いていました。
これを見た大勢の神々は、ウサギに言うには、「お前が
その体を治すには、この潮水を浴びて、
風に吹かれて、高い山の上で寝ておれ。」
と教えました。それでウサギは、神々の教えたとおりにして、
山の上に寝ていると、海の潮
水が乾くにつれ、吹く風が皮膚に刺ささるように痛み出し、泣いていた
ところ、
神々の最後についてきたオホナムジがそのウサギを見て、「なぜ、おまえは、泣き伏して
いるのか。」と尋ねると、「はい、わたしは、隠岐の島に住
んでいて、このイナバの地に渡って来たい
と思いましたが、渡る方法がなかっ
たので、海のサメをだまして、こう言ったのです。『私とおまえと
比べて、ど
ちらの仲間が多いかを数えてみたい。で、おまえは、自分の仲間をすべて連れて来て、
この島から気多の岬まで、一列に並ばせてみてくれ。そしたら、私が
その上を踏んで走りながら数を
数えよう。こうして、どちらの仲間が多いかを
知ることにしよう。』 
こうして、サメたちが騙されて一列に並んで伏してい
る時、私はその上を数えながら走って渡って来て、
今や地上に降りようとする
時、うかつにもこう言ってしまったのです。『へっ、へ。お前らは私に
だまさ
れたんだよ。』 言い終わるや否や、一番端に伏していたサメが、私を捉えて私の毛をすっかり
剥いでしまいました。それで困って泣いていたところ、先ほ
ど通りかかった大勢の神々が、「潮水を浴びて、風邪に吹かれて寝ていろ」と教えてくださったので、その通りにしていたら、
わたしの体は全身傷だらけに
なってしまったのです。」
そこで、オホナムジは、そのウサギにこう教えました。「今すぐに、この河口に行って、真水で体を
洗いなさい。そして、その河口
に生えている蒲の黄色い花粉をまき散らして、その上に寝転ろがれば、
お前の
体は、もとの膚のようにきっと治るだろう。」
こうして、ウサギは教えの通りにしたところ、すっかり元どおりに治りました。
これが「因幡の白兎」です。今もこのウサギを「ウサギ神」とも言ってい
ます。

         (ネット画像)
 

 そして、このウサギは、オホナムジにいいました。「あの大勢の神々は、きっとヤガミヒメを娶る
ことはできないでしょう。従者のように袋を背負ってい
ますが、あなた様こそヤガミヒメを娶られるで
しょう。」 
(知恵のある陸の動物が、愚かな水中の動物をだまし、川を渡ることに成功するという筋の話は、
インドネシアや東インド諸島にもあるという。これらの話が伝わってきたと考えられる。また、
このくだりは、オホナムジが医療の神であることを語ってい
る。)

  八十神の迫害

 そこで、ヤガミヒメは、大勢の神々(八十神)に答えて、「わたしは、あなたたちの言う事は聞き
ません。オホナムジさまと結婚します。」といいました。これを聞いた八
十神たちは、怒って、
オホナムジを殺そうと相談をしました。そして、伯耆の国の手間の
山の麓へやってきた時、オホナムジに
向かって、「この山に赤いイノシシがいる。これをわ
れわれが追い出すから、お前は下で待ち受けて
これを捕まえなさい。もし、失敗したら必
ずお前の命をもらうぞ。」と言い、イノシシに似た大石を
まっ赤に焼いて、転がして落とし
たのです。オホナムジは、これを捕えようとして、無惨にもその
焼石に焼きつかれて死ん
でしまいました。
これを知って、オホナムジの御母神は嘆き悲しみ、高天原に昇って、カミムスビノミコトに救いを
乞いました。カミムスビノミコトは、オオクニシを生き返らせるために、キサ
ガイヒメとウムガイヒメを
遣わせました。キサガイヒメは、貝殻を削り、その粉を集め、
ウムガイヒメがそれを待ち受けて
蛤の汁で溶いた母の母乳のような乳汁を、やさしく塗っ
たところ、オホナムジは立派な青年に復活した
のでした。
 これを見ていた、八十神たちは、またオホナムジをだまして山へ連れ込み、大木を切り倒して、
その間にクサビの矢を打って、その中にオホナムジを入らせるや否や、そのクサビの矢を引き抜いて、
打ち殺してしまいました。それで、また御母神は、泣きながらオホナムジを探し求めて、ようやく
見出すことが出来、ただちにその木を裂いて助け出し再び蘇らせわが子オホナムジに言いました。
「あなたは、ここにいたら、ついには八十神たちによって滅ぼされてしまうでしょう。」 そして、
紀伊の国のオオヤビコノカミのところへ避難させたのでした。ところが八十神たちが、なおも追いかけて
来て、弓に矢をつがえてオホナムジを引き渡せと求めた時、オオヤビコノカミは、木の又のところから
逃がして、言いました。「あなたのご先祖のスサノオがいる根の堅州国へ行きなさい。必ずや、
その大神(スサノオノ)が、あなたにいい知恵を授けてくれるでしょう。」と。

 根の国訪問  (オホナムジノ命から大国主命へ)

 こうして、オホナムジは、仰せに従って、スサノオノのところへやってきました。そこで、
その娘のスセリビメと出会い、二人は、男女の交わりをして、結婚しました。スセリビメは、帰って
父のスサノオに、「たいそう立派な神様がおいでになりました。」といいました。しかし、スサノオは、
一目見て、「これは、アシハラシコオノミコト(オホナムジの別名)だな。」と言い、ただちに
宮殿の中に呼び入れて、蛇がいる部屋に寝させられたのでした。それで、スセリビメは、蛇よけの
魔力がある布を、夫のオホナムジに授けて、「その蛇たちが、あなたを噛もうとしたら、その布を
三回振れば、逃げ出すでしょう。」といった。 そこで、オホナムジは、妻のいう通りにすると、
蛇は鎮まりゆっくりと寝て その部屋を出ました。しかし、また翌日の夜には、ムカデと蜂のいる
部屋に入れられました。そこで、スセリビメは、今度もムカデと蜂よけの布を授けて、前のように
教えました。それで、無事にそこから出ることが出来ました。 スサノオは、今度は、音の鳴りひびく
矢(鏑矢)を広い野原の中に放ち、それを探してこいと命令しました。 オホナムジが、野原に入ると、
その回りに火を放ち野原を周囲から焼いたのです。 どこから逃げ出せばいいのか、オホナムジが
迷っていると、一匹の鼠が現れて 「内はほらほら、外はすぶすぶ」(外から見ると穴はすぼまってる
けど、中はほら穴だよ。)と教えました。そう鼠が言うので、そこを踏んでみると、地面に穴が空いて
落ちてしまいましたが、そのままその穴に隠れていたので、火は上を通り過ぎていきました。また、
その鼠は、鏑矢をくわえて、オホナムジに差し出しました。その矢の羽は、鼠の子どもたちがみな
食いちぎっていました。

 一方、妻のスセリビメは、オホナムジが死んでしまったと思い込み、葬式の道具を持ってきて、
泣きながら現れ、父の大神も、もう死んだはずだと思って、その野原に出てきましたが、なんと
オホナムジは無事な姿であらわれ、その矢をスサノオに差し出したのでした。 スサノオは、今度は、
宮殿に連れて入り、大きな部屋に呼び入れ、その頭の虱を取ることを命じました。しかし、その頭には、
ムカデがたくさんいました。妻のスセリビメは、椋の木の実と赤い土を夫に授けました。そこで、
その椋の実を噛み砕き、赤土も口に含んで一緒につばを吐き出しました。それを見たスサノオは、
ムカデを噛み砕いてツバを吐いているものと思い込み、心の中でかわいいやつだと思って、寝てしまい
ました。

 そこでオホナムジは、スサノオの髪をつかんで、その部屋の垂木に結び付けて、大きな岩で、
部屋の出口を塞ぎ、妻のスセリビメを背負い、スサノオの宝物である大刀と弓矢と美しい琴を持って
逃げ出そうとしましたが、その琴が木に触れてしまったため、地面が鳴り響くような大きな音が出て
しまいました。眠っていたスサノオは、その音にハッと目をさまし、その部屋ごと引き倒してしまい
ましたが、垂木に結ばれた髪の毛をほどいている間に、オホナムジとその妻は遠くまで逃げのびたのです。 
しかし、スサノオは、黄泉比良坂まで二人の後を追って来て、はるか遠くにいるオホナムジに向かって、
「お前の持っている、その太刀と弓矢で、おまえの兄弟たちを山や河に追い払い、お前が大国主神となり、
また現し国魂の神(オオニヌシの別名)となり、わしの娘スセリビメを正妻とし、御埼山(島根県
出雲市の山)のふもとに宮柱を深く掘り立て、天高く千木を聳やかした宮殿に住め!こやつよ!」と
言いました。

 そこで、その太刀と弓で、兄弟の八十神たちを追い払い、この出雲の国を作られたのです。 
 さて、あのヤガミヒメは、かつての約束通りに、大国主神と結婚されて連れてこられました。
しかし、正妻のスセリビメを恐れて、自分の生んだ子を木の又に差し挟んだまま、因幡の国に帰って
しまいました。そこで、この子を名付けて、キノマタノカミまたは、ミイノカミ(御井の神)といいます。

八千矛神の妻問い物語

 その後、八千矛神(ヤチホコカミ=大国主命)は、越の国に住むヌナカワヒメを第二の妻にしようと
して出かけて、ヌナカワヒメの家に行き、次のような恋の歌をよみました。

「八千矛神の命は 八島国 妻枕きかねて 遠々し こしの国に かしこし女を ありと聞かして 
麗(くわ)し女を ありと聞こして さ婚(よば)ひに あり通はせ 太刀が緒も いまだとかずて 
襲(おすひ)をも いまだ解かねば おとめの 寝すや板戸を 押そぶらひ わが立たせれば 
引こづらひ わが立たせれば 青山に ヌエは鳴きぬ さ野つ鳥 雉はとよむ 庭つ鳥 鶏は鳴く 
うれたくも 鳴くなる鳥か この鳥も 打ち止めこせぬ いしたふや 天馳使(あまはせづかい) 
事の 語りごとも こをば」

 ヤチホコノカミは、日本国中で思わしい妻を娶ることが出来なくて、遠い遠い越の国に 賢明な
女性がいると聞き、美しい女性がいると聞き、”よばい”(結婚を申し込むために夜に女性の家へ行く
こと)をしに通い続け、 太刀の緒もまだ解かず、上着もまだ脱がないまま ヒメの寝ている窓の板戸を
 押しゆさぶって、立ちすくんでいると、しきりに引きゆさぶって立っていると、青山ではもう鵺
(ぬえ)が鳴いた。野の雉はけたたましく鳴き、庭の鶏は鳴いて夜明けを告げている。 ああ、
いまいましい鳴く鳥よ お願いだから鳴くのをやめさせてくれ、空を飛ぶ使いの鳥よ。
・・・これを語り言としてお伝えします。
と、歌われたとき、ヌナカワヒメは、まだ戸を開けずに、家の中からこう歌で答えました。

「八千矛の 神の命 ぬえ草の 女にしあれば わが心 浦渚の鳥ぞ 今こそは 我鳥にあらめ 
後は 汝鳥にあらむを 命は な死せたまひそ  いしたふや 天馳使 事の語りごとも こをば

 青山に 日が隠らば ぬばたまの 夜は出でなむ 朝日の 笑み栄えきて たくづのの 白き腕
(ただむき) 沫雪の 若やる胸を そだだき たたきまながり 真玉手(またまで) 玉手さしまき
 股(もも)長に 寝(い)は宿(な)さむを あやに な恋ひ聞こし 八千矛の 神の命 
 事の語りごとも こをば 」


 八千矛の神様よ 私は、なよやかな女のことですから、 わたしの心は、浦洲にいる水鳥のように、
いつも夫を慕い求めています。 ただ今は、自分のことしか考えていない鳥でも、やがては、あなたの
お心のままになるでしょうから、鳥どもの命を殺さないでください。空を飛びかける使いの鳥よ。
・・・これを語り言としてお伝えします。

 青山の向こうに日が沈んだら、夜にはきっと出て、あなたをお迎えしましょう。その時、朝日が輝く
ように、明るい笑みを浮かべて、あなたがおいでになり、白い私の腕や、雪のように白くて柔らかな
若々しい乳房を そっと愛撫したり絡み合ったりして、玉のように美しい私の手を手枕にして 
脚を長々とのばして お休みになることでしょうから、あまりひどく恋い焦がれなさいますな、
八千矛の神の命よ。 ・・・これを語り言としてお伝えします。

と歌い、その夜は会わないで、翌晩お会いになり、結婚しました。

 スセリビメのヤキモチ

 八千矛の正妻のスセリビメは、たいそう嫉妬深い神でした。そのため夫の八千矛は、心配して、
出雲から大和の国に出発しようとして、旅支度をしていた時に、片手を馬の鞍にかけ、片足を鐙
(あぶみ)に踏み入れて、歌った歌は、

「ぬばたまの 黒きみ衣(け)しを まつぶさに とり装ひ 沖つ鳥 胸見るとき 羽たたぎも 
これはふさわず 辺つ波 そに脱ぎ棄て そに鳥の 青きみ衣しを まつぶさに 
とり装い 沖つ鳥
 胸見るとき 羽たたぎも こもふさわず 辺つ波 そに脱ぎ棄て
 山県に まきし あたねつき 
染木が汁に 染衣を まつぶさに とり装い 沖つ鳥 胸見るとき 羽たたぎも こしよろし
 いとこやの 妹の命 むら鳥の わが群れ往なば 引け鳥の わが引け往なば 泣かじとは、
汝は言ふとも 山跡の 一本すすき うなかぶし 汝が泣かさまく 朝雨の さ霧に立たむぞ 
若草の 妻の命 事の語り言も こをば」

 黒い衣装を丁寧に着込んで、沖の水鳥のように胸元を見ると、鳥が羽ばたくように、袖を上げ下げ
してみると、これは似合わないので、岸に寄せる波が引くように後ろに脱ぎ棄て、今度は、カワセミの
羽のように青い衣装を丁寧に着込んで、 沖の水鳥のように胸元を見る時、羽ばたくように袖を上げ
下げしてみると、これも似合わない。岸に寄せる波が引くように後ろに脱ぎ棄て、 山畑に蒔いた
「あかね草」を臼で挽き、その汁で染めた藍色の衣を丁寧に着込んで、沖の水鳥のように胸元を見ると、
鳥が羽ばたくように袖を上げ下げしてみると、これはよく似合う。 いとしい妻よ、群鳥が飛び立つ
ように、私が大勢の供人を連れて行けば、引かれて行く鳥のように、私が大勢の供人を連れて行けば 
あなたは泣かないと強がって言ってはいるが、きっと山のふもとの一本の薄のように、うなだれて
あなたは泣くことだろう。そのあなたの嘆きは、朝の雨が霧となって立ち込めるように、嘆きの霧が
中に立ち込めるであろうよ。いとしい妻の君よ。 ・・・これを語り言としてお伝えします。

 そこで、スセリビメは、大きな酒杯を取って、夫の神の側に立ち寄り、杯をささげて歌った歌は、

「八千矛の 神の命や 吾が 大国主 汝こそは 男にいませば うち廻る 島のさきざき かき廻る
 磯のさきおちず 若草の 妻持たせらめ 吾はもよ 女にしあれば 汝を除て 男はなし
 汝を除て 夫はなし 綾垣の ふはやが下に むし衾 柔が下に  たく衾 さやぐが下に 
沫雪の 若やる胸を たくづのの 白き腕(ただむき) そだたき たたきまながり 真玉手
(またまで) 玉手さし枕き もも長に 寝をしなせ 豊御酒(とよみき) たてまつらせ」  

 八千矛の神様 わが大国主神よ、あなたは男ですから、うち廻る島の岬々に、うち廻る磯の崎ごとに、
どこにも美しい妻を持っているのでしょうが、わたしは女性の身ですから、あなた以外に夫はおり
せん。 綾垣の帳がふわふわと垂れている下で、絹の夜具の柔らかな下で、コウゾで作った夜具が 
こすれてさやさやと鳴る下で 沫雪のように白い若やかなわたしの乳房を、コウゾの綱のように白い
腕で愛撫しからませ合って、私の美しい手を手枕として、脚を長々と伸ばして おやすみください。
さあ、
おいしい御酒を 召し上がれ。

 こう歌って、お二人はただちに杯を取りかわし、夫婦の契りを固め、互いに首に手をかけて、
今日まで睦まじく鎮座しておられる。以上の五首を神語りという。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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格差社会  (bon)

2015-05-19 | 日々雑感、散策、旅行

 もう15年も前から日本は格差社会に入っているという。

 格差には、結果の格差と機会の格差があり、前者は、所得・資産の格差とみなせるし、後者は、
機会たとえば教育、採用、昇進などが平等に与えられているかどうかに注目した格差であるとみなされます。

 先のブログ「Thomas Piketty 21世紀の資本 (2015.3.9 mak)」 にもありますように、
フランスの経済学者ピケティは、資本主義国 約20か国の資産と所得の分配を調査して、高資産保有者
などの富裕層がますます富裕度を増しているという現状を示しました。
基本的に、資本(資産)集中が進んだ結果であるとし、資本主義に内在する自然のメカニズムとして、
富裕層はますます富裕度を高める傾向があることを理論と実証で示したのです。

 ところで、日本の格差は、高い貧困率で象徴されています。
図に示すように、日本の相対的貧困率の推移、他の先進国における貧困率比較から、日本は非常に
高い貧困率の国であるという。

 相対的貧困率推移
   

 

  貧困率世界比較
  

 


 また、貧困には、絶対的貧困と相対的貧困の二つの定義があり、前者は、人間が食べて行けない所得
(貧困線)以下の所得にいる人であり、後者は、所得分配上で所得の最も高
い人から最も低い人を順に
並べて、その中位にいる人の所得のある一定%(OECDでは
50%)以下の所得しかない人のことだ
そうです。日本では、貧困線がまだ提案されていな
いので、絶対的貧困の計測は困難であるという。
なぜ貧困者が多いのかについては、①失
業率が高くなった、②非正規雇用労働者が多くなった、
③最低賃金が低い、④生活保
護制度がうまく機能していない、⑤年金・医療などの社会保障制度が
ヨーロッパに比して
劣っている、などが挙げられています。

 一方機会の格差はどうかといえば、公共部門の教育費支出が、対GDPに占める比率が先進国中で
最低水準なので、高所得家庭の子弟は高い教育を受けることが可能ですが、
低所得家庭の子弟は高い
教育を受けることが出来ない。つまり、教育の機会が不平等であるのです
。 また、他にも、女性への
機会均等の不平等や地域間での期会不平等などが挙げられ
ます。

 Nippon.com の記事によれば、「貧困率は、低所得者の割合を示す指標であり、厚生労働省が
2014年7月にまとめた「国民生活基礎調査」によると、等価可処分所得の中央値の半分の額に満たない
世帯の割合を示す「相対的貧困率」は16.1%だった。これらの世帯で暮らす18歳未満の子どもを
対象にした「子どもの貧困率」も16.3%となり、ともに過去最悪を更新した。
 これは、日本人の約6人に1人が相対的な貧困層に分類されることを意味する。この調査で生活意識が
「苦しい」とした世帯は59.9%だった。貧困率が過去最悪を更新したのは、長引くデフレ経済下で
子育て世帯の所得が減少したことや、母子世帯が増加する中で働く母親の多くが給与水準の低い
非正規雇用であることも影響した、と分析されている。」

  子どもの貧困率が過去最悪になったのを受けて、政府は昨年8月、「子どもの貧困対策大綱」を
策定し、親から子への貧困の連鎖を防ぐため、教育費の負担軽減や親の就労支援など進めているとの
ことですが、先日のNHKテレビ“ニュース深読み”では、支援を受ける条件が区々で、なかなか
うまく手が届いていないようでした。

 話を戻して、格差社会を論じる視点に、高所得・高資産保有者の多いことに着目する場合と、
貧困者の多いことに着目した場合があるが、どちらの視点が“格差社会の問題”であるかについて、
橘木俊詔(たちばなき としあき)氏(京都大学名誉教授)によれば、「先のピケティの着目は前者で
あり、私は後者が格差社会の象徴である」と言明されていますが、確かにそのように思います。 
 つまり、高所得者が多いと、資源使い過ぎをもたらしたり、人間社会のモラルからも好ましくない、人の嫉妬を煽るなどの弊害がりますが、低所得者、貧困者が多いと、人の生きて行く権利が
脅かされる、反逆的になり犯罪者が増加する、消費が少ないのでマクロ経済から好ましくない、
そして、低所得者の人数は多いので消費への貢献を左右する・・ これらから、貧困率が高いことが
格差社会として、やはり問題が大きいと考えられるのです。 
政府の血の通った政策が切に望まれます。

 先ごろ、川崎市で“簡易宿泊所”2棟が全焼し5人が焼死する事件がありましたが、報道によると
この地域には他にも多くの同様宿泊所があり、30年もの長い期間、生活保護だけで過ごしている人たちが
いるとのことで、今なお、このような状態が全国にはたくさんあるのだろうと改めて思い知らされたの
でした。

 

 

 

 

 

 

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小石川植物園  (bon)

2015-05-17 | 日々雑感、散策、旅行

  園芸友の会の例会は、年に一度“屋外例会”があり、今年は、文京区にあります小石川植物園に
行ってきました。(昨年は、潮来のあやめ祭りに足を延ばしました。)

 先週金曜日(5/15)も、真夏を思わせるような暑い日でしたが、園内には、サクラ林、クスノキ、
イチョウ、スズカケなど目を見張るようなたくさんの巨木が茂り、木陰は涼しく都心の喧騒から
ひと時隔離されたようでした。 既に時季が過ぎてしまった、サツキ、ツツジ類の手入れされた大きな
円形が続く道も、燃えるようなその季節を思わせるのでした。

 入口                   入ってすぐのところ
   


 この植物園は、正式には、“東京大学大学院理学系研究科付属植物園”というのだそうですが、
その起こりは、今から300年以上もさかのぼる、1684年に徳川幕府が設置した“小石川薬園”が発端
なのだそうです。2012年には、国指定名勝・史跡に指定されています。園内は、16万㎡の広大な面積に
台地、傾斜地、低地、泉水地など地形の変化に富み、多様な植物配置が行われ、日本の近代植物学
発祥の地であり、今も植物学の教育・研究の場となっているとのことです。

 メンデルのブドウ             ニュートンのリンゴ
  
  1913年にチェコから分譲された。         1964年、接ぎ木分譲により英国から寄贈された。 
 

 もう30年ほども前になりますが、この近くに住んでいたことがあり、何度か訪れたことがあり
ましたが、当時の記憶に残る印象とはまるで違って、広々と丁寧に整備され、巨木の数々にずっしりと
した歴史を感じさせるものがありました。

 クスノキ                  ハコネウツギ
   


 園内には、近隣の幼稚園児たちが、遠足に来ていて、元気な声がこだましていましたが、ちょうど
年に1度の企画とかで、その幼稚園の先生たちが“日本むかしばなし”に出てくる主人公に扮して、
森のあちらこちらに潜んでいて、園児たちがそれらの主人公を見つけて、正解するとサインをもらう・・
そんなゲームを楽しんでいました。私たちは、歩きながら8人のうち5人(浦島太郎、おむすびころりん、
鶴の恩返し、金太郎、桃太郎)に巡り合えたのでした。

 浦島太郎                 鶴の恩返し
   

 

 園の一番奥の日本庭園のところに、重要文化財に指定されている“旧東京医学校本館”が、
1969年(昭44年)に本郷から移築され、美しい景観を醸していました。

         旧東京医学校本館
             
            手前の花は、カルミア(アメリカシャクナゲ)です。 

 日本庭園のはずれに、煙を思わせるスモークツリーが、今満開でした。この木は 、“ハグマの木”
といって、
ハグマ(白熊)とは中国産の「ヤク」という動物の白い尾のことで、その毛を染めて、
武将の采配、僧侶の払子(ほっす)、旗や槍の装飾として使われていました。このハグマの形をした花に「ハグマ」の名が付けられたとあります。別名のスモークツリーもその形から・・。

          スモークツリー(ハグマの木)
             

 

 最寄駅近くの中華料理店で予約されていた、お昼を囲み、食後の団欒にひと時花が咲き、
楽しいうちにお開きとなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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少子化問題  (bon)

2015-05-15 | 日々雑感、散策、旅行

 この問題については、これまでいろんなところで取り上げられ、論じられてきました。
増田寛也氏(元、総務大臣、岩手県知事 現、東大大学院客員教授・野村総研顧問)が、座長を務める
「日本創成会議」が2014年5月に発表した「消滅可能都市八九六全リスト」以降、より具体的な議論
として、多くの関心を集めてきました。 

 先日 手元に届いた会報トップ記事に、増田寛也氏の寄稿が掲載されていましたので、その内容を
今一度ここに紹介したいと思いました。
このブログでも、この問題に関して、“人口ブラックホール2014.4.19”や“婚学2014.3.7”
などに記事アップしていますので一部ダブるところがあるかもしれませんがお許しください。

 

 日本創成会議の提言には、以下の4つが挙げられています。 すなわち、

① 人口減少の要因は、20~39才の若い女性の減少と、地方から大都市圏(特に東京圏)への若 者の
流出の2点である。

② 2040年、全国で896の市区町村が「消滅可能性都市」になる。うち523の市区町村は人口が1万人
未満となり、消滅可能性がさらに高い。

③ 少子化対策と東京1極集中対策を同時に行う必要がある。

④ 根拠なき悲観論に益は無い。国民が基本認識を共有し適切な対策を打てれば、人口の急減を回避し
将来安定的な人口規模を得ることが出来る。

 ここで、①の女性20~39才は、子供の95%を出産していことから限定しており、この時期に、
大学進学や就職でその地域から流出するとやはりその地域の人口は減少する。②では、2010年から
30年間に20~39才の女性が5割以下に減少する自治体を消滅可能性都市と定義されています。

  ここ当分の間、我が国の人口減少は避けられないため、次の2つの問題が生じていると指摘されて
います。 一つは、年齢構成のアンバランスです。高齢者の増加と若者の減少で、日本の人口構成は、
逆ピラミッドで将来、社会保障が危ぶまれることです。もう一つは、国土利用のアンバランスだと
いっています。地方から東京への人口流入が止まらず、地方都市が消滅する一方、東京が超過密都市と
なることだと。

 会報に掲載された図をそのまま引用させていただきました。
図1は、日本の総人口の推移を示していますが、この1300年間一貫して増加してきました。

  
 

 明治維新以降の140年間に一挙に1億人増えています。そして2008年をピークに減少に転じています。
図2は割愛しましたが、出生率と出生数のグラフで、2005年の出生率は1.26と最小を記録し、その後
やや持ち直して2013年には1.43となりました。しかし、出生率が多少回復しても、出産する年代の
女性が減少すれば、出生数は減ることになり、出生数が減れば女の赤ちゃんも減るので20年後に
成人する女性の数も減る・・つまり、出生数が連鎖的に減る 負のスパイラルに陥ることになり、
このような国は、他に韓国くらいしかないといっています。

  全くの私見ですが、人口が減少しても、注目すべき技術や産業、さらには外国からの資本や労働力の
受け入れなどにより、必ずしも経済低下が起こるとは限らない、むしろ減少した人口がより一層
人材投資により高度化することにより生産性をより向上すると考えられなくもない。しかし、
これらのことは、かなり理想に近いのではないかと思われ、短い期間であれば確かにそのような発展が
見込まれ、少なくとも悲観することは無いかも知れないですが、そのようなことを長く(次々と)
継続させられるかという危惧が拭えません。
これらの問題に日頃から関心の目を向け、検討を深めている訳でもありませんので、決めつけて
言える事ではありませんが、やはり、極端な逆ピラミッドというのは、不自然であり、極端な人口集中は
いいことは無いと思っているのです。

 

 話がそれましたが、図3には、戦後日本における人口移動(転入超過数)の推移が示されています。

  

 

 戦後、地方からの三大都市圏への人口移動の山が、3回あり、最初は、高度成長期から1970年代の
ピーク、次は、バブル経済に沸いた1980年代、そして製造業の空洞化で地方経済が低迷した2000年
以降で、この 後の2つのピークは東京圏のみに流入しているとされています。 
東京圏とは、千葉・埼玉・東京・神奈川を指しており、先の東京オリンピック決定以降、流入速度は
加速し、2020年までは増え続けるという。 東京圏への転入者の年齢は、20~24才が最も多く、
次が15~19才で、つまり就職時と大学進学時期です。東京圏に転入する90%以上が29歳までの若年層で
出産に最も関係する層ですが、東京圏の出生率は全国最低で、これが大きな背景であると指摘しています。

 また、世界の主要都市人口が総人口に占める割合では、パリ、ロンドンは戦後ずっと5%が続いており、
ニューヨーク、ローマ、ベルリンは15%のままであるのに対して、東京圏は、戦後60年間で、
15%から30%近くまで上昇し、なおも上昇中だそうです。このような都市は他にソウルしかないという。
東京一極集中の是正こそ人口問題のカギだといっています。

また、このような、東京圏、大阪圏、名古屋圏など人口集中地域は、高齢者の割合が急激に増加し、
老人ホームなどの待機問題や高齢者対策など問題が膨らんできています。

 昨年6月、国は初めて人口問題について閣議決定され、その12月には「まち・ひと・しごと創成総合
戦略」が決定され、この中で次の2つの長期ビジョンが掲げられました。
「人口問題の克服」と「成長力の確保」です。さらに、これを達成するために、向こう5年間に取り組む
4つの「基本目標」が掲げられているとか。 すなわち、①地方に仕事を作り、安心して働けるように
する。②地方への新しい流れを作る。③若い世代の結婚・出産・子育ての希望を叶える。④時代に
あった地域を作り、安心な暮らしを守る。

 で、①では、農林水産業の成長産業化、訪日外国人の増加、中小企業支援などで2020年までに
地方で30万人の雇用創出を目指す。②では、企業の本社機能の地方移転、地方大学の活性化地方移住の
斡旋等の推進、③では、商工会議所などの公的組織による婚活支援など。 と、それぞれに具体的な
視点が掲げられていますが、しかし、これらを実効あるものとするためにはどのようにすればよいか
については、かなり難しい事柄ではないかと思います。これらは最後には、各個人の考え方や意思決定
による部分が大きく、これらの意識を変えるくらいのインパクトあるものとすることが出来るかどうか
がポイントとなるように思います。

 何か強力な施策が無理やり実行されても、ひずみが生じるばかりであることは見え見えですから、
少しずつ相互に連携した施策を試行錯誤的に展開しながら、将来の目標に向けて舵を切って行く・・
的な議論を重ねつつ、地道なしかし英断を以てことを進めることなのではないでしょうか。
過度に悲観することなく、意識の高まりとともにそれぞれの支援策が講じられることが重要である
ように思います。 先ずは認識することから・・。

 

 

 

 

 

 

 

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鵜飼開き  (bon)

2015-05-13 | 日々雑感、散策、旅行

 5月11日(月曜日)の夜、岐阜県長良川では、恒例の鵜飼開きが行われました。
大勢の観光客が47隻の屋形船に乗り、水面に揺れる篝火の中、その鮮やかな手さばきに感動と興奮の
渦であったそうです。 私は、子供の頃に行った記憶がある程度で 殆ど記憶も遠くなっています。
この機会に、ちょっと調べてみました。

 長良川鵜飼とは、岐阜市の長良川で毎年5月11日から10月15日までほぼ毎日行われる鵜飼のことです。
中秋の名月と増水時はお休みとなるそうです。中秋の名月に行われないのは、月が明るすぎてその
篝火の効果がうすれるためだといわれたりしますが、実は、他の満月の時には催されるので、
中秋の名月は伝統的な公休となっているのですね。

 鵜飼開きは、シーズン中の鵜飼の安全と繁栄を祈願する神事である 鵜飼安全祈願祭 が行われた後、
太鼓の演奏に見送られて 次々と観覧船が川へと漕ぎ出して行き、市民参加の各種イベントが行われた後、
芸妓による踊り船の運航や花火の打ち上げなどが行われるそうです。

      鵜飼開き‘15.5.11  
                   (ネット毎日新聞、木葉健二氏撮影)

 

“鵜飼は、1300年ほど前から行われており、元来は漁としての鵜飼だったのが、現在は古典漁法を
今に伝える観光としての鵜飼である。そのうち宮内庁の御料場で行われる8回の鵜飼は「御料鵜飼」と
呼ばれ、獲れた鮎は皇居へ献上されるのみならず、明治神宮や伊勢神宮へも奉納される。”
とあります。

 長良川における鵜飼は日本で唯一皇室御用の鵜飼であり、長良川の鵜匠は職名を「宮内庁式部職
鵜匠」といい、長良川の鵜飼用具一式122点は国の「重要有形民俗文化財」、長良川鵜飼漁法は
岐阜県指定重要無形民俗文化財なのだそうです。

                    鵜たち
                              (ネット画像)
 

 鵜飼は、岐阜県の他、愛知県、京都府、愛媛県、大分県、福岡県など11府県、13箇所で行われている
そうです。鵜飼漁で獲れる魚には傷がつかず、鵜の食道で一瞬にして気絶させるために鮮度を保つ
ことができ、このため、鵜飼鮎は献上品として殊のほか珍重され、安土桃山時代以降は幕府および
各地の大名によって鵜飼は保護されていったという。一方で、鵜飼は漁獲効率のよい漁法ではないため、
明治維新後に大名等の後援を失った鵜飼は減少していったとのことで、現在の鵜飼は、漁による
直接的な生計の維持ということはなくなり、客が屋形船からその様子を見て楽しむという、観光事業
として行われているのですね。

 ものの本によれば、鵜匠は、古式による服装で、頭に三尺小巾(はば)の紺の麻布の烏帽子の形を
いただき、紺木綿の単衣に黒布の胸当てをし、藁の腰蓑を付けるといういでたちとあり、また、
各鵜舟にはそれぞれ鵜匠、中鵜使、中乗、艫乗(船頭)の4人ずつ乗り込み、鵜匠を除いた3人は
普通の仕事着姿だそうです。鵜匠は舳先にあって、一人で12羽の鵜を使い、中鵜使も中央で
4~5羽を使うのだそうです。

 

     美濃の長良川にてあまたの鵜を使ふを見にゆき侍りて

              おもしろうて、やがて悲しき 鵜舟かな   芭蕉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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バードウィーク  (bon)

2015-05-11 | 日々雑感、散策、旅行

 5月10日~16日を バードウィーク 愛鳥週間といって、野鳥を通して取り巻く環境の自然保護の
大切さを知り,
広めて行くことを目的として定められています。

 鳥に関しては、絶滅危惧にある、先の朱鷺やアホウドリくらいの関心でしかなく、あるいはベランダ
などに来て いたずらするムクドリやヒヨドリ、さらに餌によってくる愛らしいスズメやメジロくらい
でしょうか。 鳩、カラスに至っては、困り鳥? のイメージ。 愛鳥週間というのは、ここ何十年も
遠ざかっていたような気がしています。

 この機会に、日本の野鳥に関して、ちょっと勉強してみました。そういえば、我が家にどういう訳か、
ずっしりと重い“日本の野鳥”(山渓カラー名鑑1988.5)がありました。
以下には、これらの図鑑や、ネット調べをしてまとめてみました。

          (ネット画像より)


 まず、バードウィークというのは、もともとは、アメリカで1894年に5月4日を“バードデー”と
定められていて、日本では、鳥類学者のオースチン(アメリカ)という人の提唱で、「鳥類についての
正しい知識と愛護思想の普及」を目的として、1947年(昭和22)4月10日をバードデーに定められた
そうです。しかし、この時期は、北の地方ではまだ積雪があるので、一か月遅らせて、5月10日を
その日として、3年後には、5.10~16を“愛鳥週間”(バードウィーク)と定められたとか。 
毎年、この時期に「全国野鳥保護のつどい」が開催されたり、「野生生物保護功労者表彰」の式典など
が行われているそうです。

 公益財団法人日本鳥類保護連盟というのがあって、1968年(昭和43年)から「愛鳥週間用ポスター
原画コンクール」や、2010年(平成22年)から愛鳥標語募集が行われたりしているようです。

 そういえば、年末の紅白歌合戦で客席の投票数をステージから数えていた“野鳥の会”というのも
ありました。こちらの方は、古く、1934年に設立されたとありました。設立発起人には、北原白秋、
鷹司家、金田一春彦、柳田國男他 知る人たちがいました。 1970年に法人化され、2004年からの会長
(5代目)には、柳生博(俳優)が就任されていました。

  お目当ての、“鳥”の話が遅くなってしまいましたが、現在 鳥の種類は、世界で約6000種いる
そうで、日本で確認できる数は、約550種だといいます。 
大分類は、“目”で、小分類は“科”で区分されていて、例えば、ミズナギドリ目には、ミズナギ
ドリ科、アホウドリ科、ウミツバメ科があるという具合で、スズメ目には、なんと29もの科があり、
その中には、ツバメ、ヒヨドリ、ムクドリ、ヒバリ、カラス、メジロなどの科があるのですね。

 渡り鳥は、日本の野鳥の約半数を占めているそうですが、その分類はちょっと面白くて、以下の
6種類に区分されています。

 夏鳥:夏に繁殖のために、南方から日本にやってくる鳥
 冬鳥:冬に避寒・採餌のため北方からやってくる鳥
 留鳥:生息場所を大きく変えないでほぼ一年中みられる鳥
 漂鳥:日本国内で移動する鳥。夏は高原、冬は温暖な低地
 旅鳥:渡りの途中日本に立ち寄り鳥。春は北方への移動途中、夏は南方への移動途中
 迷鳥:本来日本には渡ってこないが、何かの影響で迷い込んできた鳥

そして、これらのおおよその割合は以下の通りだそうです。
留鳥・漂鳥36%,冬鳥22%,旅鳥15%,夏鳥10%,迷鳥16%

これらの他に、生息場所などによって、水鳥、海鳥、陸鳥などとも区分され、また、成長段階によって、
成鳥、若鳥、雛などともよばれています。成鳥とは、羽の色がこれ以上変
化しない年齢になった鳥で、
若鳥は、第1回目の換羽の後成鳥になるまでの期間の鳥なの
だそうです。

  また、野鳥に関する用語の中から、2つだけ紹介してみます。
一つは、“
コロニー”です。コロニーは、植民地とか外国人居留地の意味ですが、ここでは、
イワツバメやサギな
どに見られる集団繁殖地のことを言うのだそうです。
もう一つは、“
ディスプレー”です。こちらは、展示、表示などの意味ですが、鳥の世界では、
自分の存在を相手に誇示するこ
とをいい、異性に対する求愛ディスプレー、外敵やライバルに対する
威嚇ディスプレーな
どがあります。

  突然ですが、アホウドリについて少し・・。

           アホウドリ(アルバトロス)
            (山階鳥類研究所ページより)


海洋に生息し、渡りを行う、巨大な翼をも
つ美しい鳥ですが、地上に降りた状態ではこの翼はかえって
行動の妨げになることが多
く、バランスがとりにくいために素早い行動が取れない。空を飛ぶ時も
長距離の助走が
必要で、すぐには飛び立てない。その上、人間に対する警戒心が弱いため、容易に
捕獲
することができた。そんなことから、アホウドリ(阿呆鳥、信天翁)などどと、不名誉な名前が
付けられたそうです。また、信天翁というのも、「から餌が降ってくるのをじて(頚部の羽毛。
転じて雁などの頚部)を揃え、口を開けて待っている」とい俗説に基づく呼称なのだそうです。 
しかし、一度空を飛んでしまえば飛翔能力は鳥類の
中でも有数であり、その巨大な翼は大きな揚力を
つくり、長距離の飛行が可能である。
グライダーのように風を捕えて滑空することができるため、
羽ばたく回数が少なく優
美で、ゴルフのアルバトロスはこの姿からつけられたという。 
また、アホウドリの保
護の第一人者、長谷川教授は、元々山口県で使われていた呼び方の一つである
オキユウ」という呼称を提案しているという。

 最後に、もう一つ。
ヤンバルクイナは、1981年に発見された新種で、世界でも沖縄本島の北部にだけ生息するという。
ツル目、クイナ科で、ヤンバルとは、沖縄の方言で
“山原”の意味で、沖縄本島の北部を指すのだそうです。

          ヤンバルクイナ
            (ネットより) 



 

 

 

 

 

 

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鎌倉シャツ  (bon)

2015-05-09 | 日々雑感、散策、旅行

 メーカーズシャツ鎌倉株式会社(MAKER'S SHIRT KAMAKURA)は日本のアパレル企業で、その製品は
鎌倉シャツ”の名で親しまれています。
 本社は、鎌倉市雪ノ下にあり、資本金1億円、売上33億円(2014.5月期)従業員120名、創業者:
貞末良雄、社長:貞末民子、創業1993年 という会社です。全国各地に店舗を展開しています。
 この会社の経営方針について、例のH氏から配信された記事に紹介されていましたので、ここに
取り上げました。

 ネットによれば、従来、衣料品メーカーで製造された商品は百貨店などで委託販売されるのが主流で
ありましたので、その場合多めに仕入れて売れ残りは返品するという商習慣が一般的でした。
これに対し、衣料品等の販売から製造(開発)までを単一の業者が行う業態のことをSPAといいます。
SPAというのは、本文中でも製造小売業と訳されていますが、そもそもは、アメリカ最大の衣料品
小売店“GAP”が、1986年に自ら定義した「speciality store retailer of private label apparel」
の略だそうです。 直訳すると、「独自のブランドをもちそれに特化した専門店を営む衣料品販売業」
となり、衣料品業界で販売から商品企画までを手がけるという手法です。 GAPの成功を見て、「SPA」、
あるいはその訳語である「製造小売業」という用語、業態が普及するようになったとあります。   
     *GAP:2008年時点で、世界に3100店を持ち、134,000人を雇用する巨大会社

 日本では小売業が企画・製造に進出する場合のほか、衣料品メーカー(製造卸)が自らブランドを
確立し小売に進出する場合もSPAと呼ばれています。 また、商品企画・製造と小売とを結びつける
物流その他の機能は「製造小売」業者が自ら手がけなくても「SPA」であり、製造について外注と
しているSPAは少なくありません。

 同社(鎌倉シャツ)のHPや通販ページなどを見ていると、どこか活気を感じ、楽しい雰囲気が
充満しているように思えました。 普通、会社概要などに出てくる会長や社長の堅い顔写真ではなく、
商品ページにさりげなく顔写真入りの会長や社長が好んで選ぶファッションやアイテムの数々を
紹介していたりして・・

 確かに、物が不足していた時代から、販売ということを考えてみますと、既にモノが飽和状態に
なって来ている時代には、マイクロマーケティングといわれるように、個々に欲しているものを
如何に的確に消費者に届けるかという点から、製造者が直接販売するというのが理にかなっている
のですね。製造者と消費者が直接つながっている。

      (鎌倉シャツHPより)       

                            

 では、記事を紹介します。

*********************************** 

   『鎌倉シャツ 魂のものづくり』  丸木 伊参 著

          日本経済新聞出版社  2014/06 235p 1,500円(税別)

 1.なぜ、このシャツを4,900円で作れるのか
 2.100%リスクを取る
 3.会社と社員に嘘はない
 4.「言いたいことを言う」自由な風土
 5.ビジネスモデルを支える「高い志」
 6.究極のSPAはいかに生まれたか

 【要旨】アパレルSPA(製造小売業)といえば、ユニクロを筆頭とする海外大量生産によるコスト
ダウンのビジネスモデルで知られるが、国産で徹底した
高品質にこだわったうえでの廉価販売で、
近年多くのファンを集める企業が
ある。「メーカーズシャツ鎌倉(鎌倉シャツ)」である。同社で
製造販売す
るドレスシャツ(ワイシャツ)のメインの価格は4,900円。生地、縫製、仕上げ等すべてに
高級品と等しい技術や工夫がこらされているにもかかわらず、
この安さを維持し、顧客に不公平感を
抱かせないために、値下げやセールは
一切行わない。本書では、同社関係者たちへの取材により、
そのユニークな
ビジネスモデルの成功要因ともいえる、「嘘をつかない」真摯な姿勢の、使命感・志を
重視した経営哲学に迫っている。著者は元「商業界」代表取締役
社長で、現在は「OFFICE MARUKI」
代表として執筆・講演活動を行っている。

  ------------------------------------------------------------

 ●仕入先を顧客ととらえ、その利益や立場を考える

  鎌倉シャツのシャツは、税抜きで4,900円。商品はすべて国産で、類いまれな高品質。それが4,900円。
まさに「安い」のだ。価格は1993年の創業以来、
変えていない。値下げやバーゲンセールは一切せず、
今日に至っている。

  鎌倉シャツの品質は折り紙つきだ。しなやかで着心地のよい高級綿素材生地を使用し、ていねいな
縫製による仕上がりは、市価12,000円から15,000円
の商品に匹敵するクオリティを誇る。素材入手は、
商社や問屋に任せず自ら
中国奥地まで踏み込み、最適素材を確保する独自のルートを築いている。

  鎌倉シャツには品質統一会議というのがある。初回は13年3月に実施。年間3回から4回を予定して
いる。出席者は縫製工場をはじめ鎌倉シャツとSMR
(鎌倉シャツの生産、管理を担当する別会社)の
役員、スタッフの総勢40名
ほどである。意図するところは縫製工場がそれぞれのノウハウ(得意技)を
開示しつつ、縫製工場同士の横の連携を強化することで品質統一と向上を目指す。一専門店が縫製工場と
定期的に会議を開くのは、極めてめずらしいケー
スといえる。会議には取引先20社のオーナーや役員、
幹部が出席、細部にわ
たり品質基準が検討される。また、工場間の技術の格差をなくし、全体のレベルを
向上させることが、この会議の大きな狙いである。

  なぜ、良品廉価のマーチャンダイジング(MD、※製品やサービスを適切な場所や時期、価格、
数量で市場に提供するための計画と管理)が可能になっ
たのか。最大の要因を一つ挙げるとすれば、
リスクを自らに課す確固たる経
営と取引姿勢にある。仕入れは、すべて現金。返品も一切なしである。
しか
も支払いは仕入れの翌月にきちんと果たす。リスクは他に転嫁せず、完全に自社で負うMDを、
創業以来一貫して実践してきている。

  創業者であり、会長の貞末良雄は、語る。「仕入先がなければ、われわれの商売は成立しません。
仕入先は重要な顧客です。常に相手の利益や立場を
考え、必要以上の価格(値引き)交渉はしない。
それがよい関係づくりにつ
ながり、よい商品を早く、しかも安く回してもらえるようになるのです」
 鎌倉シャツは「買い手有利な取引を戒める」(貞末)としている。取引は、あくまでも平等、公正を
もってよしとする考え方である。貞末は、仕入れ担
当者に「(取引)交渉には、電卓を持っていくな」
と言っている。「取引交
渉で大切なのは、相手の考えや事情をよく聞くことです。それをせず、
すぐ
電卓を取り出し、セカセカと叩いたのでは、よい関係は築けない」

  低価格のさらなる要因は、流通ルートが縫製工場直結であることだ。鎌倉シャツの流通ルートは、
短くシンプルである。生地メーカーと縫製工場を含
めた各流通段階の情報共有とコミュニケーションの
よさが臨機応変なMDを可
能にし、ロス減少にもつながっている。さらに、主力取引先は生地メーカー
2社、縫製工場は3社から4社に絞られていて、大量発注による、上質廉
価MDの仕組みがつくられている。

  鎌倉シャツの原価率は59%と、飛び抜けて高い。アパレルメーカーの原価率は20%以下、平均すれば
17%から18%とも言われる。鎌倉シャツがこの原
価率でも経営可能なのは、高い商品回転率にある。
回転率はメンズが0.8回転、
レディスが1.2回転と高く、消化率は何と99%という高さ。ほぼ全品を
売り切っ
てしまう計算になる。
 高効率の要因は、短サイクルのMDにある。MDは週単位がベース。アイテムごとに、いつ、何を、
どの店に、何枚投入するかを決める。MDの基本は「売
る数と作る数がイコールであることです」
(メンズ商品企画担当の佐野貴宏)

 ●嘘をつかず、真摯につくり真摯に売る

  鎌倉シャツにはどのような販売マニュアルがあり、いかなる教育をしているのか。それを問うた
ところ、「マニュアルはなく、教育研修も取り立てて
やっているわけではない」という。マニュアルが
ない理由は、普通の人間が
普通にやれば、誰でもできる、だからあえてつくる必要はないというのである。
 鎌倉シャツの正社員の定期採用はほぼ大卒(四年制)のみで、この人材が販売力の鍵となる。
良質な人材を採用し、良質な販売を目指すところに同社
の強さがある。しかし、良質な販売のベースに
なるのは、スキル(技術)よ
りもマインド(心)だという。スキルも大切だが、その前に仕事に
取り組む
姿勢や心を優先させる。

  佐野貴宏(35歳)は大学卒業後、鎌倉シャツに入社して13年。当初は付属品の手配や検品を担当、
やがて企画、製造にたずさわるようになる。「正義
と正しい商いの道を心がけ、これがメイド・
イン・ジャパンだという品質を
追求していきたい」と語る。
 「わが社の経営に嘘はない。皆、嘘をつかないということです。真摯につくり、真摯に売っている。
セール(バーゲン)は一切なし、というのも正義
だと考えてます。昨日1,000円で売っていたものを
今日は500円。これでは昨
日のお客さまに説明がつきません。正しいことを積み上げていけば、必ず
客さまに伝わります。それが売る側の自信になり、誇りになっていくのだと思います」

 ●「本物を提供する」という使命を利益より優先

  鎌倉シャツの商いの特徴は、あるべき姿を求め続ける姿勢が高いレベルで維持されている点である。
同店は1枚のシャツを売ることから始まった。「メ
ンズウェアのワードローブ(衣装計画)で重要なの
は、まずシャツとネクタ
イ。シャツを手がける以上、本物を提供するのが使命です。目先の利益は
えていなかった」(貞末)。利益よりも果たすべき使命は何かを考えたのだ。

  以下は、貞末が考える、そのキーワードである。

○日本のビジネスマン(ウーマン)を1枚のシャツから支え、変えていく。
○日本人のルール(服装)とファッションセンスの向上に貢献する。
○服装を海外に出ても、恥ずかしくないレベルに引き上げる。
○日本の縫製業を支え、メイド・イン・ジャパンの良さを発信させていく。

 貞末によると「ウェアはビジネスマン(ウーマン)にとって武器であり、自己表現のメディアなのに、
日本人はその意識が低過ぎる」という。

  貞末の自筆コピーによる「会社経営」の見解に鎌倉シャツのコンセプトの大前提ともいうべき文言が
記されている。「会社とは、経営者のみならず、
働く人達の心の中にある。良く成るように考え
なければ、よい会社は生れな
い。先ず良いTOPに成らなければならない。会社が腐敗するのは、魚と同じ
に、頭から腐るものである」「商売の基本は顧客満足の充足である。顧客から過分な利益を獲得
すれば、やがて顧客満足の継続的な仕組を逸脱する。働
く総ての人達の一挙手一投足が顧客満足に
貢献していると意識すれば、会社
の方向は常に同じ方向に向かい、ロスの無い運営が実現する」

  先般、オーダーすべく鎌倉シャツ本店を訪れた。「首が細いのでオーダーを」と頼むと、接客に
当たった女性販売員が私を一見、「これを着てみてく
ださい」と既製品のサンプルを持参した。
着用するとネックは、ほぼフィッ
トし、違和感はない。「大丈夫ですね」と販売員は笑顔を返した。
 そこで質問した。「オーダーの方が売り上げになり、いいんじゃないの」。販売員の答えは、
「オーダーですと高いですし、(出来上がるまで)1ヶ月
かかります。お客さまにご負担がないように
するのが(店の)方針ですし、
私もそう心掛けています」

 コメント: 鎌倉シャツの類いまれなビジネスモデルは、「正義」と「信頼」に支えられていると
いってよいだろう。徹底した性善説が貫かれている。た
だし、こうした正義、信頼、性善説ほど
リスキーなものはないことは確かだ。 
もちろん同社の経営はそのリスクを承知し、覚悟のうえで
なされている。そ
の覚悟こそが、鎌倉シャツの最大の強みであり、他社に真似できないことなのでは
ないかと思う。これから鎌倉シャツが、どのようにリスクと闘い、正
義を貫いていくのか。それに
注目することで、新しい時代の「共生」を重視
する経営のあり方が見えてくるのではないだろうか。
*文中の小見出しは、書籍からの引用ではなく、情報工場が独自に作成しております。

                           Copyright:株式会社情報工場



 





 

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古事記から(3)  (bon)

2015-05-07 | 科学・生物

天の岩屋戸

 アマテラスオオミカミは恐ろしくなって、天の岩屋戸の中に隠れてしまいました。

 そんなわけで、高天原(たかまがはら=アマテラスオオミカミが支配する天の国)も真っ暗になり、
葦原の中国(あしはらのなかつくに=高天原と黄泉の国の中間、すなわち地上の世界)も闇に
つつまれました。 こうして永遠の暗闇が続き、あらゆる邪神の騒ぐ声は夏のハエのように世界に満ち、
あらゆる禍が一斉に発生しました。

 このような状態となったので、八百万(やおよろず)の神様たちは、高天原の安の河原に次々と
集まって来て相談をしました。 まず、思金の神(オモヒカネノカミ=思索、思慮の象徴神)に考え
させて、不死鳥である長鳴鳥(ながなきどり)を集めて鳴かせ、次に安の河の川上にある堅い岩を取り、
天の金山から鉄を採ってきて、鍛冶師の天津麻羅(アマツラマ)という人を尋ねて洗練させ、
イシコリドメノミコトに命じて鏡を作らせ、また、多くの神々に命じてたくさんの勾玉(まがたま)を
貫いた玉の緒の飾りを作らせ、天の香具山の牡鹿の死体から抜いた肩の骨を、採ってきた樺(かば)
の木で焼いて占わせました。

 こうして神のお告げにより、天の香具山から枝葉の繁った五百本以上の賢木(さかき)を根こそぎ
抜いて、上の方の枝には、先ほどの玉の緒の飾りを取り付け、中には八尺の鏡(やたのかがみ)を
取り付け、下の枝には白と青の御幣(ごへい)を垂らしました。フトダマノミコトが、これらの品々を
神聖な幣として捧げ持ち、アメノコヤネノミコトが、荘重な祝詞(のりと)を唱え祝福しました。
その時、タジカラオノミコト(手力男命)が、天の岩屋戸のわきに隠れて立ちました。
そうしたところに、アメノウズメノミコト(天宇受売命)は、天の香具山の日陰の蔓(ひかげのかづら
=シダ系の植物)をたすきに懸け、マサキの蔓を髪にまとい、笹の葉を束ねて手にもって、
天の岩屋戸の前に桶を伏せて、それをドンドンガラガラ踏み鳴らし踊りだし、神懸かり(かみがかり)
になりました。女神のダンスはエスカレートし、乳房をかき出し、裳の紐を陰部まで押し下げたのです。
その様子に、高天原はとどろくばかりに、見ていた八百万の神様たちは、どっと大声で笑いだしました。

 岩屋戸の中のアマテラスは、外の大騒ぎを不思議に思って、岩戸を細めに開けて言いました。
「私が、ここにこもってしまったので、高天原も葦原の中国も闇につつまれ暗くなったというのに、
どうしてアメノウズメは、舞楽をし、八百万の神様たちは大声で笑っているのだろう。」 
そこで、アメノウズメが申すには、「あなた様にも勝る貴い神がいらっしゃるので、われわれはみな
喜び笑い、歌舞しております。」と申し上げている間に、アメノコヤネノミコトとフトダマノミコトは、
鏡を差し出してアマテラスに見せると、その姿が鏡に映ったので、ますます不思議に思って、
そろそろと岩屋戸から出て鏡の中を覗こうとしたところ、戸の側に隠れていたタヂカラオノミコトが
アマテラスの手をとって引き出し、すぐにフトダマが、注連縄(しめなわ)を天の岩屋戸の入り口に
引き渡し、 「もう、ここから中へは、帰ることはできません。」といいました。

 こうして、アマテラスが、天の岩屋戸から出てこられたので、高天原も葦原の中国も自然に太陽が
照り明るくなったのです。(神の死と復活再生の信仰が伺われるという。)

 そこで、八百万の神様たちは一同相談して、この事件の原因を作ったスサノオに罰として貢ぎ物を
出させ、ヒゲを切り、手足の爪を抜き、高天原を追放してしまったのでした。

 

ヤマタノオロチ(八岐大蛇)

こうしてスサノオノミコトは、高天原を追い払われ、出雲の国の肥河の川上、鳥髪という場所へ降り
立ちました。 この時、箸が川を流れ下って来たので、上流に人が住んでいるに違いないと思い、
たずねて行くと、老人と老婆が、少女を間に置いて泣いていました。 スサノオが、「あなた方は、
だれか。」と尋ねると、その老人が、答えました。「わたしは、この国のオオヤマツミ(大山津見)
という神の子で、名をアシナヅチ、妻の名はテナヅチ、娘の名は、クシナダヒメと申します。」
「あなたたちは、どうして泣いているのか。」  「わたしたちの娘は、もともと8人いましたが、
ヤマタノオロチが毎年襲ってきては、娘を食べてしまいます。今年も今、その大蛇がやってくる時期と
なったので、泣いているのです。」

                ヤマタノオロチ
                      (ネット画像)


 スサノオは、「そのヤマタノオロチというのは、どんな形の動物なのか。」と尋ねると、
「はい。それはもう恐ろしい怪物です。その目は、ホオヅキの花のように真っ赤で、胴体一つに
頭と尾が八つづつある大蛇です。そのからだには、コケや杉やヒノキの木などが生え、その長さは
八つの谷と八つの山ほどもあり、その腹は、一面にいつも血が滲んで、ただれています。」と
老人が説明しました。 スサノオノは、少し考えて老人に言いました。「あなたの娘を私の妻に
下さらないか。」 「恐れおおいことですが、しかし、あなた様はどなたでしょうか。」 
「わたしは、アマテラスオオミカミの弟です。今、高天原から降りてきたところだ。」 老夫婦は、
「なんと、それは恐れおおいことです。わたしの娘を差し上げましょう。」と答えました。

 こうして、スサノオは、その娘を爪形の櫛に変身させ、髪に刺しました。そして、アシナヅチ、
テナヅチの老夫婦にこう命じました。「あなたたち、幾度も繰り返し醸した濃い酒をたくさん造って
ください。そして、家の回りを垣で囲んでその垣に八つの門を作り、その門すべてに、桟敷を作り、
その上に酒桶を置いて、そこに濃いお酒をたっぷり入れて待ち受けなさい。」

 老夫婦は、命じられたとおりに準備をして待っていると、やがてその言葉通りヤマタノオロチが
やって来ました。大蛇は八つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで、酒を飲み始めました。
大蛇は、とうとう酔っぱらって、その場に大きな音とともに倒れて寝てしまいました。このとき、
スサノオは、身に着けていた十拳剣(とつかつるぎ)を抜いて、大蛇をずたずたに切り刻んでしまった
ので、肥の河が血の川となって流れていきました。そして、大蛇の中ほどの尾を切り裂く時に、
剣の刃が少し欠けました。不審に思って、剣の先を刺し、切り開いてみると、一本の立派な太刀が
現れました。スサノオは、これは珍しい変ったものだとお思い、アマテラスにこの事を話し、
これを献上しました。
これが、後にヤマトタケルが、敵から火ぜめにあったときに、草をなぎはらったということで有名に
なる「草薙の剣」(くさなぎのつるぎ)なのです。


 こうして、スサノオは、自分の宮殿を作る場所をこの出雲の国に決め、須賀の地にたどりついた時に、
「私は、この地にやってきてから、心がたいへん”すがすが”しい。」といって、ここに新居(宮殿)を
建てました。それで、そこを今でも「須賀」というのです。そして、初めて宮殿を建てられたときに、
その地から雲がもくもくと立ちのぼったので、次のような歌を詠まれたのです。


 や雲たつ 出雲八重垣(いずもやえがき) 妻隠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を
 (たくさんの雲がわき立つ わたしの宮殿 妻と一緒に暮らすための宮殿を造ろう その見事な宮殿を)


 そして、アシナヅチの神を呼んで、「あなたは、わが宮殿の首長に任じましょう。そして、稲田の
宮主(いなだのみやぬし)須賀の八耳(すがのやつみみ)の神と名乗りなさい。」と命じたのでした。

(クシナダ姫が、大蛇に呑まれるというのは、年ごとに雨期になると肥河が氾濫して流域の稲田が
壊滅する恐怖を、神話的に語ったものであるとされる。)

 スサノオは、妻のクシナダと寝所で夫婦の交わりを始めて、生んだ神の名はヤシマジヌノ神といい、
この神の五世の孫として大国主命が生まれるのです。大国主命は、またの名をオホナムヂノ神といい
この他計五つの名があります。 
(大国主命は、スサノオの六世の孫にあたるのですね。)         つづく


 

 

 

 

 

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チョウジソウ  (bon)

2015-05-05 | 花鳥風月

 主役にはなれないが、その存在は大事で、他を引き立てる花といえば、“カスミソウ”が浮かびます。 
 これに似た、やはり主役からは遠いであろうと思われる花の一つに、“チョウジソウ”が挙げられる
のでは・・。 一昨年前に、友人から、種をおすそ分けしていただいたもので、昨年、花の時期を
失念していて、その花を見ることもなくただただ、過ぎ去ってしまっていました。
今年は、注意して“見える場所”に移しておきました。

 チョウジソウ(丁字草、学名 Amsonia elliptica)は、リンドウ目キョウチクトウ科に分類される
多年生草本植物とあり、日本原産のほか、北米原産のもあるらしい。

他のキョウチクトウ科植物と同様に、このチョウジソウも“アルカロイド”を含み有毒である
のだそうですが、触ったくらいでは、なんともありません。
 近年になり減少が著しく、2000年版環境省レッドデータブックでは、100年後の絶滅確率が約 97%
と推計され、絶滅危惧Ⅱ類に指定されてましたが、2007年には準絶滅危惧に評価替(安全サイドに)
されました。 しかし、各県単位のレッドデーターブックでは、殆ど絶滅危惧種Ⅱ類に指定されて
います。 我が家では、友人から頂いたタネから簡単に増殖しているというのに・・。園芸種のこと
ではないのかもしれませんね。

 なぜ、チョウジソウというかについては、この花の形が横から見ると「丁」の字形に見えるから
「丁字草」とか、香料で有名な「丁子」に似ているからなのだそうです。

 ちょうど今咲いている、白花カスミソウとの共演で、パチリトしましたのでご覧ください。

    チョウジソウと白花カスミソウ
           


 チョウジソウ              白花カスミソウ
  


           又咲いてきましたクンシラン
              


            サギソウはようやく(2ヶ月して)芽が出て来ました。
             
                          (わかりますか?) 

 

 

 

 

 

 

 

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気づく  (bon)

2015-05-03 | 日々雑感、散策、旅行

 先日の新聞のコラムに、ネパールの大地震に関する記述がありました。
要約しますと、多くの犠牲者を出し、既に8日が過ぎ、水も食料もない、テントが欲しい・・など、
つい先ごろの日本で知るその被災地の惨状と痛みは誰もが生々しく記憶しているところである。
折しも、この五月は、大型連休と子供の日、母の日が続く楽しみな季節である。
今、私たちには、家族が無事でいて住む家があり、飲む水がある。 幸せとは、“なる”ものではなく、
“気づく”ものであるらしい と。

 たしかに、そうであるのでしょう。あの、メーテルリンクの“青い鳥”も、幸せを探し求めるけれども、
結局は自分の中にあったというのもそういう事なんですね。

                     青い鳥
            (ネットより) 

 

 話は、少し違いますけれども、“情報”についても似たところがあると思います。
かって、“情報”とは何かについて話したことがありましたが、ここでも、その主体が“気づく”、
すなわち“認識する”ことが、情報であるといえるのでしょう。 
ニュース、天気予報、広告、ドキュメンタリー、小説などなどこれらすべては“情報”でありますが、
これらは、専門家あるいは誰かが作成・編集して発信され与えられたもので、これらの中から、
主体が必要、興味ある事象、目的事象を選択し、理解して(情報を得て)いるのですね。そして、
さらに、誰も発信も編集もしない“全くの事実”を、主体が見た(認識する)ことによって、
そこから“情報”(意味)を見出すのです。 同じ数字を見ても、何も感じない人と、それが大事な
“情報”と気づき、即行動に移す違いがあるのはそのためでしょう。 

 そして、この“情報”の場合の“気づき”は、主体が、そのことに 関心(興味・目的)を有して
いるか否か、さらには、バックグラウンドとしての知識、経験などがあるかどうかで決まってくる
のではないでしょうか。

 日頃の努力の積み重ね、物事を素直に捉え、目的を失わない生活・行動にこそ、自分だけの情報
(意味)が得られ、ただ漫然と過ごしていて、他から与えられることのみ“情報”と思っている
やからには、幸せの気づきも遠いのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

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