蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

皆様に感謝‘16

2016-12-31 | 日々雑感、散策、旅行

 今年もいよいよ、あと10数時間を残すばかりとなりました。

 思えば、当ブログも2010.9.24に、恐る恐る第1ページをアップしてから、もう6年が過ぎて
しまいました。 ここに、無事継続できました力の素は、もちろん蓼科浪漫倶楽部の楽しい
活動があったからではありますが、さらに このブログを訪問して下さる皆様のご支援が
あればこそと 心からありがたく感謝している次第です。

 蓼科浪漫倶楽部の活動は、八ヶ岳に抱かれた大自然の畑が中心となっていますが、今回、
これを拡大して 蓼科浪漫倶楽部に係わる高校同期生のグループ活動全体を捉えて、ここに、
2016年を振り返って、今年最後の記事とさせていただきました。     

         収穫祭の一コマ(2016.10.31)
           

 

 文末に、2016年の拡大蓼科浪漫倶楽部の活動をオートスライドにして掲載しましたので
どうぞご覧ください。

 

 今年一年のご支援、どうもありがとうございました。

来る年が皆様にとり()、健康で明るい一年でありますようご祈念申し上げます。

 

 

 拡大蓼科浪漫倶楽部2016のすべて(6‘30“)

 

 

 

 

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女子教育  (bon)

2016-12-29 | 日々雑感、散策、旅行

 突然ですが、先の読売新聞日曜版(12月25日)に、日本に女子教育を定着させた下田歌子の
記事がありましたのと、少し前に届いた会報にも、「女子帝国大学」に関することが少し触れ
られていましたので、改めて俯瞰してみようと思いました。ウイキペディアを中心に調べて
みました。

 女子教育に関しては、欧米でもそれほど古くから行われていたようでもなく、14世紀ころから、
フランスで女子教育論が提唱されていたようですが、結局は17世紀頃にようやくドイツ、フラ
ンスで女子教育機関が出来ていた程度で、1833年になってアメリカにおいて男女共学の大学が
出来、イギリスでも共学の大学が1841年頃のようです。   

 で、日本のそれは、これらに続く形で女子の高等教育が制度化されるのです。
しかし、日本では、世界に冠たる紫式部や清少納言のような才女がすでに平安時代に活躍し、
その他にも多くの女流作家(歌人)が輩出していました。また、平安時代には 万葉かな 
から「女文字」が生まれるなど、とくに貴族の子女については、習字、絵画、和歌などの
修練は大切にされその活躍は見るべきものがありました。

 鎌倉時代になると尼僧になる子供は寺子屋に入り、室町時代には、庶民の子女も寺子屋へ
入学するようになったとありますが、どうやら江戸時代にこの寺子屋が興隆を極めていたよ
うで、男女共学であったようです。

 明治に入ると、1872年(明治5年)に女児小学校や尋常小学校など体系づけられた“初等
教育”が推進され、明治7年には、これらの教員育成のため、東京女子師範学校が開校され
“中等教育”がスタートしました。これらの中等教育は私塾的な学校が主体となっていまし
たが、女子中等教育制度が確立されて、師範学校令(1886年)により初等学校の教員を養成
する女子師範学校と、高等女学校令(1899年)により普通教育及び実践教育を実施する高等
女学校(中等教育)が定着することとなります。 私立の主な学校には、跡見花蹊によって
設立された私立跡見学校(1875年)、後述する下田歌子によって設立された実践女学校・
女子工芸学校(1899年)などがあります。

 わが母校の前身である大阪府第一高等女学校(開校時は、大阪府清水谷高等女学校)は、
高等女学校令(1900年文部省令)により、大阪府に女子高等学校が設立される第1号として
開校するのです。

 これらの経緯を踏まえて、1890年(明治23年)に中等学校の教員を養成する女子高等師範
学校を設置し、日本における女子高等教育が始まるのです。その後、専門学校令により私立
の女子専門学校として、普通教育及び実践教育を目的とする日本女子大学校が1901年(明治
34年)に設置されたのを皮切りに、現在の私立女子大学の前身となる学校が次々と開設され
ました。
主な学校は、ミッション系の聖心女子学院専門学校(1916年)、東京女子大学(1928年)、
女子美術専門学校(1929年)、共立女子専門学校(1928年)、津田梅子により設立された
女子英学塾を前身とする津田英学塾(1933年)があげられています。

             

 なお、旧制大学には女子大学として設置されたものはなく、大学レベルの教育を受けるた
めには一般の大学に入学する必要がありました。しかし、戦前の学制では、女子学生は大学
の進学課程とされていた旧制高等学校に入学することが出来なかったため、女子学生が大学
に進学するには女子高等師範学校、女子専門学校から進学(入学)したのです。 この下り
は、会報記事の中に、「女子帝国大学」構想の部分にあり、抜き読み的に引用します。
『女子帝国大学設置構想は、官立唯一の女子高等教育機関である女子高等師範学校に、早く
からその動きがあり、戦時体制下の昭和15年に内閣直属の教育審議会は、その必要性を答申
しているも、文部省は決戦体制下その設置を見送らざるを得ず、終戦後の早い時期に重要課
題として掲げていた。「差当り女子ノ入学ヲ阻止スル規定ヲ改廃シ女子大学ノ創設並ニ大学
ニ於ケル共学制ヲ実施ス」る、また「現ニ存スル女子専門学校中適当ナルモノハ女子大学
タラシムル如ク措置スル」という 女子教育刷新要綱を文部省が発表したのが昭和20年12月
であった。』 『この内容は、本格的な女子帝国大学構想であった。が、文部省は「省議に
諮り、設置方針を定めてその予算を大蔵省に請求した」が、「戦後日がなお浅く、国費に
余裕がないという理由で査定された。」と、結局「女子帝国大学」は実現を見ずに終わっ
た。』とありますが、今日的に見れば、戦後は、制度も変わり、女子は直接大学に入学する
こととなり、特段、女子大学を設置する必要性はなかったのではと思います。

 試験により入学が許可される今日、優秀な女性はどんどん学問の道にも進み、卒業後の
社会の要職に女性の進出は目を見張るものがあります。 私の母校(高校)では、一昨年に
学区制が廃止され、どこからでも入学試験が受けられるようになった結果、学生数は女子が
次第に多くなってきているそうです。

 ところで、この記事のきっかけとなった、下田歌子がなかなかその出番が来なかったので、
心配になりましたが、ようやくこちらの話に移りたいと思います。

          下田歌子
            (ウイキペディアより)
 

 下田 歌子(出生名:平尾 鉐(ひらお・せき))は、1854年9月に美濃国恵那郡岩村(現在
の岐阜県恵那市)に生まれ、日本の明治から大正期にかけて活躍した教育者・歌人です。
生涯を女子教育の振興にささげ、実践女子学園の基礎を築いた女子教育の先覚者です。

 明治5年(1872年)、女官に抜擢され宮中へ出仕しますが、礼儀作法や、学識に優れ、特に
和歌の才能が高く皇后から寵愛され「歌子」の名を賜り、宮廷で和歌を教えるようになりま
す。明治12年(25歳で)に剣客の下田猛雄と結婚し宮中出仕を辞し、自宅で『桃夭(とうよ
う)女塾』を開講して 当時の政府高官の妻たち(多くは芸妓や酌婦だった)に古典の講義や
作歌を教えていました。

 明治17年(1884年)、夫が病死すると、塾の実績と皇后の推薦で、創設された華族女学校
の教授に迎えられました。2年ほど留学し、帰国後、歌子は1898年(明治31年)「帝国婦人
協会」を設立するのです。その設立趣意書には、「まことに揺籃を揺るがすの手は、以て能
く天下を動かすことを得べし」(ゆりかごを動かす手が世界を動かすのです)の1節がある
そうです。 当時の女性はどんなに学問が好きでも藩校に通うことが許されなかった・・
そんな時代に、女性に教養を授け、自活のチャンスを与えて女性の地位向上・生活改善を
はかるべく奮闘したのです。容姿と才能に恵まれ、「明治の紫式部」ともあだ名され、反面
政府の高官との浮名も絶えなかったと言われたりしたそうですが、1899年、女性が自由に
学べる実践女学校と社会的自立を目指す女子工芸学校を東京麹町に開設し、講義、執筆活動
など精力的な活動を続けたとあり、昭和11年(1936年)10月8日に肺炎で死去するまで、
生涯を女子教育の振興にささげたのです。享年82歳でした。

 新聞記事の最後に、『首都東京に初めて女性の知事が誕生した今年、2016年。女性の地位
向上に人生をささげた偉人の思いを、年の瀬にゆっくりと考えてみたい』と締めくくられて
いました。

 

 ちょっと疲れましたので、ミーハーですが・・

 

 

 

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与謝蕪村  (bon)

2016-12-27 | 日々雑感、散策、旅行

  旧暦12月25日は、与謝蕪村の命日でした(1784.12.25)。 生まれは、1716年とあります
から、今年ちょうど300年に当たります。現在の大阪市都島区(摂津国東成郡毛馬村)で
生まれ、NPO法人近畿フォーラム21では「生誕300年記念事業」が行われています。
生誕300年といえば、先の伊藤若冲もそうでした。

 与謝蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧
中興の祖といわれています。また、俳画の創始者としても有名で、写実的で絵画的な発句を
得意としたとあります。江戸時代中期の俳人であり画家なんですね。 蕪村に影響された
俳人は多いと言われますが特に 正岡子規の俳句革新に大きな影響を与えたことは良く知られ
ており、それまでの連歌の発句である 5・7・5を、「俳句」として正岡子規により提唱
されています。

          蕪村忌に呉春が画きし蕪かな  正岡子規

 蕪村は大阪に生まれますが、20歳の頃 江戸に下り俳諧を学び、強い興味を持つのですが、
当時の江戸の俳諧は低俗化していたそうです。27歳の時に、結城(茨城県結城市)に移り、
敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活に憧れてその足跡をたどり、僧の姿に身を変えて東北地方を
周遊したそうです。  自身が描く絵を宿代の代わりに置いて旅をつづけたとあります。
それは、40歳を超えて花開く蕪村の修行時代だったのです。

 42歳の頃京都に居を構えます。ウイキペディアには、「この頃与謝を名乗るようになる。
母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。45歳頃に結婚し
一人娘 くの を儲けた。51歳には妻子を京都に残して讃岐に赴き、多くの作品を手掛ける。
再び京都に戻り、生涯を過ごした。 京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年
12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。」とありました。

         辞世の句 しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり

いくつかの句を列記します。 知っている句もありますね。 

    ・春の海 終日のたりのたり哉
   
・花いばら故郷の路に似たるかな
   ・
牡丹散りて打かさなりぬ二三片
   ・
夏河を越すうれしさよ手に草履
   
・易水にねぶか流るゝ寒かな
   
・菜の花や月は東に日は西に
   
・笛の音に波もよりくる須磨の秋
   
・ちりて後おもかげにたつぼたん哉
   
・あま酒の地獄もちかし箱根山
   
・御火焚や霜うつくしき京の町
   
・さくら散苗代水や星月夜
   
・みじか夜や浅瀬にのこる月一片
   
・朝顔や一輪深き淵の色

              俳画(岩くらの狂女恋せよほととぎす)
               (ウイキペディアより)


              句碑
               (ウイキペディアより)

 

 大阪市都島区毛馬町の淀川の堤の上に、「蕪村生誕地」碑と句碑があるそうです。
句碑には「春風や 堤長うして 家遠し」が刻まれています。淀川改修100年を記念して
1978年(昭和53年)に建てられたとあります。

 それで、生家は、都島区の毛馬ということですから、今のどのあたりが?と地図上を探し
てみましたが、見当たりませんでした。それもそのはず、このあたりは、淀川の川底に埋没
しているのだそうです。

 まことに無粋な話になり恐縮ですが、ネットを調べてゆくうちに、概略次のような下りを
見つけました。すなわち、

「明治18年に淀川上流の枚方で大水害が起き、下流の大阪で大被害を受けたことをきっかけ
に、明治政府がようやく本格的淀川改修に乗り出しました。 改修工事は、単なる災害防止
だけではなく、大阪湾から大型蒸気船を京都伏見まで通運航行による“経済効果”などの
多目的工事とし、そのために淀川の河川周辺の陸地を埋め立て、それまでの小さな淀川を 
大きな河川(川幅をこれまでの十数倍660m)にする大改修を立案しました。これにより、
旧淀川沿いにあった“蕪村生家”地域は、すべて“河川改修工事”によって川底に沈んだ
のでした。
 工事は、明治29年に開始され、淀川から大阪市内に分岐させる“毛馬閘門”を設置し、
ここから分岐した河川は「大川」と名付けられて、水害に伴う上流からの土砂を回避し、
大阪の上流からの水害から今日まで守られているのです。同工事は、明治43年に完成し
たのです。」

       淀川河川工事計画図(与謝蕪村生誕300記念HPより
        (NPO法人近畿フォーラム21HPより)


 そういうことで、蕪村生家(庄屋?)は、今は毛馬閘門近郊にある蕪村記念碑から、
淀川の眼下に見える川底を想起すだけとなったのです。 



 

 

 

 

 

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今年もクリスマスコンサート  (bon)

2016-12-25 | 日々雑感、散策、旅行

 友人が団長を務めている、板橋区混声合唱団によるクリスマスコンサートに今年もお招き
いただきました。 12/23(金・祝)の午後2:30が開場でしたが、少し前には既に大勢の人の
列が出来ていました。 館内ロビーでは、舞台衣装に着飾った団員の有志の方による “ハンド
ベル”演奏で開場まで楽しませてくれていました。
 
板混クリスマスコンサート(パンフより)  ウエルカム ハンドベル演奏
 

 

 プログラムは、第1ステージでは、世界的な作曲家 武満徹の「混声合唱のためのうたⅠ,
Ⅱ」による曲など やや重厚な演奏にもかかわらずメリハリの利いた素晴らしいハーモニー
に続いて、第2ステージでは、鈴木大介ゲストギタリストによるマイクロフォンを通さない
生の静かな演奏にうっとりと引き込まれてしまいました。 ここでも、武満徹、池辺晋一郎
などの作品が演奏されましたが、どことなくもうすでに“アンダルシア”を思い起こさせる
調べに聞き入ったのでしたが、アンコールとして、前触れなく流れてきた曲が、よく知る
「アルハンブラの想い出」だったので、もう感動してしまいました。

第1ステージ               ゲストによるギター演奏(第2ステージ)
  


第3ステージ クリスマスソング       ジングルベル 
  


 ホワイトクリスマス           最後は全員で・・
 


  商業的なクリスマスとは程遠い、しっとりとした格調高い、しかしほのぼのとした家庭的
暖かい雰囲気に配慮された全体の演出は、素晴らしい構成となっていました。そして、第3
ステージのクリスマスソングでは、明るく軽快に歌われる中に楽しい演出が織り込まれ、アン
コールの「ホワイトクリスマス」では、 高井監督・指揮、服部ピアニストとのピアノ連弾
はじめ、自然な掛け合いも好感ものでした。会場全体のポテンシャルは次第に高まってくる中、
ゲストのギタリストはじめ出演者全員がステージで、そして客席の皆さんを含めた館内全員に
よる「聖夜」を合唱して最高潮に達し、終演となりました。

 最後に団長からのご挨拶があり、今回は会場に入りきれない程の盛況であった御礼と、
このため来年はもっと広い会場を設定するとのうれしいアナウンスがありました。

 いつまでも余韻が残る楽しい演奏会をありがとうございました。

 

 

過去のコンサートから(u-tubeから)

 

 

 

 

 

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東京都庭園美術館  (bon)

2016-12-23 | 日々雑感、散策、旅行

 このところ、なぜか若冲、秋田蘭画と絵画が続いていますが、またまた美術関連です。
一昨日、21日(水曜日)に冬至というのに春のような暖かさの中、目黒の東京都庭園美術
館に行ってきました。 先ごろ、大阪のKuさんと電話の中で、この話が出て“ウイークデ
イは、全館写真フリー”との言葉に惹かれて、アール・デコを改めて確認しようと、久し
振りに同館を訪れたという訳です。 たまたま、第3水曜日シルバーデイということで、入
館料は無料でした。(通常、シルバーは半額で450円)

 1983年(昭和58年)に一般公開された、ここ東京都庭園美術館は、旧朝香宮邸(1933年
竣工、重要文化財)本館と新館(2013年竣工)で構成され、日本庭園の中にしっとりと
調和して、JR目黒駅から徒歩10分ほどの都心の真ん中にもかかわらず静かな環境を呈
していました。

 入り口横の表示             旧朝香宮邸正面
 

 

 今回の展覧会(11/22~12/25)は、フランス人 クリスチャン・ボルタンスキー(1944年
パリ生まれ)によるインスタレーション「アニミタス~さざめく亡霊たち」の空間美術と
浅香宮の「アール・デコの花弁(はなびら)」の同時開催で、1920~30年代に一世を風靡した
「アール・デコ」美術様式の館内と 1970年代以降の現代空間芸術「インスタレーション」を
見事にコラボレーションさせた体験芸術とでもいえるような展示でした。

 宮邸全景は、まさしく直線美を追求したシンプルに見える建物ですが、その内部は、各
部屋ごとにその目的と大きさに応じて、天井、床、壁、シャンデリア、テーブルなどの
調度品それぞれに工夫され、こだわりを見せた作りになっていて、ガラス、石材、タイル、
金物などなど多様な素材にもその粋が集められているのです。 大広間、殿下の部屋、妃殿
下の部屋、書斎などなど、そして二階への階段の作りなどにも美しさが感じられるのでした。

 正面玄関のガラスレリーフ        大広間
             

大客室                  食堂
  

 

 次室(香水塔)             階段
  

 

           書斎                 
           

 

 部分的な写真では、なかなかその雰囲気を伝えることは難しいですので、あとは想像に
お任せするのみです。館内のあちこちで、さざめきの音が聞こえてくるのです。何かを
ささやいているのですが、内容は定かに把握できません。ボルタンスキーによるインスタ
レーションなんです。 2階のいくつかの部屋では、暗くした部屋に亡霊の映像が影絵で
映しだされた「影の劇場」あったり、真っ暗な部屋にフィラメントが丸出しの小さな赤い
電球が一つ不規則に点滅し、ステレオスピーカから本物の心臓音がただ単調に響くそんな
部屋もありました。そして新館では、2つのギャラリーに「まなざし」と「ささやきの森」
が設定され、その中にいる自分という存在を再認識させられるような空間がありました。
一瞬驚きの場面で、絵画や彫刻のような見る芸術ではない独特の感覚がよぎるのでした。

影の劇場                 まなざし
 

 

  ささやきの森2題
 

 

 そんな体験をして、庭園にでてみると、風もなく暖かな日差しの中の日本庭園は、それほど
広くはありませんが、残りモミジが池とともに美しい景観を見せていました。 暖かいせいか、
水彩画を描いている人が何組かいました。

庭園から見た美術館            写生する人も
 

 

 20年ほど前に、映像制作に関する職場を担当していた頃、ちょうど映像をコンピュータ処理
することでいろんな表現ができることから、新進芸術家によるインスタレーションを会社の
空間や展示会場で一般の人たちに公開するイベントを開催したりして話題を集めたことを思い
出しました。映像で作った水槽(池)のまわりで手をたたくと、その音につられて映像の魚が
寄ってくる・・そんなお遊びみたいなものですが結構楽しめていました。

 久しぶりの目黒でしたので、JRの反対側の雅叙園横を下り、目黒川沿いに歩いて杉野服飾
大学横の坂を上り一周して改札に入りました。

 

u-tubeにありましたので・・。 

 

 

 

 

 

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冬至  (bon)

2016-12-21 | 日々雑感、散策、旅行

 今日12月21日は、冬至です。

 北半球では太陽の南中高度が最も低く、日の出・日の入りの方角が最も南寄りになるため、
一年の間で昼が最も短く夜が最も長くなる日です。 しかし、日の出の時刻が最も遅い日や
日の入りの時刻が最も早い日と、冬至の日とは一致せず、日本では、日の出が最も遅い日は
冬至の約半月後(年明け)であり、日の入りが最も早い日は冬至の約半月前にあります。

 当ブログ内で“冬至”という言葉を使用している記事は結構ありますが、二十四節気の位置
づけとして「冬至」を扱った記事は、“朔旦冬至”(2014.12.21)と“ゆづ風呂”(2010.12.19)
の2つあります。なので、今回は、「冬至」そのものについて、習俗などを含めて記事アップ
したいと思いました。

              冬至の状態
          (ウイキペディアを加工しました。)

 

 冬至の日は(北半球では)太陽の力が一番弱まる日であり、この日を境に再び太陽の力が
甦ってくる、という意味から古くから重要な一日とされていました。紀元前3500年のメソポタ
ミア文明では、太陽の力が最も落ちる冬至の時期が一年の始まりとされ、冬至前後の12日間は
新年の祭が開催されていたそうです。 古代中国でも、冬至は暦を決める上での起点となる
重要な節気であり、
紀元前1046~256年の周代には中東の文明と同じく冬至が一年の始まりと
されていました。冬至を祝う祭典はいろいろな形で引き継がれ、現在でも「冬至節」
として
旧正月を祝う時のように、先祖や神様を祀って一家団らんで宴を楽しむ習慣が残っているそう
です。

 また、古代ローマでも、冬至祭があったそうです。 農耕の神を祀り、闇を追い払うための祭
として、人々は仮装したり、晩餐会を開いたり、友人とプレゼント交換をしたそうです。 
これは、キリスト教と混淆して後のクリスマスの習慣の素になったとも言われているそうです。 
 ヨーロッパ北部、特に北欧では、ケルト人やゲルマン人による冬至祭が行われていました。
暗くて寒い冬至の時期は、悪霊の力が強まると考えられていましたが、冬至を境に太陽のパワー
が復活するとされ、冬至祭はそのことを祝福する宴であったのでした。この祭は「ユール」と
呼ばれ、「ユールログ」と呼ばれる大きな木の幹(巨大な薪)を燃やす火を囲んで、ご馳走を
食べ、お酒を飲んでお祝いしたそうです。

 

 またしても二十四節気寄りになりますが、冬至は太陽が黄経270度の位置にあるにもかかわらず、
二十四節気の始まり(円の頂点=12時のところ)の位置に書かれていて、黄経0度の春分は、
時計の9時の位置となっています。旧暦の1月、つまり立春は、なんと時計の短針10時半の位置に
あるのです。何が言いたいかといえば、昔から、この冬至がやはり基準(はじまり)の位置に
あったということなんですね。しかし、旧暦1月とはせずに11月としているのです。

 

 冬至には、ゆづ湯に入り、カボチャを食べる・・などといわれ、確かにゆづ湯は身体を温め
るし、カボチャはビタミンなど栄養素が豊富であることから、昔からそんな風なことを言って
きました。「運盛り」(うんもり)という縁起担ぎの食べ物があるというのです。“ん”の付く
食べ物が縁起が良いと・・。かぼちゃは、なんきんと呼ばれ、ん が2つあり、にんじん、れん
こん、きんかん、ぎんなん、かんてん、うんどん(うどん)もそうですね。なんだかお遊びみた
いですが、冬至の“と”の付く食べ物もよい・・というのもあったりです。とうふ、とうがらし、
どじょう・・。ここでは、かぼちゃ は、とうがんとしています。

 このほかにも食べ物があって、小豆。 小豆粥にしたり、かぼちゃと小豆を煮た“いとこ煮”、
それに こんにゃく・・。

 

 

 

 

 

 

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聖護院大根  (bon)

2016-12-19 | 日々雑感、散策、旅行

             このところ季節外れの気温ということで日中は15℃と予想され
            11月上旬並らしいです。今日は、大きな高気圧が列島を覆い
            広い地域で、風も弱く良いお天気となりそうです。

 
 今年初めて、すぐ前の市民農園で作ってみました。 聖護院ダイコンです。今年9月15日に
種まきをして、あれから3か月ほどで、もう収穫できていますから本当にお手軽な感じで栽培
できるのです。青首大根もこの時一緒に植えました。 しかし長ネギをこの時期に収穫する
ためには、春3月に種まきをし、7月に定植してようやく・・で、やや時間がかかります。 
ネギやダイコンは、今月に入って少しずつ収穫し、ご近所さんにもいただいてもらっています
が、昨日の日曜日、これらをまとめて集合させてパチリとしました。

          聖護院ダイコンなど(聖護院、青首、長ネギ、こかぶ)
              

 

 聖護院ダイコンというのは、いわゆる「丸大根」ですが、京都の伝統野菜なんですね。
もとはといいますと、江戸の昔(1830年ころ)に尾張の国から京都聖護院の東、金戒光明寺に
普通の長大根が奉納された時、この大根を付近の農家がもらいうけて長年栽培しているうちに
丸くなったそうです。おそらく、京都のそのあたりの耕地が浅く土中深く根を伸ばせないため、
その環境に適した形に変わってきたのかも・・といわれています。現在、京都南部の淀地区を
中心に栽培されるようになった事から「淀丸大根」や「淀大根」とも呼ばれたりしているそう
です。 しかし、今や、市販の種(タネ)そのものが「聖護院大根」として売られているので、
どこで栽培しても聖護院なんですね。 そもそもの原種は、尾張の国の「宮重(みやしげ)大根」
だそうで、普通の青首大根もこの系統だといいますから、大根の元祖?みたいな存在なんですね。

種まきの10日後あたり           収穫期
 

 

抜く直前                       12月初めころの長ネギ
 

 

 聖護院大根は、煮物用と言われているのですね。 「聖護院大根は一般的な青首大根と比べ、
単に形がまるいという違いだけではなく、肉質がとても柔らかいのに煮くずれしないのが特徴
で、辛味や大根臭さが少なく、甘みがあり、田楽や煮物、風呂吹き大根など煮て美味しい大根
です。水分が多いため、大根おろしには向いていません。西洋料理でも、ポトフ的な煮物や
スープなどに使うと良いでしょう。出汁をしっかりと含ませて柔らかく煮上げたものを魚料理
などの下に敷いたりして一緒に食べても美味しいです。」とありました。

 また「肉質が緻密で、生のままスティックにしたり細切りにしてサラダ的な使い方をしても
とても歯ざわりがよく、また、辛味が少なくほんのりと甘味があってとてもおいしいです。
さらに、漬物も沢山あります。ピクルスにしても良いでしょう。」ともありました。

         鶏肉とうすあげの煮物にしてみました。
          

 

 聖護院ダイコンとよく似た丸い形のカブがあります。千枚漬けでおなじみの「聖護院かぶ」
ですね。 ネットを見ていたら、大根の方でも千枚漬けができる・・などとありましたので、
キャベツなどをスライスする器具で、丸大根をスライスして、甘酢と昆布に付け込んでみました。 
かぶ独特のぬめりのような食感はありませんでしたが、千枚漬けに似た「おなます」風でおいし
く頂きました。

 ついでに、「聖護院かぶ」も、京野菜の一種で、京の伝統野菜に指定されているのです。
成長すると2 - 5kgにもなる、日本最大級のカブで、千枚漬けの材料となっているほか、煮物や
汁物もあるそうです。 聖護院大根の方は、原種が尾張からでしたが、こちらのカブは、近江が
原種で、享保年間(1730年ころ)に、近江の国堅田から、京都府左京区の聖護院に持ち帰り栽培
し改良したことからこの名になったそうです。 昼夜の気温差が大きく、霧が発生する地方が好
条件のようで、今では京都府亀岡市や滋賀県大津市で盛んに栽培されているそうです。

 聖護院かぶ と 聖護院大根とはどう違うのか? かぶと大根は、基本的(植物学的)には全く
別ものなんですね。 古い名でも、かぶはスズナ、大根はスズシロ ですね。 詳しくは、この
どちらも、アブラナ目、アブラナ科ですが、かぶはアブラナ属で大根はダイコン属なのだそうで
す。 どちらも丸いですが、葉に鋭い切れ込みがあるのがダイコンで、切れ込みのないのがカブ
ですので、機会がありましたらご確認ください。

 もう終わりますが、「聖護院キュウリ」というのもあるそうですね。江戸時代頃から栽培が
はじまったとされるきゅうりで、明治から昭和の中頃までさかんに栽培されていましたが、暖地
産の早生きゅうりが主流となり生産は激減してしまったようです。今では、保護種となっている
ようです。聖護院きゅうりは、黒いいぼいぼの、丸というよりやや三角のような断面をしている
そうです。 

   お疲れさまでした~。


         収穫が続いているしゅんぎくとほうれん草です。
          

 

 



 

 

 



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秋田蘭画  (bon)

2016-12-17 | 日々雑感、散策、旅行

 「秋田藩士が描いた阿陀風(おらんだふう)の絵」から。「秋田蘭画」と呼ばれて
います。 江戸時代半ばの18世紀後半、秋田藩の若き武士たちによって西洋と東洋の美が
結びついたすばらしい絵画です。

 12/15に、友人のお招きで、サントリー美術館に行ってきました。 先の若冲展での余韻
がまだ少し残っている感じがありましたが、若冲より50年ほど後の絵画ですが、西洋の画風
が取り入れられて、その背景などは銅版画を思わせるようなタッチで巧みな遠近法を実現さ
れていて、これが江戸時代か・・と錯覚するような思いでした。ウイキペディアの表現に
よれば、「絹本着色で掛幅という東洋画の伝統的な形態をとりながらも、画題のうえでは
洋風の風景画や静物画を、技法のうえでは陰影法や遠近法など西洋絵画の手法を採り入れて、
近景に濃彩のあでやかな花鳥や静物を描き、遠景には水辺などの風景や、淡い色彩で距離感
を示しているなど普通の日本画では見られない感覚の絵画です。掛け軸が多く、したがって
縦長構図の作品が多い。」とありますが、まさにその通りでした。

        小野田直武と秋田蘭画
           
(サントリー美術館パンフより)


 秋田蘭画の代表的な画家に、秋田藩士小田野直武(1749年―1780年)、藩主佐竹曙山
(1748年―1785年)、その一族佐竹義躬(1749年―1800年)がおり、その中心的に活躍した
のが、小野田直武で、角館に生まれています。 平賀源内がこの地に訪れ、藩主佐竹曙山
(義敦)に拝謁した折、まだ若い直武は源内に抜擢され江戸に移り、江戸寄寓中に源内の
ネットワークを通じて蘭学者に出会い、1774年には、杉田玄白などのあの「解体新書」の
挿絵を担当したのです。原書「ターヘル・アナトミー」の詳細な原画を写し取り新たな版を
作るのです。そうなんだ、小野田直武という人は知りませんでしたが、あの「解体新書」の
挿絵を担当した人なんだ!

       東叡山不忍池(重要文化財)(小野田直武秋田県立美術館所蔵)
        
(ウイキペディアより)


 しかし、直武は31歳という若さでこの世を去っています。秋田蘭画の制作期間は僅か7年
だったというのです。代表的な絵師であった第8代秋田藩主の佐竹署山は37歳、角館城主の
佐竹義躬は51歳で共に若くして亡くなり1800年には、3人ともいなくなり、直武に学んだと
される司馬江漢が唯一その画風を継承したと言われているそうですが 長く世に知られること
は無かったそうです。

 昭和5年(1930年)、直武と同郷の日本画家、平福百穂(ひらふくひゃくすい)の「日本
洋画曙光」という大型版画集により、直武らの秋田蘭画が紹介され陽の目を見ることと
なった・・とありました。東京での展覧会は、16年ぶりだということです。

 これらの絵に共通するのは、その対象はもとより精緻に描かれて輝く様を呈していますが、
その構図が1枚の絵に動きと奥行きを加え一段の迫力を与えているのでした。また、画集として、
鳥や花、動物、昆虫などの写実的な描写があり、先の「解体新書」に見られる精細な図は、
解説にありました「美術と科学の接近」として、まさしく言い得ていると思いました。

 

 サントリー美術館は、以前、赤坂にあった頃に行ったきりでしたが、2007年にここ、六本木
ミッドタウン(ガラリア3F)に移転してから初めて訪れました。防衛庁の後地にできたミッド
タウンも、早や9年が過ぎるのですね。お上りさんよろしく、パチリとしたり、館内を歩いたり
しました。なんと、あの金沢の酒造「福光屋」の店舗がありました。

 友人とは、絵画鑑賞の後、ランチをし、リッツカールトン東京のカフェでお茶しながら秋田
蘭画の印象から、直近の国会審議、都議会審議などに発展したりして六本木を後にしました。

 

六本木ミッドタウン
   


アトリウム(ガラリエから見た)      赤坂方向
 


 

 

 

 

 

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ひんがらめ  (bon)

2016-12-15 | 日々雑感、散策、旅行

             お近くからいくつか“ゆづ”をいただいたので、冬至にはちょっと早いですが、
                           夕べは“ゆづ風呂”にしました。湯舟いっぱいに良い香りが立ち込める中、
                           首まで浸かりながら、こんなことで小さな幸せと感謝の気持ちが湧いてきました。
                   今日、山口県長門 のお湯加減はどうでしょう?


 話題がアチコチ飛んで申し訳ありません。 先ごろ新聞社から届けられた来年のカレン
ダーの表紙に大きなバラのステレオグラムが印刷され、トレーニングしましょうなどと
書かれていました。  ステレオグラム 3Dイラストの立体視トレーニングで視力が回復
する・・とあります。じっと見ていると、バラの図柄の中にハートの立体画像が浮かび、
顔を少し動かすと、それに応じて立体ハートも角度を変えて付いてくる・・そんな画像で
した。      

         ステレオグラム例
           (ネット画像より)
 

 この立体画像を見る時、“寄り目”風にすると見えやすいことが分かります。この寄り
目のことを、大阪弁で“ひんがらめ”といいます。 ネット辞書には、「ひんがらめとは、
斜視の一種で、片方の目は視線が正しく目標とする方向に向いているが、もう片方の目が
内側や外側、あるいは上や下に向いている状態のことをいう。寄り目、すがめ、藪にらみ、
ガチャ目、ロンパリなどのいい方もある」とありました。

 目に関して、「目がかたい」について当ブログ2014.5.25に記事アップしています。
この意味は、子供が夜になってもなかなか眠らないことをいう但馬地方の言葉とありますが、
私なども言ったり聞いたことがありました。

 どうも、目(め)にはいろんな言い方があるようで、ヒトの動作、感情、状態などを表現
する言葉があります。 “目くじらを立てる”、“目からうろこが落ちる”、“目配せ”、
“目星を付ける”“目が据わる”、“目が泳ぐ”、“目線”、“目上・目下”、“目は心の
窓”、“目は口ほどにものをいう”、“目鼻がつく”、“目利き”、“目分量”、“落ち目”、
“目がない”などどんどん出て来そうですが、目そのものについても、“目頭・目じり”、
“めばちこ(ものもらい)”、“目の上のコブ”などがありますね。 ここで、“目くじら”
くじらは、海に泳ぐ鯨とは関係なく、“くじり”=目くじり→目くじらと変化し、つまり
目じりのことだそうです。また、“目からウロコ・・”については、新約聖書『使徒行伝』に、
一旦は目が見えなくなったパウロが「直ちに彼の目より鱗のごときもの落ちて見ることを得」
とあることから生まれたもののようです~とありますが、ずいぶん遠い話から来ているんだな
と思いました。 また、目上・目下などというのも、なぜ“目”なのか不思議なところです。
甘いものに目がない・・なども言いますね。

 また、ヒトの目以外に目があるものがあります。“木材の目”があります。カンナなどを
掛ける時、正目にかけないと、逆目にかけると刃が食い込んで、うまくかけられないですね。
木目がきれいな家具・・などもあります。 畳にも目があります。NHK朝ドラの“マッサン”
で、イギリスから来た彼女が畳の目を探している場面がありました。のこぎりにもあるの
でしょう。目立て。 我々が良く使っているのに、碁盤の目があります。目が出来る、
目を作る、目がないなどといいます。勝敗を決める時は、モクといいますね。3目(モク)勝ち。

 モクといえば、生物分類で使用しますね。 詳しくみますと、界―門―網――科―属―種
とあり、お馴染みのところでは、ネコ目・イヌ科などがあります。イヌもネコ目(モク)なん
ですね。 また、生物の分類ではない目(モク)もあり、“目する”・・首謀者と目される、
将来を目される などがありました。            

 暮れの忙しい時期に、暇人の極みの一節でした~。


      (上のステレオグラム 丸いドーナツのようなリングが見えたら成功です。)

 

makの好きな曲から・・

 

 

 

 

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MRJ  (bon)

2016-12-13 | 日々雑感、散策、旅行

 ほぼ20年前くらいに、“次世代飛行場のあり方”についての検討会にICT(情報通信
技術)の立場で参加し、飛行場に関連した新機能・安全・経営・国家戦略などの総合的な
勉強をしたことがありましたが、飛行機自体については殆ど考えたこともありませんでした。
それが、先に届いた会報に「MRJの戦略」~日本製ジェット旅客機を世界の空へ~と題した
講演(江川豪雄氏、三菱航空機(株)前取締役会長兼CEO)記録が掲載されていて興味が
ありましたのでここにご紹介を兼ねて記事アップした次第です。

 宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」の主人公 堀越二郎は、ゼロ戦の設計者として有名ですが、
ゼロ戦って終戦までに1万機以上製造されたそうなんですね。あのライト兄弟が有人動力飛行
に成功した1903年からわずか7年後には日本でも初飛行に成功しているのです。9年後の1919年
には三菱造船(後の三菱重工)で飛行機製造を開始し21年には戦闘機を初飛行させ、39年には
「ニッポン号」を毎日新聞社に納入し訪問国20か所に及ぶ世界1周飛行を成功させたのでした。 
日本は戦前まで航空機王国と言われたそうで、多い時には月産3000機も製造したとありました。
敗戦後は、航空機産業は禁止され、7年後に再開されましたが、技術はプロペラからジェット
に代わっていたのでした。

 よく知る、あの「YSー11」は、1959年に官民出資で開発され、1962年に名古屋空港を
離陸したのです。この年の12月にYSが初めて羽田空港に来た時、皇太子さま(今上天皇陛下)
がご臨席され、昨年の天皇誕生日の会見でもMRJの初飛行に言及されたことに、氏は“真に
光栄なこと”とありました。このYSも、採算が合わず1971年に生産終了したのです。 累計
182機だったそうです。同じころ、三菱重工は小型ビジネス機「MU-2」(ターボプロップ
機)を開発し、1987年までに762機生産し、今もアメリカで200機以上飛んでいるそうです。

         MRJ飛行試験1号機
           (ウイキペディアより)


 MRJというのは、Mitsubishi Regional Jet の略で、三菱の地域航空を担うジェット機
という意味ですが、現在の航空会社の路線方式は「ハブ&スポーク」で、各大陸にハブ空港が
設置され、ハブ空港同士は基幹路線として大型旅客機(アメリカのボーイング社、ヨーロッパ
のエアバス社が独占)が就航し、各ハブから地方の中小空港へ放射状に支線を延ばすという
システムをとり、ハブ空港と地方空港間や地方空港同士を結ぶ路線(スポーク)を60~100席
前後の旅客機、すなわちリージョナル機が就航するのです。で、このリージョナル機の新規
需要は、今後20年をみても5000機以上はあると見込まれているのです。ここにMRJの戦略が
あるというのです。

 2008年に全日空から25機の受注があり、事業化が決定し、翌年には三菱航空機(株)が資本
金1000億円で設立されたのです。出資者は、トヨタと三菱商事が100億円ずつ、三井物産、
住友商事から各50億円、三菱重工640億円、その他国内各社で政府筋からも支援を受けまさし
くオールジャパン体制・・とあります。

 開発のセールスポイントとしては、①環境、②経済性、③快適性 を重視し市場競争力を高
めているといいます。①環境では、騒音を40%減少させるほか、燃費を向上させてCO₂排出
を20%以上減少させる。②経済性では、燃費向上により従来機より20%以上のコスト削減を
達成し、さらに安全性についても、メータ類に代わるディスプレイにより操縦性を改善して
いる。③快適性は、乗客の贅沢指向に合わせて客室は天井を高くし座席幅も広く取り、機内
持ち込みサイズも国際線と同じにしている。 さらに、従来機は貨物室が、客室の下にある
ため機体断面は“だるま”形になりますが、MRJは、客室後方に貨物室を設けているため
断面は真円となり、空力特性がよくなり燃費が各段に向上したとあります。

 課題としては、機体に関しては、100万点に及ぶ部品総数(ジャンボ機では300万点)の殆ど
がドル建て輸入なので、部品を国産化して行くことであり、運用に関しては、カスタマーサ
ポートの整備を充実させ、世界中、24時間サービスを実現させることだとしています。そのた
めには、世界に通用する人材が欠かせないということで、開発分野では空力、構造、電気、
安全性、複合材など幅広い分野の技術者が必要ですし、販売分野ではファイナンスやリースの
専門知識を持ち、複雑な契約交渉が行える人材、さらに量産や部品調達の効率化に向けた人材
が、また、カスタマーサポート分野に必要な人材が求められているのです。

 講演の終わりに、「航空機産業において、名古屋(MRJ),シアトル(ボーイング)、
ツールーズ(エアバス)の三極体制を実現することも夢ではありません。」と締めくくられて
いました。

 

 なお、ウイキペディアには、詳しい記事がありますが、その一部について要旨を以下に記し
ておきます。

・MRJは、経済産業省が推進する事業の一つで、環境適応型高性能小型航空機計画をベースと
して、三菱航空機が独自に進める日本初のジェット旅客機である。戦後日本が独自の旅客機を
開発するのはYS-11以来約40年ぶり。機体製造は県営名古屋空港に隣接する敷地で行われて
いる。

・2016年9月25日、飛行試験機4号機「JA24MJ」初飛行。
・2016年9月26日、飛行試験機1号機、県営名古屋空港から米国ワシントン州モーゼスレイク
飛行試験センター(MFC)へ向けて再度出発。28日、グラント郡国際空港へ到着。

・2016年11月15日、飛行試験機4号機、県営名古屋空港からMFCへ向けて出発し、18日、グラン
ト郡国際空港へ到着

・2016年11月22日、飛行試験機3号機「JA23MJ」初飛行

また、日本の他社の動向については、以下の通りです。

・富士重工業 スバルジェットとして開発が進められており、2008年にその概要が発表され
たが、資金調達の制約から開発を延期するとの報道があった。

・川崎重工業 独自の旅客機の開発は見合わせ民間貨物輸送機について事業化の方針である。

・本田技研工業 1962年に航空機事業への参入を宣言して以降、全自社製のビジネスジェット
機となる「Honda-Jet」(乗客:5~6名)の開発を開始し、2013年12月初飛行、2016年1月販売
を開始した。

 


 

 

 

 

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蓼科農場発表  (bon)

2016-12-11 | 蓼科浪漫倶楽部 畑

 この金曜日(12/9)に、久しぶりの感じの集まりがありました。MACの会という、異業種の
人達が集まる同好会で、飲みながら談笑する楽しい会です。  毎回、誰かの発表があり、
それがメイン話題となったりして いろんな角度からの意見が飛び交い、楽しい知的な会合と
なります。

 今回は、わが蓼科浪漫倶楽部が運用する“蓼科農場”のすべてについて、pookyさんが発表
されました。  設営のために、小一時間も前に会場に到着し準備に取り掛かりましたが、
持参
したパソコンと会場のプロジェクターとの接続がうまく行かず時間を要しました。彼のPCが
最新型で、接続のSCSI(スカジー)端子が無く、止む無くUSB接続にしたのですが、これが
PC側で認識されず 行きどまりとなってしまったのです。すったもんだのあげく、会場側の
PC(使い慣れていない)を使用することになり、予備的に持参した 内容を記録したUSBメモ
リーから発表することになりました。

         発表資料タイトル画面
          
 

 発表は、蓼科浪漫倶楽部発足のきっかけとなた2000年に、K邸の花壇作りをしたことから
始まり、近隣住人の紹介で、農家から1000㎡強の畑を借りて2004年から畑作業に移行して、
今日に至る生い立ちから、年間を通した畑作業の紹介を、苗作りから収穫までの各段階での
トピックスや工夫・失敗談も含めて身近な話題として発表され、 これまであまり関心の
無かった人たちも、ジッと聞き耳を立てて頷いていました。この会のメンバーがこのような
農作業を趣味でやっていることに驚かれているようでした。
 標高1000mの高原の気候と、気温を考慮した苗作り・植え付け・収穫のタイミングや雑草・
動物被害対策などやや専門的な話も、現実の写真などを見ながらの解説に皆さん納得されて
いたようでした。 楽しいオートスライドでは、人物の動作と風景、とくに八ヶ岳の勇姿
にも関心が移り、あわせてBGMも好感が持たれていたようでした。

 発表後は、アルコールも入り、質問も活発に出たりして話題に盛り上がっていました。
ジャガイモを500㎏も収穫したり、タマネギを1500本も植えているなど意外な大量だった
ことや、栽培している野菜の種類の多さ、そして雑草対策として、マルチは当然ながら
防草シートを敷設しているなど本格的な作業に驚きすら感じられていたようでした。

         途中の面白いスライド
           

 

 このように、改めて振り返って見ると、“よくもまぁ~12年も畑をやってきたもんだ”と
思う中で、それぞれの場面での想い出が走馬灯のように駆け巡るのでした。畑作業の他、
収穫祭の楽しさ、雨の日の過ごし方、動物被害に遭ったことなど、まるで昨日のように
鮮明に思い出されるのでした。

 Pookyさん、発表資料作りから大変ご苦労様でした。そして、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

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地球温暖化  (bon)

2016-12-09 | 日々雑感、散策、旅行

      今日、129日は夏目漱石忌にあたります。1916年、49歳 胃潰瘍で他界しました。     
     漱石については、
当ブログ記事、
     若さんの “神楽坂研究(4)夏目漱石は神楽坂大好きでした(2016.10.8)”および
         “神楽坂研究(5)まち飛びフェスタ(2016.11.11)”に詳しく記述されています。
          また、今朝のNHKニュースでは、アンドロイド漱石が放送されていましたし、 
     明日夜には、NHKテレビで「漱石悶々」(豊川悦司、宮沢りえ)が放送されます。

 

 地球温暖化に関しては、当ブログの昨年 2015.11.26の記事「COP21」にその概要を
紹介していますが、この「パリ協定COP21」に至るまでの、地球温暖化に対する世界の
取り組みと更なる今後の課題等について書かれた「地球温暖化は解決できるのか」~
パリ協定から未来へ~(小西雅子著、2016.7.20、岩波ジュニア新書)を読んで、改めて
本題の重要さを理解するとともに、日本を含む世界の国々の取り組む姿勢のエゴさ加減を
垣間見ましたので、もう一度このテーマについて記事アップした次第です。

 この本の著者、小西雅子氏は、畑仲間の、Ka氏(高崎市在住)の姪御さんにあたる方だ
そうで、現在、WWFジャパン自然保護室次長兼気候変動・エネルギープロジェクトリーダー
という要職を務め、日本気象予報士会副会長、昭和女子大学非常勤講師など幅広く活躍され
ています。この9/29には、東京八重洲ブックセンターで発刊記念講演会を開催されました。

            小西氏の著書
          

 
 そもそも、ことの起こりは、産業革命以降ずっと排出し続けてきた温室効果ガス(二酸化
炭素、メタン、一酸化二窒素、フロンなど)の影響により、地球温暖化が進行しているという
ことなんです。中でも、1850年頃から石炭エネルギーにyる工業化の進展により急激に炭素
排出量が増加し、この130年間に世界の平均気温は0.85度上昇したとされ、日本では過去100年
で平均気温は1.3度上昇しているそうです。 平均気温が1度上昇するということは、大変な
ことで、今より1.5万年前の氷期の平均気温と現在との差は、わずか4~7度低かったに過ぎな
いと言っています。それが、100年(という短い期間)で1度などというのは論外のスピード
だというのです。

 1988年、今から28年前に、気候変動に関する国際政府間パネル、IPCCが発足し、世界中の
科学者の統一見解として、国連の温暖化に関する報告としてまとめられています。 これまで
に5回の報告書が発表されています。 このIPCCの活動を受けて、1992年(今から24年前)に
「気候変動枠組条約」という初めての温暖化防止条約が採択されたのです。気候変動条約
第1回締約国会議(COP1)が、1995年にスタートし、毎年12月に開催されるというベースが
出来たのです。

 国際条約には、「採択」「批准」「発効」という3つの段階があって、国際会議で合意され
るのは「採択」で、それを各国内で検討・審議してこれに賛同した場合「批准」(受諾、
加入)となり、批准国が一定数を超えると、その国際条約は効力を生じ、批准国には、これ
を守る義務が生じる「発効」となるのです。 地球温暖化に関する初の採択が「京都議定書」
(1997年、COP3)で、日本は2002年にこれを批准しました。で、2005年にこの京都議定書が
発効したという流れになっているのです。

 しかし、この京都議定書には、当時新興国は含まれず、先進国(OECD加盟国)による内容
で、先進国だけに温室効果ガス排出制限が課せられることになっていたため、その後の新興
国の急速な発展により、特に中国、インドなどの排出量は、当時の先進国を上回る程となり、
京都議定書の意味は薄れてしまいました。

 温室効果ガス排出量は、その国の産業発展と連動しているため、新興国の急速な産業発展
は、直接排出量の増加という結果につながり、国際的にこの問題に取り組む場合、各国の産業
発展と排出量が裏腹の関係にあり、そして、さらに先進国の先行排出量が累積されていること
への不公平性など、各国の利害がマチマチで、ここに本問題の国際条約の難しさがあると訴え
ています。

 それでも、延々と難航を極めたこの問題も、2015年には、先の京都議定書に続き、「パリ
協定」(COP21)が採択され、2020年以降の温暖化対策が決まったのです。 産業革命前に
比べて気温上昇を2度以内に抑えることを長期目標に据え、その実現のために今世紀後半には
排出量を実質ゼロとすることが明記されたのです。 問題提起から約30年を要してようやく
成立したのです。 今後は、このパリ協定に基づき具体的なルールつくりが行われるのです
が、各国は削減目標を提示して、5年ごとに見直し、新たな目標を提示することが義務付け
られています。5年ごとにその進捗状況と温暖化防止対策の具体的な進捗状況を合わせて報告
するという枠組みなのだそうです。

 日本は、2020年目標として、3.8%削減(2005年比)を発表しましたが、これは国際社会
を失望させた低レベルの目標で、京都議定書での目標よりも後退した内容で、もはやリード
的立場ではなくなっているのです。2030年目標でも、1990年比換算で日本は18%削減に対し
て、アメリカ27%、欧州連合40%とかなり見劣りしています。科学立国として少々お寒い感
じです。

 排出量削減対策は、先のブログにもありますが、①省エネルギー、②低炭素エネルギーの
活用、③二酸化炭素排出の多い石炭をやめる の3つの柱で、これを総合的に推進してゆく
必要があるとしています。 原子力はクリーンエネルギーですが、安全・安心面、使用済み
燃料処理等に大きな問題があり、個人的には即縮少したいと思いますが、40年を超過した運転
に踏み切る等の政策が採られました。 さらに、再生可能エネルギーの振興策を強化して、
科学立国らしく世界をリードする政策が欲しいところです。 併せて、街中の身辺をみても、
まだまだエネルギーの無駄遣いが横暴しているんですね。

 大きな国レベルの政策とともに、先ずは地球温暖化問題を一般市民に広く浸透・理解して
もらうことが大事であると思います。

         WWF活動 小西氏報告より
           

 先月行われたCOP22に出席された小西氏のレポートから、その一部をいかに抜粋しま
した。
「アフリカのモロッコ、マラケシュにおいて2016年11月7日から18日まで開催されていた
第22回国連気候変動枠組条約(COP22)及び第12回京都議定書締約国会合(CMP12)が終了し
ました。21世紀末までに、温室効果ガスの排出をゼロにすることを世界が約束した「パリ
協定」が発効して、初めての国際交渉となった今回の会議。交渉は最終日の深夜まで続き
ましたが、期待されていたパリ協定のルール作りは、無事にスタートすることが決まりまし
た。」

 

 

 

 

 

 

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今年も渋谷で~  (bon)

2016-12-07 | 日々雑感、散策、旅行

                    今日(12月7日)は、二十四節気の「大雪」です。昨夜から急に
                       気温が下がり、暦通りの寒い冬が来ました。各地でインフルなどが
            流行っているそうですので、手洗い、うがいで予防に万全を!


 昨日(6日)夜、昨年と同じ渋谷の某所で、その昔 職場を共にした若人たちの忘年会が
ありました。 毎年、今話題の真珠湾の頃を挟んだ時期に開催されていますが、あれから
1年、同じ顔触れの人たちのほか、久しぶりに見る面々のなつかしさもひと際です。 
 あの頃はみんな若かった。思えば、私がこの職場に着任したのは、今から41年も前のこと
なのです。 この職場は新しい画像・映像を使った技術・サービスの開発を担当する、当時
としては最先端のサービスを実現するために、日夜努力を重ねていた訳ですけれども、あれ
から40年の歳月は、この分野の技術進歩から見ればあまりにも短いというか、当時はまだ
手の届かない先にあった技術が、今や普遍のものとなっているのです。 ポケモンGOなど
にみられる、超小型のモバイル端末(スマホなど)で、GPSによる位置認識、そしてそこ
に種々のキャラクターを映し出し、しかも、映し出されたキャラクターをクリックするなど
して反応させるなどは、夢の外であったと思います。 こんなこと・・も当時はままならな
かったのです。

            

 

    

 

 先の日曜日夜のNHKスペシャルでは、「戦艦武蔵の最期~映像解析 知られざる“真実”
~」をやっていました。 昨年フィリピン海溝、レイテ沖海底1200mに沈む、その姿が発見
された100時間に及ぶ映像を解析して各部分を構成することにより、海底に沈んだ状態からの
復元に見事成功し、不沈武蔵がなぜ沈み 船体がバラバラになったかを各専門家からなるプロ
ジェクトにより解明されていました。映像技術処理に隔世の感を覚えます。

 渋谷で集まったメンバーは、大半がリタイヤ組ですが、今も現役で頑張っている人たちも、
すでに画像・映像以外の仕事に就いていて、今や昔の苦労や楽しい想い出話に花が咲くので
した。 お互い年をとりました~。 しかし、こうやって一堂に会すると、昔の絆が明日へ
のエネルギーとして燃え繋がってくるように思われるのです。

 

 

 

 

 

 

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新宿御苑  (bon)

2016-12-05 | 日々雑感、散策、旅行

 3日の土曜日、暖かな陽射しに誘われながら 新宿御苑に行って来ました。

ま、土曜の午後で暖かい・・となれば、御苑も大変な人出でした。そして、銀杏などの黄色、
モミジの真っ赤な色づきに彩られたこの時季ならではの景観を呈していました。  先日
(11月末)の京都御所のモミジも素晴らしく、とくに直前観賞した名画の余韻を親しく語り
合いながらの眺めでしたから 一層印象深く残っています。 が、この御苑のモミジの赤さは
半端じゃない・・そんな、色付きだったのです。

 目も覚めるような真っ赤なモミジ (新宿御苑にて)
 


 で、どうして新宿御苑か・・といいますと、今年12回目を迎える写真展「鉄道のある情景」
(京都大学鉄道研究会写真展2016 )が、新宿御苑のスグ側のギャラリーで開催されていて、
かって職場を共にしたU氏も出展されていますので、ことしも訪れることとなったという次第です。

 “鉄道”は、SLから電気機関車、電車、市電などなど幅広く、SLといっても機関車の種類も
あり、それに2重連、3重連などの迫力物もあります。 そして、鉄道の姿、風景は、その街、
時代、生活などなどを蘇らせる力があるようで、自身の体験などとも絡ませながら楽しいひと
時を味わわせてくれました。 4~50年も前の雪景色の中を走るモクモクと煙を出して走る壮観
な機関車や 虹が綺麗に円弧を描くその中央に走る純白の特急の一瞬のシャッターチャンスを捉
えた見事な作品などに感動しました。出展者のU氏が、ちょうど会場に来ておられて、いくつか
の写真について、その見どころポイントや鉄道にまつわる歴史等のコメントをいただき、いっそ
う興味が膨らみました。ありがとうございました。

 撮影者が描いた構図の狙いや思いが写真を通して語りかけ、見る者をしてその世界に引き込ん
でしまうのですね。そこに、見る者の体験や想い出が重ね合わさってくると、さらに深いイメー
ジとして膨らんでくるのです。

ギャラリーの向いが新宿御苑でしたので、暖かい穏やかな午後、ちょっとだけ覗いてみました。
イチョウの落葉絨毯を踏みながらの真っ赤に染まったモミジに見とれるこの時季ならではの光景
でした。(真っ赤に燃えるモミジは、上の写真です。)

イチョウ                 まだらに色づく
 

  

 どれを撮っても、同じようなものばかりですが、これらの写真から雰囲気をご想像いただけ
れば幸いです。

銀杏のじゅうたん             新宿御苑入口
   

 

 

 

 

 

 

 

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水森かおり  (bon)

2016-12-03 | 日々雑感、散策、旅行

 昨日(12/2)は、暖かい良いお天気で、街路のイチョウは一段と黄色く輝いているようで
した。 そんな中、“水森かおりコンサート~歌謡紀行~”に行ってきました。
テレビの歌謡番組などでも良く出演している彼女は、今年デビュー21年目だそうです。 
歌謡界に入って、最初の7年くらいは、それこそ下ずみ生活だったそうですが、8年目の2002年
「東尋坊」(木下龍太郎作詞、弦哲也作曲)でようやく表舞台に出、翌2003年の「鳥取砂丘」
(木下、弦のコンビ)は、日本レコード大賞金賞ほか数々の受賞に輝き、初めてNHK紅白歌合戦
に出場し、今年14回目の連続出場を果たすA級グループの存在となっています。

         パンフレットから
         
 

 ステージは、昨日のコンサートが今年関東最後で、中旬の京都を一つ残すだけで、後は
テレビ、ラジオなどやはり忙しい日程のようです。楽団、司会者をはじめ照明、大道具・・
など、総勢30名ほどを引き連れて、全国を巡るコンサートは想像すると大変な事業なんですね。
それだけの所帯を、彼女が牽引している、もちろん作詞、作曲などその曲の大きさがあります
が、その歌唱力で、しかも、ステージなどでは、生身の活動そのものでみんなを支えている
・・と思うと、やはり大したことなんですね。

 身長 153cmといいますから、かなり小柄な彼女は、しかし、ステージのドレス衣装からは、
とてもそうは見えず、堂々とした、そしてあの迫力のある声量からは到底想像できませんで
した。 ステージでは、楽しい話などを交えて、観客を喜ばせていたりしますが、一たび、
曲の前奏が流れると、キリットその歌の中に入った歌手としての振る舞いに変わるのでした。
 途中、客席に下りて来て歌いながら、観客と握手して回るサービスコーナーでは、運よく
握手しましたが、その手の細く冷ややかな感じからはとてもあの迫力と結びつかないのでした。
満43歳の歌い手は、明るく快活で笑顔を絶やさないまだ少女のような振る舞いをしていました。

 20数曲を歌った、ステージの最後は、昨年の紅白歌合戦で使った、赤い巨大な鳥にのった
金色の衣装でせり上がりながら「大和路の恋」の熱唱で幕となりました。そういえば、前日
(12/1)夜のテレビ東京「第49回日本作詞大賞」入賞受賞曲「越後水原」も、ライヴでした
から、連日の熱演で体力的にもすごいんだな~と感心しました。
 あの、「鳥取砂丘」を初めて聞いたとき、その高音の澄んだ響きに引き込まれた頃から、
もう14年にもなるのですね。

 

        花数が増えましたネアポリタナムです。
          

 

 

 

 

 

 

 

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