おかずブログ

ここでは主に撮影画像を発表します。
近場で撮影した植物などがメインとなります。

湖東歴史散歩

2017年06月16日 | 思い出

170615湖東歴史散歩

6月15日、湖東を少し歩いてきました。
以下はルート。
もう10年ほど前に中山道の関が原から高宮まで歩いたことがあります。
歩き残した京都までの道をすべて歩くには年を重ねすぎた気もしますし、だから
すべての行程を歩かないで行きたいところだけ行ってみたということです。

JR桂川駅→JR篠原駅→鏡神社→JR篠原駅→JR近江八幡駅→近江鉄道市辺駅→船岡山→

近江鉄道太郎坊駅→太郎坊宮→近江鉄道太郎坊駅→JR近江八幡駅→JR田村駅→湖岸→

JR田村駅→JR桂川駅

【篠原・鏡神社】

「JR篠原駅」は東山道ルートからは少し外れている。それでも平安時代の東山道「鏡宿」と
現在の「JR篠原駅」は2キロほどの距離しかない。
篠原と言えば、平氏が壇ノ浦で滅んだあとに、生け捕りになった平宗盛とその子の清宗が
源義経によって惨殺された場所として記憶する。
義経は宗盛父子を護送して鎌倉に下ったのだが、鎌倉入りを頼朝に拒絶されて、満福寺で
「腰越状」をしたためた後、止む無く京都に戻る途中に宗盛父子を斬った。1185年のこと。
当時の武士の習いでもあり仕方ない処置ではある。
その地は「大篠原」と言い、鏡宿からも近かったようだが、今回は行かなかった。

西行が、このことを知って詠った歌がある。山家集から詞書と歌を引く。

    八嶋内府、鎌倉にむかへられて、京へまた送られ給ひけり。
    武士の、母のことはさることにて、右衞門督のことを思ふ
    にぞとて、泣き給ひけると聞きて

  夜の鶴の都のうちを出でであれなこのおもひにはまどはざらまし
     (岩波文庫山家集185P雑歌・新潮欠番・西行上人集)

「八嶋内府」とは宗盛のこと。内府は内大臣。
「右衛門督」とは平清宗のこと。

平安時代当時はもちろん中山道はできていない。江戸時代にできた中山道は
東山道と多くの部分で重なる。
平安時代には東山道にも「鏡宿」があった。宿場である。

鏡神社は古刹である。このブログで触れるのは「義経元服地」としてのものだ。
鏡神社の前に「烏帽子掛け松」や「元服の池」などの標札がある。「義経記」などを
読むと、鞍馬山を出た義経は金売吉次と奥州平泉に向かう途中、鏡宿で元服したという。
「義経記」は読み物であり、すべてが事実ではないようだ。義経が鏡宿で元服したかどうか、
事実かどうかは置くとしても、義経がその生涯に古代官道のこのルートを何度かたどったのは
間違いないはずだし、鏡神社にも何度も立ち寄ったはずだろう。
もし鏡宿での元服が事実だとすれば義経の短い生涯の中でも、自身ではとても重要な地として
認識されていたのではなかろうか。
源平争乱で戦いに明け暮れた日常にあって、なおさらに脳裡に去来した
地ではなかっただろうか?。
平氏を滅亡させた義経も四年後の1189年、31歳という短い生涯を閉じる。



【船岡山・万葉の森】

「茜さす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖ふる」
          (額田王 万葉集巻一17番)

万葉集ではことに名高い額田王のこの歌は蒲生野で読まれたという。
古来からこの辺りは「蒲生野」であり、天智天皇の大津京からはかなり
離れている。歌からもわかるように朝廷の禁野が蒲生野にもあったのだろう。
「野守」とは禁野を守護する職掌の人で、現在で言うなら農林水産庁の役人を言う。

彼女の歌は読んでいて気持ちが良い。明るく伸びやかに詠われ、外に向かって
広がる力がある。
私の詠む歌とは大違いだ。自身の深奥にまで掘り下げるというつもりで読んではいても、
変に意固地に、窮屈な歌になっていることを自覚する。
常に反省はしてはいるのだが・・・

良い機会なので額田王の歌をもう一首。

「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今こぎ出でな」
            (額田王 万葉集巻一08番)

この森は「阿賀神社」の境内地にあるのだろう。たくさんの万葉歌碑が
あったが日差しのためもあり、かつ私の視力では読みにくいものであった。
額田王の歌の情景を描いた陶板レリーフはもう10年以上前に友人の
Y・Y氏撮影写真で見ている。私のホームページにもその写真を掲載している。
そのことがあって、なんとなく懐かしい感じがした。





【太郎坊宮】

神社名は阿賀神社と言い平安朝の創建らしい。滋賀の寺社はもちろん天台宗の影響が
強くて、この神社も天台宗の流れを汲む。
「万葉の森」船岡山にある一宇と同名の社である。
「太郎坊」とは役小角の弟子というが、創建が7世紀というから、なるほどとも
思わせる。
近江電鉄太郎坊宮駅から長い参道を歩き、700段という急勾配の石段を
休み休みしながら登る。さすがにこの齢になると、駆け上がるようには登れない。
軽やかに登れるカモシカの足が欲しい。

山全体が記号の山マークの様な形をしていて、ほぼ石の山らしい。
登るほどにそのことがよくわかる。
堂宇は山の山頂までは続いていず、中腹で終わる。眺望が良い。
近江平野がよく見渡せる。







御手洗の手水は童の天狗らしい。このような山にはよくある天狗信仰は
この社でも盛んなのだろう。

登る時には息も荒く登ったのに下山はすぐであった。それだけ勾配がきつかったという
ことだろうか。私が今まで登った参道階段は讃岐の金比羅宮が一番きつく長かったと
思うが、その意味ではこの社も二番手か三番手か、ともかく三指の中に入る。

石の寺である石塔寺にも行きたかったが今回は断念。次に譲るとしょう。
時間が迫っていたので太郎坊を辞し、JR田村駅に向かう。
近江鉄道近江八幡→JR近江八幡→田村駅と行くのだが、なんと米原で30分以上の
待ち時間あり。何とかぎりぎりで湖岸の撮影ポイントに向かう。

【夕日撮影】

田村駅から歩いて10分以内に湖岸に出る。初めての地かどうか記憶はあいまいだ。
もう20年ほど前になるのか京都市西京区の自宅から自転車で琵琶湖一周をしたときには、
湖岸道路ではなくて国道8号線を通ったように思うが、定かではない。
妙に懐かしい気もする。湖岸には人が二人いただけである。
人物か、他の景物を入れて夕日を撮りたかったのだが、断念して夕日だけを撮る。
厚く黒い雲があって、思ったよりは良い画像にならない。仕方ない。
湖岸になんと自生のワスレナグサがたくさん咲いている。初めて見る光景。







かくしてこの日の一日が終わる。この湖岸にはまた来たいものである。

例によって画像はOneDriveに入れてます。ご覧願います。

170615湖東散歩