物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

忍海角刺神社 北花内大塚古墳(埴口丘陵)

2021-11-29 | 行った所

埼玉の稲荷山古墳・熊本の江田船山古墳出土の鉄剣の銘からほぼ時代と実在が確実なワカタケルこと雄略天皇の後、継体天皇の出現までの数十年はどうもはっきりしない。4世紀後半の雄略が倭五王の最後の武として中国に上表文を送ったとされるのが478年。継体が筑紫の磐井の乱を治めたとされるのが527年、この間約50年ある。
この間実態はともかく系図上の大王として清寧・仁賢・顕宗・武烈の4人が数えられるが、ほかに特異な存在としてあるのが飯豊皇女(飯豊青皇女)である。


仁賢・顕宗、二人のオケ兄弟の姉とも叔母ともいうがおそらくは姉で清寧とオケ兄弟の間で即位したともされる女性だ。雄略の従弟で殺された市辺押磐皇子の娘で履中の孫である。宮としたのは葛城の忍海角刺宮(おしみのつのさしのみや)


角刺宮の伝承地は葛城市歴史博物館のすぐ近くだ。


「やまとべに 見まほしものは 忍海の この高城なる 角刺の宮」と謡われた立派な宮はどのようなものだったのか、大きな規模のものであれば、歴博の敷地などはその範囲内であろうが、大規模建造物の跡は出ていないようだ。
ここは葛城の地だ。当然葛城勢力にバックアップされた女王ということになる。
角刺神社から北北西に800メートルほど行ったところに北花内大塚古墳(飯豊埴口丘陵)がある。飯豊皇女の墓とされるところだ。


北花内大塚古墳から西へ行くと屋敷山古墳がある。この地域で北花内大塚に先行する古墳であり、組み合わせ式長持ち型石棺が出ており、葛城市立歴史博物館の展示にあった。古墳はきれいな公園になっている。その裏手に猫がいた。耳に切り込みの入ったさくら猫、地域のボランティアに支えられて生きている猫たちだ。

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当麻寺 鳥谷口古墳

2021-11-27 | 行った所

當麻寺には来たことがある。何十年も前に話になるが。当時私はこの寺を大津皇子の菩提寺か何かと勘違いをしていて、中将姫の曼陀羅云々に怪訝な気持ちであった。「うつそみの人なるわれや明日よりは二上山をいろせとわが見む」の大津皇女の歌に二上山麓の寺を大津皇子の関連と思い込んだのである。ただ四天王像の印象は強烈であった。今見てもここほどシルクロードという言葉を実感させてくれるようなところは珍しい。

 仁王門(東門)
現在はこちらがメインの門のようであるが、二塔が東西に並び立つ伽藍配置を思えば、南門が正門だったかもしれない。

 境内から見える二上山。

 本堂

 西塔 写真の左のほうに東塔がある。

 鐘楼

 

大津皇子の墓として宮内庁が管理しているものは二上山雄岳山頂にあるというが、二上山麓でほかに大津皇子の墓といわれる鳥谷口山古墳に行ってみる。當麻寺より1㎞程西北になる。

 


 墳丘から東方向 大池が見える。

 道の駅ふたがみパーク当麻付近からの二上山雄岳

 大和高田からの暮れなずむ二上山

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當麻蹶速 相撲館「けはや座」

2021-11-27 | 行った所

平家物語では時々平家にも源氏にも全く関係しない中国の故事などが延々と挿入されていることがあるが、第8巻「名虎のこと」もその類である。
平家は安徳帝を連れ西国へ逃げ、木曽義仲が入京を果たす。義仲は以仁王の子北陸の宮を奉じるのだが、後白河は占いがどうの、夢見がどうのと強引に高倉院の第4皇子を新天皇に立てる。後鳥羽帝である。そこで昔の話として文徳帝が崩じた時の即位争いの話になる。候補者は二人。惟高親王、紀名虎の娘の子である。惟仁親王、藤原良房の娘明子の子である。この二人の勝負をつけるため、競馬(くらべ馬)・相撲が行われる。相撲の代表は惟高方が紀名虎、60人力の大男、ここでは親王の祖父だとは書いてない。惟仁方は何故か能雄(よしお)という小男、応天門の変の伴善男のことだという。互いの応援団は惟高方は東寺の僧正、惟仁方は比叡山の僧。こちらは呪法合戦である。相撲の勝負は圧倒的に大きな名虎が優位に立ったのに、なぜか、比叡山の恵良和尚の渾身の呪法が功を奏したのか、小さな能雄が勝ってしまう。小よく大を制すの醍醐味を見せる勝負だったとも言えないだろう。

今昔物語の第23巻に相撲の話がいくつかまとまってある。節会のために全国から集まった相撲人と学生が乱闘する話がある。学生といっても官僚養成機関に学ぶ貴族の子弟だろうか、質が悪く相撲人に喧嘩を売る。どっちも無頼漢のようだ。実際の勝負の話より力自慢の話が多い。最高位の相撲人成村と常世の勝負は當麻蹶速と野見宿祢の話に似ているかもしれない。成村と常世は互いに勝負を避けていたが、勝負をせざるを得なくなり、常世は再起不能、成村は故郷へ帰り二度と上京しなかった。

當麻蹶速と野見宿祢の勝負はとても相撲とは思えないもので、宿祢は蹶速のあばら骨を折り、腰骨を踏み折、殺してしまう。一方蹶速も蹴り技を得意としたネーミングにしか見えない。


とはいえ日本書紀の話通りの勝負があったわけではなかろうし、相撲に限らず勝負事は吉凶を占ういわば天意を問う行為なのだろう。田舎の祭りで紅白に分かれた綱引きなどが行われるが、赤が勝ては豊作、白が勝ては大漁とどちらでもいいように設定してある。殺してしまうような勝負はいい勝負とは言えないのであろう。
惟高・惟仁親王の即位争いに関しては、すでに大きな権力を握っていた藤原氏に紀氏が対抗できなくなっていたことを思えば、惟仁の勝は当然で、くらべ馬の相撲のとしていたはずがない。ただ大力、大男の紀名虎が負けるのも古代からの名族、紀氏の没落を天の意とするものか。古代からの名族という意味で紀氏に近いはずの伴氏が相撲人として出てくるのは、藤原氏についたという意味か、もっとも伴善男は応天門の変で追放されてしまうのだけれど。

相撲の資料館である「けはや座」は当麻時の仁王門から真直ぐ東へ行く道沿いにある。

 蹶速塚

 鉄砲柱

 土俵



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難波と大和 竹ノ内街道(横大路)

2021-11-25 | 行った所

道の駅「近つ飛鳥の里太子」から少し入ったところに太子町立竹内街道歴史資料館があった。地域と対象を絞った資料館だけによく掘り下げられていて面白かった。最初の官道竹内街道の建設について、人形を使った紙芝居のようなビデオ(マジックビジョン)をやっていて、推古と小野妹子と厩戸皇子らしい人形が、外国からの使者を迎えても恥ずかしくない大道、と言っていたので、てっきり隋からの答礼使裴世清が大和に入った道だと思ってしまったが、それだと年代が合わない。推古21(613)年11月に「難波(なにわ)より京に至る大道(だいどう)を置く」は遣隋使妹子の帰国とともに裴世清が訪れた推古16年(608)にはなかった。裴世清は竹内街道より北の竜田道、大和川を主に船で移動したとみられる。


http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2019063000016/?doc_id=11119 柏原市HPより
なかなか7世紀前半の道路遺跡の証明は難しいようではある。

 竹内街道歴史資料館から叡福寺北古墳(聖徳太子墓)横穴式石室模型

御背板(オセタ)というものが展示してあった。初めて見たが巡礼の担ぐ携帯用仏壇だそうだ。木箱のようなものだ。見ているうちに鬼滅の刃のネズコが入っている箱はこういうものから得た着想かなと思った。

 資料館前の道標

 竹内街道

 太子町のマンホールのふた

道の駅に戻る途中渡った小さな橋の川は飛鳥川と気づいた。ちかつ飛鳥の飛鳥川だ。

国道166号線がだいたい竹内街道だったらしい。大和まで走ってみたが、何しろ駐車スペースがない。ただ通っただけである。

 

竹内街道は横大路とつながるという。奈良のほうから行ってみる。耳成山の少し西で奈良樫原線の広い通りから西へ路地に入る。車は通れるが一方通行。まもなく八木札の辻へ出る。

 交流館は江戸時代の旅籠だそうだ。


横大路と下つ道が交差する。下つ道を南に行くと藤原京。



おっかなびっくり通っていると八木駅前だ。駅を右手にみて西へ進む。


道標かと思った。文化3年大阪の商人が建てたものらしい。入鹿は歌舞伎「妹背山婦女庭訓」の中ではこれ以上なしの悪人に描かれている。別の見方をしていた人もいたのだな。
  交差点の表示に曽我町があった。
道がこれでいいのかだんだんわからなくはなってくるが、二上山を見て西へ進むに間違いはないだろう。

 長尾神社にたどり着く。 

 長尾神社北辺 

 道標 右 つぼさか こうや と書いてあるそうだがよく読めない。左は はせ いせ である

道は住宅街だが、登り勾配になる。しばらく行くと166号線に合流した。

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河内 近つ飛鳥

2021-11-24 | 行った所

近つ飛鳥 遠つ飛鳥 という表現は記紀にもあるそうだけれど、たいていの人は飛鳥が二つあると言ったら首をかしげるだろう。飛鳥は奈良にある明日香村のあたりではないかと。
近つ飛鳥 遠つ飛鳥という場合、明日香は遠つ飛鳥 近つ飛鳥は河内の東部、二上山か葛城山の西麓にかけて、現在の太子町だというが、明日香では自分たちのところを遠つ飛鳥と認識などしていたのだろうか。
確かに飛鳥部という地名があったり飛鳥川という名の川が流れたりはしているようなのだが、二つの飛鳥の相似がそれほど評価できるのかわからない。難波に都があった時期でも明日香は永く都のあった地として意識されていたのではないだろうか。近つ飛鳥にはそのような土地の記憶はない。
 
  この地域の磯長谷と呼ばれる一帯は終末期の古墳を数多く有し、王家の谷などという名もあるようである。
叡福寺北古墳(聖徳太子陵)・春日向山(用明陵)・太子西山(敏達陵)・上ノ山(孝徳陵)・山田高塚(推古陵)・葉室古墳群の中には当時の大王墓に匹敵するものもあるらしく、二子塚は方墳が二つ繋がったような形の古墳である。
これらの古墳から少し南に下がると近つ飛鳥博物館がある。その後ろ山が風土記の丘公園だが、一帯は一須賀古墳群だ。だいたい蘇我一族の墳墓ではないかといわれるらしい横穴式の古墳群である。その南、平石谷と呼ばれる地区にシショツカ・アカハゲ・ツカマリという三つの古墳がある。これを蘇我三代の墓とする説もあるようである。
古墳のどれを誰の墓とするかは古墳の年代とともに改葬の問題もありややこしすぎるが、興味は尽きない。
 
大阪府立近つ飛鳥博物館は何しろ「近つ飛鳥」を名乗っているのだから、さぞやこの地域の特性をいかんなく発揮し、ユニークな観点の博物館であろうと思ったのだが、いささかその趣には欠けていた。
安藤忠雄設計の大きな博物館で上から下への順路だ。古墳時代全体を通し見るべきものも多く、叡福寺北古墳のビジュアルな展示もあったが、最後の大古墳の造営の大模型は大仙古墳(仁徳陵)というのはどうだろうか。古墳造営にかかわった人々の暮らしも小さな人形を使ったジオラマで再現した大作なのだが、近つ飛鳥でどうして百舌鳥の古墳なのだろうか。
 
博物館から裏の一須賀古墳群に回る。結構な山歩きとなった。

  横穴式石室群が随所にみられる。
 
 案内板


 
  展望台から

 

磯長谷古墳をいくつか回る

 山田高塚(推古陵)

  二子塚古墳 

墳丘はかなり崩れている。双方墳のはずだがよくわからない。

  二子塚石室
 二子塚古墳からの山田高塚

磯長谷、谷というより丘陵地帯みたい。

下って叡福寺へ。

 聖徳太子こと厩戸皇子の墓だという。江戸時代までは中が覗けたらしく、墳丘内部の記録がある。厩戸と母穴穂部間人皇女と妻の膳部菩岐々美郎女の合葬だとされる。

 後世の結界石 梵字がある

 

磯長という地名は古くは科長だったのか、そういう神社がある。

 科長(しなが)神社

その上に小野妹子の墓

 妹子の墓から南東方向 PLの塔が見える

 

 

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葛城山に登る

2021-11-22 | 行った所

葛城山に登る。上るといってもロープウェイだ。

てっきり葛城市にあると思っていたら、頂上は南の御所市で、ロープウエイの登り口も御所だった。
二上山から南に連なる山塊をまとめて金剛山地というらしい。ロープウエイの登り口へは櫛羅(くじら)という交差点から入った。山中に櫛羅の滝という役の行者所縁の滝があるとか。

登っていくと、大和三山が見晴らせる。大和平野はこのように見えるものなのか。

ロープウェイの山頂駅からすぐ、神社がある

  よく整備されたトレイルがある。

下から徒歩で登ってくる人たちもかなりいる。関西の手軽な山なのだろうか。958.6m 一千メートル級の山だ。

 

よく晴れてはいるのだが、雲の流れは速く、風は冷たい。ガスがさあっと流れていく。

 東の桜井方面 大和はもっと北のほうまですっかり見晴らせる。

 南西 関空方面 六甲から関空まで見えるといえば見える。

 こちらは東南方向、奥は吉野だろうか。

 南に金剛山。

 

降りて葛城市立歴史博物館を覗く。ここはなかなか良い博物館だ。

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難波と大和 大和川

2021-11-20 | 行った所

難波と大和の間というか大阪府と奈良県の間には山がある。

  北から生駒山地が連なっていく。生駒の南部に信貴山がある。その南を大和川が東から西に流れる。その南に二上山がある。雄岳・雌岳の二瘤ラクダの背のような特徴的な山の形は、難波からも大和からも大きな目標となる。

その南には葛城の山々、そして金剛山がそびえる。その南を吉野川が、和歌山県に入って紀ノ川と名前を変えながら流れている。

大和川は飛鳥川や初瀬川・龍田川などの流れを集め、大阪湾にそそぐ。現在は堺市に河口があるが、かつては山の間を抜けたところから北へ流れ、分流し河内湖を経て、難波にそそいでいた。

 大阪城の南西、大阪歴史博物館に隣接し、難波の宮跡がある。そのあたりが河口で難波津なのだが、古墳時代の大規模倉庫跡である法円寺遺跡もある。

 法円寺遺跡 後ろは大阪歴史博物館

つまり、大和川は大和と外交都市難波とを結ぶ大動脈だったといえる。

  龍田道といい古道として知られるらしい。

長く大和と難波を結ぶ水上交通を担ってきていたが、江戸時代に転機が訪れる。大阪平野を北へ流れる大和川の洪水が問題だった。付け替えて真直ぐ西へ流そう、という声が出始める。

その間の事情、影響をまとめた展示会が、柏原市立歴史資料館でやっていた。

 大阪平野の河内湖はだいぶ縮小してきていたが、いくつかの湖沼として残り、大阪湾への流れが悪く、大洪水をたびたび引き起こした。

度々の嘆願にも腰が重かった幕府だが、元禄16年に至って付け替えを決定する。付け替えにより広い耕地を得られる(年貢が見込める)、費用を諸藩に押し付けることができる。ということからだった。

 これに対し、新たな川筋となる村々からは反対する声が沸き上がる。

 これでは反対するだろう、という資料だった。

一度大規模土木工事が行われると以前の状況を想像することさえ難しくなる。京都南の巨椋池も今は痕跡もないし、河内湖も想像がつかない。沿岸部の都市の海岸線は昔の面影を残しているところはない。利根川も大きく川筋を変えた。

この史料館は近くの高井田古墳の横穴の線刻壁画や、松岳山古墳のひれ付円筒埴輪などが常設らしい。

 

 この円筒埴輪などの興味深い展示品も多い。

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四天王寺 熊野への道

2021-11-19 | 行った所

四天王寺 言わずと知れた聖徳太子が建てたという難波の寺。渡辺の津からほぼ真直ぐ南下する。
  南門近くの駐車場から入ったので南門から。

四天王寺式伽藍配置というやつ。

 建物が縦軸に沿って一列に並ぶ四天王寺式伽藍配置。南門の内から見えているのは中門と五重塔、この後ろに金堂と講堂がある。

しかし、熊野詣なら西門から入ってきただろう。西はすぐ行けば海だったという。
ぐるりと回って西門に向かう。

小栗判官の話など興味はなかった。説教節など聞いたことも見たこともない。そもそも何であるかさえ知らなかったのだ。興味の持ちようもないではないか。

文春新書「中世の貧民 説教師と廻国芸人」塩見鮮一郎 

この本を読んで初めて興味がわいた。地獄から戻った小栗だが、餓鬼草紙の餓鬼そっくりの外見で、まだ息を吹き返してはいないのだ。熊野へ行って壺湯に浸けてやれという地獄からの指令書を持ち、土車という荷車のようなものに乗り、意識不明のまま引かれていく。引くのは善男善女、車を引けばご利益があるとの坊主の口車に乗せられて、えんやらやーと引いていく。なんと関東相模から熊野まで。尾張から伊勢に入るかと思えばさにあらず、美濃から近江、京、大山崎、水無瀬から難波、四天王寺へ。院さま御一行とは違うルートか。
小栗の土車の引かれてきた四天王寺西門は、ホカイビトにヨロホウシ、琵琶法師に説教師、熊野比丘尼、歌念仏に物乞いの声響き、行き交う人々の喧騒に、ごった返す様、塩見鮮一郎はこれを「解放区」と書いている。

私は四天王寺には如何にも由緒正しき寺でござんす、といった佇まいしか印象になかったので、この本にいう西門界隈の「解放区」が掴めなかった。

  しかし、大阪歴史博物館で見た展示の屋台に「これか!」と思った。
私は子供の頃これに近い物を見ている。お祭の神社の境内だ。親の因果が子に報い・・・の見せ物小屋、物乞いもいた。それどころか、数年前の敦賀祭の気比神社境内でこれを見た。


子供の頃の印象は何だか陰惨なものであったが、さすがに今ではそれはない。ここでの呼び込みの声は、楽しいよ、恐くないよ!というものであったが、祭特有のエネルギー、猥雑さがあり、日常からの解放といえば、解放区ともいえる空間があったのだった。

当然ながら四天王寺西門界隈に祭の屋台の影もない。


石の鳥居は中世のものか、それさえよくわからないが、引導石というものがある。


西門を入ったところに何故か義経の鎧掛けの松がある。1989年ロータリークラブの寄贈とあったが、どんな話になっているのだろう。


熊野詣には南門へ向かう。西から来たのだから右手に向えばいいのだが、左手に廻れば有名な石舞台になる。

石舞台を見て東に回ると猫の門なるものがある。

  その界隈、本当にいたのだ黒猫が二匹。

いよいよ南門前に来ると熊野権現礼拝石がある。

  熊野権現をここから遥拝、旅の安全も祈って出立だ。

 南門をくぐると真直ぐ南に下る道が見える。これが熊野街道なのだろう。

 次の目標は住吉大社になるのだろう。

それにしても小栗判官の物語の奇怪さ、死体?を荷車で引き回す、ということ自体十分に奇怪だが、その前段、京都で鞍馬山の申し子と生まれた小栗は、常陸の小栗で役に付き、さらに武蔵で武蔵7党の一つ横山党と関わり殺される。とても同一人の話とも思えない。なんとなく連想するのは歌舞伎の誰それ実は誰それ、といっためちゃくちゃの筋立て。まあ芸能という意味では繋がらないことはないのか。

ところで説教節というのは、小栗判官だけでなく、厨子王や進徳丸などという話が知られるそうだ。厨子王は森鴎外の「山椒大夫」のもと話で、その筋は知られているのである。今昔物語は芥川龍之介の「芋粥」などの材料となった。説教節から鴎外へ。文豪というのはすごいものだ。

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高槻市 今城塚古墳

2021-11-11 | 行った所

継体天皇というのは古代史上たいそう特異な存在だ。少なくとも前代の大王との直接的な血の繋がりがなく、地方から畿内にやってきた人物で、他にはいない。 男大迹(ヲホド)という名前だ。父は近江にいた彦主人王、母は越前の振姫。彦主人王は早く死んだので、振姫は息子を連れて越前に戻り、子を育てた。成人したヲホドは越前にいたのか近江にいたのかわからない。結婚した相手は尾張の豪族の娘目子姫、息子が二人生まれた。
応神天皇五世の子孫だというのだが、それ以外、応神以降の大王家とは絡んでおらず、ほぼ他人状態。

応神以降、雄略までの大王は、中国南朝へ使者を送った「倭の五王」に比定されている。数が合わないのだが、だいたい雄略が最後の倭王武であることは動かない。ワカタケルの名を持つが、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣の銘からも実在とだいたいの年代の判る人物だ。
中国の宋に上表文を送ったのが478年である。

雄略の後は子の清寧が継ぐが、后も子もない。そこで、父の従兄弟の子二人を探し出して後継者にする。ところがこの二人の父市辺押磐皇子というのは、清寧の父雄略が殺している。だから二人の子供は丹後や播磨に潜んでいたのだ。清寧の後二人の皇子は互いに御王位を譲り合う。二人の名は兄が億計(おけ)、弟が弘計(をけ)・・・・それに兄弟で王位を譲り合うって中国の故事「伯夷・叔斉」にそっくり・・・だいたいこの辺りの系図に出てくる大王はほとんど兄弟・従兄弟を殺している。皇子と生まれたら大王になるか殺されるか、みたいな世界である。そこで突然謙譲の美徳の二人が出てこられても不思議な気がするだけである。おまけに おけ・をけの二人が譲り合っている間は二人の姉の飯豊皇女(いいとよおのひめみこ)が忍海宮で治世したというから、もうわけがわからない。
散々譲り合った挙句即位した兄弟が仁賢・顕宗で、仁賢の子が武烈。日本書紀の伝える武烈はまるで「忠直卿行状記」ですか、というような絵にかいたような暴君。歳も若いらしいが摂関時代・院政期と違って、直接大王の権力が大きい時代、基本的に若造の即位はないと思われる。より経験と分別あるものがよいと、引っ張り出されたのが継体だったのか。いきなり出てきた継体の正当性強化のために必要以上に武烈を貶めているのか。

継体は武烈の姉を后に迎え即位する。女系で繋いだということだろう。生まれた皇子が欽明天皇になる。先に尾張目子姫が産んだ二人の皇子は欽明に先立ち、安閑・宣化として即位したことにはなっている。欽明の子達が敏達・用明・崇峻・推古と飛鳥時代へを繋がっていく。欽明は蘇我氏と関係の深い大王でもある。

継体の晩年、筑紫の磐井の乱があった。引き金は朝鮮半島をめぐるごたごた。大伴金村:継体の失敗とされる任那割譲問題が絡む。実態はともあれ古代最後の地方豪族の反乱を押さえ、継体は波乱の一生を終える。
磐井の乱は527年のことである。だから墓は6世紀前半に求められる。

高槻市にある今城塚古墳が継体陵古墳とされる。宮内庁が継体天皇陵として囲っている古墳とはありがたいことに別物である。墳丘の残存状態は必ずしも良くなく、石室も盗掘されていたが、宮内庁指定でないおかげで、詳しい発掘調査がなされ、資料館もたっている。


大規模な埴輪祭祀跡も復元されている。

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摂津 渡辺津

2021-11-11 | 行った所

渡辺綱は鬼退治でしられた勇者だが、父は源宛という。河原左大臣と呼ばれた嵯峨源氏の風流貴公子源融の曾孫だそうだ。今昔物語では宛は武蔵の武者で平良文と争う話がある。
綱は母方の縁で摂津渡辺に住まいし、渡辺を名乗る。摂津源氏の源頼光に仕え、四天王の筆頭とされる。
綱の子孫は淀川河口の港湾を握る渡辺党として活躍した。 
瀬戸内を制した平家とはどのように棲み分けたのだろうか。
平家物語第4巻の「競のこと」は渡辺競(きおう)の話だ。以仁王の乱で挙兵した源頼政の郎党渡辺競は平宗盛を翻弄し、頼政との信頼関係の強さが語られる。宇治川を挟んでの戦いに敗れた頼政たちは次々に討ち死にし、また自害する。競も腹をかききって自害する。渡辺党の多くがここで死ぬ。

平家物語第11巻「逆櫓」元暦2年(1184)平家は屋島にある。義経は都を発って摂津国渡辺よりふなぞろへして屋島へ寄せんとす。折からの暴風雨、梶原景時らの猛反発の中、強引に出港する。

↑平家物語絵巻 出港する義経

渡辺津は現在の天満橋と天神橋の間付近だという。

 天神橋付近

 天満橋を見る

もっと西に渡辺橋という橋があるのでその辺かと思っていた。中之島はあったのだろうか?天満橋から福島に掛けて、河口とも入江ともつかぬ風景が広がっていたのだろうか。

 

ともかく現代の地形とは全然違う。天満橋の南には大阪歴史博物館があり、

 すぐ難波の宮跡が見下ろせる。大阪城も東に隣接する。難波の宮は都へ外国の文物情報の入口だった。すぐ近くに港があったという。

渡辺津は長く栄え、近世まで京-大阪間の行き来に川船が利用され、特に8軒の船宿があったことから八軒屋と呼ばれた。

新選組と攘夷派のグループが、それぞれ贔屓の船宿があったなんて、面白すぎる。

平安時代末期、天皇を辞し、責任を回避し権力だけは保持することに成功した治天の君達、白河・鳥羽・後白河は熊野詣に熱狂するが、そのルートは、鳥羽の城南宮付近に寄り、鳥羽殿の南で賀茂川等と合流する桂川に船出する。川は名前を淀川と変えて大阪湾へ向かう。

↑ 鳥羽の城南宮の案内板

上陸地が渡辺津である。

 

 ここから陸路九十九王子と呼ばれる休憩所に寄りつつ熊野を目指す。渡辺津に次いで必ず寄ったであろう所は四天王寺となる。

 熊野への道

渡辺の津は、更に鎌倉時代、東大寺の再建に活躍した重源の拠点ともなっていた。

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