物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

大磯の虎ほか

2021-12-28 | 行った所

平家物語の第10巻「海道下」は平重衡が京から鎌倉に連行されて行く話だが、道行になっている。ただこの辺りはよくわからない。
「足柄の山打ち越えて、小余綾の磯、丸子川、小磯、大磯の浦々」とあるのである。
足柄山を打ち越えてきたのだからルートはともかく箱根は越えた。小田原辺に出たはずである。「小余綾の磯」は小田原から大磯のかけてのことだそうだから、重複を気にしなければ、小磯・大磯はいい。問題は「丸子川」丸子宿あたりを流れている丸子川だとすると、箱根よりずっと西になってしまう。「海道下」でいえば「宇津の山べの蔦の道、心細くも打ち越えて、」の次くらいに出てこなければならない。しかし宇津の次は手越、清見が原と続いて足柄山だ。小田原から西に目立つ河川は酒匂川、金目川・相模川といったところだ。少し調べて酒匂川の古名が丸子川らしいと知る。

それはともかく、大磯といえば「虎」だ。
虎女とも虎御前いうが、大磯の遊女にして曽我十郎祐成の恋人ということになっている。曽我の梅林あたりから大磯までは10キロ以上はあるだろう。夜な夜な通うには遠いようだが、馬を使えば大したことはないか。遊郭通いは人の集まるところで憎い仇の動静でも探る意図があったものか。この場合歌舞伎の曾我物「助六」の話につながっていくようだ。ただしこちらの主人公は弟の曽我五郎時宗で恋人は揚巻となる。「曽我の対面」では虎と化粧坂少将という二人の遊女が出てくるが、工藤祐経の祝いの場に呼ばれただけだから色っぽい話は出てこない。虎は立女形、化粧坂少将は若女形の役だそうである。富士の裾野の巻狩りの最終夜、宿所に兄弟が討ち入った時には、遊女が何人もいて悲鳴を上げる。祐経は酔いつぶれて寝ており、そこを討ち取られたという。工藤祐経は切れ者で頼朝も気に入っていたというが、酔いつぶれていて殺されるなど敵役としても大した人物には見えない。
兄弟の死後、虎は出家し菩提を弔い、善光寺へ赴いたことになっている。
曽我兄弟敵討ちの物語は江戸時代に大変な人気を得たようである。歌舞伎・浮世絵の題材となって大流行する。
討ち入りの日は旧暦5月28日、梅雨の最中で雨、この日は曽我十郎祐成の命日ともなった。悲しみの虎が流す涙雨、ということでこのころの雨を「虎が雨」という。

化粧坂から西へしばらくの道は松並木に東海道の面影を残す街道だ。江戸時代に整備されたのだろうが、鎌倉初期に目立つ宿場として遊郭を構えていたというなら、それ以前から街道沿いの宿として栄えていたのだろう。

 

化粧坂から西へ3キロほど行ったところに、大磯城山公園がある。明治の政財界の大物たちは挙って大磯に別邸を構えたものらしい。この公園は三井家と吉田茂の別邸をもとにし、作られた公園だ。

 建築資材は奈良の古寺から持ってきたとか、どうしてそんなことが許されたのやら。

 展望台へ上がると、登ってきた人たちがみな一様に声を上げる。富士だ。

こういう眺望案内はくすんだり、まるで読めなくなってしまっているものも少なくないが、ここのは立派なものだ。 

向きを変えれば海も見える。

ここには大磯の資料館もある。

政財界の大物だけではなく、島崎藤村も晩年を大磯で暮らしたという。すべて山の中、と書いた木曾に生まれた藤村だが、文豪として名を成した後は、温暖で目の前が大磯港で新鮮な魚介の得られるこの地を住処としたのか。

 大磯港

 

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才戸の渡し 愛甲三郎館跡 (厚木市) 

2021-12-26 | 行った所

落語の「大山詣」の大山がどこかわからなかった。まさか山陰の大山ではないし、どこの山へ行くのかと思っていた。丹沢山地の一角だったのだな。大山街道は大体国道246号線だというが、落語では金沢八景見物で船に乗って云々とあるので、川崎・横浜・金沢・鎌倉あたりから大山に向かったのだろうか。大山詣でのルートは複数あったのだろう。

あつぎ郷土博物館に行こうと思ったら休みだった。近くに才戸の渡しというものがあった。ここも大山詣でのルートだったようだ。

 
 渡る川は中津川、相模川の支流らしい

・愛甲三郎館跡

 愛甲氏は武蔵7党でも最強と言われた横山党に属する。横山党は一の谷の合戦で児玉・猪俣党と一緒に殺到し、奮戦したらしいことが平家物語の「坂落」に出てくる。個人の名があるかどうかはわからない。

鎌倉の御家人として領土を安堵され、愛甲三郎季隆は建久4年(1193)の富士の裾野の巻狩で、頼家の補佐をし、頼朝に褒められた。頼朝の死後、有力な御家人が次々北条氏により粛清されるが、畠山重忠を弓で射殺したのは愛甲季隆らしい。鎌倉武士の理想と言われた重忠を討った季隆は敵役というところか。和田合戦では、和田の方につき、義盛とともに討ち死にする。横山党のほとんどが和田方につき没落する。説教節の小栗判官の話では、横山何某は完全な悪役で、領主というより盗賊の親玉といった風に描かれる。

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伝那須与一墓(厚木市)

2021-12-26 | 行った所

屋島の戦いで、那須与一が平家の船の扇の的を射ち落す話は、平家物語の中でももっともよく知られたエピソードだろう。

「与一、鏑をとってつがひ、よっぴいてひょうとはなつ。小兵というぢょう、十二束三ぶせ、弓は強し、浦ひびくほどながなりして、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりおいて、ひィふつとぞ射きったる。鏑は海へ入りければ、扇は空へとぞあがりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に、一もみ二もみもまれて、海へさっとぞ散ったりける。夕日のかがやいたるに、みな紅の扇の日出したるが、しら浪のうへにただよいひ、浮き沈みぬゆられければ、奥には平家、ふなばたをたたいて感じたり。陸には源氏、えびらをたたいてどよめきけれ」

確かに絵になる名場面。この前の文で2月18日酉刻とある。新暦なら3月半ば、午後6時、日暮れは近いが、西は海、日差しは届いていただろう。射る前は「をりふじ北風激しくて、磯うつ浪もたかかりけり」とあるのだが、射落とせば春風が吹き、波も穏やかに扇の表を波間に漂わせる。

わからないことの一つは何故征矢(そや)ではなく鏑矢を選んだのか。鏑矢は鏃が大きい。中に空洞があり、音が鳴る仕組みだが、安定はよくない。つまり的中率のいい矢ではない。儀式用の矢ではないか。日暮れ、揺れる波の上の舟の一点を狙うにふさわしい矢とは思えない。余興というには敵味方双方の期待が大きすぎる。実際には征矢を射った可能性が大きいのではないか。
それとも神に祈った矢で、この一射は神にささげるものであったか。次の場面で伊勢三郎に命じられ、船端に喜び踊る平家の武者を射殺した時には征矢を使っている。

下野国の住人那須太郎資高が子与一宗高、歳は二十ほど、小柄なれど弓の名手とえらばれる。与一とは余一に同じで11番目の子という意味だ。石橋山で戦死した佐奈田余一の例もあり、11番目など珍しくも無かったろう。平惟茂は余五将軍と呼ばれたがこれは伯父貞盛の養子になり、15番目の子となったからだ。
「扇の的」の功績で荘園を5か所得るが、山城で死んだらしい。墓は京都と栃木県大田原市にあるそうだ。


何故厚木に那須与一のものと伝わる墓があるのかわからない。与一が賜ったという荘園は丹後・若狭・武蔵・信濃・備中である。武蔵のものは太田荘で比較的近そうではあるのだが。
 新しい住宅地と畑が入り混じるところにある寺の墓地の隅であった。(厚木市旭町2丁目11−2)

 

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河野四郎通信(平家物語が描く一遍の祖父)

2021-12-24 | 行った所

河野四郎通信は壇ノ浦で150隻もの兵船を集め源氏に味方し、その水軍に寄与した四国の豪族だが、物語の前の方でもちょくちょく顔を出している。

平家物語第6巻「飛脚到来」治承5年2月木曽義仲の挙兵に続き、各地で平家に対する「謀反」の知らせが相次ぐ。
四国でも伊予国住人河野四郎通清をはじめとする四国の者ども皆、平家に叛き源氏に同心、しかし備後の額の入道西寂は平家に味方して伊予へ押しわたり、道前道後境、高直城にて、河野通清を討ち取った。しかし、通清息子の通信は母方の伯父安芸の沼田次郎のところへ行っていて留守であった。父が討ち取られたと知った通信は、備後の鞆で西寂を急襲、西寂を生捕り、高直城へ連れていき、のこぎりで首を切ったとか、磔にしたとかのうわさが聞こえてきた。

第9巻「六ケ度の軍(いくさ)」ここは一の谷合戦の前の平家の反撃である。平教盛と息子の通盛・教経が備後の下津井(倉敷市)にいたところ四国の反平家の軍勢が押し寄せた。源氏の旗下に入る手土産に平家を叩こうというのだ。しかしここは教経の奮戦で、四国勢を淡路島まで押し返す。さらに招集しても来ない河野通信を討ちに四国へ渡るが、通信は伯父のいる安芸の沼田城へ行って抵抗する。教経の猛攻に沼田次郎は降参するが、通信は尚も戦う。しかし主従2騎までになってしまう。しかも郎党は敵に抑えられ首を切り落とされようとする。この時通信は猛然と取って返し、郎党を助け小舟で逃れる。この時の名乗りでは通信21歳である。

第11巻「大坂越」元歴2年(1185)義経は梶原景時等の反対を振り切り、嵐の中、四国に押し渡る。近藤六親家を案内者に、勝浦合戦で阿波民部紀重能弟能遠の城を攻め落とす。さらに屋島には平家軍が少ないとの情報を得る。平家軍は分散している上、主力である阿波民部紀重能息子の田内載能は、河野四郎通信を討ちに行っていて留守だ。
河野通信は六ケ度の軍で、教経に散々な目にあったのだが、息を吹き返していたと見える。この時も田内載能は通信を討ち漏らしたまま屋島に帰ってきた。この田内載能は伊勢三郎に騙されて、義経に下ってしまうのだが、それは別の話だ。

そして「壇之浦」「また伊予国の住人、河野四郎通信、百五十艘の兵船に乗りつれて漕ぎ来たり、源氏とひとつになりにけり。」

この後、通信は鎌倉の御家人となる。しかし承久の乱では京方につき、伊予高直城で抵抗を続けたが、捕えられ、陸奥の江刺郡稲瀬(岩手県北上市)に流罪となり、そこで死ぬ。

通信の長男通政は信濃国伊那郡に、次男通末が信濃国佐久郡に流された。三男通久は鎌倉方についていた。通広は出家しており乱には関わらなかったようだ。この通広が一遍の父である。即ち、河野四郎通信とは一遍の祖父であった。

一遍上人絵伝の一遍は色黒く痩せ、ぎょろ目でどちらかというと悪相である。豪勇で知られた海賊ともいえるような武者の血を引く出自と知れば、それなりに納得できる風貌といえようか。
一遍は岩手の通信の墓にも詣でている。

 遊行寺の一遍上人像。絵伝よりは余程温和な顔立ちになっている

 遊行寺  

 


 佐久市伴野の西光寺

伯父がこのあたりに配流されていた。一遍は尋ね、念仏踊りを興行する。この寺では踊念仏が行われているとのこと

 跡部の踊念仏といい、長野県の無形民俗文化財になっている。

  ただしこの寺、時宗ではなく浄土宗である。

 寺の後ろから見える浅間山


三島大社 

 

 絵伝には三島大社へ詣でた一遍の絵がある。料紙を3枚連ね、参道を描き表している。(三島郷土資料館の展示から)

神社は何度か焼け落ち、再建されているので現在の大社とは違っているようだ。

三島大社の鳥居前を東西に走る道は、東海道だ。三島大社の境内の西方、東海道の北を東西に走る道が鎌倉古道らしい。

 町中の道で大して情趣はないが 一遍もこの道を通ったのだろうか。

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設楽が原 長篠城址

2021-12-23 | 行った所

新東名新城ICで高速を降りる。
 設楽が原歴史資料館へ。像は岩瀬忠震。幕末に外交官として活躍、橋本佐内などとも親交があったようだ。
設楽が原の合戦は織田・徳川の連合軍が武田の騎馬隊に鉄砲で大勝した戦いだが、かつては長篠の合戦と言っていたはずだ。いつの間に設楽が原になったのか。
徳川が押さえていた長篠城を武田軍が包囲する。家康・信長軍は城の救援に来たはずなのに長篠城から4キロほども西に陣を敷いて動かない。武田勝頼は城攻めよりも信長との決戦を望み大半の軍を城の囲みから移動する。実際に戦闘が行われたのは長篠ではなく設楽が原だったので合戦名も変わったのだろう。
武田信玄亡き後も常勝を続けてきた武田軍、若い勝頼の逸りもあったか、織田・徳川陣前に連なる馬防柵、その後ろから3000丁といわれる鉄砲が次々玉を浴びせかけられる。
さらに徳川勢の一部はぐるりと山を回り、長篠城背後へ。鳶の巣山の砦に勝頼が残した武田軍に襲い掛かる。ここに戦国最強と言われた武田軍団は大敗を喫する。勝頼は逃げ帰ることができたものの、名だたる大将が多く戦死した。

 武田軍の討ち死に大将

馬防柵

 

柵の後ろから鉄砲を撃ちかける。ただ、三段打ちと言われた鉄砲隊の隊列、実際の射撃方法などは不明のようだ。

 鉛は貴重だったので回収していたとか


 長篠城址

 

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五條市巡り

2021-12-06 | 行った所

五條市といっても何のイメージもなく、なんとなく吉野の入口かな、といった程度である。
御所の高鴨神社から五條市文化博物館へ向かう。
通称五條バウムという。上の階から展示を見ながら下へ降りていくという造り。ちかつ飛鳥歴史博物館と同じだが、当然ながらこちらは地域色が強い。
 五條バウムから、西方向 五条の風景。

 年表を眺めて、実はかなり驚く。藤原四兄弟の武智麻呂の墓がある。それより井上内親王・他戸親王が幽閉され殺されたというのはここだったのか。

 地図も眺めると和歌山に極めて近いことがわかる。吉野川は和歌山県に入るとすぐ紀ノ川になる。
隅田八幡って大和から紀州に入る街道沿いだったのか。

 大和源氏ってこんなところにいたのかと驚く。
宇野七郎親治は保元物語上巻の「平基盛による院方武士の捕縛」に出てくる。崇徳院方に加勢しようと出てきたところを宇治橋で止められる。平基盛は清盛の息子の一人で重盛の弟だが、平治の乱後病死したようだ。基盛に対する親治の名乗りは「摂津守頼光が弟大和守頼親が後胤・・云々」基盛・親治共に互いに引かず戦うが、基盛は親治に後詰がないことを見破り、優位に立ち親治を捕縛する。乱後、後白河に許されたというが、理由は大和源氏が興福寺と敵対していたことだという。

 五條市猫塚古墳

全国に猫塚と呼ばれる古墳をいくつか知っている。ただ名前の由来は知らない。古墳名で犬塚というのは聞かない気がする。五條の猫塚は、大変特徴的な遺物の出ている5世紀前半の方墳である。

 

 栄山寺

藤原不比等には4人の男児があり、武智麻呂、房前、宇合、麻呂、といいそれぞれ南家・北家・式家・京家の4家を立てるが、天平年間に大流行した天然痘によりそろって没する。
この寺は武智麻呂の息子仲麻呂が父の菩提のためたてたて寺だという。奈良時代というのが頭にあり、藤原家の寺としてこの場所は不思議な感じがしてしまう。五條は紀州への要衝なのだろうが、武智麻呂は何か紀州と関係があったのだろうか。
仲麻呂は橘諸兄を追い落とし、権力を握るが、道鏡の台頭により、仲麻呂の乱をおこし死ぬ。武智麻呂の墓は栄山寺境内からまた登るらしい。

  梵鐘


 本堂

 八角堂

 堂宇内の装飾画は天平時代のものだという。特別拝観中と入れてくれたが、とてもじゃないが肉眼ではさっぱりわからなかった。柱に楽器を演奏する菩薩像が描かれているらしい。

 栄山寺内の御霊神社

栄山寺のすぐ前を吉野川が流れている。

 

井上内親王墓

聖武天皇の長女、すなわち孝謙天皇の母違いの姉である。孝謙が重祚した称徳の後を受けた光仁天皇妃。娘と息子がいるが、娘は37歳、息子は45歳で産んだことになっており、いくら何でも信じがたい。息子の年に誤記があるとすることが多いようだ。息子は皇太子になる。他戸(おさべ)親王である。ところが井上内親王は夫である光仁を呪詛し殺そうとした疑いを受けとらえられてしまう。息子も一緒にである。そして同日に二人とも死んだとある。殺されたとしか考えようはないだろう。その場所が五條だった。光仁の後を受け即位したのは桓武、山部親王である。母は高野新笠、井上内親王に比べれば母の出自は比べるべくもない。
五条のはたくさんの御霊神社があるという。御霊、すなわち怨霊を鎮めるために建てられた。桓武には恨まれても仕方のないことをしたという自覚があったのだろう。

 御霊神社(霊安寺町)

 


五條新町の街並み資料館によれば、五條は5本の街道が交わるところだという。

五條新町の街並みは、吉野川沿いに栄えた当時の繁栄がしのばれる。

 吉野川 栄山寺近くよりはだいぶ川幅も広い。

ここまでくれば、和歌山県橋本市は目の前。隅田八幡宮へ行ってみる。

 隅田八幡宮

画像鏡は東博だがモニュメントはある

文字のうち「王」の前の2字が問題。オホドと読めるかは五條バウムの解読実験からも微妙だ。

 

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御所市の葛城

2021-12-05 | 行った所

葛城古道とか、葛城に関するものは意外に葛城市というより御所市に多い。

 葛城山ロープウェイも山頂も御所市だし、一言主神社も御所市だ。渡来系の鉄器関係の技術が注目され、葛城氏の本拠地かという南郷遺跡も御所だ。御所は「ごせ」と読む。巨勢(こせ)ではないかと思っていたがちがうのかな。

一言主神社より南下した葛城山麓というより金剛山麓の高天神社。高天原は宮崎県だと思ったが、大和にもあったか。


 駐車場脇の歌碑、あまり古い歌はないと見ていたが、別に磐之媛のがあった。

 仁徳の后で葛城氏出身、個性的な描かれ方をしている女性だ。「小槍倭」というのはどこだろう。「我が見が欲し国は葛城の高宮・・」忍海角刺宮を歌った歌と共通点がある。
 参道
 高天彦神社


北へ向かう古道、集落の生活道だ↓


葛城山へ向かう道、途中から進入禁止になる。 ↓

 

高天原から高鴨神社へ


資料館があると思って覗いたら蕎麦屋だった。

鴨氏というのがいたようだ。ここは鴨神社の元締め。京の上加茂・下加茂皆関連か。

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葛城坐一言主神社(かつらぎにいますひとことぬしじんじゃ)

2021-12-01 | 行った所

古事記はいう、雄略は葛城の山に狩りに出かけ、自分たちそっくりの装束の一向に合う。名を問えば、向こうも問いかえす。ついに名乗り「葛城の一言主大神(かづらきのひとことぬしのおおかみ」と答える。神だったのか、雄略は畏まり衣服を献上する。神は喜び一行を送ってくれた。
日本書紀になると、狩りで出会った雄略と一言主は共に狩をし、獲物を争う。
記紀ともに葛城に、大王に匹敵する豪族がいたというエピソードと捕らえられている。

雄略の母は忍坂大中姫、妃は草香幡梭姫皇女、ともに皇族らしい。雄略は兄安康を殺した眉弱王を庇った葛城円大臣を殺し、葛城氏と敵対する。しかし清寧になる皇子を生んだ韓媛は葛城出身らしい。
雄略が一言主と出会ったのはどの段階であったのか。
 一言主神社鳥居、参道は 30号線の下をくぐり長く続く。

 

 大イチョウ

「〇〇います〇〇の神社」という言い方は好きだな。奈良以外では見かけない気がする。ほかに「宗我坐宗我都比古神社(そがにますそがつひこじんじゃ)」とか「飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)」とか。

一言主神社の北方3㎞程度のところに 葛木坐火雷神社(かつらきにいますほのいかづちじんじゃ)別名笛吹神社がある。こちらも葛城山のふもとである。

 磐座がある

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