平家物語の第10巻「海道下」は平重衡が京から鎌倉に連行されて行く話だが、道行になっている。ただこの辺りはよくわからない。
「足柄の山打ち越えて、小余綾の磯、丸子川、小磯、大磯の浦々」とあるのである。
足柄山を打ち越えてきたのだからルートはともかく箱根は越えた。小田原辺に出たはずである。「小余綾の磯」は小田原から大磯のかけてのことだそうだから、重複を気にしなければ、小磯・大磯はいい。問題は「丸子川」丸子宿あたりを流れている丸子川だとすると、箱根よりずっと西になってしまう。「海道下」でいえば「宇津の山べの蔦の道、心細くも打ち越えて、」の次くらいに出てこなければならない。しかし宇津の次は手越、清見が原と続いて足柄山だ。小田原から西に目立つ河川は酒匂川、金目川・相模川といったところだ。少し調べて酒匂川の古名が丸子川らしいと知る。
それはともかく、大磯といえば「虎」だ。
虎女とも虎御前いうが、大磯の遊女にして曽我十郎祐成の恋人ということになっている。曽我の梅林あたりから大磯までは10キロ以上はあるだろう。夜な夜な通うには遠いようだが、馬を使えば大したことはないか。遊郭通いは人の集まるところで憎い仇の動静でも探る意図があったものか。この場合歌舞伎の曾我物「助六」の話につながっていくようだ。ただしこちらの主人公は弟の曽我五郎時宗で恋人は揚巻となる。「曽我の対面」では虎と化粧坂少将という二人の遊女が出てくるが、工藤祐経の祝いの場に呼ばれただけだから色っぽい話は出てこない。虎は立女形、化粧坂少将は若女形の役だそうである。富士の裾野の巻狩りの最終夜、宿所に兄弟が討ち入った時には、遊女が何人もいて悲鳴を上げる。祐経は酔いつぶれて寝ており、そこを討ち取られたという。工藤祐経は切れ者で頼朝も気に入っていたというが、酔いつぶれていて殺されるなど敵役としても大した人物には見えない。
兄弟の死後、虎は出家し菩提を弔い、善光寺へ赴いたことになっている。
曽我兄弟敵討ちの物語は江戸時代に大変な人気を得たようである。歌舞伎・浮世絵の題材となって大流行する。
討ち入りの日は旧暦5月28日、梅雨の最中で雨、この日は曽我十郎祐成の命日ともなった。悲しみの虎が流す涙雨、ということでこのころの雨を「虎が雨」という。
化粧坂から西へしばらくの道は松並木に東海道の面影を残す街道だ。江戸時代に整備されたのだろうが、鎌倉初期に目立つ宿場として遊郭を構えていたというなら、それ以前から街道沿いの宿として栄えていたのだろう。
化粧坂から西へ3キロほど行ったところに、大磯城山公園がある。明治の政財界の大物たちは挙って大磯に別邸を構えたものらしい。この公園は三井家と吉田茂の別邸をもとにし、作られた公園だ。
建築資材は奈良の古寺から持ってきたとか、どうしてそんなことが許されたのやら。
展望台へ上がると、登ってきた人たちがみな一様に声を上げる。富士だ。
こういう眺望案内はくすんだり、まるで読めなくなってしまっているものも少なくないが、ここのは立派なものだ。
向きを変えれば海も見える。
ここには大磯の資料館もある。
政財界の大物だけではなく、島崎藤村も晩年を大磯で暮らしたという。すべて山の中、と書いた木曾に生まれた藤村だが、文豪として名を成した後は、温暖で目の前が大磯港で新鮮な魚介の得られるこの地を住処としたのか。
大磯港