物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

細呂木と吉崎

2024-05-14 | 行った所

越前の戦国大名朝倉氏の滅亡には様々な要因が考えられるだろうが、その遠因の一つには一向一揆との抗争が多年にわたり消耗が激しかったということも挙げられるだろう。
北陸に大きく勢力を張った一向宗の隆盛の基は、間違いなく蓮如の吉崎下向にあった。この類まれなるマーケッター、プロパガンダ―、アジテーターが加越国境、大聖寺川と北潟湖が一つになって海へそそぐ吉崎に居を構えたことから、朝倉と一向一揆の宿命的な対立の構図は始まる。
しかしながら、この蓮如の吉崎入りには、朝倉孝景(英林)の了解があってのことだったといわれる。越前の北部、坂井郡には坪江庄・河合荘といった興福寺の荘園があった。蓮如は興福寺大乗院と親しく、大乗院の斡旋で孝景の了解を取付けたものらしい。蓮如に帰依し側近となり、非常に先鋭的で、後に加賀一向一揆を煽ったと責任を擦り付けられ破門される下間蓮崇は足羽郡麻生津の出身だという。朝倉氏と無縁の者ではなかっただろう。下間とは代々本願寺法主の側近の家柄で蓮如が蓮崇に与えた姓だろう。
朝倉氏は但馬出身で斯波氏の被官に過ぎなかった。応仁文明の乱に乗じて越前守護であった斯波氏・その守護代の甲斐氏を加賀に追い、一乗谷に本拠を築いた一代の英傑、英林孝景は、一向一揆に手を焼く子孫の有様をあの世で知ったら歯噛みをしたかもしれない。

また大乗院領の坪江庄の内、細呂木郷というところがある。越前の最北端であり、江戸時代の北陸道の越前最後の宿で関もあった。細呂木氏というのは細呂木郷の荘官だったのが朝倉氏に従ったらしい。刀根坂の敗戦で討ち死にした者の中に細呂木治部少輔の名がある。はじめから朝倉と大乗院の間に立って、双方の顔が立つように腐心する立場だったことは想像に難くない。
*坪江庄図 あわら市郷土歴史館の展示
*細呂木の関址
細呂木城址は細呂木の関址の案内板のある集落の南西の小高い所で、春日神社が建っているあたりである。
*春日神社入口
*本殿 赤い棒?が海老の髭のような注連縄がある
*磐座?
*土砂崩れ危険地区になっている。土塁か何かがあったのかもしれないが、私にはわからない。狭いし城郭というよりは街道の見張り場所だろうか。
*北東方向 他方向は樹々が邪魔で見えない
*細呂木周辺地図
ここから吉崎まで直線距離だと2.5キロ程であるが、旧道を辿ると1里(4キロ)足らずだろうか。観音川を渡り斜め右に坂を登って行くと分かれ道がある。
*旧北陸道と吉崎への連如道の標識等
右が旧北陸道。太陽光発電のパネルが立ち並ぶ脇を抜け、林間の道は加賀橘宿へと続く。左が蓮如道
*蓮如道 こちらを進むと県道29号線の吉崎の交差点へ出る。
*この図現在地は、北陸道にある。25号線とあるのは29号線の間違いであろうと思う。 
*北が下の図である。上の方(南)からちょろりと出ている細い白線が蓮如道、太い線が県道29号線で吉崎交差点へでる。
*吉崎御坊址から北を見る 右手にこんもり鹿島の森、左手があわらゴルフ場。中央に日本海。右から大聖寺川、左から北潟の北端が合わさって海に至る。
戦国時代の城郭といったら信じるだろうか。いや山の規模が小さすぎる。ちょっとした砦、見張り所にはなるか。
蓮如を得て、門前市をなしたという吉崎だが、蓮如は4年でここを去る。何度か焼けてもいる。
*吉崎の道の駅の前の道を上がる。寺の間を抜け階段を上がる。
*蓮如像がある。

*蓮如記念館庭から鹿島の森が見える
吉崎御坊址へ登る両脇に、東と西の本願寺の別院がある。蓮如から五代目の法主顕如は信長と和解し、石山を出る。事実上の降参となる。嫡男教如は徹底抗戦を主張するが、入れられず、弟准如が顕如の跡取りとなる。教如は徳川家康の知己を得て勢力を盛り返し、東西二つの本願寺が並び立つことになる。地方の寺々もかなり熾烈な勢力争いをしたのであろう、福井の超勝寺などは同じ集落内に東西で超勝寺と名乗る寺が2つほとんど隣り合ってある。
*吉崎の蓮如記念館にあった系図。東本願寺の施設と見えて、顕如の次には教如系しか書いてない。西本願寺の資料館もあるかと思ったがないようだ。それにしても鎌足から引いてくることもなかろうに。
*すごい子供の数、徳川家斉か嵯峨天皇なみ。案内をしてくれた人が、蓮如の奥さんは4人いたが、同時期の人はいないと強調していたのがおかしかった。
*本願寺派の勢力が強かったところが黄色らしい。若狭で一向一揆が激しかったとは聞かないのだが。
*蓮如の吉崎下向は琵琶湖を利用し、海津からは陸路吉崎に至る。退去は海路であった。


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