物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20190623 高浜7年祭

2019-06-28 | 行った所

今日も梅雨空だ。若狭の高浜へ向かう。7年祭だそうだ。まだ見たことがない。

高浜町宮崎、佐伎治神社、さきちと読むそうだ。ここで今日から1週間にわたりいろいろ奉納があるらしい。
途中降っていた雨は、着いた頃には止んだ。境内へ行く。連れがたこ焼きを食べるという、サクランボを買えという。
境内は随分人が集まっている。何やらやっているらしい場所を人の頭越しに見下ろせる場所を確保。神輿が3基、大きな太鼓が3台見える。3地区が奉納するらしい。
太鼓が打ち鳴らされる。太鼓をたたくというより踊っている。撥を持ち飛び上がり踊り狂うように打ち鳴らす。当然息が上がるから打ち手は交替していく。太鼓だけでも見ものだよ。

地面に敷かれたむしろの上に何やら準備されている。演目めくりには「太刀振り」とある。一種の剣舞だ。
続いて、1演目数分の剣舞が5・6種披露される。2・3人づつの若衆が衣装を着け柄物をもって振りを合わせる。これはかなりの練習をしている。
鎖鎌を使う剣舞なんて初めて見た。
6年おきだというが、よく続いたものだ。とても戦時中はできたとは思えない。400年続いた祭、というが、形は変わっても来ているだろう。剣舞の演目で「佐倉宗五郎」というのがあったが「惣五郎」だろう、実在したとして江戸初期、演劇化されたのは幕末だろう。全体に歌舞伎の見えが入っている。橋弁慶・白石噺なども歌舞伎であるかな。
周りの人たちは、どこの誰それがでてる、とか話していたが、とても面白く、よそ者の私も十分楽しんでしまった。
1区分の剣舞が終わったところで高浜を離れる。

     

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20190622 木造腹帯地蔵座像

2019-06-28 | 日記


滋賀の大浦の腹帯観音の処で、福井市にも腹帯観音があると聞いている、と言われた。??聞いたことないなあ、それでだいぶググったが出てこない。検索ワードの観音を仏像に変えたら出てきたのだが、地蔵菩薩だ、手ぬぐいを巻き付けているわけでもない。衣の下につけた下帯か何かの紐が掘りだしてあり、それが腹帯に見える、ということのようだ。一応安産祈願はする人もいるらしいが、これなのだろうか?地蔵というと子供の守り神のイメージだ、妊婦はどうかな?
ネットにあったのは清水町の文化財を説明しているサイトで、写真もない。場所は笹谷と知れたので行ってみる。
清水町でもかなり奥へ入った集落だ。さっぱりわからず、ちょうど出てきたおばあさんに案内してもらうが、お堂には鍵がかかっている。鍵は近くの寺の住職が持っているらしいが不在のようだ。
お堂の前に説明版と写真がある。写真からは悪いものではなさそうだが。

  


お堂前の石段に大きな蛇の抜け殻があった

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20190615-16滋賀 3

2019-06-24 | 行った所

小谷から南下し、近江八幡まで。長浜付近が混んでいた。
夕食は、近江八幡駅近くのティファニーという店のステーキ。2月に石山に泊まった時、宿はひどかったのだが、すき焼きだけはやけに旨く、近江牛ステーキには大いに期待していたのだが、それほどのこともなかった。
宿は駅近くのビジネスホテル。

翌朝、早めに八幡堀の屋形船の探索に出かけるも不発。
8:30頃安土に向けて出発。安土には博物館らしきものが3つある。
安土城考古博物館・信長の館・安土町城郭資料館である。いづれの9:00~となっていた。
安土城考古博物館は滋賀県立で、立派な建築であり、展示も大変見ごたえのあるものだった。
信長の館も際物かと思いきや、よくぞここまでと感心するようなものだった。この迫力はなかなか他では見れない。
城郭資料館はガクンと落ちて、駅の電車待ちの人向けみたいなものだった。
安土城址へ行く。連れは10連休時の捻挫が完治していない。石段登りはパスの予定だったが、Q氏は登りたいという。結局、秀吉屋敷跡辺りまでで降りる。第一雨が落ちてきている。

私達は2009年9月に上っているが、今度もう一度来たいものだ。

近江八幡に引き返し、屋形船に乗る。今度は探せたが、分かりやすいとは言いかねる。
堀の脇に植えられた菖蒲が見ごろでよかった。堀は往時より狭くなっているとのことだが、そこを屋形船が行きかう。今日は全艘出払っているそうだ。且つては丸子舟があったそうだ。30分ほどのクルージング後半は雨が激しくなった。


下船後昼食。どこもかなりいっぱいで、焼き鯖寿司を食べた。

Q夫妻を米原駅へ送ってから長浜の長浜城博物館へ。雨は小雨とは言っていられないものになる。駐車場からの距離があり、閉口する。
特別展で一向宗に関してやっていると思ったのは勘違いだったが、入る。ここは模擬城郭であるが、天守からの眺めがいろいろ確認できる。ほんと晴れの日に来たいわ。




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20190615-16滋賀 2

2019-06-21 | 行った所

大浦の港に出たら雨が降り出した。観光案内板があり、丸子舟の館というのがあったから行ってみる。
これは予想外に面白かった。丸子舟とは丸木舟にするような大木を縦二つに断ち割り側舷にし、その間を板を鋲打ちして留めてあるほぼ平底の船だ。予想外に大きい。100石舟だという。1000隻以上が琵琶湖を往来していたこともあるらしい。エンジンを積み、昭和に入っても数台が就航していたという。最後の丸子舟を展示してあるとともに、琵琶湖と周辺の物資の移動をよくまとめ展示してある。優秀な学芸員が居ると見た。

敦賀から山越えで琵琶湖に至る道は漠然と塩津あたりかな、というものだったが、3通りあるようだ。塩津・大浦・海津だ。小浜からのルートは今津に出るのでここは経由しない。

昼食後余呉へ回る。(昼食は永原の西久という食堂、恐ろしく量は多い)
余呉湖へ来たのは初めてだ。賤ケ岳合戦の絵看板があるがなんだかよくわからない。
余呉湖周り一周。程よいサイズの湖といえばいいのか。

木之本へ出、以下にも宿場町の雰囲気を残す通りの酒屋で地酒を買う。

高月の雨森芳洲庵へ向かう。電話番号でナビが設定できず、近所かと思うあたりをほぼ迷子状態で探す。
芳洲は抜群の才能とバランス感覚に優れた人だったようだ。文化に優劣なし、という感覚をこの人はどこで身に着けたのだろう。
朝鮮通信使の衣装を着けた人形があったが、それがいかにも西洋人という感じのマネキンだったので笑ってしまった。
若いとき一度対馬に入ったことがあるが、その時には、こんな人がいたということも知らなかった。

渡岸寺へ行く。なんていうたらいいのか十一面観音像である。ただ照明は悪い。去年来た時にはもう少し明るかったように思うのだが。
Q夫人は今までに少なくとも2回は湖北の観音を回り、東京芸大や上野の観音ハウスにも足を運んでいるらしい。しかし、渡岸寺の十一面を見たか見なかったかわからないという。だいぶ私とは感覚が違うらしい。

資料館も寄らず、巳高石道寺もパスし小谷に向かう。
さすがに4月に来たばかりだ。さっと回る。Q夫妻、山城まで登りたいというので車で中腹まで上がる。それからは徒歩になるのだが、雨だしパス。

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20190615-16滋賀 1

2019-06-20 | 行った所

湖北の観音巡りを一緒に、ミホミュージアムにも、というお誘い、だが要はアッシー君になれ、ということだ。計画は任せるというが。
ミホミュージアムまで行くことを考え近江八幡に宿をとったが、この博物館はやめにした。湖北だけなら近江八幡は南すぎるのだが、安土にも行きたいというからまあいいか、で、滋賀一泊旅行です。

土曜の朝、8:00出発。雨である。それどころか、大雨、暴風の予報さえ出ている。いっそ計画を流してしまいたいくらいだったが、東京からきて米原で落ち合う予定の夫妻、特にQ夫人は大変な晴れ女を自称しており、変更の可能性なし。ということで出かける。雨はまだ小雨程度、快調に走り、予定より早めに米原に着く。米原には駅しか行ったことがない。それも乗り換えか、駅で人を拾うだけ。湖岸の方まで行ってみるかと西へ向かうと
「干拓資料館」という看板が見えたので行ってみる。
何かの事務所みたいなところだが、2Fが資料館になっている。琵琶湖の内湖の干拓の軌跡と発掘品の展示だ。琵琶湖の周りにはたくさんの内湖と呼ばれる水域があり、細い水路を通じて、町へも琵琶湖へも行き来できた。一大水郷地帯だったのだ。西の湖のほかにもこんなに多くの湖があったのか。水中遺跡のようなものだから、木製品が良く残っている。縄文の網代まであった。
時間切れで米原駅へ戻る。

善隆寺十一面観音
K夫妻を乗せ、木之本インターまで戻り、下道を西浅井山門(やまかど)という集落の善隆寺。拝観予約を折れておいたので、住職が待っていてくれる。目当ては十一面観音。小ぶりだが重量感あるいい造りだ。口元がちょっと好みでないかな。保存もいい。かすかに朱が残る。井上靖の小説に出てくるというが、読んでない。近くへ寄らせてもらえるし、写真を撮るのも自由だという。滅多になくてうれしい。
湖北は観音像が多い。平安時代に作られ祭られてきたが、この辺の寺々が、天台宗から浄土真宗に変わり、寺は観音像の扱いに困ったらしい。密教なら問題ないが、真宗は阿弥陀しか拝まない。で別にお堂を建てたりする。渡岸寺の観音もそうなのだが、ここも善隆寺といいながら、和倉堂というお堂に安置されている。


ここでQ夫人の旧知だという人と会い、その方の案内で大浦へ行く。

大浦腹帯観音
腹にさらしを巻いていて、安産祈願の仏だという。もともとは十一面観音だ。戦火を逃れ水に沈められ、数十年後に引き上げられたという痛みの激しいボデイだ。顔と手足は江戸時代の後補らしいが、顔は悪くない。頭部に結構派手な瓔珞を着けているので頭上の11面はよくわからない。
確かにスタイルは腹回りが大きくぽってりとしており妊婦のように見えないものでもない。だいたい仏像は福々しくおなかは大きいものだが、まあこれは特に大きいともいえる。ここも写真自由、但し団体の観光客には撮影禁止の看板を出すのだそうだ。この観音は盗まれたことがあったが、懸賞金をかけて取り戻したそうだ。去年の台風でお堂裏のスギが倒れたそうだ。

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20190601 ジグソーパズル

2019-06-07 | 日記

江戸の古地図の上に現在の鉄道網を乗せてある。1000ピース。
結構時間がかかりました。でもとても面白かったので、こういうものの京都や大阪も物がないかしら、と思う。

枠は古い10号キャンバスの枠2つ。一つを切ってサイズを合わせてつなぎ、色を塗った。

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20190531 イソヒヨドリ?

2019-06-06 | 日記

屋上でかわいい小鳥の声がする。何だろうと見てみると、見慣れぬ鳥だ。
だいたいこの辺では、スズメ・カラス・鳩・燕、くらいしか見かけることはない。何年も前にオナガを見たことはある。あれは姿はいいが声はひどかった。あとムクドリも見たことがあるな。
この鳥は何というのだろう。スズメよりはかなり大きい。鳩よりは小さい。頭から背、尾にかけてくすんだ青緑、腹側は赤い。美声だ、2羽いる。
一応写真を撮るまでいてくれたのだが、もう一歩、と近づいたら飛び立っていってしまった。
ネットで鳥を探す。イソヒヨドリ、というのだと思う。最初はカラアカハラという鳥かと思ったが、どうも嘴の色が違う。ただ、イソヒヨドリはメスとオスとではだいぶ色味が違う。あれはオス同士だったのか、鳴きかわしている様、てっきりつがいだと思った。



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20190518-19 京都 鳥羽殿 六波羅

2019-06-04 | 行った所

5月18日土曜、昼食後、京都へ向かう。連れが六波羅で平家の屋敷跡が発掘されて、日曜午前中説明会が行われるという新聞記事を見つけ、行きたいと言い出したからだ。1泊し、ついでに鳥羽殿とか宇治川の戦いの場所でも見てくるか、ということでした。

京都市街地へ入るには京都西インターからが近いが、ナビには鳥羽離宮跡公園を目的地とし、南インターで降りる。
たぶん近鉄線で上鳥羽だか下鳥羽だかの駅があったように思うのだが、どこだか判然としないがその辺だろう。
この公園は運動場だ。子供たちが野球をしている。だが、案内板や碑もある。ここは南殿址、ほかの遺構は大半高速道路の下だろう。 


桂川鴨川の合流地点、白川上皇は景勝の地の別荘のつもりだったのだろうが、後白河が清盛に押し込められたのが鳥羽殿だというし、ここはまた明治維新前夜の鳥羽伏見の戦いの場所でもある。
石碑の図は見づらいが、幕府軍は大阪から淀川沿いにさかのぼり、桂川宇治川の二手に分かれて攻め寄せる。薩長方は京都から南下して迎え撃つ。



伏見へ向かう。伏見稲荷と伏見の町とはここからは方角が違うことを知った。以前、伏見で港があり宇治川の水運を示した場所を見たことがある。
そこへ行きたかったのだ。その時、黄桜の資料館にも一緒に行った覚えがあったので、取敢えずそこを目指す。
寺田屋があり、酒蔵が並び、水路が巡る伏見だ。屋形船、乗ってみたいな。 

 


ところが依然行ったはずの宇治川河川敷への出方が分からない。伏見港公園とあったので、ここだろうと言ってみたが、ここは運動場だし、雰囲気がまるで違う。
諦めて桃山城に上って戻る。
ホテルは京都市八条口。八条口でバル風の居酒屋とうどん屋へ行って夕食。
と、ここまではよかったのだが、ホテルに戻ると、猛烈に眠い。這う這うシャワーは浴びたものの髪を乾かす気力もなくベッドに倒れこむ。
すぐ眠れるかと思いきや、それからひどく気分が悪くなってきた。胃の中のものが逆流してくる。激しい吐き気に襲われる。一晩中眠れず、朝が来た時には消耗しきっていた。何だったんだろう?下痢はしていないので、食べ物であったったのではない。症状からすると飲みすぎの二日酔いが近いというか、たぶんそれなのだが、こんな目に合うほどは飲んではいない。さんざんであった。

ともかく、六波羅付近に出かける。東山五条を少し北西に入ったところのはずだ。実際には五条通に面した処に囲いがあり、現場はその中だった。
発掘現場の説明会なんて、よほどのことがない限り、数十人くればいいところだろうと思っていたらとんでもない、200人近く集まっていた。足場の悪い現場にこの人数だ。体力負けして資料だけもらって車で休む。 


せっかくここまで来たのだからと、六波羅蜜寺へ行く。清盛や空也もいいが、ここのお地蔵さんがイケメンで好きなのだ。連れと一度は一緒に来たことがあるはずだが、まるで覚えていないという。



再び南下し、宇治橋へ。要は平等院だ。大型連休の後だが、さすが日曜の観光地、結構な人出、修学旅行生もいる。平等院には入らず、宇治川沿いを散策。抹茶ソフトは胃に収まった。宇治橋を渡るが風が強い。
1180年(治承4年)以仁王のは園城寺に拠ったが、平家に追われ興福寺を目指す。ろくに寝ていない彼は(たぶん乗馬にも慣れてはいない)何度も落馬しつつ平等院までやってきた。源三位頼政は宇治橋の橋板を外し、ここで平氏を食い止め、以仁王を奈良に落とそうとする。橋桁を伝い、アクロバット的に戦う園城寺の荒法師、悪僧たちの繰り広げる橋合戦。平家は利根川をこうして渡ったという関東武士の馬筏で宇治川を押しわたる。
結局以仁王は殺され、頼政も死ぬ。頼政の墓は平等院にあったはずだ。
更に1184(年寿永3年)木曽義仲と頼朝に派遣された義経達が対峙する。頼朝から名馬スルスミ・イケズキをもらった佐々木高綱と梶原景季が先陣を争って宇治川に入る。


と回ってきたが、今回後半私は体調が悪すぎました

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2019GoldenWeek 四国 大歩危小歩危

2019-06-03 | 行った所

5月4日、7日目です

土佐の名残に桂浜へ寄る。連れはお土産購入、私のみ海岸まで行く。いい海岸だ。市街地のホテルからここまで市街地を迂回し た道だったようだが、10km以上はあったろう、直線距離にしても近くはないだろうが、昔の人は2里や3里歩くのはへでもなかったのかもしれないが。或いは馬か。



四国のほぼ中央を南北に走る自動車道に乗る。但し、大豊というICまで。ここからは土讃線に沿って北上する。土讃線は日に何本走っているのだ?と思うような路線だ。
ここで切符を買う?のだろうか。



道の方は少なくとも四万十の国道441のようなことはない。スムーズに走り、大歩危まで1時間少々。
大歩危小歩危は「おおぼけこぼけ」と読む。全く天然ボケに加齢によるボケが加わった我々にぴったりの命名ではないか。すっかりうれしくなり、ここへ来ることを決めたのだ。歩危(ぼけ)とは崖のことらしい。
遊覧船に乗る。渓谷の様、なかなかでした。



 


ところで連れの足はどうにもならず、船着き場への上り下りもやっとの有様なので、もう少し遊んだら切り上げて帰ることにする。
というわけで、祖谷(いや)へ向かう途中に平家屋敷資料館があるらしいのでそこまで、と思ったが、どうも通り越してしまったらしい。
道の駅のようなものがあったので入って流していた観光ビデオに見入ってしまった。いやはや秘境の名に恥じない大変なところだ。祖谷の奥の限界集落でほぼ実物大の人形を作っている人がいる。その人形が100体を超え、村のあちこちに置いてある。かかしの里というそうな。

大歩危に戻りホテルをキャンセルし、帰途に就く。吉野川沿いに北上し、徳島道に乗り淡路島を通って帰った。神戸JCTで「ナビの誤誘導注意」なんて標識がある。やっぱりみんな間違えるんだ!!。

翌日、整形外科へ行き、やっぱり捻挫、だけどかなり酷い、と結局全治1か月ほどかかった。

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2019GoldenWeek 四国 土佐

2019-06-03 | 行った所

5月3日、6日目です

土佐清水、竜串の海岸を観光と思っていたが、民宿の駐車場の猫たちに挨拶してからすぐ高知に向かう。

  



四国は北の方東西のへ延びる高速道路はあるが、南側は道半ばだ。土佐清水から高知近くまでが長い。計画中なのか看板をあちこち見たのですぐ乗れるかと思ってしまった。行けども行けども四万十町の標識がある。四万十川の河口からはもうずいぶん東に来たはずなのに。どうも四万十市と四万十町があるみたい。まあこの辺は福井県の方がわけが悪いだろう。越前市と越前町と南越前町があるのだ。おまけに越前市のJR駅は武生という。県外の人にわかるはずはない。
漸く高知市に入る。2時間40分かかった。目指すは高知赤十字病院。
ところが今日の当番医は整形外科ではない。脳神経科だという。比較的すいていたのはよかったけれど、まあ捻挫だろう、ということで湿布薬と痛み止めが出ただけ。ドラックストアと大差ない。

牧野植物園へ行く。

けっこうな山だが、車で登れる。ところが駐車場が満杯、一旦山を降りて再トライしたら今度は入れた。
牧野富太郎というのは大変な人だ。自ら植物の精と名乗ったらしいが、幼くして自分の道を見つけ、それに賭け続けた生涯だった。その業績は隠れもないが、随分人とも衝突したらしい。植物園内は緩いスロープが巡っている。連れは車いすを借りるという。いやはや押しましたよ、ずっと。こっちも不慣れだから、登りより下りが怖い。お天気は今日もよく、外を動いていると暑いくらい。

植物園を降りて繁華街へでて昼食。飲食店はたくさんあるが、どれも如何にも如何にもだ。しょうがないから適当に入る。
高知城付近の駐車場も混雑。高知城は登らず、高知城歴史博物館へ入る。



夕食ははりまや橋付近のこれも如何にも如何にもの処で。どうも高知へは何かを食べにまた来たいとは思わない

 

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