物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

源源合戦の事 1

2020-04-12 | まとめ書き

源平の合戦は華麗だ。源氏の白旗、平家の赤旗。白旗にあしらわれるは凛々しい笹竜胆、赤旗には蝶が舞う。

平家に比べ源氏は仲間内での争いが多いとされる。本当に多いのだ。この源源合戦ともいうべき争いはただ泥臭い。

義家のころから鎌倉幕府成立期まで、最初のと最後のはちとはみ出すが、12世紀を中心に16件を拾ってみた。暗殺もあるので合戦と云えないものもあるが、数年ごとに酷くいがみ合ってきた河内源氏だ。どこの一族でもあることなのかわからないが、血の気が多いとはいえるだろうか。

ここでは①から⑦の保元の乱までを書いてみる。

  西暦 和暦 勝者 関係 敗者 関係 概要
1091 寛治5年

源義家

源義綱 河内にある郎党たちの領地をめぐり義家と合戦寸前にまで至るが、二人の主人である関白藤原師実が仲裁
1106 嘉承1年 源義光 叔父 源義国

常陸に勢力を持つ義光の所へ義家息子(義親・義忠の弟)義国が押しかけ、常陸国において合戦する。「常陸合戦」と言われる。義国は上野に退き、新田・足利氏の祖となる

1109 天仁2年 源義明
源義綱
従兄弟
叔父
源義忠 従兄弟
義家の息子(義親弟)義忠が源家棟梁となるが殺される。義明が犯人とされるが真犯人は義家・義綱の弟義光ともされる
1109 天仁2年 源為義
(甥の子)
義綱一族 叔父
(父の叔父)
為義は義家の孫(義親息子)だが義家の養子になっている。白河院の命を受け義忠殺害犯とされた義綱一族を討つ。義綱息子たちはみな自害、義綱自身は佐渡へ流されるが後に殺される
1130 大治5年

鴨院義親

大津義親 義親は天仁1年(1108)出雲で平正盛に殺されたことになっているが、生存説があり偽?義綱が何人も現れている。これは義親を名乗る者同士の合戦。大津義親が討たれるが直後鴨院義親も殺害される
1155 久寿2年 源義平 源義賢 叔父 義朝長男義平は武蔵の大蔵にいた義賢を急襲、義賢らを殺害。2歳の義仲は木曽へ逃れる
1156 保元1年

源義朝

息子
源為義
為朝ら

保元の乱、乱後義朝は父為義を斬首
1180 治承4年 源頼朝 親戚 佐竹秀義ら 親戚 常陸佐竹氏は義光の子孫。頼朝勢が佐竹氏を討った(金砂城の戦い) 佐竹秀義は奥州へ逃げる
1183 寿永2年 源頼朝 源義広 叔父 義朝弟義広は志太先生と呼ばれ常陸志太荘にいた。頼朝に反発するも頼朝勢に敗れる(野々宮合戦) 義広は義仲軍に加わる(義広は義仲の父義賢の同母の弟)
1184 寿永3年

源義経
範頼

従兄弟 源義仲 従兄弟 頼朝の代官として義経・範頼が義仲を討つ
1184 寿永3年

源頼朝

父の従兄弟
婚約者の父
源義高 従兄弟の子
娘の婚約者
義高は義仲の嫡子、義仲が討たれ鎌倉を逃げ出すが捕まり殺される
1184 寿永3年 源頼朝 親戚 一条
忠頼
親戚 一条忠頼は武田信義の嫡男。武田信義は義光の曾孫。忠頼は暗殺される
1185 元暦2年 源頼朝 親戚 多田行綱 親戚 多田行綱は摂津源氏である。多田荘の所領を没収・追放処。
1189 文治5年 源頼朝 源義経 義経奥州衣川で敗死
1193 建久4年 源頼朝 源範頼 富士の裾野巻狩りでの曽我兄弟の仇討事件で「失言」修善寺幽閉の後殺害
1219 建保7年 公暁 源実朝 叔父 頼家の子公暁が実朝を暗殺する

父頼義を継ぎ、前九年・後三年の役で勇名をはせた義家は八幡太郎を名乗る。同母の弟義綱は賀茂神社で元服し鴨次郎を名乗り、その弟義光は新羅神社で元服し新羅三郎を名乗っている。異腹の弟快誉は園城寺で出家している。
源氏は摂関家の家来としてその荘園を守る武力としてあった。摂関政治は天皇に代わり摂政や関白が政治をしようという政治形態であるから、院政とは相いれない。院政は天皇に代わりその父・祖父が政治をしようという話だから、摂関家と院はライバル関係になる。したたかな院の出現は摂関家には打撃だ。白河院がこれに当たる。摂関家の藤原頼道の子師実までは尊重も協力もしたが、師通が死に若くして忠実が継ぐと当然のように頭を押さえにかかる。
天下第一武勇之士、源義家も白河は快くは思わない。源氏の力をそぐことは摂関家の力をそぐことにもなる。
後三年の役は私戦とされ(これは仕方ないかも・・)一切恩賞はなく、義家は私財を部下の恩賞に充てている。大変な物持ちだったことがわかるし、この事で東国の武者たちの義家への支持は大きくなる。
白河は義家への寄進等を禁じる。義家の対抗馬として義綱を優遇する。

①そして寛治5年(1091)義家と義綱は畿内で互いに郎党を率いにらみ合う。畿内で合戦などされてはかなわない。師実が割って入ったが、たぶん両人ともに不満が残ったろう。白河の義綱優遇はさらに続く。

②の常陸合戦だが、義国は義家の四男である。長男は早逝、次男義親は対馬の守に任ぜられ、悪対馬と呼ばれた武勇の士、三男は義忠。義国は乱暴者だったというがどんな史料があるか知らない。摂関家領上野国八幡荘をもらい、早くに上野に下向していた。常陸合戦は当時16歳だった云う義国が叔父義光に仕掛ける。15歳で大蔵館に攻め入り叔父義賢を殺した義朝長男悪源太義平の先輩格のようだ。対する叔父義光60余歳は負けてはおらず 、義国を常陸からたたき出してしまう。新羅三郎義光は後三年の役を兄義家と共に戦った後、常陸の豪族と婚姻関係を結び根を張っていたらしい。源家の子弟が地方豪族と結婚し、その地方で勢力を張る、というのは一つのパターンだ。貴種として京都とのつながりをアピールし、豪族の方でもそのつながりを良しとしたのだろう。頼朝が北条の娘と結婚したのも同じパターンだと言えるかもしれない。義光は佐竹氏と武田氏の祖となる。滋賀園城寺近くの新羅神社の義光の墓には明治時代のものだが佐竹氏の作った碑があった。
義国は後に足利の荘を立荘し新田氏の祖となる。新田義貞は義国の子孫ということになる。
嘉承1年(1106)この戦いの後、義家が死んでいる。

義家の後継者と目されていたはずの義親だが、九州で反乱を起こし誅されていた。隠岐へ流されていたという。反乱自体が奇怪な話なのだが、平家物語冒頭の猛き者たちが列挙の中に康和の義親がある。義親はさらに出雲でも乱を起こす。眉唾物ながらも、義親の乱を平定したのは平正盛となっている。白河院は源氏を押さえるとともに、平家を重用する。出雲から義親の首を掲げ凱旋した正盛は出世街道を歩む。

一方源氏は停滞を余儀なくされる。
義家の後は三男義忠が継ぐのだが、何者かに殺される。
③の義忠殺害事件である。表では勝者として従兄弟の義明・叔父義綱を挙げてはあるが、この事件は実に不可解な経緯をたどる。
百錬抄によれば、当初は何故か美濃源氏の源重実が犯人とされ逮捕されたが無実だとわかった。そして義忠が襲われた現場に落ちていた刀が義明のものだと判明する。義明父は表の①でも義家とはあわや合戦というにらみ合いを演じた。源氏の衰退を苦々しく思い、自分たちの方がマシだ、と思っていたかもしれない。義綱一族は挙げて無実を叫び猛抗議、甲賀山へ立てこもり抗戦。息子たちは次々自殺した。
攻めたのは義親の息子で義家の養子になっており義忠を継いだ為義で、白河院の命により追討した。これが④になる。息子たちの自害にも関わらず義綱のみは降伏、佐渡へ流される。
ところが義忠殺害の犯人は別にいた、という話が流れる。黒幕は義綱弟義光。②の常陸合戦の義光である。彼が義明の刀を持ち出させ、郎党に命じ義忠を襲わせた。しかもその郎党に手紙を持たせ、異腹の弟快譽がいた園城寺へ遣る。快譽はその郎党を殺す。何とも手の込んだことをしたものだが、尊卑文脈にあるこれが真相とされているらしい。したがって③は義光(叔父)VS義忠(甥)という構図にもなる。

これだけ混乱した一族だ、若くして家督を継いだ為義には手の打ちようもなかったろう。頼みの摂関家も力を失いつつあり、挙句忠実・頼長VS忠通でケンカ状態。白河院も手強かったし、鳥羽院も手強い。院には平家が取り入っている。
為義は地方に活路を見出そうと息子たちを地方へ送る。義朝を関東相模、為朝を九州へ、更に義賢を関東上野へという具合に。そしてそれも新たな軋轢を生むのだが後にして⑤の義親の話へ。

⑤は共に義親を名乗る二人の合戦である。これも③の義忠殺害事件と勝るとも劣らない奇怪さである。
義親は平正盛に追討されたはずだ。首が都でさらされたではないか。しかし勇猛で知られる義親が簡単に正盛に討たれたことに首をかしげる人は当初から居た。それでも、偽首なら義親本人が騒ぎ出すだろう、八百長だったのか?押さえ込まれていた疑問は約十年後、越後に義親と名乗る僧が現れることで再燃する。この僧はあっさり殺されるが、今度は常陸にも義親が現れる。この義親は捕まり京へ送られるが偽物とされ殺された。
更に数年後、義親と名乗る男が藤原忠実の鴨院に匿われた。鳥羽院の意向あっての事だという。忠実自身は義親を見知っていたと思われるので、既に誅されたとして追討使正盛に恩賞まで出しているので本者とも言えず・・という状況に見える。
更に四番目の義親が大津に現れる。鴨院義親と大津義親が京都で互いに郎党引き連れ乱闘に及び、大津義親が殺された。
 凱歌を挙げた鴨院義親だが、源光信が郎党を連れて鴨院を襲撃、義親を郎党もろとも殺害した、ということになっている。鴨院義親と大津義親の乱闘は光信邸前の出来事だったそうだが、義親?が居るとはいえ前関白屋敷である。この襲撃は余程義親の生存が都合の悪い輩=正盛を疑いたくなる。

茶番ともいえる義親騒動に比し⑥の大蔵合戦は保元の乱の前哨戦と云われ、遺恨は後の義仲vs頼朝の時代まで尾を引くものとなった。

為義は誰を後継者にしたかったのだろうか。長男義朝は、上総御曹司と呼ばれたくらいだから早い内から関東へ下向し、上総で過ごした期間が長かったのだろう。その間、次男義賢は帯刀先生(たちはきのせんじょう)という官職を得る。東宮の警備職である。摂関家頼長の引き(男色関係)もあったりはするものの、都の官僚システムの中でうまくやっていける、というタイプではなかったようだ。為義自身も狼藉者をかばい匿い官職を解かれるが、義賢も同じようなものだ。
義朝は熱田神宮司藤原季範娘と結婚すると京へ帰ってくる。そのコネで上西門院、鳥羽院との関係を作り始める。
親兄弟でも気が合わないというか仲が悪いのはよくあることだが、為義―義朝の仲の悪さは何故だったのだろうか?
何しろ鎌倉殿の父君故、後から履いた下駄もあろうが、義朝はひとかど以上の武将であったように思える。関東武者たちを、保元の乱で動員出来るほどの関係を築けたのは、ただ源氏の御曹司というだけではなかったろう。長男であり、母は白河院近臣である藤原忠清の娘というから悪くはない。義賢の母は六条大夫重俊娘だそうだがよくわからないらしく、少なくとも義賢の母に勝るとも劣らない。息子たちを地方に遣り、それぞれに地盤を作らせよう、というのは為義にしてはいい考えだ。しかも義朝はそれに成功したのだ。おまけに良縁を得て朝廷へのコネも付けた。為義も義朝に乗っかればいいのだ。そんなことは話にならないほど親子の中は拗れていたのだろうか。
義朝は下野守となり、為義をしのぐ地位を得ると、為義は義賢を上野へ遣る。義賢の同母弟義憲(=義範・義広:以下義広)も関東へ下向する。茨城県稲敷市辺りへ行ったらしい。義広は⑨の野々宮合戦で登場する。
義賢は上野多胡荘を本拠地とし、南下を目指す。武蔵の最大武士団秩父氏の秩父重隆の養い君となり、武蔵国大蔵の屋敷に住む。義賢次男義仲はここに生まれる。
義朝は下野守になったといっても地盤は相模・上総だったろう。武蔵を義賢に押えられてはたまらない。長男義平に大蔵館を急襲させる。秩父氏も一枚岩ではなかったようだ。後に武蔵武士の典型、武将の鑑と云われた畠山重忠の父は義平についている。
義平は義賢・秩父重隆を討ち取り凱歌を挙げる。以後義平は鎌倉悪源太と呼ばれる。
時に武蔵国守は藤原信頼「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、また芸もなし」と平治物語でくそみその云われ様の信頼だが、能力はあり公卿としては武断的な人物だったかもしれない。この信頼と義朝は既に親しかったのだろう。信頼は義平の襲撃事件を不問に付してしまう。平治の乱で信頼を日本一の臆病者!と罵る義朝だが、この頃はありがたかい庇護者だったのだろう。
どうも為義は情報収集能力、根回しの仕方が義朝に劣るようだ。

ところで鎌倉悪源太義平だが、平治の乱後捕らえられ処刑されている。平治物語によれば、死後も雷となって祟ったりする。
この義平が生き残っていたらどうなったろうか?頼朝との関係はどうなったろうか? 関東武者たちは皆頼朝よりも義平に親しかったろう。この兄とひと悶着起こさず、頼朝は無事鎌倉殿になれたろうか? 頼朝は嫡男扱いされていたけれども三男だ。長男で能力がありながらも嫡男扱いされなかった面白く無さは義朝が一番よく知っていただろうに。義朝はそこのところを考えなかったのだろうか、馬鹿親父の為義と俺とは違う、と思っていたろうか?

⑦保元の乱。これより武者の世、と愚管抄に慈円は書いた。近衛帝の若き死、長かった鳥羽の院政の後、王家・摂関家・武家それぞれが親兄弟・叔父甥互いに相争った。敗者:崇徳院・藤原頼長(父忠実)・源為義ら・平忠正、それぞれに傷ついたのだけれど、どこより傷が深かった一族はやはり源氏だろう。
戦の貢献度の高かった義朝の恩賞が少なかったというけれど清盛に比べ、もともと地位が低かったのだからこれは仕方がない。ただ罰は過酷だった。父為義は一方の将だったことを思えば仕方がなかったかもしれない。だが為朝を除く弟たちも斬り捨てられた。次男義賢は既に大蔵合戦で死んだ。三男義憲(義広、以下義広と書く)は常陸志田荘を動かなかったのか、ここには見えない。四男頼賢は義賢亡き後事実上の嫡男、五男頼仲、六男為宗、七男為成、八男為朝、九男為仲、以上の6人の男児を引き連れ為義は合戦に臨む。十男義盛(行家、以下行家と書く)がいたはずであるが元服前だったのか出てこない。この他青墓宿に4人の男児あり、彼らも保元の乱後殺される、というのが保元物語だが、ここでは物語としておこう。
十男行家の存在は間違いないから5から7,9の息子たちも存在していたのだろう。保元の乱後生き残った為義の息子は義朝以外、三男義広・八男為朝・十男行家の3人だったということだ。
三男は自分の荘に居て出てこなかったようなのだが、何故だろうか。義広は義賢とは同母の弟だ。それなりに仲が良かったらしいのだが、実際の所は不明だろう。志田先生(しだのせんじょう)を名乗っているので都で官職についていたことがある。先生は東宮の警備員の長であり、義賢もこの職に就いていた。義賢廃嫡の後、彼は為義の後継者に目されはしなかったのか、既に関東へ下向していたのか、ともかく四男頼賢が嫡男とされている。義広は父為義に含むところがあったかもしれない。甥義平に同母兄義賢を殺されたのはショックだったはずだ。次は自分がやられると思ったか。大蔵事件の後、幼い駒王丸(義仲)は木曽山中に匿われ育つ。何故木曽だったのか、大蔵から志田荘まで150kmくらいである。近く簡単に行けるとは思わないが、木曽よりは近いだろう。駒王丸を逃がした人たちは誰もあの叔父を頼ったら、とは考えなかったのか。或いは義平の手勢に固められ東へは行けなかったのか。義広は野々宮合戦の後、義仲を頼り、義仲は受け入れている。
四男・十男に関してはまだ納得がいくのだが、八郎為朝が流罪で済んだのはどうした訳だろう。若くして九州へ赴いた暴れ者。保元の乱でももちろん大活躍。保元物語での為朝の活躍は平治物語の義平のそれと大変似ている。潜伏中に病を得て捕まるところまで似ている。ただ義平は惨殺され、為朝は伊豆大島に流される。流刑にあたって義朝が左右のかひなを抜いた、というのだが、どういう処置をしたのか。「肩の継ぎ目の離れたるなり、扇をだにとりあげねば」というから肩関節を外したのだろうか。ただこの肩は後に自然と治ったという。武勇の士を惜しみ、あえて殺さないという風潮は確かにある。為朝もそれで救われたのだろうか。為朝は伊豆七島を切従え所領と称し、年貢を拒否、謀反として伊豆の狩野茂光の軍勢に討ち取られる。九州で阿多忠景の婿となり勢力を張ったという為朝の前歴を考えれば、流罪は剣呑すぎたと思うが。義朝は為朝を力はあるが頭は軽いとみて、恩を売り、郎党化するつもりではあったのだが、その前に義朝自身が平治の乱で失敗したということではなかろうか。

コメント

朝長と義円 義朝の子供たち

2020-04-06 | まとめ書き

源義朝はその父為義同様に子福者だ。男子9人、女子1から3を数えるが乳幼児死亡率の高い時代故、それ以上の子女がいたことは想像されるが、分かっているのはそれだけである。

長男は義平、悪源太と呼ばれた勇者である。15歳にして叔父義賢を武蔵大蔵館急襲し殺している。源太という呼称に注目する。源氏の太郎である。八幡太郎義家も源太と称した。母は三浦一族の出ともいうが遊女ともいう。平治物語のヒーローと言っていい。享年19歳。

次男 朝長。母は相模の波多野氏だという。三男頼朝が嫡子とされた時、波多野氏は不満を示したという。平治の乱で負傷し、死を余儀なくされる。16歳程度であったろうか。この一文の中で後述する。

三男 頼朝。言わずと知れた鎌倉幕府創始者。母は由良御前とかいうが、熱田大宮司藤原季範の娘で上西門院と関係が深かったとされる。義朝はこの妻の関係で朝廷に足掛かりを得、頼朝も上西門院庁の蔵人になっている。上西門院は後白河の同母の姉である。それ故義朝は頼朝を嫡子とした。平治の乱で頼朝が着こんでいた鎧は「源太産着」という八幡太郎義家からの伝世品であったらしい。

四男 義門。義門について分かっていることはほとんどない。平治の乱で一時的にせよ官位を得ており実在はしているらしいがそれだけである。頼朝と同母とされるが不明である。

五男 希義。頼朝の同母弟。平治の乱の後、土佐へ流され、頼朝挙兵に呼応しようとして殺された。

六男 範頼 池田の宿の遊女の子と言われる。藤原範季が養育し、教育したと言われる。頼朝の代官として平家追討する。平家物語ではぼろくそだが、それなりの成果を上げている。富士の裾野の巻狩りで曽我兄弟の騒動があった際の失言で伊豆に幽閉され殺されたという。

七男 阿納全成。常盤御前の子、今若。出家していたが頼朝に呼応。北条政子の妹を娶り、唯一頼朝亡き後まで生存したと思われる。ただ活躍はしていないようだ。頼家の時、北条時政の実朝擁立にかかわったとして殺された。

八男 義円 常盤御前の子、乙若。出家していたが頼朝に呼応。墨俣の戦いで戦死。

九男 義経 常盤御前の子、牛若。知らない人はいない伝説のヒーロー。こうして数えると本当に9番目の息子だ。

女子 坊門姫 由良御前の子。頼朝の姉とも妹とも。彼女の実在は間違いない。平治物語では頼朝は後藤実基にしかるべき結婚をさせるように託した。一条能保の妻となり孫の子藤原頼経が鎌倉の4代将軍となる。

女子 文字通り義朝と生死を共にした乳母子の鎌田政清に娘を平治の乱直後殺させる話が平治物語にある。母の身分を低いと想定するにせよ坊門姫との扱いが違いすぎ物語通りには受け取りかねる。

女子 夜叉姫。平治物語に出てくる青墓宿の娘。自殺する。自殺話はともかく青墓に子がいても不思議はないだろうとは思う。

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ここで取り上げるのは次男朝長と八男義円だ。彼らはおそらく生前顔を合わせたこともないだろう。共通点と云ったら二人とも美濃で死んだということくらいだ。共に大垣市の青墓と墨俣で死んでいる。

源朝長の墓が青墓にあるという。大垣-池田線という道路を北上し、野外活動センターとかいう所へ行くまでに登り口がある。と美濃国分寺の資料館の人に教わった。
登山道入口までたどり着いたのであるが、入口には柵と共にクマ注意!!の立看・・・

我々も朝長くんを見捨ててきてしまったわけだが、彼は義朝の男子たちの中で最も哀れな子供だ。
義経の生涯は悲劇的に語られるが、功を上げ30歳まで生きた。朝長は平治元(1159)年、16歳で死んだ。

義朝の次男として生まれ、母は相模の豪族波多野氏の出で、波多野義通の妹であり、兄義平はいるものの、彼の母は遊女ともいわれ、源太を名乗りながらも嫡男扱いはされていない。朝長は当初は嫡男とみなされたのだろう。少なくとも波多野義通はそう思っていた。波多野氏の所領松田郷に豪壮な邸を立て住まわせた。源氏の棟梁になる御曹司、そう思って育てたはずだ。しかし、義朝は熱田大宮司・藤原季範の娘を娶り正妻とし、この婚姻関係から上西門院関係者とも交友が出来始めると、由良御前の産んだ頼朝を嫡男に据える。当然波多野氏は面白くなく、義通は保元の乱直後義朝の下を離れる。平治の乱ではまた義朝方として戦う。朝長が義朝の子として戦う以上波多野も義朝につかざるを得なかったのだろう。しかし治承4(1180)の頼朝の挙兵に際し、波多野義通の子義常は頼朝の招請を拒否、後に討手を差し向けられて自害する。

平治の乱に父と共に戦闘に参加したのは、義平19歳・朝長16歳・頼朝13歳である。
義平は大活躍をする。 最初に図書館で借りて読んだ勉誠出版の「現代語で読む歴史文学 平治物語」の中では頼朝は落ち着き払って「先に攻め込もう」などと云っていたりするのだが、手に入れた角川ソフィア文庫ではその箇所がない。異本に拠って違うようだ。朝長・頼朝は特に活躍はしていないが、年齢からも妥当だろう。どうも「現代語で読む歴史文学 平治物語」の方が物語としては面白いようだがフィクション部分も多そうである。

さて戦況は後白河・二条が逃げ出し、平清盛が熊野から引き返してくれば、義朝・信頼に勝ち目はない。義朝はわずかな人数で落ち、東国を目指す。落人狩りの僧兵を齊藤実盛の機転等でやり過ごしていくも、義朝叔父の義隆は討ち死に、朝長は足に矢を受ける。
何しろ街道を行けば怪しまれるとて、間道伝いの逃避行。真冬の伊吹の山麓を踏破しようというのだ。最年少の頼朝は落伍、既に足に矢傷を受けていた朝長の脚は腫れ上がる。青墓宿にたどり着いたものの朝長はこれ以上の行軍はできない、殺してくれ、と父にいう。義朝は泣く泣く朝長を殺すのであるが、この辺りは「現代語で読む・・」の方が詳しい。詳しいだけに創作臭も強いが、朝長にはより酷な内容となっている。
朝長は矢傷を受けた時、気丈に大丈夫だと云って、却って義隆(義朝叔父、戦死)を気遣う。頼朝が落伍した時、兄義平は15歳で大蔵館に攻め込み義賢を討った自分と比べだらしないと叱責する。それは同時に16歳の朝長への叱責ともなったろう。朝長は一度は父兄と別れ東国に出立したことになっているが脚の傷の痛みにどうにもならなくなって引き返す。義朝は言うのだ「年は若くとも頼朝ならばこうはあるまい」脚は腫れあがり、おそらく発熱もしていただろう朝長だ、迷子になった弟の方がマシと言われては救われない。
義朝は青墓の長者大炊に朝長を託し杭瀬川を下り尾張に出るが、裏切りにより風呂場で殺される。

大炊は朝長を丁重に葬るのだが、平家が嗅ぎ付け墓を暴き朝長の首を取って行った。首は義朝の首と共に京都でさらされるが、大谷忠太という物が首を取り返し、静岡県袋井市に首塚を作ったという。だから朝長の墓は駿河に首塚、美濃に胴塚があることになる。
大変なことのようだが、この時代では珍しいことでもないだろう。中山道を上り野洲にある平宗盛の墓は胴塚だ。首は京都でさらされたはずだがどこかで朽ちたのだろう。平家の都落ちに際し、平貞能は主君だった重盛の墓から遺骨を掘り出し持って行っている。敵に墓を暴かれないためである。

朝長の美濃の墓には登らなかったが、周囲には相当規模の大きい寺の跡がある。近くに大炊一族の墓もある。

大炊一家と義朝一家の関わりは深い。義朝の父為義は青墓の長者大炊の姉を寵愛した。保元物語によれば4人の子供がいる。義朝は大炊の娘を寵愛し平治物語によれば娘がいる。
為義の4人の子は義朝の命により殺される。一番上の乙若13歳、一番下は7歳である。手を下させられたのは波多野義通、朝長の母の兄である。殺された子らの母も乳母も後を追った。とはいえこの話は他に史料はなさそうだ。物語であった方が救われる。それに姉や幼い甥達を殺されたにしては平治物語の大炊は義朝に尽くしすぎる。
義朝の娘夜叉姫(母は大炊の娘延寿)は杭瀬川に身を投げたことになっている。これも創作であってほしいことだ。
とはいえ、為義・義朝親子は京―東国の往還に青墓を定宿とし、それぞれになじみの女がいたことは間違いないだろう。木村茂光は「頼朝と街道」の中で、為義は東山道を通り、西野・上野・下野などと関係を深め、義朝は東海道を下総・相模に勢力を伸ばした。青墓は為義・義朝の結節点であるとともに分岐点でもあった、と書いている。

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八男義円。義朝と常盤との間の3人の男児の真ん中、即ち義経のすぐ上の兄である。
義円は朝長より10歳ばかり長く生きた。

母常盤は九条院の雑仕女となっているが千人の中から選び抜かれた美女であり、九条院(藤原呈子:忠通養女、近衛帝の中宮で多子のライバルだった)とは親しい。また由良御前(頼朝母)亡き後の義朝の事実上の正妻だった。(保立道久「義経の登場」)

常盤の再婚相手一条長成の世話で三井寺(園城寺)で出家していたが、頼朝の挙兵を聞いて駆けつける。それはおそらく陸奥からの義経より早かったろう。三井寺にいたのなら以仁王+源頼政の挙兵に従わなかったのかと思うが分からない。以仁王の時は息をひそめてやり過ごしたが、この乱の後、平家の圧迫が強くなり、このままでは無事にいられないと東へ走ったのかもしれない。

義円に関してはその人となりを示すものは非常に少ないようだ。源平盛衰記の墨俣合戦の所が一番詳しいのだろう。義円公園にあった案内板も盛衰記に拠るようだが年号が何故か養和になっている。1181年は養和に改元されるのは7月であり、3月の墨俣の戦いはまだ治承5年だが、頼朝は何故かこの改元を無視していたという。盛衰記でもそうなっているのだろうか。


義円の出陣も頼朝の指示によると考えた方が自然だろうが、吾妻鏡にその記述はなく、義円の単独での挙兵という説もあるそうだ。同じところで同じ敵と戦うのに将二人が協力し合わないなどと云うことは信じがたいことではあるが、一方の将が行家であることを考えるとありえないことではないような。

行家は為義の十男であり義朝の末弟だ。おそらく頼朝よりは5歳程度しか年上ではない。平治物語では平治の乱にも参加しており、その頃は義盛と名乗っていた。ただし、行家が平治の乱に参戦していたという他の史料はなく、不参加だったとする史家が多いようだ。

平治物語の通りとすれば、平治の乱に参加した頼朝の兄弟3人・行家共に10代であり、行家は頼朝からしたら頼りにならない叔父であり、行家からしたら頼朝は源太産着なんぞ着込んだ小生意気な甥という所だったろう。行家は平治の乱後、姉の嫁ぎ先の熊野の新宮に逃げ込み匿われるのだが、あまり追及もされなかったようだ。少なくとも平家にとっては何が何でも捕まえる必要もない小物ととしてしか認識されていなかったのだろう。

その行家が以仁王の令旨を伝え歩く。それで自信過剰になったのか、それとももともとの性格か。彼は甥っ子たちの間を渡り歩くのだがその誰ともうまくいかない、どころかその甥たちに災厄しかもたらさない。甥の中では年長であり、もともと平治の乱のころから見知っていたかもしれない頼朝はさっさと行家を見切る。そして他の者と事を構える口実に使う。
一番ひどい目にあったのは義仲である。義経も行家に寄人されていいことはなかった。
行家は個人的には優れた武勇の持ち主であったらしい。しかしおよそ戦の軍略とかはセンスがない。軍を率いて勝ったことがないほどである。

先ず墨俣合戦はでたらめの大敗戦となった。命からがら逃げだし、漸く体勢を立て直すが、矢作川の戦でも敗戦。義仲の所へ行く。北陸遠征をしてきた平家に対し、義仲は倶利伽羅峠で迎え撃つが、同時に行家を別動隊として北周りに加賀へ向かわせる。志保山の戦いである。ここでも行家は平忠度相手に大苦戦、駆けつけた義仲によって救われる始末だ。それなのに行家は義仲を立てるどころか後白河に讒言というから救われない。その後の平家との室山合戦でも行家は敗北する。単騎囲まれたものの勇を振るい脱出したというから強くはあったのだろう。その後義経に近づくが、大物浦からの四国渡航失敗後、摂津に潜伏、つまり義経と共に奥州へは行かず、頼朝に捕まり斬首。

といった経歴なのだが、墨俣合戦当時は治承寿永の戦乱はまだ始まって間もない。
義円が行家の軍略の無さを知っていたわけではない。ただ義円は頼朝が行家を買っていないということは知っていただろう。だから、行家に先を越されたら鎌倉殿に申し訳が立たない、などと云う発想になるのだ。それに頼朝・義仲にも俺の方が上だ!という行家の事だ、行家は義円を馬鹿に仕切った態度だったのではないだろうか。
しかし、単身先陣を狙うなど如何にも無謀であり、指揮官のすることではない。ほとんど行家と選ぶところのない軍略の無さだ。この猪武者ぶりは当然もう一人の猪武者、義経を思わせる。平家物語にあるではないか、梶原景時は「進むのみを知って、退くを知らぬは猪武者である」と義経をののしるではないか。この時の逆艪の争いは無論物語ではあるが、基本義経は猪武者であり、指揮官として後方にいるより最前線に行くことを好む。それでも義経は天才的軍略家であり、実際に破竹の勝を続けるのだ。これには先天的な才能もあろうが、受けた教育、という点からも考えてみたい。

義円と阿納全成、義経の二人の兄だが、彼らは早い時期に寺へ入る。当然受けた教育は僧侶になることを前提としていただろうし、実際に僧侶になっている。義経も確かに鞍馬に入る。鞍馬天狗は伝説で、ここで受けた教育は兄二人とそれ程異なったものとも思えない。国立民俗博物館蔵の高野山の屏風の紙背文書に義経の自筆がある。いい字であるそうだ。(保立道久「義経の登場」) 
だが、義経は16歳で出奔し奥州へ赴く。以後、義経を武者として教育したのは藤原秀衡ではあるまいか。
もう一人、彼らの異腹の兄範頼を考えてみよう。平治の乱が終わった時点で、平家は彼を捕捉していない。行家以上に放って置いて害の無い存在と見たのか。池田宿の遊女の子と云われる彼は、常盤の息子たちよりより不利な状況にあったのではないか。常盤は美貌であり九条院とのコネクションもある、再婚相手の一条長成も兄弟のバックアップをした。しかしその範頼を藤原範季という人物が手元に引き取っている。範季は九条兼実の家司でありながら後白河にも気に入られ、また平家ともうまくつきあっていたようである。が、どこかへそ曲がりと評される人物でもあったようだ。範頼は平治の乱当時10歳くらいで、元服前だが当然物心はある。先ず範頼があまりにも無能な少年だったら、範季は自分の息子と一緒に養育しようとは思うまい。それに範頼が源氏の棟梁義朝の子であることを十分意識して教育したのではないかと思うのだ。もちろん範季は武者ではなく公卿だ。彼が授けたのは指揮官としての心得ではなかったろうか。範頼は西国遠征に際し、東国の武士団に手を焼きながらも頼朝の代官としての役割を果たしている。
つまり、義経・範頼は武者の子としての教育を受けるチャンスがあった。しかし義円と全成にはそのチャンスがなかった。

義円は25歳で初めての戦場に赴く。単騎の渡岸をだれも止めなかったのか。頼朝が命じた出撃だとしても、頼朝は義円に有力な参謀を付けなかった。周りを見渡す余裕もなく、行家には負けられない、ただそれだけに駆られたのではないか。

墨俣は秀吉の一夜城ばかりが有名だが、義円公園は小さいながらもきれいに清掃されていて、うれしいものがある。朝長の墓よりは遥かにアクセスしやすい。

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20200322 美濃国分寺・国府趾・不破関

2020-04-01 | 行った所

朝長の墓がある山へ向かう裾野に美濃国分寺がある。およそ街道沿いに東から国分寺・国分尼寺・国府・不破の関と並んでいるようだ。


資料館があったので入る。


垂井あたりで中山道を見失い、取敢えず美濃国府址へ出る。

後は21号線で関ヶ原へ向かう。たいてい高速で走りすぎるところなので沿道の看板等も面白い。わずかだが宿場町を思わせる家並みもある。

関ヶ原という地名自体「不破の関のある原」なのだろう。関ヶ原一帯は石田三成(大坂方)VS徳川家康の天下分け目と言われた合戦のあとをそのまま観光地化したようなところだ。それはそれでたいそう面白いものなのだろう。

不破の関資料館へ入る。残念ながらここは写真禁止、下の写真は外の看板だ。

不破の関は3関の中で唯一発掘調査で場所が特定されているところだ。資料館には壬申の乱に関してがかなり詳しかった。しかし乱の後、かなり早い時期に3関は機能を失ったらしい。

 関の名は高くとも滅多に関を閉じることもなかったらしい。天皇の代替わりに関を閉じる慣習もきわめて形式的なものだったらしい。海道下りの「荒れてなかなかやさしきは不破の関屋の板さびし」の元歌は「人住まぬ不破の関屋の板庇あれにしのちはただ秋の風」とあったのは岩波文庫ワイド版の註である。平安期には関のいかめしさはなくたださびしい佇まいだったのだろう。

 

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20200322 赤坂宿・青墓宿

2020-04-01 | 行った所

大垣城に寄ると桜が咲いていた。

大垣城付近から北上し、赤坂宿へ出るつもりがだいぶ東寄りに出たらしい。それでも中山道の標識を見つけ喜んだのだが、何故か東の方へ行ってしまう。おかげで小簾(おず)紅園という小さな公園に出た。

幕末に和宮がこの辺で紅葉をめでたことを記念して作られた公園だという。

「落ちてゆく身と知りながら・・」などと自ら悲劇のヒロイン気取りは頂けないが、周囲はそう扱ったのだろう。

 


軌道修正し西へ向かうと伊吹が見える。ほどなく赤坂港址へ。杭瀬川の水運を利用した港だ。平治物語の義朝もこの辺りから舟に乗って落ちたのだろう。


赤坂の宿はけっこうな宿場だ。所郁太郎という当地出身の幕末期に活躍したらしい人物の碑があったのだが、彼は洋学を越前大野の藩校に学びに行っている。さらに薦められて大阪の緒方洪庵の適塾で学ぶ。確かに岐阜県と福井県は背中合わせで接している。平治物語にも義平も青墓から越前へ向かったとあった。意外に道はあったのだろう。義朝達一行は街道を行けず、伊吹の山中を踏破して青墓に出たという。間道を伝ったのだろうか。


赤坂の宿の西のはずれに兜塚という物があった。関ヶ原の合戦での戦没者を埋めたのだという。

ここまでくれば関ヶ原は指呼の間と言っていいのか。家康の最初の陣も近くにあるらしい。

更に西へ行くと青墓に入る。中山道の赤坂は江戸時代の宿場だ。平安末から鎌倉は青墓が宿場だ。為義・義朝がよく利用し、頼朝の2度の上洛時の宿に使ったのも青墓だ。現代の地名にも残り青墓小学校というのもあるのだが、あまり良いイメージの地名とも思えないが。
幾つか古墳があるようだ。
近くに義朝次男朝長の墓があるというので行ってみたかったのだが道がよくわからず、漸く登り口まではたどり着いたが、獣除けの柵がある。墓の傍には相当の規模の寺の跡があり、それなりの葬られ方をしてあったのかもしれないが、その寺は別の所に移転してしまったようだ。

青墓の西端で大垣輪中の文字を見た。輪中というとなんとなく小学校の社会科で習ったようなイメージしかないがもっと下流域だと思っていたのだが。

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