物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

四天王寺 熊野への道

2021-11-19 | 行った所

四天王寺 言わずと知れた聖徳太子が建てたという難波の寺。渡辺の津からほぼ真直ぐ南下する。
  南門近くの駐車場から入ったので南門から。

四天王寺式伽藍配置というやつ。

 建物が縦軸に沿って一列に並ぶ四天王寺式伽藍配置。南門の内から見えているのは中門と五重塔、この後ろに金堂と講堂がある。

しかし、熊野詣なら西門から入ってきただろう。西はすぐ行けば海だったという。
ぐるりと回って西門に向かう。

小栗判官の話など興味はなかった。説教節など聞いたことも見たこともない。そもそも何であるかさえ知らなかったのだ。興味の持ちようもないではないか。

文春新書「中世の貧民 説教師と廻国芸人」塩見鮮一郎 

この本を読んで初めて興味がわいた。地獄から戻った小栗だが、餓鬼草紙の餓鬼そっくりの外見で、まだ息を吹き返してはいないのだ。熊野へ行って壺湯に浸けてやれという地獄からの指令書を持ち、土車という荷車のようなものに乗り、意識不明のまま引かれていく。引くのは善男善女、車を引けばご利益があるとの坊主の口車に乗せられて、えんやらやーと引いていく。なんと関東相模から熊野まで。尾張から伊勢に入るかと思えばさにあらず、美濃から近江、京、大山崎、水無瀬から難波、四天王寺へ。院さま御一行とは違うルートか。
小栗の土車の引かれてきた四天王寺西門は、ホカイビトにヨロホウシ、琵琶法師に説教師、熊野比丘尼、歌念仏に物乞いの声響き、行き交う人々の喧騒に、ごった返す様、塩見鮮一郎はこれを「解放区」と書いている。

私は四天王寺には如何にも由緒正しき寺でござんす、といった佇まいしか印象になかったので、この本にいう西門界隈の「解放区」が掴めなかった。

  しかし、大阪歴史博物館で見た展示の屋台に「これか!」と思った。
私は子供の頃これに近い物を見ている。お祭の神社の境内だ。親の因果が子に報い・・・の見せ物小屋、物乞いもいた。それどころか、数年前の敦賀祭の気比神社境内でこれを見た。


子供の頃の印象は何だか陰惨なものであったが、さすがに今ではそれはない。ここでの呼び込みの声は、楽しいよ、恐くないよ!というものであったが、祭特有のエネルギー、猥雑さがあり、日常からの解放といえば、解放区ともいえる空間があったのだった。

当然ながら四天王寺西門界隈に祭の屋台の影もない。


石の鳥居は中世のものか、それさえよくわからないが、引導石というものがある。


西門を入ったところに何故か義経の鎧掛けの松がある。1989年ロータリークラブの寄贈とあったが、どんな話になっているのだろう。


熊野詣には南門へ向かう。西から来たのだから右手に向えばいいのだが、左手に廻れば有名な石舞台になる。

石舞台を見て東に回ると猫の門なるものがある。

  その界隈、本当にいたのだ黒猫が二匹。

いよいよ南門前に来ると熊野権現礼拝石がある。

  熊野権現をここから遥拝、旅の安全も祈って出立だ。

 南門をくぐると真直ぐ南に下る道が見える。これが熊野街道なのだろう。

 次の目標は住吉大社になるのだろう。

それにしても小栗判官の物語の奇怪さ、死体?を荷車で引き回す、ということ自体十分に奇怪だが、その前段、京都で鞍馬山の申し子と生まれた小栗は、常陸の小栗で役に付き、さらに武蔵で武蔵7党の一つ横山党と関わり殺される。とても同一人の話とも思えない。なんとなく連想するのは歌舞伎の誰それ実は誰それ、といっためちゃくちゃの筋立て。まあ芸能という意味では繋がらないことはないのか。

ところで説教節というのは、小栗判官だけでなく、厨子王や進徳丸などという話が知られるそうだ。厨子王は森鴎外の「山椒大夫」のもと話で、その筋は知られているのである。今昔物語は芥川龍之介の「芋粥」などの材料となった。説教節から鴎外へ。文豪というのはすごいものだ。


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