物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

溝江氏の事

2024-05-27 | 行った所

あわら市大溝1丁目(旧金津町)の空き地に看板が立っている。

 溝江氏の館跡だ。金津に城郭を構えていた朝倉氏の有力家臣団の一角だ。滅亡時の当主溝江長逸の父は景逸と朝倉氏の通字を名乗っていることからも窺える。名字の地溝江は河合荘溝江郷、興福寺大乗院の荘園だ。古くから開けたところであるとともに、竹田川と北陸道が交差する要衝でもある。
永禄10年(1567)堀江氏の乱の折には義景に派遣された山崎吉家・魚住景固らは堀江館に集結し、堀江を攻めた。
朝倉氏滅亡後、溝江氏は信長に安堵されるが、間もなく越前には一向一揆が席巻する。
この時、溝江館は一揆の大軍に取り囲まれる。

 館は堀をめぐらし、主殿に複数の建物を持った城郭というにふさわしい館だったかもしれない。しかし多勢に無勢である。押し寄せる一揆の大軍に、旧朝倉家臣団は次々に打ち取られて行った時期である。
一揆の大将杉浦玄任は殺気立つ一揆勢をなだめ、溝江一族へ加賀へ退去を提案。杉浦の息子を人質に出すとまで言った。溝江は疑いながらもこの提案を受け、固めの盃を交わす段になって、にわかに一揆の鬨の声が上がる。長引く談合にしびれを切らした者がいたのか。
座は一気に緊張、騙されたと思った溝江は使者を切り捨て、それを知った一揆勢がなだれ込む。火が放たれ略奪が始まる。溝江長逸は妻子を殺し自害する。一族のものも後を追う。この館には加賀をのがれた富樫一族のものもいたらしい。彼らも死んだ。
朝倉始末記は長逸らの辞世の歌を載せる。溝江一族の死に様を誉めながらも、朝倉義景を裏切った罰、自業自得だと書く。6,7年も前から信長に通じていたのだと。しかし天正2年(1574)時点の7年前といえば永禄10年(1567)になる。堀江の乱があり、その後足利義昭が一乗谷に来たりしているころだ。堀江の裏切りは本願寺からの誘いによるものだ。この頃から本当に信長からの誘いがあったのだろうか。外交戦略として、広く口を掛けておくということかもしれないが。

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細呂木と吉崎

2024-05-14 | 行った所

越前の戦国大名朝倉氏の滅亡には様々な要因が考えられるだろうが、その遠因の一つには一向一揆との抗争が多年にわたり消耗が激しかったということも挙げられるだろう。
北陸に大きく勢力を張った一向宗の隆盛の基は、間違いなく蓮如の吉崎下向にあった。この類まれなるマーケッター、プロパガンダ―、アジテーターが加越国境、大聖寺川と北潟湖が一つになって海へそそぐ吉崎に居を構えたことから、朝倉と一向一揆の宿命的な対立の構図は始まる。
しかしながら、この蓮如の吉崎入りには、朝倉孝景(英林)の了解があってのことだったといわれる。越前の北部、坂井郡には坪江庄・河合荘といった興福寺の荘園があった。蓮如は興福寺大乗院と親しく、大乗院の斡旋で孝景の了解を取付けたものらしい。蓮如に帰依し側近となり、非常に先鋭的で、後に加賀一向一揆を煽ったと責任を擦り付けられ破門される下間蓮崇は足羽郡麻生津の出身だという。朝倉氏と無縁の者ではなかっただろう。下間とは代々本願寺法主の側近の家柄で蓮如が蓮崇に与えた姓だろう。
朝倉氏は但馬出身で斯波氏の被官に過ぎなかった。応仁文明の乱に乗じて越前守護であった斯波氏・その守護代の甲斐氏を加賀に追い、一乗谷に本拠を築いた一代の英傑、英林孝景は、一向一揆に手を焼く子孫の有様をあの世で知ったら歯噛みをしたかもしれない。

また大乗院領の坪江庄の内、細呂木郷というところがある。越前の最北端であり、江戸時代の北陸道の越前最後の宿で関もあった。細呂木氏というのは細呂木郷の荘官だったのが朝倉氏に従ったらしい。刀根坂の敗戦で討ち死にした者の中に細呂木治部少輔の名がある。はじめから朝倉と大乗院の間に立って、双方の顔が立つように腐心する立場だったことは想像に難くない。
*坪江庄図 あわら市郷土歴史館の展示
*細呂木の関址
細呂木城址は細呂木の関址の案内板のある集落の南西の小高い所で、春日神社が建っているあたりである。
*春日神社入口
*本殿 赤い棒?が海老の髭のような注連縄がある
*磐座?
*土砂崩れ危険地区になっている。土塁か何かがあったのかもしれないが、私にはわからない。狭いし城郭というよりは街道の見張り場所だろうか。
*北東方向 他方向は樹々が邪魔で見えない
*細呂木周辺地図
ここから吉崎まで直線距離だと2.5キロ程であるが、旧道を辿ると1里(4キロ)足らずだろうか。観音川を渡り斜め右に坂を登って行くと分かれ道がある。
*旧北陸道と吉崎への連如道の標識等
右が旧北陸道。太陽光発電のパネルが立ち並ぶ脇を抜け、林間の道は加賀橘宿へと続く。左が蓮如道
*蓮如道 こちらを進むと県道29号線の吉崎の交差点へ出る。
*この図現在地は、北陸道にある。25号線とあるのは29号線の間違いであろうと思う。 
*北が下の図である。上の方(南)からちょろりと出ている細い白線が蓮如道、太い線が県道29号線で吉崎交差点へでる。
*吉崎御坊址から北を見る 右手にこんもり鹿島の森、左手があわらゴルフ場。中央に日本海。右から大聖寺川、左から北潟の北端が合わさって海に至る。
戦国時代の城郭といったら信じるだろうか。いや山の規模が小さすぎる。ちょっとした砦、見張り所にはなるか。
蓮如を得て、門前市をなしたという吉崎だが、蓮如は4年でここを去る。何度か焼けてもいる。
*吉崎の道の駅の前の道を上がる。寺の間を抜け階段を上がる。
*蓮如像がある。

*蓮如記念館庭から鹿島の森が見える
吉崎御坊址へ登る両脇に、東と西の本願寺の別院がある。蓮如から五代目の法主顕如は信長と和解し、石山を出る。事実上の降参となる。嫡男教如は徹底抗戦を主張するが、入れられず、弟准如が顕如の跡取りとなる。教如は徳川家康の知己を得て勢力を盛り返し、東西二つの本願寺が並び立つことになる。地方の寺々もかなり熾烈な勢力争いをしたのであろう、福井の超勝寺などは同じ集落内に東西で超勝寺と名乗る寺が2つほとんど隣り合ってある。
*吉崎の蓮如記念館にあった系図。東本願寺の施設と見えて、顕如の次には教如系しか書いてない。西本願寺の資料館もあるかと思ったがないようだ。それにしても鎌足から引いてくることもなかろうに。
*すごい子供の数、徳川家斉か嵯峨天皇なみ。案内をしてくれた人が、蓮如の奥さんは4人いたが、同時期の人はいないと強調していたのがおかしかった。
*本願寺派の勢力が強かったところが黄色らしい。若狭で一向一揆が激しかったとは聞かないのだが。
*蓮如の吉崎下向は琵琶湖を利用し、海津からは陸路吉崎に至る。退去は海路であった。

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府中龍門寺城(越前市) 他

2024-05-06 | 行った所

越前国府は越前市(旧武生市)府中近辺。国府の碑も国分寺という名の寺もあるが、国庁址はわからなかった。近年、本興寺という寺の境内から平安時代の遺構が発掘されたということである。
*本興寺境内内の発掘場所
*発掘の説明版

府中は古代の越前の中心であったことはもちろん、中世・近世になって一乗谷・北の庄が台頭しても、存在感の大きい街だった。

朝倉始末記には、足利義昭が越前下向の際、府中龍門寺に立ち寄ったことを記す。
*龍門寺への案内板*龍門寺
*案内板
*この案内板はNHKが前田利家のことをドラマ化した2002年のものだろう。
*武生市は2005年に越前市となっているのでそれ以前の案内板。
*堀跡の墓場
案内板が3つもあるが、それぞれちょとづつ違う。
天正1年(1573)朝倉滅亡時、織田勢の中には朝倉家臣に属していたものも少なくなかった。府中に入ったまだ若い富田長繁は真っ先に寝返った前波吉継(桂田長俊と改名)に続いて、織田陣に駆け込んだ。朝倉の武将で刀根坂の戦いで討ち死にしたものは多い。その後織田軍の越前侵攻時には、積極的な抵抗戦を試みることなく降伏したものは更に多い。彼らを見て、富田は己の先見の明を誇ったであろうか。

信長は府中龍門寺で戦後の処理をする。朝倉景鏡が義景の首をもって信長に降ったのはここだったらしい。しかし一年もたたないうちに、越前は一向一揆に席巻される。一揆の発端は富田が桂田(前波)追い落としのために煽ったものだという。その一向一揆が富田を囲み追い詰める。富田ばかりではない。旧朝倉家臣の武将たちの館・城のほとんど、浄土真宗本願寺派以外の寺院も焼き討ちされる。
一向一揆勢を破り、再び信長は府中に陣を敷く。信長は府中の街は死体で埋め尽くされているなどと、得意げな手紙を書いている。龍門寺は信長が府中に置いた配下の城となる。

鯖江市長泉寺町に富田長繁の供養塔がある。歯塚大権現という小さな祠の脇である。
*歯塚大権現
*富田長繁供養塔
*富田長繁供養塔案内板
富田長繁という人は、勇猛で戦は巧みで自信家だったらしい。戦功一番のつもりが前波吉継(桂田長俊)の下につけられたのが不満だったようだ。前波を滅ぼした後も、仲は悪くなかったはずの魚住景固父子を騙し討ちに殺してしまった。これですっかり人望を亡くしたようだ。後ろから鉄砲が飛んできたというのはそういうことだろう。

歯塚明神の北へ数百メートル行ったところに中堂院という寺がある。「すりばちやいと」という変わった行事で知られた寺だが、泰澄大師が創建したという古い由緒の玉林寺三十六坊の一つで七堂伽藍が立ち並ぶところだったという。朝倉氏の庇護を受け栄えたが、一揆により焼亡したという。朝倉義景・織田信長・結城秀康などの文書を所持する。
*中堂院
*本堂
*阿弥陀象説明
*石仏
*一乗谷にあるような石仏群
*供養塔
*壮大な伽藍後の名残のような池。えちぜん鉄道福武線の線路が上を走る。

さらに北へ7,8キロ行くと福井市片山(旧清水町)に真光寺址というところがある。ここもかなり大きな寺だったが、富田長繁の配下の武将増井甚内助、が立てこもり、一揆によって焼亡したという。更に毛屋猪之助が守る北の庄の館も落ちた。
*塔楚址? 
*復元石造多層塔
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義景敗残行

2024-05-02 | 行った所

遠征のあげく、軍議まとまらず長の詮議(評定)、取敢えず移動し始めたところに追撃を受け大敗走、ようやく自国に逃げ込んだものの、兵は集まらず、寝返り相次ぎ、滅亡に至る。負けによくあるパターンかもしれない。
元亀3年(1573)、改元して天正1年、浅井長政のこもる小谷城救援のため出陣していた朝倉義景、戦況の不利を聞き陣替えをし、更に柳ケ瀬まで退く。ここで長の詮議。敦賀までの撤退を決めるも途中の刀根坂で追撃され、決定的な損害を出してしまう。義景本人は逃げのびたものの、多くの将兵を失う。後はただ敗走だ。敦賀から木の芽峠を越え、なんとか一乗谷までたどり着く。ここで館に立て籠もって一戦とか自害とかではなく、義景は妻子を伴い大野へ向かう。大野の郡司朝倉景鏡(かげあきら)の勧めだという。血筋はよくわからないが、義景叔父景高の後を襲って大野郡司になったのだから近い血筋のものだろう。一門衆筆頭でもある。景鏡は今回の近江の戦に出陣していない。つまり大野の兵は無傷だ。それに白山平泉寺の兵力も見込めるかも。だが、この時景鏡が何を考えていたかはわからない。出陣していないのだって将兵の疲れを理由にした拒否だった。
一乗谷から大野へ向かう道筋は、朝倉始末記に出てくる地名から追うことができる。だいたい国道158号線の旧道に一致する。美濃街道ともいわれた道だ。足羽川沿いに旧美山町の集落を縫うように走る。車で30分ちょっとであるが、義景一行は丸一日かかっている。義景や側近は馬だろうが、妻子は輿とあるから丸一日は上等だろう。
*158号線旧道ルート
一乗谷の赤渕大明神を拝み、下城戸を出て阿波賀、市波、宇坂、小和清水、薬師、大宮、計石、峠を越えて大野盆地に入る。既に夜に入り、盆地の風景は見えなかっただろう。
*大野市やばなの里から。左が犬山(亀山)、右手に戌山。犬山(亀山)は後に金森長近が居城としたところ。現在模擬天守がある。戌山は斯波氏から朝倉氏にかけての城郭址がある。雲海に浮かぶ天空の大野城のビューポイントになっている。
義景一行は戌山麓の洞雲寺に入る。
*洞雲寺楼門 曹洞宗の古刹らしい雰囲気のあるところだ。幕末の大野藩で財政を担い活躍した内山氏の菩提寺でもある。


義景は洞雲寺で、平泉寺に書状を書いたりして過ごした後、六坊賢松寺へ移る。洞雲寺では守りにくい、というのだがわからない。それこそ戌山の上か、景鏡館にでも入れればいいはずだ。義景は六坊賢松寺で景鏡手勢に囲まれ詰め腹を切らされているのだから、景鏡にとって都合のいい所に移された、ということなのだろう。
六坊賢松寺は今はないがその場所はわかっているようだ。大野の市街地はきれいに整備されているが、そのひとつ御清水(おしょうず)の近くで、義景の墓のある義景公園の近くでもある。

*御清水
*義景の墓
*
*この地図は北が下になっている

義景の妻子も当然のように殺される。景鏡は義景の首をもって信長に降るが、周囲の反応は冷たいものだったようだ。しかし信長は景鏡を許し、大野郡を安堵する。景鏡は朝倉の姓と通字を捨て、土橋信鏡と名乗る。
一年とたたないうちに、越前は一向一揆が席巻する。景鏡は平泉寺と共に一揆の焼き討ちに滅ぶのである。それは残った朝倉家臣の過半が辿った道でもあったが。
*平泉寺南谷坊址
犬山・戌山から少し離れたJR越前大野駅のほど近くに日吉神社がある。そこに亥の山城址の案内があった。亥の山城と戌山城の関係は日常の居館と戦時の城郭だろうか。標識に拠れば、朝倉景鏡・杉浦壱岐・原彦次郎がここに拠った、とある。杉浦壱岐は一向一揆の大将だ。原は知らない。

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