物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

街道に沿って 旧北陸道 舟橋辺り

2021-08-18 | 行った所

越前最大の河川である九頭竜川にかかる九頭竜橋。通称は舟橋という。この橋の北詰、堤防の上に少し開けた場所があり、碑と案内板がいくつか立っている。

 逆光になってしまったが「史蹟稲多宿場」とある。

橋の改築記念碑や、河川改修、明治天皇の巡行碑などもあるが、メインは舟橋と稲多の宿。こうした碑がある程度整備されたのは、昭和30年代らしい。

 この碑にはかつて少し北に一里塚があったことなども見える。碑は昭和33年とある。この川はかつて福井市と森田村の境だった。昭和30年代だとたぶんまだ合併前だ。

足羽川の九十九橋北詰には道標があり、明治の里程碑だが 森田村稲多まで一里十何町だろうか、ちょっと読めないが、5キロ程度だろうか。 九十九橋北詰の里程標

九頭竜川を渡る。九頭竜橋だが通称舟橋という。

 舟橋北詰から上流を見る。
九頭竜架橋は天正年間に柴田勝家が北ノ庄に入っての事績に数えられる。刀狩りの刀を鋳なおした鎖でを船を繋いだというが、どの程度のことか知らない。

 この画面左手に歩道橋がある。南詰から

南詰にも碑があった

舟橋は江戸時代にも継承され、四王天家というのが管理を任されていたというから、この碑それに関したものだとは思うが、右上に欠落があり読めない。

この舟橋の船数は48艘で、尾張の起宿の資料館で見た300艘の舟橋とは比べ物にはならないが、こちらはほぼ常設だったようだ。しかも九頭竜川は崩れ川だ。維持管理は容易なものではなかっただろう。

九頭竜川の稲多の対岸は黒龍村、転じて舟橋村となったという。今は福井市舟橋。

堤防から降りるとすぐ黒龍神社がある。

黒龍神社改修碑 古い碑がも集めてある。集会所が脇にあり、花の手入れもよい。ザクロの実がなっていた

 水位柱もあった。川のどこにあり、どのくらいで危険とされたのか。

 

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京都 滋賀(山中)越え 比叡山ドライブウエイ

2021-08-17 | 行った所

東大路今出川、百万遍の交差点を東へ、吉田山を右に見て、真直ぐ行くと銀閣寺の標識の所で左折、北白川別当の交差点で右折する。曲がりくねった山道となっていく。


滋賀越え、もしくは山中越えと云われる道だ。実際には荒神橋辺りが起点らしい。県道30号線と重なり、比叡平を経由し大津へ抜けるが、比叡平から北へ比叡山ドライブウエイにつながるはずだ。
京都市街地の東側には東山の山が連なる。京都から東へ出ようとすれば、自ずとルートは決まってくる。現在一番便利なのは五条通りを東進だ。山科を経て京都東ICにもつながる。渋谷越えと云われる道は五条より少し南になるけれど、それほど違うルートにはならないだろう。
三条から蹴上を通る道も山科で五条ルートに合流する。これは東海道(中山道:草津まで東海道と同じ)に当たる。
更に北へ行って鹿ケ谷、ノートルダム女学院中学の脇辺りに急な坂道があり、俊寛の址云々の標識がある。その坂を登り俊寛の山荘址を経て如意が岳を通り大津に降りる如意越えという道がある。以仁王が三井寺に駆け込んだのはこの道だという。ただこの道は車は通れない。
そして銀閣の北を入っていく滋賀越え(山中越え)
更に北回りルートとしては、大原を通り途中峠を越える龍華越え。平治の乱に敗れた源義朝達の逃走ルートだ。

さて滋賀越え(山中越え)曲がりくねった山道の上、何やら妙にさびれた宗教施設かな、という建物や廃屋があったりする。路肩には落ち葉がいっぱいだし、何やら陰気な道なのであるが、意外に走っている車は少なくない。しかも慣れたドライバーが多いのかかなり飛ばしてくる。比叡平に着いた時にはほっとした。なぜこんな山の中に?と思うほどかなりの規模のニュータウンではある。ここは滋賀県大津市となる。

「やまがわに かぜのかけたる しがらみは ながれもあへぬ もみじなりけり」百人一首に採られた春道列樹という人のこの歌は、志賀越えの道でよまれたものだという。

 

比叡平の田の谷ゲートから比叡山ドライブウエイに入る。

しばらく北上すると夢見が丘の展望台。

 三上山が見える

 近江大橋が見える

山頂まで行ってみる。

 中央右手が御所の緑か

 比叡平が見える

お天気があまりよくないが、それでもなかなかの眺望である

ドライブウエイを進む。東塔 西塔、横川と位置関係は不明ながら進み、琵琶湖展望台。


最澄像があった

そのまま仰木ゲートを出る。

 

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京都 高雄 高山寺

2021-08-16 | 行った所

神護寺から高山寺へ 

高山寺と云えば鳥獣戯画、でも現在ここにないことはよくわかっている。大僧正覚猷、三井寺に長く住み、天台座主にもなった、鳥羽上皇の護持僧を務める。絵画も能くし、鳥獣戯画の作者ともされるが、確定的なことはわからないようである。何故高雄の高山寺に伝世されたのか。鳥獣戯画は後白河や後鳥羽も興味を持ちそうなものだろうとは思うが。

高山寺も奈良時代に起源をもつというが、長くさびれ、13世紀の始め、明恵が入山し再興した。明恵は文覚の孫弟子だという。
明恵を後鳥羽がバックアップした。

明恵の父は平重国、伊勢平氏の家人で母は湯浅氏の出、バリバリの平氏である。

 高山寺入口

 石水院入口

 

石水院、これが明恵が後鳥羽からもらった建物で鎌倉期の建築物でここで現存する唯一のものである。

 高山寺金堂

 金堂付近から 北山杉の植林が見える

 明恵の墓

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京都 高雄 神護寺

2021-08-16 | 行った所

パークウエイを出て、神護寺へ行く。
駐車場に車を停め赤い橋を渡る。

 川は清滝川。水遊びの家族連れがいる。橋の手前にパークウエイの駐車場から徒歩で下りれる道もあるようだ。

参道は石段が続くが、途中に茶店があったり、鞍馬西口に比べれば平和なものだ。

 金堂

 

神護寺の創設には和気清麻呂がかかわったらしく、墓もある、とは備前和気の資料館で知った。
清麻呂は御所の西側、烏丸に面して護王神社にも祀られている。猪の像がたくさんあった。ここ神護寺には猪はいないようだ。
清水には坂上田村麻呂がいたが、京都北西の神護寺、南東の清水寺、平安初期の文武の守護神だ。

 清麻呂墓

神護寺には空海が入り栄えたらしいが、その後衰え、12世紀末の文覚により再興する。平家物語に勧進に後白河の所へ押しかけて暴れ、伊豆へ流される文覚が描かれる。続いて頼朝との邂逅、となるが、この文覚、物語の中では不死身でほとんど妖術使いである。文覚もまた武家の出身で元の名を遠藤某という。上西門院に仕え、平治の乱前に頼朝とは面識があったらしい。

 金堂脇の不動明王。平家物語の文覚荒行で那智の滝に打たれる文覚を不動明王の弟子の童子が助ける場面がある。

 金堂裏手にある多宝塔

 大師堂 鎌倉期の建物だそうだ。ここ以外の神護寺の建造物は全て江戸時代以降だ。応仁の乱で焼失したという。市中を焼いただけでなく、こんな山の中でも戦乱に巻き込まれていたのかと思うが、神護寺のすぐそばを国道162号線が走る。京都御室と若狭小浜を結ぶ道路だが、周山街道とも云う。古くからの街道だったのだろう。街道沿いの小高い山は砦・城が築かれ、攻防戦があるのは合戦のセオリーかもしれない。このような寺は立派な陣地になったことだろう。

 毘沙門道脇、奥石段の上金堂

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京都 嵐山高雄パークウェイ

2021-08-13 | 行った所

嵐山高雄パークウェイを走る。

化野へ行った時通った道から清滝入口からパークウエイに入る。どう走ったのか定かではないが、小倉山展望台。

 双ヶ岡が見える。


方向を転じると保津峡

更に行くと保津峡展望台。

 二つの川の合流地点を落合と呼ぶ。

愛宕前展望台。


あれが愛宕か、標高1000メートル級の山ではないか。落語に太鼓持ちが客に連れられ、芸者衆と共に愛宕に登る話がある。朝早く祇園を出て、着物姿の芸者がすいすい山を登る。まあお話ではあるが。

菖蒲が池付近ではかなり下る。再び登って居りて高雄の出口。なかなかのドライブでした。広い駐車場で何かイベント中だ。

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京都 貴船 鞍馬

2021-08-13 | 行った所

ナビへは鞍馬寺と指示したのに、何故か貴船についてしまう。

幸い駐車もでき、貴船が先でも悪くないか、と思ったら、近くに鞍馬寺西口の看板がある。

  なんだ、貴船からも行けるんだ、とおもったのが甘かった。これは西口というより西登り口だ。おそろしい急坂に古い線路の枕木を打ち付けた階段が曲りくねって延々と続く。息は上がるは、奥の院にたどり着いた時には、バテはてていた。
でも木陰のベンチで休む内に、かなりの風がさわさわと樹々を揺らせて吹き過ぎたのは、これが天狗か、流石鞍馬だと、思われたのだった。
鞍馬の幕の紋は天狗の葉団扇だ。

奥の院 魔王堂

そろりと僧正谷まで行って、引返す。

 僧正が谷不動堂

 義経堂

 僧正が谷付近 

次は鞍馬口駅から行こう。

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京都 若宮八幡宮(陶器神社) 

2021-08-13 | 行った所

五条東大路近く、五条通りに面して若宮八幡宮入り口がある。

源氏縁の地の一つである。

 

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郡上市大和 東氏館跡

2021-08-06 | 行った所

東氏は千葉常胤の六男が千葉の東庄(とうのしょう)に居を構えたことから東を名乗ったという。東庄と云えば、時代はさかのぼるが、平忠常が乱を起こした時の拠点の一つではなかったか。
この東氏、承久の乱の恩賞で郡上に入る。以後戦国末期近くまで郡上で代を重ねる。東常縁(とうのつねより)が歌道で有名だが、古今伝授と云う奴、勿体ぶった権威主義といおうか好きな感じはしない。
東氏の居所としたのは郡上市大和。八幡から北北西に向かう。ほぼ並行して長良川、東海北陸道が走る。ICは岐阜大和。さらに北上すると白鳥だ。

古今伝授の里フィールドミュージアムに入る手前に、千人塚という標識があった。

この辺に越前朝倉から攻めてきて討ち破られた兵1000人を葬った塚があるというのである。結構な規模の合戦が行われたということか。

東氏記念館に入る。どちらかというと歌道や能がメインの資料館か。

これに似たようなものは千葉市の資料館で見たような。

 

この地図の1549年篠脇城の戦いが分からない。朝倉孝景とあるが、有名なのは英林孝景、敏景と呼ばれていたこともある英傑だが、応仁の乱で活躍するので時代が合わない。とすると宗淳孝景なのだが、天文17年(1548)に死んでいるのだ。となると孝景の子の義景が該当することになるが・・・
このパネルの脇の年表のパネルでは1540年朝倉来襲、1541年赤谷山城へ移るとある。千人塚の説明板も天文9年とあったので、1549は単純な書き間違いか? 結構お金をかけている施設で学芸員もいそうなのにな。

宗淳孝景のころ朝倉はしばしば美濃へ介入しているようだ。また天文9年ごろは大野郡司だった孝景弟景高が兄に反抗、一向一揆と結ぼうとしたり、若狭へ行ったりごたごたしている。朝倉の敵はほぼ一貫して一向一揆で、大野郡は一向宗が盛んだったようで、一向宗との戦いの一環で油坂峠を越え美濃へ攻め込んだのは大いにありうる。篠脇城では敗れたが、天文13年(1544)には宗滴教影が美濃の稲場山城を攻め、城下を焼き払っている。同じようなルートで攻め込んだのではないだろうか。

東氏館跡庭園。


池跡の前に館があったと思われるが、礎石等もわからない。

 東常縁留守中、斎藤妙椿に城を攻められ落城した。常縁は妙椿にに和歌を送り、感心した妙椿が城を返したというのだが、応仁のころの武士が戦い取った城を返すことがあるかな。別の目的というか違う流れがありそうな気がする。

 篠脇城登り口

 

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郡上八幡 街歩き

2021-08-06 | 行った所

少し街を歩いてみる。
道幅は広げているのだろうが、袖ウダツの建物が軒を並べている。高山ほど観光地化されてもいないように見えるが、郡上踊の時はごった返すのかもしれない。

 肉桂飴を買った店

 宗祇水入口

 宗祇水

 宗祇水説明板

 小駄良川 清水橋から。すぐ吉田川と合流する。

 吉田川 地質的にも面白いのかもしれない

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郡上八幡 博覧館

2021-08-06 | 行った所

城を降りて郡上八幡博覧館という博物館に入る。郡上踊を中心とした物産館だろうと認識していたが、歴史関係も充実。城の展示と重なる部分も多いが、どうせいっぺんでは頭に残らない。

凌霜隊の江戸から関東を転戦し会津、また江戸にもどるまでを地図付きで紹介している。

宝暦騒動で気が付いた。これは白鳥で見ている。長滝神社内に碑があり、近くの白山資料館で小冊子を買ったのだ。あの時見たのと同じ事件だ。騒動の中心はむしろ白鳥らしい。

城の登り口に安養寺という寺があったが、これは一向宗の寺で佐々木高綱の子が親鸞の弟子になったことを起源とするらしい。元は越前大野郡穴馬にあったが、白鳥、八幡と移転したようだ。パネルはなんだかよくわからない文なのではあるが。


穴馬はダムの九頭竜湖に沈んでいる旧和泉村だ。ダム湖近くを通る158号線脇に穴馬総社が建っている。これは水没した各集落の神社を集めたものらしい。

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