物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

熱田神宮

2020-12-14 | 行った所

熱田神宮

平家物語第3巻「大臣被流」
藤原師長は、頼長の次男。保元の乱で頼長が死に、息子達も流罪になったが、許されて、師長は太政大臣にまでなった。しかし治承3年(1179)清盛のクーデターで、後白河の周りにいた43人もの公卿たちは一掃される。太政大臣師長は再び流罪となり、流刑地は尾張。この師長はなかなかの風流人である。「古を思遣、鳴海潟塩路遥かに遠見して、常は朗月を望み、浦風に嘯き、琵琶を弾じ、和歌を詠じて、なほざりがてらに月日をおくらせたまひけり」その師長が尾張三宮熱田明神に参詣した。琵琶を弾くと風流など解さない田舎の者たちも集まってきて「万座奇異の思ひをなす。」果ては「風香調の内には、花芬馥の気を含み、流泉の曲の間には月清明の光をあらそふ。・・・・神明感応にたへずして、宝殿大いに振動す。」

治承3年の政変は11月だが、平家物語ではこの年の10月、文覚が高雄神護寺の勧進を言い立て後白河の所に暴れこむ。この時後白河の前で太政大臣妙音院こと師長が琵琶をかきならし、朗詠めでたうせさせ給ふ。邪魔されたということで後白河は文覚に怒り狂った、ということになっている。

熱田神宮の近くに白鳥御陵と称する古墳がある。

ヤマトタケルと尾張のミヤズヒメの話がある。ヤマトタケルは父からあちらへ行って戦え、こちらへ行って平定してこい、とこき使われる、ヘラクレスの12の冒険みたいな話なのだが、東征譚にミヤズヒメが絡む。いろいろあって、しかしめでたく結ばれたはずなのだが、ヤマトタケルはミヤズヒメの元に神剣草薙剣を置いて伊吹へ行ってしまう。伊吹の神は巨大な白猪、これに敗れたタケルは死ぬ。タケルは故郷大和をまほろばと歌い白鳥となって飛び去る。「其の國より飛び翔り行きて、河内國の志幾に留まりましき。故、其地に御陵を作りて鎮まり坐さしめき。即ち其の御陵を號けて、白鳥の御陵と謂ふ。」だから河内の白鳥陵と思っていたがここにも白鳥陵があるのだ。

ミヤズヒメは尾張臣の娘で、預かった草薙剣をご神体としたのが熱田神宮、王家に伝ったのはその形代、だとしたら、安徳と共に壇ノ浦に沈んだものは形代に過ぎないのだが・・慈円は草薙剣は王家武力の象徴と解く。王家を支える武力は頼朝となったことで必要がなくなったという吃驚のご都合主義。訳が分からない。

近くに頼朝生誕地がある。

 

ほんまかいな?京都生まれの京都育ちだと思っていた。義朝と藤原季範の娘は京都で結ばれたのだろう、妊婦の旅はきつかろうにこの母は京から尾張へ下向して赤子を産んだのか?
藤原季範の母の実家が熱田神宮の宮司の家柄だったという。これは尾張臣の子孫だったとしたら、頼朝は尾張の臣のミヤズヒメの子孫ということになるような。

ここには信長も関わる。

 

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丹後

2020-12-09 | 行った所

京都府に入って雨になった。
綾部JCTから京都縦断道で舞鶴大江へ。
酒呑童子の里、ロッジでうどん、

すぐ脇の鬼の交流博物館へ。ばりばりの民俗学系の博物館だった。もう少し周囲の情報があるかと思ったが。

 博物館裏の二俣川

 二瀬川
大江山を車で登れるところまで行ってみる。

 鬼嶽稲荷神社に行きあたる。

案内板によれば晴れれば日本海、高浜の青葉山まで見えるようだ。気温は3℃、寒い。


降りて、元伊勢神宮とやらに行く。

 雨は止まず長く続く石段が滑りそうだ。


伊勢神宮は所謂伊勢に鎮座前に諸国をさまよっていたとか。知らない話だ。伊勢にあるから伊勢神宮ではない?天照他がいたから伊勢神宮というわけではないと思うが。ロケーションと云い、ちょっと場所借りてました、という感じではないと思うのだが。近くに天岩戸まであるというのだが。神社の奥の山は大江山だ。山を御神体とする地場の神社と違うのかな。

福知山へ向かう。
晴れてきた。福知山は明智光秀が整備した町だということで光秀ブームらしい。
福知山城。

石垣に墓石が使われている。安土城址で石段に使われていたのと同じことなのだろう。

夕食に入った 一ゑん(いちえん)という店は日本料理だがおいしかった。仕入れは宮津港だそうだ。

久美浜方面に向かう。
途中気が変わって出石へ寄る。

そば粉を買う。

久美浜

  小天橋近くの橋の上から

 甲山から。

 

丹後半島を回ることにし、網野で昼食。
間人のPAで買い物

経ヶ岬までは回らず山中を伊根に抜ける。

 伊根で遊覧船。えびせんを撒いてカゴメが船を追う趣向だが、カゴメではなくトビが群れを成してくる。

宮津を通って帰る。


天橋立の近くに元伊勢籠神社というものがある。ここも元伊勢と名乗っている。狛犬が面白い。展望台へ上るリフトのまえにあり、この後ろ山がご神体に見える。

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伊勢・伊賀 3 伊賀

2020-12-03 | 行った所

伊賀上野は山間の盆地だ。山裾から霧が流れている。

上野公園で芭蕉記念館に入る。
伊賀上野城・俳聖殿をチラ見して、

鍵屋の辻へ行く。ここに伊賀越資料館なるものがあるが、休館中だ。コロナ禍かと思いきやその前からのようだ。伊賀街道の資料館と思いきやこれも違って、伊賀越えの敵討ちの話だ。日本三大敵討ちの一つと言われてもピンとは来ないが、荒木又右エ門という剣客が弟を殺された縁戚の助太刀をし、ここ鍵屋の辻で見事敵を討ち果たした、という話らしい。


公園になっている。

道標がある。文政の年号がある。左奈良道、右伊勢道

もう一つ近くに方向の違う道標がある。明治の物で、右奈良大阪、左月瀬みち とある。

 月瀬はどこだろう?

観光案内図によれば木津川がごく近くを流れている。

木津川と云えば山背の川という印象が強いが、伊賀から流れてきていたのか。この川で、京都奈良がぐっと近くになる印象だ。
木津川を渡って引き返す。引き返す橋の上から伊賀城が見えた。

芭蕉の生家というのも行ってみるが、工事中だった。

 

伊賀国分寺趾へ行く。

なかなか入口が分からずぐるりと回った。

調査保存はしてあるが。広大な草っ原という感じだ。これはこれで風情のあるものではあったけれど。

近くの友生ICから名阪国道で壬生野から下道を北上、新名神の甲南IC、草津から名神に乗換え帰る。

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伊勢・伊賀 2 安濃川・落合・多気玉城・須が瀬・産品

2020-12-03 | 行った所

平家物語第5巻「文覚被流」文覚は強引な勧進で後白河の怒りを買って伊豆に流される。この時、阿納の津から船に乗って下った、とある。私はこの話を読み飛ばした。伊勢から船に乗ったと見たとしても桑名から鳴海に渡るようなルートを想像したかもしれない。後の東海道のルートとは違うはずなのに、である。
安濃津、即ち津である。津市には三つの川の河口がある。北から志登茂川・安濃川・岩田川である。どれも大きな河口に見える。

 安濃川河口


昨日見た案内板の維盛の墓?がある成覚寺まで行ってみようと思うのだ。安濃川を遡る形で辿る。安濃川ダムを越え更に行くとバーベキュー場になっているが、落合という集落だ。これが平家の落人の隠里ということらしい。

 とはいえ、伊賀街道の抜け道にあたりなのか、家康の伊賀越に絡んだら話もあるようだ。

 女が絡むような呑気な山越えではなかったろうと思うのだが、もしここから東へ行ったとしたら、安濃川を下り、安濃津からの船出ではなかったろうか。どっちにしろ諸説ある話らしい。

 三重県のHPから

 成覚寺は維盛が開いたとか、墓もある。まずありえないが、そういう話ということで。

 安濃川ダム湖、錫杖湖。

「平家発祥の地」にあった案内板の地図はよくわからない。

縮尺・距離感がアバウトなのだが地元の人ならわかることなのだろう。人名もよくわからない。高橋昌明「清盛以前」の平家の系図はかなり詳しいのだが、それにも出てこない者も多い。


高橋昌明「清盛以前」の平家の系図

安濃川ダムから下ってきたところに戸島という地名を見つけたので集落をぐるぐる回っては見たが、城跡・館跡らしきものは見当たらず諦めた。戸島城に拠った高士氏とは何者だろう?その近くの久我の資盛はまさか維盛の弟の資盛ではあるまい。

伊勢自動車道に乗る。

南下、勢和多気で降り、下道を渡会町方面に走ると、熊野古道の幟が目に入る。寄ってみる。

女鬼峠、というのがあるようだ、

少し歩いてみる。途中で迷ってしまい引き返したが、いい散歩だった。伊勢から熊野に向かう道の最初の峠となるそうだ。玉城町の案内所でパンフをもらう。


玉城ICから一志嬉野まで戻る。

須が瀬という町名を頼りに盛国の跡を探してみるが、まるで分らない。

 須が瀬橋から西方

川は雲出川。河口は松坂市になるようだ。伊勢平野は広く豊かそうだ。平家同士でも取り合いがあったのだろう。維衡の一族は同族良兼流致頼一族との闘争に打ち勝ち、伊勢平氏を名乗る。維衡曾孫の正盛-忠盛-清盛と家格を急上昇させる。伊勢には郎党化した一族の者を置いたのだろう。平良兼は将門の叔父だ。良兼の兄国香の子貞盛と組み、将門と激しく会い争う。維衡は貞盛の子だ。平貞盛は将門の従弟で、藤原秀郷と組んで、将門の反乱を屠った。今昔物語には、この貞盛について奇怪な話が載っている。命に係わる怪我をした貞盛は、胎児から取った薬が必要といわれる。貞盛は妊娠していた息子の嫁の胎児を狙うが、息子は医者から血縁のある胎児は効かないと云わせ、難を逃れる。貞盛は他から胎児を調達するが、医者の口から洩れるのを恐れ、医者を殺そうとする。息子は医者を逃す。トンデモ話ではあるが、今昔の成立したころ、平安末期?に貞盛がどんな人物と思われていたかを示すものなのだろう。

忠盛塚の前を通り、産品集落の中に入る。

 旭昌寺

 

 置染神社

 正盛の墓

 一族の墓?

伊賀街道を西に向かう。

途中で163号線と合流したようだ。長野峠を越え伊賀に入るがトンネルだった。

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伊勢伊賀 1 日野(蒲生)・大黒屋光太夫記念館・伊勢国分寺・忠盛塚

2020-12-03 | 行った所

伊勢と云っても桑名へ行くなら米原から東に行って、大垣ICから南下するが、桑名・四日市間は酷く混むので、滋賀周りで行くことにする。

蒲生スマートで高速を降りる。蒲生氏郷の蒲生らしい。蒲生氏郷は信長・秀吉に従った戦国の武将で、キリシタン大名としても知られる。氏郷は後に福島に封ぜられ会津若松の若松はこちらの地名からとったそうだ。

日野町あたりをはしる。

あのこはだあれ、だれでしょね の碑をみた。 作者は細川雄太郎という日野の出身者だそうだが、あいにく知らない。
日野町は近江商人の街であり、かなり大きな神社がある。

馬見岡綿向神社。蒲生の総社らしい。猪にまつわる話がある。

  
そこから水口へ出て、1号線を東進、土山・関を経由し鈴鹿市に入る。

海岸まで出て、大黒屋光太夫記念館へ行く。今度また吉村昭でも読んでみよう。

伊勢国分寺址へ行く。

 屋上から

思いがけず立派な資料館が建っている。鈴鹿市立考古博物館だ。巫女の埴輪が目を引く。内外の考古学者を紹介しているコーナーもあって考古博物館らしいのだが、国分寺の脇に立っているだけあって、遷都の地図や壬申の乱の図などもある。

鈴鹿を出て津市へ向かう。意外に時間がかかる。一時間以上かかった。


津市産品には伊勢平氏発祥の地なる碑がある。

伊勢平氏の祖は平維衡とされるのだが、ここは忠盛生誕の地だそうだ。伊勢街道の案内板やこの近くの関連場所の案内板があった。

 忠盛産湯跡

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