物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20191215 後楽園

2019-12-20 | 行った所

朝から岡山駅前でタクシーを拾い後楽園へ行く。広々した芝生の目立つ公園だ。彦根でも感じたが大大名の富というのはいったいどんなものだったのか。池田家は外様で31万石というが間違いなく備中は上国だ、面高以上に豊かだったのではないだろうか。

慈眼堂というものがある。元禄年間に殿様が池田家と領民の繁栄を祈り建立したというが、あるのは巨大な岩である。30数個に割って運んで元どおりに建てたという代物。確かに矢穴の跡がある。いったい何のため・・・

しかしまあ素晴らしい庭であることは間違いない。回遊式庭園ではないだけモダンな感じがする。

川を隔てたお城の方へ回り、電車で駅前まで戻った。

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20191214 鬼ノ城

2019-12-20 | 行った所

なんと屋嶋ノ城(やしまのき)以来の古代山城だ。
こんな山の中に白村江敗戦対応の防護施設?と思ったのだが、ビジターセンターのパネルで納得。

海岸線が全然違う。ここからなら確かに四国まで見渡せただろう。
児島は小豆島より大きな島だ。吉備津は吉備の津だったのだ。ずっと吉備津神社は吉備の社、吉備津彦は吉備の男だとばかり思っていた。しかし港だったのだ。吉備国は瀬戸内交通も押さえていたのか?



ビジターセンターまで車で上がり、ここから徒歩で登り鬼ノ城趾一周1.5~2時間だという。さすがにその時間はなかった。

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20191214 備中高松城

2019-12-20 | 行った所

備中高松城、といってもどこにあるのか見当もつかなかった。近くだった。秀吉の毛利攻め、毛利方の清水宗治籠る高松城を水攻めにする。戦争というより大土木工事だ。ここで秀吉は信長の死を知り、まだ知らぬ毛利方と和睦し大返しが始まる。清水宗治は舟で一指し舞って自害。

高松城はもともと泥湿地帯の中にあったようだ。近世の堀に石垣の城とは違い土塁だけだったようだ。規模は違うだろうが妹尾兼康が今井兼平らを迎え撃った「城郭」というのも深田の中にあったという。馬が進まず今井達はかなりてこずっている。吉備は意外に湿地が多かったようだ。初期の農耕には適していたのか。

清水宗治顕彰館みたいな資料館があり、ビデオを見た。



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20191214 造山古墳

2019-12-20 | 行った所

吉備にはつくりやま古墳と呼ばれるものが二つある。造山と作山である。うち造山古墳の方へ行ってみることにする。
吉備津彦の奥つ城とされるのは吉備の中山頂上の茶臼山古墳だが、陵墓参考地で立ち入りできない。造山古墳もまたこの地の有力者の墓であることだけは間違いないだろう。何しろ全長350メートル、畿内の巨大古墳と張り合う威容を誇る。
墳丘のすぐそばまで民家が迫っている。階段がついている。崩れ防止の土留もしてある。墳丘調査の後が処理され残っている。前方部には神社がある。石棺がある。手水鉢に使ったらしいが、これは珍しいことではない。この石棺は随分深い。阿曾産の石をくりぬいているそうだ。神社後方には割れた蓋が転がっている。
後円部へ行くとなんだか変だ。頂上が何だかやけに広々と平だ。その縁に土塁のようなものが巡らせてあるように見える。
山城代わりに使われたのかもしれない。


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20191214 吉備路文化館

2019-12-20 | 行った所

歴史博物館があったら入りたかった。吉備路文化館というのがあったので行ってみる。総社市になる。車での行き方がよくわからず、矢印標示があったところから上がったらサイクリングロードだった。この辺り一帯吉備路風土記の丘として整備されているらしい。国分尼寺址がある。礎石だけだが、かなりの規模の伽藍配置だ。

国分寺の塔が見える。


文化館そのものは学芸員?は親切だが、展示品はぱっとせず、パネル表示に面白いものがあったがカメラ禁止の表示があるし。でもそのパネルから鬼ノ城へ行こうと思い立つ。

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20191214 妹尾兼康の墓

2019-12-19 | 行った所

妹尾兼康の墓は岡山市北区の鯉山小にあるという。
小学校を探すのは楽だ。すぐ見つかった。鯉山小学校に接して墓はあった。驚いたのは墓の前に陶山**という会社の建物があったこと。そしてこの掲示

「家臣陶山道勝」この会社はこの家臣の子孫だろうか。墓は新しいが妹尾兼康は地元で大切に考えられている人のようだ。
平家物語の妹尾兼康はどちらかというと軍の侍大将としては伊藤(藤原)忠清や平貞能や平盛国・盛俊などに及ばす、清盛・重盛の使いやすい部下といった印象だが、意外に京都ばかりにいたのではなく、地元に根を下ろした豪族だったようだ。備中の所領というのも自分たちで開発し寄進したものか。十二か郷用水も見たいものだ。
妹尾と今井兼平らが戦ったのは福隆寺畷・篠のせまりは現在の岡山市津島付近と比定されているようでもっと西寄りだ。近くに流れている川は笹が瀬川だ。
鯉山小学校からいくらもないところに板倉という名の交差点を見つけた。板倉川という笹が瀬川支流が倉光次郎が妹尾に返り討ちにあうところで、兼康は一旦は逃げるが、太った息子のために引き返し果てる。

この墓は実際に死んだ場所とそれ程離れてもいないのだろう


妹尾兼康に関しては以前書いている
妹尾の事

岡山県のホームページ 十二ケ郷用水 
地図もあって詳しい
十二ケ郷用水は総社市を中心にしているようだから、妹尾の本拠地といっていい。備中の国府から源行家に送り込まれた代官が簡単に襲われ追い出されたのもうなずける。ただ妹尾の館跡は岡山市南区の妹尾にあるという。要は現岡山市の大半は妹尾の支配下だったか。

 

(2023年11月 補記)

2019年に見たこの新しい墓ではなく古い宝篋印塔があったらしい。1990年代に発掘調査され、古い人骨が発見されたらしい。岡山大学の鑑定で、40~70代の男性の頭骨で、首を斬られ、他にも損傷を受けた後があった。12世紀ごろの骨であり、妹尾兼康の骨として矛盾はないということである。

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20191214 藤原成親

2019-12-19 | 行った所

吉備津彦神社にあった案内板に 藤原成親遺跡があった。吉備の中山の中だ。行ってみる。


最初は児島に流され、港が近すぎると有木へ移され殺されるのだが、この辺りだったのか、吉備だと思っていなかった。

平家物語ではけちょんけちょんの云われ様の人物だが、それなりの才能と自負があったのだろう。

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20191214 吉備津神社

2019-12-19 | 行った所

吉備津の竈を知ったのはまだ小学校の頃だ。子供向けに書かれた雨月物語だった。いそらと言う名前を恐ろしいものと思った。おそらく子供にも古典に親しませようという意図の本だったのだろう。いっしょに読んだはずの菊花の契りには男色の影もなくただ約束は守らなければならないとばかり強調されていた気がする。白峰や邪婬の性はその時読んだ覚えは全くない。
岡山駅付近から吉備津神社を指定したナビは途中から幹線を外れ、いやに細い道を辿り、急カーブを曲り山を登りはじめる。登りつめた分岐路では意外なほど対向車があるが、皆、新興宗教ぽい本部への道へ向かう。文化財センターを過ぎ山をくだる。
下り終えた所が吉備津神社だった。といってもどうも裏門のようなところへ着いたらしい。古色蒼然とした神社だ。

狛犬の顔が変わっている。

神社向かって左方向に長い回廊がある。回廊を歩くことにする。回廊脇に植わっているのは牡丹だ。回廊に牡丹とくれば長谷寺だが、ここではいくら朝早くとはいえ人影が見えない。
回廊中ほどに御竈殿の標示がある。あの吉備津の竈はここにあるのか。

中の人に聞くと本殿で祈祷を申し込めば鳴釜神事をしてくれるという。

本殿まで行くと立派な建物と広い境内、広い駐車場。どうやら裏からアクセスしたらしい。


そして、白いお猫様登場。鳴きながら歩いてくる。傍らのベンチに飛び乗る。人馴れしている。


 撫でさせてくれるばかりか脇へ座れば膝へ乗ってくる。どうやら寒くて足先が冷えていたらしく、人膝恋し状態らしかった。体をこすりつけてくるのもうれしくて、もうすっかりご利益があった気分。

御竈殿に戻り靴を脱いで上がる。かまどで火が燃えている。お湯が沸きせいろが置かれている。神主が祝詞を唱え、白衣の女性がせいろに玄米を振り入れたりする。玄米を入れるとウォーンと本当に音がするのだ。そのメカニズムはネットで調べれば出てくるが歴史と雰囲気があるものだった。


吉備津神社から吉備津彦神社へ回る。ここは吉備津神社より新しい印象だ。吉備津神社が備中一宮、吉備津彦神社が備前一宮だという。古代吉備国は備前・備中・備後に分かれた。備前・備中は岡山県、備後は広島県福山市を中心とする地域となる。吉備国というのは本当に大きかったのだ。ここにあった案内板で吉備津神社まで来た時通った山が吉備の中山だったことなど位置関係をようやく理解した。

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20191213 藤戸

2019-12-18 | 行った所

佐々木家は近江に本拠を持つ。佐々木家4兄弟は、母方を通し頼朝兄弟の従兄弟であるという。即ち義朝の末妹が彼らの母親で、同じく義朝の兄弟の義賢を父に持つ義仲とも従兄弟ということになる。平治の乱後、父佐々木秀義は兄弟を連れ関東へ下向するが、末子の高綱は近江に残した。関東へ行った兄たちは頼朝の配所に出入りしていたという。4兄弟は定綱・経高・盛綱・高綱であるが、武勇の誉れ高いのは盛綱と高綱である。
治承4(1180)年、頼朝の挙兵に際し、高綱も伊豆へ馳せ参ずる。この時のことが源平盛衰記には書かれている。なんと高綱は途中で商人の紀介を斬り殺し馬を奪っているのだ。
兄弟そろって、頼朝の挙兵に参画、特に高綱は奮戦もあって気に入られたようだ。寿永3(1184)年、頼朝は京へ義仲を討つべく、範頼・義経を大将に大軍を派遣する。この時頼朝は梶原景季が欲した名馬イケヅキを高綱に与える。景季はスルスミという二番手の馬をもらう。駿河あたりへ来て、高綱がイケヅキを得たことを知った景季は、高綱を殺して自分も死のうとまで思い詰めるが、高綱は貰えっこないので盗んだ、と言って景季を大笑いさせていまう。機転、弁舌の効く男だ。この高綱・景季の話はこの後の宇治川の先陣争いへと続き、ここでも高綱は、景季の馬の腹帯が緩んでいるなどと云って、こすっからいところを見せている。

さて、藤戸である。
藤戸へ向かう。藤戸寺は幹線沿いですぐ分かった。佐々木盛綱像のある盛綱橋、経ヶ島は近くだ。乗り出し岩はかなり離れる。地形が変わってしまったので分かりにくいが藤戸寺は児島の一部だったことになる。藤戸の戸は由良の戸や瀬戸の戸だ。

藤戸の話は非常に嫌な話だ。盛衰記の高綱の追剥の話も酷いが、その兄盛綱はただただ手柄を独占したくて浅瀬の秘密を味方にも知られないために漁師を殺すのだ。これが源氏軍を渡らせないために平家側が殺したのならここまで後味は悪くはなかろう。一ノ谷で武蔵の住人河原太郎・次郎の兄弟が「大名は我と手を下ろさねど家人の功名をもって名誉す 我らは自ら手を下ろさねばかなひがたし」と合戦の大手生田の森の先陣を望む。徒歩で駆け込んだという、騎馬武者でさえない無名の者たちはあえなく討ち死にする。
盛綱は聞こえた武士、頼朝の従兄弟であり石橋山の挙兵前から頼朝のもとに出入りし、望めば名馬も与えられようとみなされるお気に入りの兄、何が悲しくて漁師を殺さなければならないのか。

平家物語には虚が多く、イケヅキ・スルスミは名馬伝説を華々しい軍記物としたもので実話ではないだろう。では藤戸はどうか、盛綱が海を渡って先陣を切り児島を恩賞としてもらったのは本当。地元武者ではない盛綱に浅瀬の場所が分かるはずもなく、だれか地元民に聞いたに違いない。教えた者に恩賞をやったという話ならともかく、こういう話が出てきてしまう。経が島を作り藤戸寺で大掛かりな法要を催したというのも、戦死者の霊を慰めるためとはいえ多少は気のとがめもあったのか。戦場での武者同士の命の取り合いでの駆け引きではなく、ただ海の浅瀬を教えてくれた者への騙し討ちの惨殺を。この話は事実近い事件があったのでは、と思わせられる。

盛綱橋

この盛綱の像は凛々しい騎馬武者だ。


藤戸寺縁起


経が島

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20191213 水島源平合戦趾

2019-12-18 | 行った所

岡山駅付近からレンタカーのナビの言うままに来たがえらく大廻りをしたようだ。実際に行った人のネット記事を参照に探すも階段での登り口が分からずうろうろしてしまう。
水島合戦は、水島とはいえ現代の工業地帯の水島とは少し違う。水玉ブリッジラインという幹線の玉島大橋(源平橋が通称か)の西詰の山がそれらしい。

橋の下に公園が広がり若いお母さんたちが幼児を遊ばせている。その公園の駐車場に車を停め少し歩く。橋のすぐ下から階段を上がる。

上がると幹線のすぐわきに碑が立っている。平家の陣地があったところだ。源氏側は対岸になるそうだ。
水島合戦は平家が源氏に大勝した戦いだ。平家物語では「平家は水島の戦いに勝ちてこそ会稽の恥をば雪ぎけれ」と称えられる。ここで平家は倶利伽羅の地獄、都落ち、大宰府を追われた屈辱・うっぷんを晴らす。



橋の上から南の方向海を見る

海上をさまよった平家は屋島に落ち着き勢力を回復する。西国を中心に14か国を従えた、というのである。義仲はやすからぬぬことなりと軍を出すのであるが悪条件がそろっていた。まず義仲は京を離れられない。義仲が擁した北陸の宮の擁立はできなかった。油断のならない後白河法皇が頼朝に秋波を送っている。頼朝はもちろん義仲の追い落としを狙っている。一緒に入京した叔父行家はあろうことか義仲の悪口を言い散らす。折からの飢饉は畿内を覆い、大軍を率いて在京するには無理がある。狼藉を止めろというがどうやって兵や馬に食わせろというのか。
ただ派遣したのは二軍ではない。大将矢田義清、矢田郷にいたので矢田を名乗るが足利源氏の祖の義康の長子、新田義重の猶子、れっきとした血統の大将。侍大将海野行広、海野というのは長野県上田と小諸の間位にある。義仲の嫡子義高(清水の冠者)に従い鎌倉へ行った海野行氏という者がある。義高を逃がすために身代わりをする同年配の少年だが、行広の子供かもしれない。矢田も海野も義仲が挙兵前から付き合い信頼できる武将だったのだろう。それに7000騎をつける。兵の数は例によって大いに怪しいが大軍ではあったのだろう。更に船は500艘用意した。
とはいえ気の毒なことに矢田も海野も従う郎党も船軍なんかしたことはなかったろう。
更に不運が源氏勢を襲う。なんと日食があったという。平家は知っていたが源氏は誰も知らなかったことらしい。平家物語(新日本文学大系)には出てこないが、源平盛衰記にはこうある「寿永二年閏十月一日(1183年11月17日)、水島にて源氏と平家と合戦を企つ。城の中より 勝ち鼓をうってののしりかかるほどに、にわかに曇て、日の光もみえず、闇の夜のごとくなりたれば、源氏の軍兵ども日食とは知らず、いとど東西を失いて、舟を退いていずちともなく風にしたがいてのがれゆく。平氏の兵どもはかねて知りにければ、いよいよ時をつくりて、重ねて攻め戦う」
海野行広、討ち死に。大将矢田義清以下7人は「船踏み沈めて皆死ぬ」船の上で激しく立ち回ったのだろうか小船を転覆させて死んだ。

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