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難波と大和 大和川

2021-11-20 | 行った所

難波と大和の間というか大阪府と奈良県の間には山がある。

  北から生駒山地が連なっていく。生駒の南部に信貴山がある。その南を大和川が東から西に流れる。その南に二上山がある。雄岳・雌岳の二瘤ラクダの背のような特徴的な山の形は、難波からも大和からも大きな目標となる。

その南には葛城の山々、そして金剛山がそびえる。その南を吉野川が、和歌山県に入って紀ノ川と名前を変えながら流れている。

大和川は飛鳥川や初瀬川・龍田川などの流れを集め、大阪湾にそそぐ。現在は堺市に河口があるが、かつては山の間を抜けたところから北へ流れ、分流し河内湖を経て、難波にそそいでいた。

 大阪城の南西、大阪歴史博物館に隣接し、難波の宮跡がある。そのあたりが河口で難波津なのだが、古墳時代の大規模倉庫跡である法円寺遺跡もある。

 法円寺遺跡 後ろは大阪歴史博物館

つまり、大和川は大和と外交都市難波とを結ぶ大動脈だったといえる。

  龍田道といい古道として知られるらしい。

長く大和と難波を結ぶ水上交通を担ってきていたが、江戸時代に転機が訪れる。大阪平野を北へ流れる大和川の洪水が問題だった。付け替えて真直ぐ西へ流そう、という声が出始める。

その間の事情、影響をまとめた展示会が、柏原市立歴史資料館でやっていた。

 大阪平野の河内湖はだいぶ縮小してきていたが、いくつかの湖沼として残り、大阪湾への流れが悪く、大洪水をたびたび引き起こした。

度々の嘆願にも腰が重かった幕府だが、元禄16年に至って付け替えを決定する。付け替えにより広い耕地を得られる(年貢が見込める)、費用を諸藩に押し付けることができる。ということからだった。

 これに対し、新たな川筋となる村々からは反対する声が沸き上がる。

 これでは反対するだろう、という資料だった。

一度大規模土木工事が行われると以前の状況を想像することさえ難しくなる。京都南の巨椋池も今は痕跡もないし、河内湖も想像がつかない。沿岸部の都市の海岸線は昔の面影を残しているところはない。利根川も大きく川筋を変えた。

この史料館は近くの高井田古墳の横穴の線刻壁画や、松岳山古墳のひれ付円筒埴輪などが常設らしい。

 

 この円筒埴輪などの興味深い展示品も多い。

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