物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

河内 近つ飛鳥

2021-11-24 | 行った所

近つ飛鳥 遠つ飛鳥 という表現は記紀にもあるそうだけれど、たいていの人は飛鳥が二つあると言ったら首をかしげるだろう。飛鳥は奈良にある明日香村のあたりではないかと。
近つ飛鳥 遠つ飛鳥という場合、明日香は遠つ飛鳥 近つ飛鳥は河内の東部、二上山か葛城山の西麓にかけて、現在の太子町だというが、明日香では自分たちのところを遠つ飛鳥と認識などしていたのだろうか。
確かに飛鳥部という地名があったり飛鳥川という名の川が流れたりはしているようなのだが、二つの飛鳥の相似がそれほど評価できるのかわからない。難波に都があった時期でも明日香は永く都のあった地として意識されていたのではないだろうか。近つ飛鳥にはそのような土地の記憶はない。
 
  この地域の磯長谷と呼ばれる一帯は終末期の古墳を数多く有し、王家の谷などという名もあるようである。
叡福寺北古墳(聖徳太子陵)・春日向山(用明陵)・太子西山(敏達陵)・上ノ山(孝徳陵)・山田高塚(推古陵)・葉室古墳群の中には当時の大王墓に匹敵するものもあるらしく、二子塚は方墳が二つ繋がったような形の古墳である。
これらの古墳から少し南に下がると近つ飛鳥博物館がある。その後ろ山が風土記の丘公園だが、一帯は一須賀古墳群だ。だいたい蘇我一族の墳墓ではないかといわれるらしい横穴式の古墳群である。その南、平石谷と呼ばれる地区にシショツカ・アカハゲ・ツカマリという三つの古墳がある。これを蘇我三代の墓とする説もあるようである。
古墳のどれを誰の墓とするかは古墳の年代とともに改葬の問題もありややこしすぎるが、興味は尽きない。
 
大阪府立近つ飛鳥博物館は何しろ「近つ飛鳥」を名乗っているのだから、さぞやこの地域の特性をいかんなく発揮し、ユニークな観点の博物館であろうと思ったのだが、いささかその趣には欠けていた。
安藤忠雄設計の大きな博物館で上から下への順路だ。古墳時代全体を通し見るべきものも多く、叡福寺北古墳のビジュアルな展示もあったが、最後の大古墳の造営の大模型は大仙古墳(仁徳陵)というのはどうだろうか。古墳造営にかかわった人々の暮らしも小さな人形を使ったジオラマで再現した大作なのだが、近つ飛鳥でどうして百舌鳥の古墳なのだろうか。
 
博物館から裏の一須賀古墳群に回る。結構な山歩きとなった。

  横穴式石室群が随所にみられる。
 
 案内板


 
  展望台から

 

磯長谷古墳をいくつか回る

 山田高塚(推古陵)

  二子塚古墳 

墳丘はかなり崩れている。双方墳のはずだがよくわからない。

  二子塚石室
 二子塚古墳からの山田高塚

磯長谷、谷というより丘陵地帯みたい。

下って叡福寺へ。

 聖徳太子こと厩戸皇子の墓だという。江戸時代までは中が覗けたらしく、墳丘内部の記録がある。厩戸と母穴穂部間人皇女と妻の膳部菩岐々美郎女の合葬だとされる。

 後世の結界石 梵字がある

 

磯長という地名は古くは科長だったのか、そういう神社がある。

 科長(しなが)神社

その上に小野妹子の墓

 妹子の墓から南東方向 PLの塔が見える

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
« 葛城山に登る | トップ | 難波と大和 竹ノ内街道(横... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。