軍紀物には怪談が少ないように思うのだがどうだろうか。ないわけだはないのだが。軍紀物は戦話だから、酸鼻な殺戮が繰り返されるのだが、そこで死んだ人間の怨霊が彷徨い出た、というのは少ないのではないか。
朝倉始末記の幽霊話はひとつだけだ。
永正4年(1507)、先年越前から追い払われた一揆勢が、また侵入してくる。和田本覚寺・藤島超勝寺といった越前浪人の坊主たちが主導した一揆だ。本願寺に大規模の越前侵攻の一揆をおこすことを提唱するのだが、取り合ってもらえない。ここに加賀国石川郡の玄任というものが名乗り出る。
和田の大坊主は「敵の方へ掛かる足は極楽浄土へ参ると思へ。引き退く足は無間地獄の底に沈むと思へ。」とアジる。
8月28日、越前河北郡上ノ郷帝釈堂口へ打って出る。ところが越前勢に打ち負かされ、大坊主・加州勢は逃げ帰る。その中で玄任たちは一歩も引かず、300余名、そろって討ち死にした。
その後、玄任の妻が和田坊主のもとを訪れ、坊主を見てひどく泣く。坊主は妻に慰め顔で説教する。玄任は極楽往生したのだから、と。妻は、そんなことで泣いているのではない。玄任が極楽往生したのはわかっている。逃げた坊主様が無間地獄に落ちられることが哀れで悲しいのだと言い放つ。
朝倉始末記の筆者は不明だが、旧朝倉家臣か縁者には間違いないだろうから、一向一揆には手厳しい。ただ本覚寺や超勝寺の坊主はことのほかタチが悪かったようである。なんとか追われた寺を取り戻したいというのはわかるが、やたら他者を煽っておいて、真っ先に逃げ出すというのは帝釈堂口の合戦のみではないようだし、超勝寺に至っては越前侵攻反対派を毒殺したことさえあるようだ。
さて、帝釈堂口の戦いの2,3日後、近所の家の戸口が叩かれ、主人が出ると首なしの男が4,5人いる。目を凝らすとかき消える。また別の時、青首が家をのぞいていたりする。そんなことは続くある夕方、僧が見た怪異は、雲間に雲霞のごとき軍勢があり、文明3年(1471)の朝倉・甲斐合戦から近年に討たれし亡霊云々という声が聞こえた。
どうも玄任たちの幽霊ではないようだ。なんでまた30年も前の戦いで戦死したものの霊が、この地に彷徨いでたものか。
話は僧が供養して怪異は止み、朝倉貞景があちこちで堂を建てた、という話で終わっている。
帝釈堂口はあわら市中川にある松龍寺付近。
松龍寺には帝釈堂があったという。
松龍寺 門が鐘楼になっている。
千体仏堂 そっと戸を開くと小さな仏像がずらりと並んでいる。
案内板
帝釈堂はわからなかった。
和田本覚寺の本貫は福井市和田(158号線沿い福井市消防局のある地域、足羽川がちかい)だろうが、現在の本覚寺は永平寺町東古市、九頭竜川南岸にある。
本覚寺
超勝寺は福井市藤島町、ほぼ本貫の地へ戻ったのかもしれないが、隣接して東超勝寺と西超勝寺がある。
西超勝寺
東超勝寺
西超勝寺境内裏の方に藤島城の跡もある。南北朝期に造られたらしい
藤島城址