物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

当麻寺 鳥谷口古墳

2021-11-27 | 行った所

當麻寺には来たことがある。何十年も前に話になるが。当時私はこの寺を大津皇子の菩提寺か何かと勘違いをしていて、中将姫の曼陀羅云々に怪訝な気持ちであった。「うつそみの人なるわれや明日よりは二上山をいろせとわが見む」の大津皇女の歌に二上山麓の寺を大津皇子の関連と思い込んだのである。ただ四天王像の印象は強烈であった。今見てもここほどシルクロードという言葉を実感させてくれるようなところは珍しい。

 仁王門(東門)
現在はこちらがメインの門のようであるが、二塔が東西に並び立つ伽藍配置を思えば、南門が正門だったかもしれない。

 境内から見える二上山。

 本堂

 西塔 写真の左のほうに東塔がある。

 鐘楼

 

大津皇子の墓として宮内庁が管理しているものは二上山雄岳山頂にあるというが、二上山麓でほかに大津皇子の墓といわれる鳥谷口山古墳に行ってみる。當麻寺より1㎞程西北になる。

 


 墳丘から東方向 大池が見える。

 道の駅ふたがみパーク当麻付近からの二上山雄岳

 大和高田からの暮れなずむ二上山

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當麻蹶速 相撲館「けはや座」

2021-11-27 | 行った所

平家物語では時々平家にも源氏にも全く関係しない中国の故事などが延々と挿入されていることがあるが、第8巻「名虎のこと」もその類である。
平家は安徳帝を連れ西国へ逃げ、木曽義仲が入京を果たす。義仲は以仁王の子北陸の宮を奉じるのだが、後白河は占いがどうの、夢見がどうのと強引に高倉院の第4皇子を新天皇に立てる。後鳥羽帝である。そこで昔の話として文徳帝が崩じた時の即位争いの話になる。候補者は二人。惟高親王、紀名虎の娘の子である。惟仁親王、藤原良房の娘明子の子である。この二人の勝負をつけるため、競馬(くらべ馬)・相撲が行われる。相撲の代表は惟高方が紀名虎、60人力の大男、ここでは親王の祖父だとは書いてない。惟仁方は何故か能雄(よしお)という小男、応天門の変の伴善男のことだという。互いの応援団は惟高方は東寺の僧正、惟仁方は比叡山の僧。こちらは呪法合戦である。相撲の勝負は圧倒的に大きな名虎が優位に立ったのに、なぜか、比叡山の恵良和尚の渾身の呪法が功を奏したのか、小さな能雄が勝ってしまう。小よく大を制すの醍醐味を見せる勝負だったとも言えないだろう。

今昔物語の第23巻に相撲の話がいくつかまとまってある。節会のために全国から集まった相撲人と学生が乱闘する話がある。学生といっても官僚養成機関に学ぶ貴族の子弟だろうか、質が悪く相撲人に喧嘩を売る。どっちも無頼漢のようだ。実際の勝負の話より力自慢の話が多い。最高位の相撲人成村と常世の勝負は當麻蹶速と野見宿祢の話に似ているかもしれない。成村と常世は互いに勝負を避けていたが、勝負をせざるを得なくなり、常世は再起不能、成村は故郷へ帰り二度と上京しなかった。

當麻蹶速と野見宿祢の勝負はとても相撲とは思えないもので、宿祢は蹶速のあばら骨を折り、腰骨を踏み折、殺してしまう。一方蹶速も蹴り技を得意としたネーミングにしか見えない。


とはいえ日本書紀の話通りの勝負があったわけではなかろうし、相撲に限らず勝負事は吉凶を占ういわば天意を問う行為なのだろう。田舎の祭りで紅白に分かれた綱引きなどが行われるが、赤が勝ては豊作、白が勝ては大漁とどちらでもいいように設定してある。殺してしまうような勝負はいい勝負とは言えないのであろう。
惟高・惟仁親王の即位争いに関しては、すでに大きな権力を握っていた藤原氏に紀氏が対抗できなくなっていたことを思えば、惟仁の勝は当然で、くらべ馬の相撲のとしていたはずがない。ただ大力、大男の紀名虎が負けるのも古代からの名族、紀氏の没落を天の意とするものか。古代からの名族という意味で紀氏に近いはずの伴氏が相撲人として出てくるのは、藤原氏についたという意味か、もっとも伴善男は応天門の変で追放されてしまうのだけれど。

相撲の資料館である「けはや座」は当麻時の仁王門から真直ぐ東へ行く道沿いにある。

 蹶速塚

 鉄砲柱

 土俵



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