物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

愛発 (敦賀市疋田)

2022-01-31 | 行った所

不破・鈴鹿・愛発の関を古代三関(さんげん)と呼ぶ。壬申の乱(672年)で大海人皇子が不破道を塞ぎ、大友皇子近江朝廷側が東国に出られないようにした場所が不破の関になったという。三関は8世紀には機能していたが、平安時代に入ると実効性を失い、形式だけのものとなる。特に愛発関は早く廃絶し、三関も不破・鈴鹿・逢坂山を指すことも多くなる。
愛発関の場所も諸説ある。
 高島歴史博物館展示パネルの一部。
敦賀市公文名に芋粥発祥の地の看板を掲げる天満宮がある。

道真と共に、利仁将軍こと藤原利仁を祀っている。芥川龍之介の「芋粥」の主人公で元の話は「今昔物語」で敦賀の豪族の婿になっていた利仁が京都でのさえない五位の上司を敦賀に連れて行き大御馳走をする話だ。
この天満宮の付近が利仁が婿に入った敦賀の豪族藤原有仁の館跡らしい。神社の宮司さんが出てきていろいろ説明してくださったのだが、彼に言わせると利仁たちはマキノからまっすぐ北上する道を通って、敦賀に出たそうだ。愛発の関もあったという。高島の史料館の地図の真ん中の愛発関?に当たるのだろう。確かに公文名あたりに出るには最短距離ではある。近くを黒河川がほぼ南北に走り、川沿いの道があったのかもしれないが、地図をにらむ限り現在車で通れる道はありそうにない。松原駅が公文名あたりに比定されれば有力な候補地かもしれないが、今のところ松原駅・松原客院の場所はわかっていない。
西側の愛発関?の場所は若狭道で北陸道の関とは思えない。
結局東側の愛発関?が最有力だ。なんといっても地名に「愛発」を残すこと、現在に至る交通の要衝であることは大きい。また琵琶湖の水運によって塩津に至れば、自然、道は、塩津-深坂-愛発-敦賀になるであろう。


敦賀から国道8号線を南下していく。161号と重複しているようだが、疋田で8号線は東へ、木ノ本へ向かう。161号は南に、湖西道路へと道は分かれる。その付近に愛発の案内板があった。だいぶ傷んでいて見難いがだいたいのところはわかる。
*案内板
*案内板の前から東方向 手前の道が161号線、左奥が8号線になる。
愛発関がもっともその機能を発揮したのは藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)でだろう。天平宝字8年(764年)のことである。孝謙天皇とその母光明子の信頼を得て台頭した仲麻呂だが、光明子の死、道鏡の登場により権力に陰りが出る。兵を集め軍事力で政権掌握を図る。反乱当初は太政官印も持ち、優勢とみられていたが逆転され殺される。
 ウィキベディアから
奈良から宇治を経て近江国衙に入り、東国・北陸の兵も集めるつもりが、瀬田橋を落とされ、国衙に入れなくなる。越前に息子がいたので合流しようとするが、孝謙側は先んじて越前に兵を送り、息子を殺し、愛発の関を固める。北陸に向かった仲麻呂は関を突破できずに、湖西に戻り、三尾山に陣を敷くが、敗れ殺された。斬られたところを勝野の鬼江という。
  勝野の鬼江(現在乙女が池という池になっている)、後ろが三尾山で壬申の乱でも戦場となっている。

愛発のイラストの案内板の後ろが愛発の集落となる。
*宿場らしい雰囲気がある。水路が舟川

愛発舟川の里展示室がある。
敦賀湾の最南端から琵琶湖の塩津の最北端まで、20キロ弱しかない。しかも両側ともほぼ南北に流れる川がある。

この川と川をつないだら船で大量輸送が可能になる。確かにそうなのだが、実現は実に困難なものであったというほかない。

愛発(あらち)」は荒地・荒路であろう。川と言っても渓流のようなもの、しかも間の山は険しい。

 年表の最初は平安時代1666年ごろとあり、清盛が息子重盛に運が開削を命じたが困難で中止したとある。ここで清盛に会うとは思ってもいなかった。さすがに兵庫の港湾のようにはいかなかったようだ。大谷刑部や河村瑞賢も考えたという。物資の集積地敦賀の荷を一気に琵琶湖を通して大津まで、確かに魅力的に見えただろう。しかし瑞賢は運河開削の困難を見て取ると西回り航路の開拓の方へ動く。航路は長いが、日本海側の荷物を一気に大阪まで運べる。これでは太刀打ちできない。江戸時代を通して何度か運河開削の願いでがあったが、反対も多く立ち消えになっていく。反対は馬借などの陸運業社だったのだろう。


それでも幕末になってようやく異国船来襲に備える京都への糧道確保のためとオカミは腰を上げた。当時疋田の辺りは小浜藩で所管で奉行は小浜藩三浦勘解由左衛門がなり、敦賀から疋田への舟川が整備された。
 資料館に加賀藩の高低差を示す測量図があった。何故加賀藩かというと湖北に飛び地を持っていた関係らしい。なかなかの高低差である。右は敦賀で左が塩津。県境の深坂峠で急激に高度が挙がっているのがわかる。それに琵琶湖面と敦賀湾の海面にもかなりの落差がある。二十八丈七尺四寸だろうか、80メートルを超える水面差を克服するには堰がいくつ要るのだろう。当然計画されてはいたと思われるが、この運河が琵琶湖側へ抜けることはなかった。
集落を流れる舟川の流れは驚くほど速い。

明治になると鉄道の時代がやってくる。長浜-敦賀間が開通したのは1882年(明治15年)のことだというから早い方だろう。柳ケ瀬トンネルが難工事で当初は徒歩の区間があったという。敦賀から船でロシア経由ヨーロッパまでの国際線があったという。福井までの延伸も難工事を極め、スイッチバックという手法で山を登る線だった。北陸トンネルができて廃線になったが、今庄から敦賀にかけて鉄道遺跡が随所にある。
疋田付近には現役の勾配緩和施設がある。鳩原ループだ。これは1964年、東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が走った年だ。
勾配の大きな土地で、線路をループ状に一周させて線路を敷き、勾配緩和をしているのである。


ゆりかもめは 芝浦ふ頭を出て、レインボーブリッジを経てお台場に向かうが、ブリッジに乗る直前ぐるりとループを回る。これを経験している人は多いだろう。ゆりかもめは窓から外を見れば、線路がループしているのが見える。北陸線ではうっかりしているとよくわからないが、車内で車掌さんが案内してくれることもあった。今はどうだろう。

 

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街道に沿って 福井城下から鯖江まで

2022-01-30 | 行った所

九十九橋を南へ足羽川を渡る。

 まっすぐ行ってすぐの久保町の信号で左手に橘曙覧生家跡の碑がある。

 そこを東に向かう。次の信号は左内だ。もちろん橋本左内から採った町名だ。近くに左内公園があって左内の像と墓がある。右に行けばすぐ愛宕坂、足羽山に登り口だ。道なりに足羽山の東を進む。二つ目の信号を左へ曲がる。ほどなくフェニックス通と合流する。福鉄の電車が走る通りだが、次の新木田の交差点で電車は左にそれていく。幅を狭めたフェニックス通を南下していく。100メートルほどで木田の一里塚がある。と言っても何ほどかの空き地に案内板があるだけだが、奥は世直し神社とある。

*松本荒町の一里塚がどこかわからない。中荒井の一里塚まで36町は普通で松本までの24町は少し間隔が近いようだ。

木田銀座が見えてくる。

 松岡屋さんという呉服屋くらいからフェニックス通から分かれた道に入るが、間もなくまた合流する。その後またY 字に分かれる道を右へ入る。そのまま道なりに狐川を渡り、しばらく行くとショッピングタウンベルに突き当たる。仕方がないのでベルの裏を進む。
江端川を渡る。玉江橋という橋だ。


道のカーブがなんとなく旧街道っぽい。下荒井から中荒井の集落を抜けようかというところに一里塚があった。


田んぼが広がってくるが、この道とほぼ平行に走っているフェニックス通はこの辺りは車のディーラーが軒を並べているはずだ。

 麻生津まで来た。ここは宿場だ。
 本陣跡
 朝むつ川に架かる朝むつ橋

 芭蕉と西行の碑

そのまま街道らしさのないでもない道を南下。やがて上江尻町でフェニックス通に出る。フェニックス通はここで西循環線と分かれ、つつじ通りと名前を変え鯖江を南下る。

 旧北陸道はフェニックスから斜めに東へ入る道になる。

 間もなく浅水川で、橋に北国街道の表示がある。
  鳥羽橋から南方向に続く道。

11キロ少々で右手に兜山古墳が現れる。直径70メートルの大きな円墳だ。てっぺんに神社があり、埋葬施設などは調査されていないが5世紀頃と比定されている。

兜山の南数百メートルに小高いところがあり森のようになっている。神社がある。北陸道はその脇を通るが、そこに案内板がある。

 少し変わったアジサイが咲いていた。


鯖江藩の中心はここから3キロ程南の旭町で陣屋跡がある

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城下町福井

2022-01-26 | まとめ書き

福井市街地は1945年の戦災、1948年の大震災で破壊されつくし、それ以前の面影を残すところは多くはない。

城下町の面影を残すと言ったらやはり城址であろうか。
*石垣 堀は内堀で内堀以外は埋め立てられた。
石垣の中にあるのは県庁・県警といった建物だから普段行きたくなるところではない。だがお殿様やらお役人様のいたお城など、昔から庶民とは縁のないところだったのだろう。
石垣は1980年代前半に修復された。震災で崩れ、それまで放置状態だった。

藩主の別邸だったという養浩館(お泉水屋敷)庭園も修復されたのはその頃だろう。

それまで築地が破れ、庭は荒れ放題、水は淀み、ザリガニがたくさんいた。
 修復されてみればなかなかいい庭だった。コンパクトな中に趣あり、街中であることも忘れられるようなところだ。建物が池に大きく乗り出すように作られているので、涼やかだ。

石垣や庭園だけでなく、あちこちの門や橋も復元され、案内板の設置も進んでいる。
 復元された御廊下橋
橋を渡って左の石垣内との間が山里口御門でこれも復元されている。

 堀脇の案内板の一つ

*舎人門は復元されている。外堀と城下の間の門だが、現在舎人門の南に郷土歴史博物館が建つ。東に養浩館がある。
加賀口門と桜木門は案内板だけだ。
*加賀口門は北陸道の城下への北の出入り口だ。
 桜木門案内板はアオッサという建物の東側にある。この建物内の桜木図書館はこの門の名に因んでいる。

城下の飲料水を賄うため整備された芝原用水(福井市NHK前通、国際交流館前付近)↓



福井の城下の基本設計は柴田勝家の北の庄の街作りにあることは知られているが、北の庄がいきなり松平家の城下となったわけではない。

 北の庄城址(柴田神社)

勝家滅亡後は丹羽家、次いで堀秀政、堀秀政死後は子へと渡ったが、その後、小早川氏、青木氏が領したという。彼らは越前全体どころか勝家の領地だったところ全部を領したというわけでもないようだ。越前国内に領地を持った武将で有名どころでは、敦賀の大谷刑部、大野の金森長近、府中の堀尾可晴などがいる。
彼らの痕跡を見つけるのは容易ではないが、堀秀政の墓は福井市街地にある。フェニックス通を南下、足羽川を渡り、しばらく行くと長慶寺という寺がある。墓はここにある。
 長慶寺門 福井市西木田2丁目 フェニックス通西側
 堀秀政墓

関が原合戦を経て、結城秀康が北の庄へ入る。以後北の庄は越前松平氏の城下町として存続することになる。
結城秀康は家康の次男として生まれるが、なかなか父子の対面もなされず、兄信康のとりなしで漸く対面がかなったという。人質同様に秀吉のもとへ養子に入り、秀吉が男児を得て後は結城家へ養子に出される。家康の跡は三男秀忠が取る。なかなかの生い立ちであるが、武将としての器量は一流であったという。
 福井城石垣の中、県庁前にある秀康像。石造という材料の制約からか、秀康の脚や胴に埴輪のような硬さがある一方、馬には動きが見られ、どこかアンバランスな印象がある。
秀康の福井城は、勝家の北の庄城を大幅に改築したものだという。
*本丸復元図

*天守図

秀康の墓は足羽山下の運正寺にある。

秀康が34歳で死ぬと、わずか13才の忠直が越前68万石を引き継ぐ。菊池寛の「忠直卿行状記」でめちゃくちゃの暴君と描かれた忠直である。決して馬鹿ではなかったと思うが、家康の孫という意識が強すぎ、驕慢な言動があった。まさか本当に妊婦の腹を裂いて喜んだとも思われないが、越前騒動で家臣団を抑えられず、江戸幕府に付け込まれる隙があった。隠居を命じられ、大分に配流となった。北の庄へは忠直弟の忠昌が越後国高田移封した。忠直長男は高田藩へ移ったが、その子孫は美作津山へ移動している。
この忠直が福井にいたころ、一人の天才画家が畿内から福井へ移住した。卓越した技量を持ち「奇想」を描き、また浮世絵の祖と言われる岩佐又兵衛勝以(かつもち)である。信長に反抗した有岡城主荒木村重の遺児である。信長に攻められ籠城、村重自身は城から脱出したが、一族皆殺しの憂き目にあう。又兵衛は乳飲み子で乳母の機転で脱出したという。40代からの約20年を福井で過ごした。スポンサーであった可能性の高い忠直のもとには複数の又兵衛の絵があって不思議はないが、配流を経て散逸したのであろうか。
又兵衛の墓は福井市松本3丁目の興宗寺にある。又兵衛は江戸で死んだが、遺言により墓は福井にある。
*又兵衛墓、ただし移築されているらしい。

又兵衛の代表作とされる「洛中洛外図屏風(舟木本)」「山中常盤物語絵巻」「浄瑠璃物語絵巻」などの顔料は大変高価なもののようである。また製作は工房を前提としているだろう。画家の移住と言っても会社の移転にも等しいものだっただろう。絵具・絵筆・画布・表装・・・そうしたものの入手・手配が困難であれば移転はかなわなかったろう。

古くから商工業が栄えたためか、老舗と呼ばれる店も多い。
これは2018年に福井県が作成した創業150年以上の老舗マップの一部である。

老舗チラシ.pdf (fukui150.jp) ←元のPDFファイルへ

ただ一部の例外を除くと江戸時代でも末期になってから以降のものが多い。しかし、幕末・維新を乗り越え、更に昭和の大戦・敗戦を乗り越えてきた老舗には敬意を払う。

幕末期の福井藩では、藩主松平春嶽(慶永)が幕政改革の道を探り、伊達宗城(宇和島)・山内容堂(土佐)・島津斉彬(薩摩)と共に幕末の四賢侯と呼ばれた。幕政改革に乗り出す以前に、藩政改革として優秀な若手の登用に努め、横井小南を招聘したりしている。
この頃活躍した人達に、鈴木主税・中根雪江・橋本左内・由利公正などがいる。

 橋本左内住居跡は福井市春山2丁目にある。左内は春嶽の懐刀と言われた俊英だが、安政の大獄で死んだ。

坂本竜馬ゆかりの地などもあるがそれはまた別の話だろう。

幕末を生きた福井人で二人取り上げておく。

笠原白翁(良策)、彼は町医者である。藩医ではない。父も町医者であった。はじめ漢方を学んだ。江戸に遊学もして福井市木田で開業。その後蘭方を知り、京都でも学ぶ。天然痘の予防として牛痘を知り、藩主松平春嶽に入手を願う。最初の上申から4年後、長崎から京都に入った痘苗を福井へ持ってくる。当時は痘苗は人から人へと種痘を繰り返すのが最も安全な方法で、白翁は種痘した子供を連れていた。ルートは栃木峠越えであった。おりしも冬に向かい、峠道は雪に閉ざされていたという。一歩間違えれば全員遭難して無謀の誹りを免れなかったであろう峠越えを決行した一行は何とか福井城下にたどり着く。しかし、彼の困難はここで終わりではなかった。藩医たち(当然漢方中心)が民衆の無知をあおる形で、種痘を貶めた。笠原は必死で藩に嘆願する。松平春嶽はそれに応じた。そこにはコロナ禍の医系技官に爪の垢を煎じて飲ませたいほどの笠原の気迫があったのだろう。種痘、すなわちワクチンの接種であり、ワクチンは漢語で白神となり、白翁の名は白神に由来する。白翁は接種した一人一人にカルテのようなものを詳細に書いているらしい。彼は科学者であった。

  

笠原白翁とも親交があった橘曙覧は歌人である。1994年クリントン大統領が曙覧の歌を引用し、特に知られるようになった。山上憶良を彷彿させるような歌も詠むが、留学生で基本エリート官僚だった憶良よりはるかに年季の入った貧乏人であった。生家は商家だが嫌気を指して弟に譲る。趣味に生きたような曙覧も妻子とともにともかく生きることができたのだった。寺小屋の月謝、門弟の謝礼で細々と暮らす曙覧を春嶽は召し出そうとするが拒絶している。陋屋を黄金屋と称する諧謔を生きた。楽しみは・・で始まる「独楽吟」が知られる。クリントンが言及したのもこれである。
*愛宕坂 足羽山の登り口の一つ。途中に黄金屋の跡と共に記念館もある。


*曙覧生家跡 福井市つくも1丁目

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越前北の庄(福井市)

2022-01-22 | 行った所

柴田神社は北の庄城址にある。

 祭神は柴田勝家。

 如何にも武人の勝家像がある。ここは勝家が作った城の跡だ。

 遺構が少しと資料館もある。

  
勝家は出自は定かならぬといいながら織田家の家臣で、信長の父信秀に仕えていた。信長と弟信行の家督争いには、始め信行に与し、後に信長方に転じている。自分に逆らうものに容赦なかった信長だが、勝家を見込んだところがあったのか重用している。羽柴秀吉との比較から武辺一辺倒の荒武者で、頭が固い愚か者扱いされるきらいがあるが、城下町を作り、街道の整備にも意を用いている。突き抜けた異才であった信長のすることにもよくついて行っているし、秀吉よりは20歳近くも年長であったらしい勝家は同世代の武将たちの中ではむしろ柔軟な面もあったのではないか。

北の庄と言われ後に福井県の県都となる福井市だが、この北の庄の辺りがどんなものであったかよくわからない。

南北朝時代、越前を舞台に南朝の新田義貞、北朝の斯波高経が激しい戦いを繰り広げた。新田勢の拠点として、九頭竜川の北に石丸城があったことが知られる。義貞弟の脇屋義助の居館だったという。当然斯波方の拠点もいくつかあっただろう。太平記は7つを数えるが、場所は確定されていない。北の庄付近にも何か無かったろうか。新田義貞は灯明寺縄手で死んだ。灯明寺町というのは九頭竜川と足羽川の間だが、九頭竜川の方にうんと近い。江戸時代に義貞の兜が発見されたところとして「新田塚」もあるが、もとよりそれが義貞の兜であった可能性は低い。縄手というからには辺りは深田が広がり、馬を駆けさせられる場所は限られていただろう。

九頭竜川のもっと河口に近いところに黒丸城というのがあった。ここは斯波のものだったらしく、後に朝倉氏も支城として使った。一向一揆をにらみ、三国湊に上がる物資を九頭竜川・足羽川の水運での運搬にも関与しただろう。北の庄は古来からの北陸道が北へ向かって走り、足羽川とクロスする。水運の中継所、津のようなものかあったかもしれない。何か砦のようなものでもあったのか。


越前の戦国大名朝倉氏の本拠は一乗谷だ。
柴田神社の数百メートル南を足羽川が流れている。概ね東南から西北に向かって流れるこの川に沿うように国道158号線が走る。別名美濃街道。福井県大野市を経て、岐阜県郡上市白鳥へ出るルートだ。近年中部縦貫道として整備されつつあるが、大野までの道は永平寺町・勝山市を回り、従来の美濃街道とは外れる。
足羽川の支流の一つが一乗谷川だ。図でもわかるように細い谷間の里だ。普段住まう館は谷に、城砦はその裏に控える山にあった。このような形は珍しくない。浅井家の小谷城などは同じような立地で、谷は小谷というだけに一乗谷より狭い。
一乗谷に館を構え、家臣団を住まわせたのは、朝倉孝景(英林、敏景とも)、朝倉家最後の当主となった義景よりも5代も遡る。孝景は、斯波家の守護代に過ぎなかったが、応仁の乱で武名を上げ、越前を平定し、戦国大名への道を切り開いた。孝景が制定したという「朝倉孝景条々」(朝倉敏景十七箇条)は分国法の内もっともはやい例に数えられる。朝倉家の不幸は孝景以上の人物が出なかったことだ。比肩するのは孝景末子宗滴教景で、分国法は宗滴教景の制定だという人もいるが、彼は当主にならなかった。義景が家督を継いだのは宗滴晩年のことだ。
一乗谷は織田信長軍の侵攻により灰燼に帰し、朝倉家は滅ぶ。
その灰燼の後、町として顧みられることはなく、田畑に帰す。それが遺跡として残った理由の一つだ。町として上書きされ、近代以降の建物が建ってしまえば、遺構の調査さえ難しくなる。今一乗谷は朝倉氏遺跡として、当時の城下町の様相が明らかになってきている。御館様が住み、家臣団が居を構えれば、商工業者も住み着く。その街並みが復元されてある。

特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡 特設サイト (fukuisan.jp)

北の庄の立地はそれとはまったく異なるものだ。平地に石垣と天守をそびえさせた近世の城だ。足羽川も堀として利用したものだろう。北の庄の城下には勝家の家臣団が住んだのはもちろん、寺や商人が移住を即し、楽市が開かれた。信長の真似、といえばそれまでだが、誰にでもできたことでもないだろう。ルイス・フロイスは北の庄に二度訪れ、城下が安土城下よりも倍も広いと書いている。


北の庄城址にあった城の復元図は五層の天守だが、九層だったという話もあるようだ。

 
この天守で天正13年(1583)春、賤ケ岳の戦いに敗れた勝家がお市の方と共に火を放ち、自害する。ただ城下町が灰燼に帰したわけではなさそうだ。


勝家の城下町北の庄復元図と、結城秀康の北の庄入り以来松平が城主であった城下町福井の図の基本構造はほとんど変わらないようだ。
南から足羽川を九十九橋(大橋)で渡って城下に入る。商業地の呉服町を北進し、右に曲がり、武家が多いところをジグザグに東進、松本に至って北へ曲がる北陸道がメインストリートだ。

九十九橋(大橋)は半石半木の奇橋として知られる。

  これは勝家が作ったものとされる。それ以前に橋はあったようだが。半木なのはいざ敵に攻められた時、木の部分を落として敵を渡らせないようにするため、と聞いたことはあるものの、勝家が賤ケ岳から逃げ帰ったとき、落としたとは聞かないから多分違うのだろう。

 九十九橋の橋脚


城下を抜けて北陸道を北進すると、九頭竜川に行き当たる。

 この川にかかる橋は舟橋だ。これも作ったのは勝家とされる。舟橋の船をつないだ鎖は、刀狩で取り上げた刀を鋳なおしたものだという。

 


朝倉を滅ぼし、勝家の越前支配がすんなりと始まったわけではない。
信長は朝倉旧臣で信長方についた前波吉継を越前守護代にするが、他の朝倉旧臣が前波を嫌い、一向宗と共に一揆を始める。前波は一揆に殺される。
信長の宗教戦争は苛烈だ。比叡山の焼き討ち、伊勢長島・大阪の石山での合戦は有名だが、越前の一揆退治も凄惨を極めた。
武生市五分市で発掘された文字瓦はその一端を伝える。
この瓦では前田利家の所業となっている。前田利家は不破光治・佐々成政とともに一揆平定の褒美として府中三人衆となっている。不破や佐々、おそらく柴田も同じようなことをしていたのだろう。またしなければ信長に殺される。

 ▲天正年間の府中付近の一揆を示す文字瓦
        文字瓦には、5月24日に一揆がおこり、信長
        配下の前田利家が一揆勢を約1000人生捕り
        にし、はりつけや釜あぶりに処したことが刻ま
        れている。  武生市 味真野史跡保存会所蔵 図説 福井県史より https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/B22/B222.htm

府中は現越前市になる。北の庄城跡からは20キロ近く南になる。律令時代国府が置かれたのはここだ。木曽義仲が倶利伽羅・篠原の合戦に勝ち、北陸路を南進する時、ここで覚明が延暦寺に牒状を書き送っている。「木曽、越前の国府について、家の子・郎党召し集めて評定す。」(平家物語第7巻「木曽山門牒状」)
越前国府は碑はあるものの遺構は確認されておらず、場所は確定されてはいないが、越前市府中近辺とみられる。府中は中世以降も一貫して都市であり、現府中には市役所もある。朝倉遺跡のように広範囲な発掘は望めない。

 府中から南下し、畿内や尾張に出るには、三つのルートがあるが、いずれも冬季に軍隊を進軍させるのは困難な積雪地帯の峠越えだ。

 この内栃木峠越えは勝家が開いたルートだという。信長が居た安土に少しでも早く駆け付けられるように道を整備したのだという。木の芽峠越えで一旦敦賀に出るのまどろっこしく感じたのだろうか。
ちなみに山中峠が一番古く、大伴家持が通ったルート、木の芽峠は平安時代初め頃開かれ、父の赴任先越前府中に同道した紫式部も通ったという。義仲も通ったのだろう。

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尾張あちこち(桶狭間の頃)

2022-01-19 | 行った所

桶狭間とは文字通り狭い窪地のようなところかと思っていたが、どうやら違うらしい。今川義元が陣取っていたのは桶狭間山という小高いところだったという。確かに敗れはしたが、東海一の弓取りと言われた武将が、狭い窪地に陣を敷くはずもない。名古屋市緑区に桶狭間という地名があり、桶狭間公園というのも行ったことはあるが、実際には、公園から西南に名古屋と隣接する豊明市の栄町一帯が桶狭間と言われたところらしい。豊明に前後という地名があるが、桶狭間の戦いで、獲った首を前後に並べたところ、という伝承があるそうだ。
名古屋と豊明の間はほぼ一体化した住宅地で、元の地形はよくわからないが、アップダウンのある丘陵地のようである。

今川義元は駿府を出立し、桶狭間の戦い前夜は沓掛城にいた。

 豊明市内の桜の名所、なかなか良いところである。

沓掛城から桶狭間までは4~5キロ程だろうか。軍隊の行程としては短すぎる気がするが、激しい雨に早い休憩となったのか。

一方の信長は清州城にある。

 平成になってから作られた清州城模擬天守

清州から桶狭間は20キロほどあるだろうか。信長は中間地点となる熱田神宮で戦勝祈願をしている。

戦いに先立ち義元は尾張の城をいくつか落とし、今川方の武将を入れた。織田方はその周りに砦を築き対抗する。大高城は後に徳川家康と名乗る松平元康が、兵糧を入れ、自らも入って守っていた城だ。

大高城址と丸根砦に行ってみた。


どちらも住宅地に囲まれている。

 丸根砦は特別保全地区になっていて、大高城との関係がわかる説明版があった。お互いを警戒しつつ対峙していたのだろう。

 

近くに鷲津砦もあったはずだがよくわからなかった。
大高城は一部公園になっている。

  大高城址

鳴海城も公園になっていた。

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大津あちこち

2022-01-17 | 行った所

大津歴史博物館

 エントランス前の琵琶へ向かう眺望がいい。

大津京や京へ向かう街道、琵琶湖の水運など興味深い展示が多いが、ロビーにこんなものもある。

 

福井県敦賀市もまた1945年の7月から8月にかけ何度かの空襲を受け、大きな被害を出した。その中の1回は原爆の投下実験だったという。これだったのだろう。敦賀でも東洋紡績の工場が狙われている。地方都市の工場がターゲットだったのだろうか。武器弾薬の類を作る工場ではなかったはずだが。

屋外展示の車輪石と穴太遺跡のオンドル。

 

 
朝鮮系の遺跡と知られている。非常に合理的なものだろうと思うのだが、日本で普及しなかったのは何故だろう。
穴太の石積みは技術集団として戦国時代終わりごろには城の石垣づくりに知られるが、渡来系のものだったのか。

渡来人歴史館

展示は人類史から始まる壮大さである。日韓(日朝)関係のみならず世界史的に見ていこうという意図だろう。古代中世の日本の歴史には東アジア情勢が不可欠に絡まるのに、知らなすぎることが多い。参考になり、かつ面白かった。ソウルが城砦をめぐらした中にある都市だと実は初めて知った。
近現代史は「加害者」側として辛いものがある。
知ろうとしない、学ぼうとしない怠惰な者たちのみが、空疎なヘイトを口に出して平気だ。


矢橋帰帆

近江八景は中国の瀟湘八景をそのまま無理やり当てはめたもののようで、道理でなかなかぴんと来ず、覚えられないのも道理というものだ。
石山秋月・勢田夕照・粟津晴嵐・矢橋帰帆・三井晩鐘・唐崎夜雨・堅田落雁・比良暮雪

 http://www5e.biglobe.ne.jp/~komichan/oumi8K/oumi8kei.html から画像拝借

矢橋(やばせ)は近江大橋を東岸へ渡り、北へ行くと直ぐだ。湖岸からわずかに離れ島のようになっている。琵琶化東岸には安土の西湖(にしのうみ)のような内湖がたくさんあったというが、その名残の一つだろうか。

 矢橋から見た比良

大津歴史博物館の敷地は南で三井寺と接している。

 長柄公園入口の案内板より
三井寺の南に長柄神社があり、その脇から小関越えの道がある。旧東海道の逢坂越えはもう少し南から行く。

 案内板の地図は北が下になる。
札ノ辻とはいえ、何もそれらしい物はない大通りの交差点だった。

 とはいえ東行きが東海道、まっすぐ奥の道を行けば東海道を東に下る。京へ行くには写真の右手へ、南に登って行き、逢坂山を越えるのだ。

 西行きが西近江路とも呼ばれた北國街道となる。

  近くには蓮如道、蓮如の御座所だったところや代官所跡があった。

札ノ辻を北へ下ると琵琶湖に出る。

 浜大津の大きな地下駐車場だが、大津城のあったところらしい。


 札ノ辻から東への東海道は細い道が通っているが、途中で分からなくなった。

石坐神社前の東海道表示

 

粟津晴嵐から採ったであろう晴嵐町、粟津の戦いは義仲最後の戦いだ。

 近くに今井兼平の墓もある。

瀬田唐橋を渡る

 唐橋からの比良

唐橋を渡って、旧東海道は1号線に吸収されたか、またわからなくなり、一里山の山の神遺跡へ行く途中で見た標識を探す。

道なりにこれだろうという道を進むと弁天池だ。

 

野路に入る。大津を出て草津市になったらしい。


「雲雀揚がれる野路の里」平家物語の「海道下」の野路はのどかな田園の里だが、全くの住宅地の道だ。

南草津駅の南付近でまた1号線と一緒になったようだ。

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南滋賀廃寺

2022-01-15 | 行った所

大津京の中心線をまっすぐ北へ伸ばすと南滋賀廃寺がある。

 実際には近江神宮から一方通行の細い道をたどってやっと行き着いたのだけれど。

高台なので琵琶湖も望める。

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大津の御霊神社

2022-01-15 | 行った所

京都で御霊神社と言ったらその祭神の筆頭は決まっている。井上内親王(大皇后)か早良親王(崇道天皇)
井上皇后は桓武帝の父光仁帝の皇后だ。聖武の娘で孝謙(称徳)の異母姉、伊勢斎宮を経て、白壁王に嫁す。白壁は長く皇統から離れていた天智系の皇子で天智の孫にあたる。既にかなりの年配で成年に達していた息子たちもいた。井上内親王は皇后に立てられ、息子他戸親王は皇太子だ。ところがある日、この親子は夫である光仁帝を呪詛したとしてとらえられ、五條(奈良県)に幽閉され殺される。
早良親王は桓武の同母弟、桓武即位後皇太弟になるが、長岡京遷都の責任者藤原種継暗殺に加担していたとして捕らえられるが、抗議の断食自殺をする。
疫病が流行したりすると、彼ら恨みを飲んで死んだであろう者の祟りを恐れ、御霊と敬い鎮まることを祈る。御霊と祀ること自体自分の後ろめたさを吐露することではないかと思われる。

大津の御霊神社は弘文天皇(大友皇子)を祭る。

しかしながら一方的に無実の罪を着せられ、殺された者たちに比べると、壬申の乱で敗れ死んだ大友皇子は、少なくとも二つに割れた勢力がぶつかり戦って敗れたのであるから、不運は嘆くとも祟るだろうか。殺した側もそこまで恐れるだろうか。

 近江国庁址北側にあった御霊神社

 大津市鳥居川町(瀬田唐橋西)にあった御霊神社

鳥居川町御霊神社の少し北側にも御霊神社があった。いずれも初詣や七五三も普通に行われるようで、少なくとも現在、御霊という意味は薄いようだ。

 こちらは石坐神社

てっきりイワクラ神社と読むのだと思った。イワイ神社だそうだ。
祭神は、天智・大友・伊賀宅子媛である。伊賀宅子媛は大友の母だが、伊賀の豪族の娘らしく「卑母」と言われる。
天智・天武の兄弟の母、宝皇女(皇極・斉明天皇)とは比ぶべくもないというわけであったか。

大津市の坂本の北に木の岡本古墳というものがあり、伊賀宅子媛の墓だという伝承があるそうである。

 丘陵地で高級住宅街の様相なのだが、丘陵全体古墳群かと思われる。一部が下坂本陵墓参考地として宮内庁の管理だ。

  近くのあちこちに参考地の飛び地もある。

古墳の時代も合うとは思えないし、なぜここに伊賀宅子媛の伝承があるのかわからない。

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大津京と福原京

2022-01-14 | 行った所

大津京と福原京は時代も背景もまるで違う遷都だけれども、意外に似ているのではないかと思うのはこの歌だ。

「玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの 御代ゆ 生れましし 神のことごと 
 栂の木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを そらにみつ 大和を置きて 
 あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離る 鄙にはあれど 
 石走る 近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の命の 
 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる 
 ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも」

「ささなみの 志賀の辛崎 幸くあれど 大宮人の舟 待ちかねつ」 
「ささなみの 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも」
 
柿本人麻呂の長歌はともかく、反歌二つを知る人は多いだろう。

「さざなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな」

平忠度が都落ちの際、師の俊成に託した歌の一つだが、明らかに人麻呂の反歌を本歌としている。そして彼らは長歌の方もよく知っていて、代々の大君が都としていた素晴らしい大和を捨てて近江に都を移した天智天皇の大津京が5年で荒れ果てたことを嘆くこの歌に、桓武帝以来400年の都だった平安京を捨て、清盛が遷都した福原を重ね合わせていたのではないか。忠度は単に人麻呂の歌言葉をまねただけではないのだろう。

平家物語第5巻「都遷(みやこうつり)」治承4年(1180)6月、遷都がうわさされてはいても、まさかあるまい、と思っていた都人の期待を裏切り、あわただしく遷都が実行される。「都うつりは是先従なきにあらず」と神武東遷以来の歴代の宮の変遷を長々と語っているのだが、不思議なことに聖武帝の難波だ、紫香楽だ、恭仁だと移り歩いたことは書かれない。元明から光仁まで奈良の都とあるばかりだ。そして長岡京を経て平安京に移ったことが書かれ、この地がほめ上げられる。桓武帝は平家の先祖に当たるのだから特に尊重すべきと、帝でも移されぬ都を移す清盛を非難する。
短歌が二首あがっている。
「ももとせを 四かへりまでに過ぎきしに おたぎのさとの あれやはてなん」
「咲きいづる花の都をふりすてて 風ふく原のすゑぞあやふき」
特に二首目は政道批判の落書きの狂歌のようだ。

福原京はさすがの清盛も周囲の反対と相次ぐ反平家の挙兵の相次ぐ中、京へ都を戻す。新都福原は半年余りの都であった。そして翌年、新院高倉が若干19歳で死去し、続いて清盛も急死する。

大津京・近江京・志賀の都、どの名称が正式のものか知らない。
天智天皇による遷都は唐・新羅と戦った白村江の敗戦を受け、断行されたという。瀬戸内海沿いには屋島城(やしまのき)・鬼ノ城などの防衛施設を作り、唐・新羅の襲来に備えた。こちらも海を越えて戦ったのだ、向こうも簡単にやってこれるだろう、本土決戦の決意と恐怖があったのか。大和飛鳥は難波などより防衛には有利だが、逃げ場はむずかしい。その点、大津は琵琶湖がある。「大宮人の舟 待ちかねつ」だの志賀の大わだの淀みに昔の人に会いたいというのも、案外優雅な舟遊びというより水軍への退避訓練のようなものだったかもしれない。対外防備のためと、律令制への理解がない豪族の力が強い大和からの脱出も遷都の動機だ。この地で近江令や庚午年籍など律令制の基礎が作られる。
天智は死んで息子大友と弟大海との間で争いがおこる。壬申の乱だ。大友は敗れ、大津京は廃棄される。

京阪石山坂本線の近江神宮駅西側から近江神宮に突き当たる近くまで、錦織遺跡として、何か所か発掘調査がされ、大津京の内裏のありようが明らかにされている。

  

  

大津市のこの錦織近辺は意外に平地が少ない。

  大津歴史博物館の展示パネルと模型

北へ向かって上りになるし、東に向けてはもっと急角度で上がる傾斜地だ。地図で見ると余裕ありげだが、少し歩いてみるとはっきり傾斜がわかる。これでは内裏を作るので精いっぱいで、左右に条坊を作る余裕はなかったのではないか。もっとも最初の条坊制の都城は藤原京だから、なくてもよかったのか。
福原では新都の事始めとして公卿たちが集まり議論するが、場所が狭いと地割も決まらず、泥縄ぶりを露呈している。大津京は5年間は都として機能していたのだから、福原ほどの混乱ではなかったのだろうが。

 

 

点在する錦織遺跡発掘地点を南から北へたどるようにすると、北端にシンボル緑地がある。

 

その先は近江神宮だ。 

天智天皇は漏刻(水時計)を作り、時計と縁があるとかで、境内に日時計や火時計がある。でも漏刻は飛鳥だったと思う。

 近江神宮の北西に宇佐八幡があった。戦国時代宇佐山城があったそうだ。

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山の神遺跡・源内峠遺跡(瀬田東丘陵生産遺跡)

2022-01-14 | 行った所

山の神遺跡は近江国庁址から東北へ1.5キロほど行ったところにある窯業遺跡である。また近江国庁址から南東2キロのところには製鉄遺跡である源内峠遺跡がある。

 どちらも、国府・国分寺・大津京に関係する遺跡と考えられている。


 瀬田東丘陵生産遺跡と称するが、少なくとも山の神遺跡の方は宅地化され造成が進み、高架道路が造られているので、元の地形はわからない。わずかに少し小高くなったところの斜面に窯が作られているのかと思うばかりである。

 

 大きな鴟尾が4基出たという

 須恵器

源内峠遺跡は滋賀県立びわこ文化公園の中になり、丘陵地であることは実感できる。びわこ文化公園は図書館・美術館・埋文センター・日本庭園・子供広場・ビオトープなどが広大な林間に散在する広さ40数ヘクタールという大規模な公園だ。ただ琵琶湖は見えなかった。

 文化公園内の日本庭園「夕照の庭」 瀬田の夕照からか。

源内峠遺跡はこの南の端にある。すぐ龍谷大学の敷地に隣接するようだ。

 復元製鉄炉が3基

 

 

 

 休憩場になっているが炉の復元や製鉄実験のパネルが掲げてある

 

製鉄址は山の神遺跡北方、草津の黒土遺跡もある。
窯業にせよ、製鉄にせよ、膨大な燃料がいる。すべて木材だ。この丘陵はその薪の供給源でもあったのだろう。畿内最大の須恵器生産地であった泉州の須恵村古窯跡群が衰退したのも森林資源の枯渇だという。切りまくり、燃やしまくったのだ。

源内峠遺跡の復元窯に置いてあったのはマキノの鉄鉱石だった。マキノは湖西側の湖北だ。原材料をマキノから運んだのだったら、それは必ず琵琶湖の水運によったであろう。

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