スマホを忘れて出てしまった。最近デジカメを持って歩いてはいない。それにこの頃スマホを万歩計として使っている。とほほである。
小浜の市場でいくつか買って御食国文化館をのぞいた。実は特別展示を当て込んで行ったのだが、若狭歴博と間違えていたらしい。しかし、鯖街道が面白かった。若狭街道の他にいくつも街道があったのだな。京は遠ても18里というから二日の行程か。しかし、荷を担いでの山道だからきついはずだ。
小浜城跡へ行く。京極氏が作ったらしいが、京極の後、小浜に入った酒井忠勝の整備した城だ。今は忠勝を祀った神社がある。幕閣であった忠勝はほとんど小浜にいることはなかったらしいが。
石垣に上がると北寄りの風が強い。
小浜で昼食。
敦賀へ周り、金ヶ崎へ行く。
源平盛衰記には、鵜川騒動の後白山の御輿が京へ上る道筋が書いてあり、その中に敦賀の金ヶ崎の観音堂に至る、とある。金ヶ崎の登り口に観音を祭った寺がある。
金前寺という寺で建物は新しいのだが、天平年間の創建の寺史があるらしいし、今昔物語にも登場するという。盛衰記の観音堂の候補だろう。
その近くに鉄道遺跡のランプ小屋があった。初期の鉄道では先頭の蒸気機関車は照明灯を持たない。信号灯なのである。赤と緑の信号灯の組み合わせで客車か貨物か、臨時かなどを駅員に知らせたらしい。信号灯のパワー源は灯油である。しかもアメリカから輸入していたらしい。今庄から敦賀にかけて、旧北陸線沿いに鉄道遺跡が点在するがここのものはもっと古い。鉄道がまだ敦賀までしか通っていなかった時代のものだ。鉄道マニアには乗り鉄とか撮り鉄などいろいろあるようだが、古鉄とでもいうべきジャンルもあるのかな。はまれば面白い世界だろうと思うが。
金ヶ崎は三方を海に囲まれ敦賀湾を一望できる場所である。要衝の地として古来城塞が築かれただろうことは想像に難くないが、良く知られているのは南北朝の戦いであり、新田義貞と尊良親王・恒良親王等が立てこもるが、斯波高経に包囲され落城する。義貞は辛くも脱出し、杣山城に拠るが尊良親王討ち死に、恒良親王は捕縛される。現代では桜の頃にはとても賑わう金ヶ崎宮はこの時の戦死者を祭る。
戦国時代、織田信長は大軍をもって朝倉勢の籠る金ヶ崎城及び峰続きの天筒山城を囲み猛攻する。敦賀郡司朝倉景恒は降伏する。しかし、近江の浅井の裏切りを聞いた信長は急いで撤収する。金ヶ崎崩れである。秀吉が殿を務めたという。信長勢は敦賀から小谷城のある琵琶湖東岸ではなく西岸経由で戻ったという。
金ヶ崎城は昔遠足で来たような気がする。登れば結構高いが道は整備されている。月見御殿後まで行けば眺望が効く。午前中より風は収まってきたようだが、ここではかなりのものだった。
中池見湿原へ行く。初めて行ったのだが、驚いたことに、新幹線の工事現場のすぐ近くが登り口の駐車場になっている。一応湿原をよけて敷設されるのだろう。湿原というから低地にあると思いきや、小高い山に囲まれたところに湿原が広がっているらしい。また山登りだ。しかしかなりよく整備されている。足の悪い人向けにはリフトもあるらしい。ビジターセンターがあり、湿原には木道が整備されている。古民家が移設され、一部が田圃となり、日本の原風景とでも言いたいような景色が広がる。湿原の動植物に何の知識も持たないが、気持ちいいところだった。
越前の国府はかつては越前府中といった武生にある。といっても今は武生でもない。合併で越前市と変わった。越前国府は越前市の総社付近となっている。確たる遺構が見つかっているわけではない。総社がここだからこの辺だろう、というあくまで推定地である。珍しいことではない、加賀の国府も小松市石部神社付近とはなっているが、確定はしていない。若狭国府も小浜市府中付近、とは言うもののこれも遺構が発掘されてはいない。総社があるし、この辺だろう、という見当である
木曽義仲は倶利伽羅、志保、篠原の合戦に勝利し、越前に入る。越前国府で評定する。祐筆覚明の提案により、比叡山へ手紙を送る。山門牒状である。書いたのは無論覚明。平家征伐に協力せよ、半ば脅しの書状だ。
ここ府中から南へ一山超えれば、次は近江、そして京。平家をやっつけ、以仁王の遺児、北陸の宮を皇位につける、と考えていたはずだが、それからのビジョンがあったかどうか、義仲ファンでも心もとない。
頼朝に対し義仲の兵力は遜色はなかったという。違いは文治、義仲は官僚組織を持てなかった。義仲の手勢に京都の政治を垣間見たものさえいないのだ。頼朝は14歳の少年とはいえ、京都で出仕し、位階も持っていた。三善某のように京との情報を頻繁に書き送ってくれる者もいた。義仲とは出発地点が違うのである。その差は、二人が挙兵し、お互いへ各地から人が集まり始めるとむしろ開くようである。義仲も石清水八幡で元服したというし、養父中原兼遠と京へも来ているらしい。しかし政界への伝手はなかっただろう。
数少ないというより、義仲と共に行軍する唯一の参謀格、大夫房覚明、埴生八幡での願書・木曽山門蝶状は見事な働きといっていいだろう。しかしこの後の覚明は何の働きもない。佐藤多美氏は「神祇文学として読む平家物語」の中で覚明は義仲の下を去ったのだろう、としている。実際、平家物語では法住寺合戦の後、義仲が天皇になろうか、法王になろうか、関白になろうかといった時、覚明は関白は藤原家のなるもの、と具にもつかないことを云っただけだ。そんなことを知らない義仲ではないのに。
この覚明、かなり癖のある人物だったのは確かで、興福寺の僧侶だったが、以仁王の挙兵の時の南都牒状の返書を書いた。そこで清盛入道は平氏の糟糠、武家の塵芥などと書き、清盛は激怒し、覚明は名を変えて逃げ出した。義仲の処へ来たものの覚明にとっては平家さえやっつければ、後のことなどどうでもよかったのか、と思えるほどだ。
総社大鳥居前右手の店でこの辺りのB級グルメ ボルガライスを出している。オムライスの上にトンカツを乗せソースをかけたもので見るからに腹いっぱい。
総社境内にある天神には定番の牛が寝待っていた。
近くの民家だが、袖ウダツがあるように見える。昔は旅館だったのだろうか。一応府中の宿はあったはずだ。
紫式部公園へ行く。
紫式部をしのび寝殿造庭園を模したという公園だが、この地に紫式部及び父の館跡があったとかいうわけではない。
日野山が見える。
金ぴかの紫式部像の周りに歌碑がいくつかある。
ここにかく日野の杉むら埋む雪 小塩の松にけふやまがへる
初見ではないが、意味がとりにくく、(「けふやまがへる」が「今日や紛える」と分かるまでがつらい)理屈っぽく、少なくとも私は好きな歌ではない。それに山の雪を見ても京都を思う、と言っているような都人を郷土のシンボルのように扱わなくても、と思わないでもないのだが、紫式部ともなればまた別格か。
諏訪湖を見たことがないわけではないが、諏訪大社、上社も下社も行ったことがなかった。両方とも意外に諏訪湖から距離がある。下社を目指す。
義仲の旗下有力武将で、最期まで義仲と共に戦った手塚光盛、本姓金刺、諏訪の神官の家系だという。下社に館跡があるという。
だいぶ探し回らなければならないだろうと思っていたが、駐車場にに来て車から降りて歩き出した途端、案内板があった。
遺構は残っていないようだが、きっとこの駐車場そのものが、手塚の居所だ。諏訪湖が見える
義仲は若いころから諏訪によく行ったという。金刺氏に預けられていたという説があるほどで、親交が深かった。ここへ訪れたのか。
案内板の平家物語だが、実盛のセリフ「仔細あってなのらじ・・・」の部分は「さては互いによき敵ぞ。吾殿を下ぐるにはあらず 存ずる旨あれば名乗るまいぞ。寄れ、組もう手塚。」となっている。
実盛は手塚の事を信州の名門出の武者と知っていたようだ。
駐車場を出ると下社秋宮の境内に出た。結構繁盛しているようだ。結婚式もある。
これが御柱
諏訪大社には上社・下社があるが上社には本宮と前宮、下社には秋宮と春宮、計4つの神社ということになる。御柱はそれぞれの神社の前後左右、四方を固めるように4本立つ。計16本の御柱がある、ということになる。
秋宮の資料館へ入る。一人500円も取る割に、撮影禁止だ、狭く収蔵品の整理がついておらず、展示もごたごたとしていたが、金刺盛澄の資料があったので良しとしよう。光盛の兄だ。光盛と共に義仲に従ったが、途中で諏訪大社の神事のため帰郷、頼朝に捕らえられるが、梶原景時の口利きで、鶴岡八幡で流鏑馬を披露することになる。頼朝は盛澄が気に入らなかったのか、随分な無理難題を吹っ掛ける。しかし盛澄は見事に妙技を披露しクリア。赦免される。
梶原景時は、平家方の城氏、この盛澄と見込んだ男のためには、よく仲介の労をとっている。そうそう陰険な男とは思われない。
遅い昼食のうな重で腹いっぱいとなり、春宮へ行く。同じ下社でも秋宮と春宮でも結構離れている。秋宮の方が繁盛しているようだ。
春宮前に太鼓橋があった。ここは歩行できなくしてある。長滝白山神社には小さな太鼓橋があった。大阪の住吉大社には大変大きなものがあった。どういう意味のあるものか知らないが、異様な形の橋を渡らせることで、何か結界のようなものをくぐることでも模しているのだろうか。
この近くに御柱館という資料館がある。7年に一度の大イベント、八ヶ岳の霧ケ峰から樅を切り出し、神社まで引っ張り立てる。というのだが、大変なものだ。下社を中心としたビデオ、電動で動く御柱にまたがるというサービスもある。
御柱を立てる模型
少し山へ入ったところに木落坂があるというので行ってみる。映像で見たより狭い場所に見えたが、ちょっと降りられないような坂である。ここは下社の見せ場、上社の見せ場は川渡しだそうである。
木曽福島から北上し、木曽駒を迂回するように361号線で伊那へ向かう。権平峠越え、というのだそうである。トンネルになっている。信州の道は実にトンネルが多い。それも非常に長い。
伊那に出て天竜川を下るように南下する。天竜川は大きな川だ。この辺りは木曽と比べ、随分開けたところと感じる。木曽は中山道が走り、鉄道も中山道に沿う形で敷設されたが、中央自動車道は伊那を走る。
大田切城趾は大田切川の河岸にあり、大田切川は天竜川の支流で、源は木曽山脈で西から東へ流れる。
川沿いをうまく走れる道がなく、探すのに手間がかかった。
大田切川河川敷は樹木に覆われ、城跡の碑は河川敷の樹木と田畑の間に立っていた。
錆が浮いた簡素というかいっそ粗末といった方がいい碑でこれも非常に読みにくかったが、正面に大田切城趾とあり、左右に何やら書いてある。左面は甲斐源氏の攻撃を受け城主菅冠者は自害したと、これは吾妻鑑の記述のままのようである。
「九月十日、己未、甲斐国の源氏武田太郎信義、 一條次郎忠頼已下、石橋合戦の事を聞きて、武衛を尋ね奉り、駿河国に参向せんと欲す。而るに平氏方人等、信濃国に在りと云々。傷つて先づ、彼国に発向す。(中略)則ち出陣して、平氏の方人菅冠者の伊那郡大田切郷の城に襲ひ到る。冠者之を聞き、いまだ戦はずして、火を館に放ちて自殺するの間、各、根上河原に陣す。」(「吾妻鏡』治承四年九月十日条)
右面にはびっくりするようなことが書いてあった。そのまま記すと「広保、長寶年間(1161~1164)越前(福井県)大野の城主友重の二男菅野冠者友則が平清盛に抜擢され、伊那郡上穂郷大田切に居館を構えた。この南続きに関連した地名が今も残っている。城址は洪水や崩落等のため現在では四分の一程しか残っていない。」
こんなところで越前大野に出くわすとは思ってもみなかった。大野の菅なんて聞いたこともない。帰宅後だいぶネットで探したが、菅or菅野 友重・友則に関しては何もわからなかった。この典拠は何なのだ?少なくとも今天空の城として知られるようになった越前大野城でないことだけは確実だ。現大野城がある亀山にはそれ以前にも城塞はあったかもしれないのだが、「大野城主」と呼ばれる存在はあったのだろうか。県史等ではいくつかの荘園の存在を伝えるだけだと思う。大野市史でも漁らなければならないかな。
吾妻鑑との関連でいくつかよくわからない。「冠者」は無位の若者、と理解しているのだが、友重の二男菅野冠者友則が清盛に抜擢されたのが仮に20歳とすると治承4年(1180)には40歳近くになっているはずで孫がいてもおかしくない歳である。直も冠者であるのは単に無位という意味か。越前大野の城主の息子が伊那に居館を構えられたのが抜擢か。無位のままで。
大田切城は平家の居城として、小田原城、燧(ひうち)ヶ城と並ぶ平家の重要拠点とするサイトを見つけたが、燧が城を越前大野としている。まず燧が城は越前だが大野ではない、更に燧が城は、義仲が仁科に銘じて作らせた城なのだ。それ以前にも何らかの城塞はあったかもしれないが、平家の居城を分捕ったわけではない。維盛を総大将とする平家の北国下行軍は燧が城を攻める。平泉寺斉明の裏切りにより城は落ちるが、平家の居城であったのではない。
抜擢された友則だがあっさり自害している。越前出身の菅は信濃で孤軍となったのか。
大田切城を探そうなどと予定外の事になったのは、義仲が駒ケ岳を越え、大田切城を奇襲した、などというネット記事を見つけたからだ。http://www.lhap.sakuraweb.com/minowaki/minowaki01.html
この記事の出どころは「箕輪記」宮下粛という人が天文4年(1684)に書いた本のようだ。そのままコピーする。
「箕輪の地は藤澤氏世々傳領せり
藤澤氏は福與の城にあり 其始祖は詳ならず
治承四年 [1180] 木曽義仲 木曽に勃興して 當国の源氏を催促す
爰に伊那郡大田切城主 菅冠者友則 平家の方人なれは是を誅伐せんと九月七日 駒ヶ嶽の巖石を蔦かつらに取付險岨を凌で宮田にこそ出られける
今其の所を木曽殿越といふ 宮田の西にあり 當城輿地の嶺開けす 且大田切の城は今上穂羽場の南に古城と唱ふる地なりと云々 義仲その不意を討んと險岨を出られたる也
藤澤氏を始としてしたかひ靡(なび)かさるは無りしなり され共 菅氏はその要害をたのみけるにや孤立の勢をなして屈せす 数度戦におよひける」
しかし、ちょっと考えるとこれはおかしい。ます治承4年というのはどうだろうか。治承4年は大変な年だ。以仁王・頼政の挙兵あり、頼朝も義仲も相前後して挙兵する。既に市原合戦など信濃の戦は始まり、義仲は依田城から上野多胡荘へ行ったりしている。既に木曽にはいなかったのではないか。
それに「駒ヶ嶽の巖石を蔦かつらに取付險岨を凌」では馬が使えない。騎馬戦が戦いのメインであり、義仲はこれが得意だ。いくら不意打ちのためとはいえ馬は放棄しないだろう。
この江戸時代の伝承では甲斐源氏による大田切攻めと義仲とごっちゃになっているようだ。
でも面白いので、ちょっと別の方から考えてみる。挙兵前の事、若く体力有り余る義仲、どちらかというと無聊をかこっている。あの山、一つ登ってみるか!もちろん兼平を誘っての事。それこそ巖石を蔦かつらに取付險岨を凌ぎ、山頂に立つ。
今俺はきっと日の本で一番高いところにいるぞ! 向こうへ降りたら宮田村だった。帰りは馬をかっぱらって権平峠越え。
ということはなかったかしらん。
駒ケ根市で資料館を探したが、平安から鎌倉期の資料はなかった。
駒ケ根ICから北上、諏訪を目指す。
宮ノ越から19号線を南下、木曽福島の宿に入る。
木曽の中では福島が一番街っぽいかと思ったのだが、夕方の駅前の寂れぶりにびっくりしてしまう。
駅にSLがあった。S17年というから1942年、敗戦の3年前に作られ、S48(1973)年まで走っていたようだ。配置機関区は福井・糸魚川・木曽福島。私は子供のころ小浜線でSLに乗った覚えがある。イベントではない。
翌22日朝、観光地っぽいところに行ってみると、それなりのしつらえで、観光客もいた。
袖ウダツはどこの宿場町にもあるのだろうか。