物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

蟹が旨い話、転じて説話の蟹の話

2023-02-02 | まとめ書き

越前ガニは、種的にはズワイガニだが、雄と雌とではサイズなどが著しく違う。雄が大きく、雌は小さい。雄をズワイガニと呼ぶことが多い。雌はセイコというが、他の地方ではコウバコ、コウバ等ともいうらしい。
値段は雄のズワイの立派なものは、一ぱい万単位になるが、セイコは安い。漁期にはスーパーにセイコを積み上げたコーナーができる。脚の1本取れたものなど結構安価に手に入る。
かつてのセイコはもっと安く、子供のおやつ扱いだったと聞くが、その経験はない。
ズワイはみっちりと詰まった脚とミソが旨い。セイコは甲羅の内のミソ・ウチコ・ソトコがほかに代替えのない旨さである。ズワイガニの中で他にズボといわれるものもある。これは雄で、脱皮したてのものをいう。殻が柔らかく、身の入りも所謂ズワイよりは緩く全体に水っぽい感じがするのでミズガニともいうが、これは食べやすい。ズワイを食べるのに刃物は必須だが、ズボは素手で食べられる。脚をぽきんと折って、ズボっと出てきた身を食うのである。当然だがズワイよりは格段に安い。同じようなカニでも、ベニズワイは旨くない。少なくともズワイのイメージで口にするとがっかりする。ベニズワイよりはそれと知ってズボを食べる方がいいが、ズボにはみそはほとんどない。

蟹のシーズンは冬で、ズワイの漁期は11月の1週目くらいから始まり3月に終わるが、資源保護のため雌のセイコの漁期は年末までだ。またズボの漁期は2月下旬から3月までだ。

ズワイガニは水深200メートルの海底に住む。籠を沈め、蟹が入ったころ合いに引き上げる。それなりの船や装備、技術も必要だろう。海底200メートルから籠を引き上げるにはウインチかそれに類するものがいるのではないか。ズワイ漁が始まったのは戦国時代、16世紀の後半だという。どうやって深海にすむズワイの居所が知られるようになったのだろう。
蟹自体はもっとはるか昔から食料になっていただろう。それはとらえやすいサワガニ・イソガニの類だろうが、貝塚や遺跡などから、蟹の痕跡が見つかったとは聞かない。知らないだけかも知らないが。
ガザミ漁は奈良時代には始まっていただろう。サワガニ・イソガニに比べて格段に大きく旨い。海底30メートルの海底にいるというが、時に海水面際に浮かんで来たり、季節によっては岸によりつくというから、そうしたことから知られたのだろう。

古事記に応仁天皇のところで宴会歌として蟹が出てくる。「この蟹や 何処の蟹 百伝ふ 角鹿の蟹 横去らふ 何処に到る 伊知遅島(いちぢしま) 美島に着き 鳰鳥の 潜き息づき しなだゆふ 佐々那美道(ささなみぢ)を すくすくと 我が行ませばや 木幡の道に・・・・」敦賀の蟹なら越前ガニ、と言いたいところだが、その可能性は薄そうだ。この歌は、応神が近江のヤカハエヒメのところへ妻問に行った時のもの。「におどりの」とか「さざなみ」とか近江を思わす言葉が続くが、木幡を過ぎ、宇治へ行ったのだろう。ヤカハエヒメはウヂノワキイラツコを産む。蟹がのこのこ横歩きをしてやってきたような歌だが、敦賀の蟹が生で来られたはずもなく、塩をしたものだろうか。敦賀湾ではガザミが釣れるというから、やはりガザミだろうか。それに応神と敦賀とは縁がある。気比のイザホワケと名前の交換をしたり、御食つとして、イルカをたくさん奉げられたりもしている。応神の母は神功皇后となっているが、名をオキナガタラシヒメという。息長氏は近江の東部を本拠とする氏族らしい。敦賀は息長氏の外港だったかもしれない。

万葉集に蟹の歌がある。食べられるカニの身になって歌った、というユニークなものだ。
「押し照るや 難波の小江(をえ)に 廬(いほ)作り 隠(なま)りて居る 葦蟹を おほきみ召すと 何せむに  吾を召すらめや 明らけく 吾は知ることを 歌人と 我を召すらめや 笛吹きと  我を召すらめや 琴弾きと 我を召すらめや かもかくも 命受けむと 今日今日と 飛鳥に至り 置かねども 置勿(おきな)に至り つかねども 都久野に至り 東の 中の御門ゆ 参り来て 命受くれば 馬にこそ 絆(ふもだし)掛くもの 牛にこそ 鼻縄はくれ あしひきの この片山の 百楡(もむにれ)を 五百枝剥き垂り 天照るや 日の日(け)に干し さひづるや 柄臼に舂き 庭に立つ 磑子(すりうす)に舂き 押し照るや 難波の小江の 初垂を 辛く垂り来て 陶人(すゑひと)の 作れる瓶を 今日行きて 明日取り持ち来 我が目らに 塩塗り給ひ もちはやすも もちはやすも」
何やらよくわからないが、難波にいた蟹が天皇のお召しだというので都に来たら、調理されて食われちゃった!というものだ。
調理法も更にわからず、天日干し、臼でつき、瓶に入れて、塩した、??  ふりかけのようなものでも作ったのか?
ただこの蟹、サイズ感から云って、ガザミ(ワタリガニ)ではなかろうか。ハサミや脚を紐でくくったガザミを見たことがある。牛の鼻緒でくくるというイメージに小さなイソガニなどは合わない気がする。
全く私のあてずっぽだが、天日はとりあえずの水分抜きで、臼でつくのは殻と可食部を分ける工程、それを瓶詰めして調味料を入れる。瓶ごと蒸しあげでもして蓋を閉めれば当座の保存になったのではないか。それを皿に載せて、天皇の食膳に供する。

日本霊異記には蟹が出てくる説話が二つある。霊異記は平安時代初期にできたものだという。平安時代というとつい紫式部や清少納言の時代を思ってしまうが、9世紀初め頃までだと平城京、奈良の都の記憶が鮮明だったのかもしれない。日本霊異記の編者景戒は薬師寺の僧(私度僧)だったせいか奈良時代の話が多い。
日本霊異記・今昔物語に出てくる蟹に関わる話はパターンが決まっていて ①信心深い女が、男の持っている蟹を助ける。②女又は女の父親が蛇の飲まれようとする蛙を助けるが、その際女と蛇の婚姻を約す。③蛇が約束だとやってくると、蟹が蛇と戦い女を守る。①②の順は違うこともある

日本霊異記の話の一つは中巻の8話「蟹と蛙を買って放ち、現に報いを得た話」で、馬場基が「平城京に暮らす」で面白い考察をしている。話の中に行基が出てくるから説話の世界は奈良時代、聖武天皇の時代をイメージしていることになる。
女は尼の娘で置染臣鯛女という。行基の信者である。女は生駒山中で蛇が蛙を呑もうとしているところに行き合い。蛙を助けるため7日後、妻になるという。行基のもとに行くがどうにもならないといわれるが、帰りに大蟹を持った老人に出会う。老人の名は摂津に住む画問邇麻呂という。難波で蟹を手に入れ、売りに行くところだという。大蟹とあるのでこれはガザミだ。売りに行くのは平城京の市だろうか。放して助けるのだから蟹は生きていなければならぬ。市での売り上げを考えるのか、老人はなかなか女の頼みを聞き入れない。女は結局着ていた衣を脱ぎ、裳まで渡して蟹を手に入れる。ブラウス脱いで、スカートも脱いで、あとはスリップ一枚か、腰巻のようなものはしていただろうか。女は行基に呪文を唱えてもらって蟹を放す。海のガザミを生駒山中で放しても・・
約束の夜、蛇が来て女の部屋に入ろうとするが、ただ騒がしい音がするだけで、翌朝見ると大蟹が、蛇をずたずたに切り裂いていた。
老人は菩薩の化身であったようだ。(ならスカートまで欲しがることはなかろうに・・・)

もう一つの話は第12話「蟹と蛙を買って放って助け、現に蟹に助けられた話」こっちの話には女の名はない。蟹を持っていたのは牛飼いの男で、山や川で採った蟹を8匹持っていた。自分で焼いて食べるのである。これはサワガニであろう。女は自分の衣と引き換えに蟹を得て、義禅師に呪文を頼み、蟹を放す。今度は蛙を呑もうとする蛇に合う。また7日後の婚姻を約し、蛙を助ける。また行基には「どうしようもない、仏法を信じるだけだ」といわれる。蛇はやってきて壁を叩き、屋根に上り侵入を図るが、果たせない。翌朝、8匹の大蟹が蛇を切り裂いていた。小さなサワガニが大蟹に変じているのである。

今昔物語の話は時代が下っているせいか、雰囲気が違うが話の骨格は大体同じだ。巻16第16話 「山城国の女人観音の助けにより蛇の難をのがれる語」
女に名はないが幼いころから観音信仰に篤い。女が蟹を持った男に会う。食べるのだという。女は家に死んだ魚がたくさんあるから蟹の代りに持っていけ、という。ここでは食料対食料の交換になっている。霊異記のストリップもどき、強姦罪でも懸念されるようなシチュエーションは回避されている。この蟹はどんな蟹かわからない。数量もない。ただ後述するがこの話が蟹満寺に関係し、山城街道沿いの話だと、生きたガザミを持って歩くのは不自然な気がする。サワガニであろうか。
女が「死んだ魚」といっているのも、ぴちぴちの魚が水揚げされる場所ではないからだろうか。
女は蟹を放す。
その後、女の父親が農作業中に蛇が蛙を呑もうとするのを見る。この父親、蛙を哀れに思うのはいいが、蛇に蛙を放せば、婿にしてやると口走るのだ。
この蛇、夜、娘のもとへ訪れるとき五位の人間に化けてきた。とりあえず三日後を約して返し、その間丈夫な蔵を作り、娘は観音の加護を頼み籠る。
五位は蛇に変じ、蔵を破ろうとする。物音は夜半まで続き、翌朝見ると、大なる蟹を首として千万の蟹集り来て、蛇をやっつけていた。全体に蟹の恩返しではあるが、観音信仰の利生譚、ありがたさを説く話になっている。蛇の屍骸を埋て、其の上に寺を建てたとなっている。

この話を伝える寺がある。山城の蟹満寺だ。奈良をでて北上し、泉大橋で木津川を渡る。木津川は泉大橋の西側で北へと流れを変える。木津川の東側を24号線、JR奈良線が走るが、それと並行するように山背街道がある。奈良から京へ向かう道の一つだ。泉大橋から5キロ足らずだ。もう少し行くと以仁王の墓がある。平等院から南都の僧兵たちとの合流を目指し、落ち延びようとした以仁王は打ち取られた場所だ。
蟹満寺は飛鳥時代の遺構があるようで古くからこの辺りに寺はあったようだ。秦氏との関連が言われる。白鳳の釈迦座像があるのだが、台座の基礎は江戸時代のものらしい。この寺に古くからあったものか、どこからか持ってきたものか不明のようだ。白鳳仏といっても、興福寺にある山田寺の仏頭のようなものをイメージしていると、なんだかがっくりする。顔自体すっきりしないし、仏頭と座像とのバランスもよろしくない。国宝なのだが、私的には二度目はないかなという感じだった。寺自体平成の改築で、とても新しい。境内にやたらに蟹の置物などがあるのもなんだか煩わしい。蟹の恩返しの説明版は、当然ながら今昔物語そのままだった。

いずれの話も蛇が娘を欲し、婚姻を持ちかけるのではない。娘・父の申し出によるものだ。蛙を呑むのは自らの命をつなぐ食料としてだ。蛇からしたら理不尽そのものだ。蛇は彼らの申し出に、じっと顔を見つめてから蛙を放す。蛇なりの約束したぞ、ということだったのだろう。

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