物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

河内 壷井八幡

2021-11-09 | 行った所

武家源氏の実質的な祖、源満仲は3人の有力な息子を持った。
頼光は鬼退治伝説でも有名だが、満仲の領した摂津を継ぎ、摂津源氏の祖となった。
頼親は藤原道長に「殺人の上手」等と言われているが大和源氏の祖となった。
頼信は父兄と共に摂関家に仕え、河内に所領を持ち、河内源氏祖となる。

頼信が息子の頼義と無言の連携で盗賊を捕らえる話が今昔物語にある。(巻25巻12話) また平忠常の乱を上手く収めてもいる。
頼義の長男が義家で、親子で陸奥に戦い、東国に地盤をえた。
この家系から源平合戦を彩る武者達が輩出し、頼朝へと繋がった。

 河内源氏の本拠地とされる壷井八幡。

 壷井のある八幡だったのか。

 壷井の所から階段を登る

 義家から28代目の子孫さんとか。

 境内から南河内の風景


近くには重厚な屋根の民家が目立つ

 頼義の墓

 通法寺門

 源氏館跡  但しこの辺りだろうということのようである。

義家 頼信の墓. この上の山道を少し上がる

摂津の多田神社は付近は頼朝も執着したようだし、源家の子孫を名乗った徳川もかなりのテコ入れをしている。河内源氏のこっちの方が直接の先祖ぽいのにどちらかというと放置されたような。

 

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摂津 嶋上郡衙跡

2021-11-09 | 行った所

芥川の西、今城塚古墳との間に嶋上郡衙跡がある。


国府、国衙跡は何ヵ所か行っている。地名だけの場合もあるが、調査され、部分的に復元されている場合もある。郡衙ははじめてだ。
摂津は上国だ。摂津と書いて「つ」と読む。摂津は津の国なのだ。津は港、難波津、大阪湾を抱えた国だ。
摂津には十二の郡があったという。島上郡は海に面しない郡だ。山陽道が通り交通の要衝ではあったかもしれないが、ここにこれ程の面積規模を持った役場があったのか。

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堺市 あちこち

2021-11-03 | 行った所

ニサンザイ古墳 

 ニサンザイ古墳に五位鷺がいた

 ニサンザイ古墳周辺町名 土師町だ.

 ミサンザイ古墳(履中陵古墳)

世界最大の墓域を誇る大山古墳(仁徳両古墳)とは堺市博物館のある大仙公園を挟み南側にある

 かん袋

秀吉の命名による老舗甘い物屋。くるみ餅が有名だが胡桃が入っているわけではなく、餡にくるまれた餅菓子。甘いものが好きなわけではなく話の種で入ったが、案の定持て余してしまいました。

 四つ池遺跡 この看板を目にし、思わず周囲をうろうろ

 

 宿院頓宮

 利休屋敷跡

 紀州街道碑

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堺市 南宗寺

2021-11-03 | 行った所

子供のころ「幽霊船」という話を読んだ。上下巻に分かれていたから児童書としては大作だろう。応仁の乱で荒れ果てた京都・堺そして海を舞台に物語が展開する。三好長慶の娘が出てきた。その頃は当然三好長慶が何物かも知らなかったのだけど。
南宗寺の三好一族の墓や長慶の像を見てそんなことを思い出した。

 南宗寺入口

 

  南宗寺 甘露門

 甘露門 鬼瓦

 唐門

 三好長慶像

 三好一族の墓

ボランティアの人がいろいろ案内をしてくれる。

 中国風の床かな、センと云ったかな?と思っていたら、太平洋戦争の空襲で付近みな焼け、瓦だけがごろごろ残ったので、それを使ったのだそうだ。築地塀の瓦積みも同じだそうだ。 

 築地塀

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河内 葛井寺

2021-11-03 | 行った所

葛井寺で「ふじいでら」と読む。

「河内飛鳥時代」というのは用語として解しかねる。こんなところで阿保親王や在原業平に出くわすとは思ってもみなかったのだが、この案内板は何をいっているのかは判然としがたい。

葛井氏というのは、百済系の氏族であるらしい。阿保親王の母は葛井藤子というらしく藤嗣子はわからない。阿保親王の息子である業平が、摂津のみならずこの辺に所領を持っていたとしても不思議はないわけか。

葛井寺前の道標。右 一行目はつぼさか よしの 二行目 はせ いせ   左 一行目 〇〇寺 た川た 二行目 ほうりゅうじ なら
左一行目の〇〇寺の下はたった 竜田かもしれない。ただどちらもどういう道をたどるのかぴんと来ない。東西南北に道の交わる要衝ではあったのだろうが。

 

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西國街道 芥川

2021-11-03 | 行った所

白馬ではないかもしれないが、ともかく馬に乗った王子は前に姫を抱いている。姫を抱え、都からここまで逃げてきたのだ。供の者がいたはずなのに、いつかはぐれた。道は知っている。何度も行き来した道だ。あの所領に逃げ込めば何とか・・・あまり先の事までは考えられない。だが、この姫がただ愛おしい。姫も私と共に居たいと来てくれたのだ、それ以外に何があるのだろうか。暗い。夜も更けてきたのは仕方がないが、雨が落ちてきた。今夜中に館まではむずかしい。野宿は無理だ、休めるところがあればいいのだが・・
それにしても姫が愛おしい。月明りに草の上に光る露を見て云うのだ「あれはなあに」ああ夜露さえ知らぬ姫よ。

川に出た、この川は知っている、芥川だ。確か何者かの小屋があったはず。あの小屋で姫を休ませよう。私は不寝に姫を守ろう。剣を佩き、弓弦を鳴らし、姫を守る。ようよう夜が明け、小屋を覗けば姫の姿かき消えた。鬼が一口に飲んでいったのか。鬼がいるとは知らなかったのだ。

このファンタジーは伊勢物語第6段。種明かしも書かれている。姫は二条の后と呼ばれた藤原高子、鬼は高子の兄基経達。在原業平を追い、スキャンダルにはせず、ただ妹を取り返していった。

業平の東下りの前提ともなる事件である。業平は在原の姓を給い臣籍にあるが、平城天皇の孫、母方からは桓武天皇の孫でもある貴公子。歌人として、恋多き風流人として名高い。その業平、高子に惚れ込み、東五条の屋敷の築地の破れからしげく通う。兄基経達が警戒したのも当然、高子は藤原一族が皇室への入内、立后を狙う大事な手駒。業平如きに攫われてはたまらない。

とはいえ少し冷静に見てみるとこの純愛逃避行、ちぐはぐなものも見えてくる。この頃、業平既に40歳を超えている。平安時代の事だ、既に初老、孫がいてもおかしくない。方や高子は精々16・17歳か。業平側からはともかく、少女が惚れ込むには業平はおっさんすぎるだろう。そこはもの知らぬ深窓の令嬢に対し、美男で鳴らした業平のモテテクニックというべきか。
それに露を見て「かれはなにぞ」はないだろう。貴族の娘に和歌は必須の教養、古来から歌われる露を見て歌の一つも詠ずるならともかく、あれはなあに?では興ざめだろう。それとも若い娘の方が業平をからかっているのだろうか

「白玉かなにぞと人のとひし時 つゆとこたえて消えなましものを」の歌が先にあり、それに合わせた物語、というのはどうだろうか。

西國街道は京都の東寺口から大山崎を通り神戸の方へ抜ける道だ。律令時代の山陽道にほとんど重なるそうだが、芥川の宿が整ったのは近世だ。業平には摂津に所領があったらしい。源融などと共に水無瀬や布引の滝辺りにも遊んだというから土地感はあったのだろうが、街道とはいえ夜道を女連れで一人行くのはいかにも無謀、兄の鬼ならずとも本物の盗賊が出てきたらひとたまりもなかっただろう。ファンタジーの故でもあるのだが。

芥川は思ったより小さな川であった。


一里塚より西の西国街道は西から東への一方通行であった。

一里塚としての面影はないのだろうが、地元から大事にされているようだ。

こんなところで敵討ちとは。原因は何とも・・・

 加藤嘉明 賤ケ岳の案内板より。

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京都 野々宮界隈

2021-11-01 | 行った所

京都の中で嵐山は好きな地域ではない。確かに景勝地ではあるのだが、いつ来ても観光地然としているし、ほらここにはあの哀話、こっちはこの哀話、誰それ所縁のなんとやら。面倒くさくなるのだ。
それでも野宮くらいは覗いておくか、なのでありました。

斎宮という制度がどのように始まり続いてきたかはともかく、選ばれた女性が大喜びしたくなるほどの物ではなかろう。昔も今も内親王とは羨ましくなるような存在ではないらしい。源氏物語では朱雀院は娘女三宮の行末をいろいろ案じた挙句、源氏に押し付ける。斎宮は無理だし可哀想、若い男とよりは分別ある源氏の方がいいだろう、という判断だったのだが、そううまくはいかない物語。
斎宮は時の内親王の中から卜占で選ばれるとは言いながら、誰も信じてはいなかったろう。選ばれたのは現朝廷にとってちょっと面倒くさい娘ではなかったか。娘の性格云々ではない。結婚させるには難しい存在、例えば他の皇子と結婚するとやんごとなさすぎる王子が誕生してしまうとか。朝廷の意中の皇太子候補の母の身分が低かったりすると、有力な対抗馬の芽は摘みたいとか。

野々宮への入口 背の高い道標の右側に「野の宮 亀山公園 小倉山」と見える

縁結びとは関係なかろうとしか思えない


黒木の鳥居と云いながら樹脂で固めたもののようだ。しかたなかろう。

野宮から竹林の小路へ。オーバーツーリズムが言われた頃は雑踏の小路であった。まあ朝一だとこれくらいの雰囲気は楽しめる。

 亀山公園展望台から

嵐山らしい風景

 

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京都 旧二条城界隈

2021-11-01 | 行った所

現平安女学院大学の角に思わぬ標識があった。

現二条城とは堀川丸太町の交差点を挟んで点対称の位置だろうか。

織田信長が足利将軍義昭のために建てた豪華絢爛の城だったという。
もっとも義昭はすぐ追い出されてしまうのだけど。
街歩きをしていると何に出くわすものやら。これだから京都歩きは止められない。

 

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京都 河原院界隈

2021-11-01 | 行った所

嵯峨天皇と云う人は桓武の次男であり、兄平城が投げ出すように退位した後、即位した。平城の復権と平城京への還都を画策した薬子の乱を押さえ、次の天皇の時代となっても権勢を持ち続けた。嵯峨天皇には30人を超える子女がいたという。こんなにたくさんの皇族は養いきれないと片っ端から臣籍に下すことになる。与えた姓は源、嵯峨源氏と云われ武家源氏とは別の流れだ。
源融もその中の一人だ。多くの兄弟姉妹の中の何番目かは知らないが、あまり初めの方ではないのだろう。
「みちのくのしのぶもじずりたれゆえに みだれそめにしわれならなくに」百人一首のこの歌で知られる歌人でもあり風流貴公子だ。百人一首には作者名として「河原左大臣」となっている。河原院という広大な庭のある邸を持ち風雅に暮らしたことからそう呼ばれた。その風流ぶりは些か常軌を逸し、陸奥の塩釜の風景を模した庭の池に賀茂川から船で持ち込んだ海水を入れ、塩焼きをしていたという。融は出羽按察使をしたことがあったようなので塩釜の景色は自分が見た風景だったかもしれないが、さぞメンテナンスが大変だったことだろう。果たして子孫は保ちきれず、宇多天皇に献上してしまう。宇多は愛妾を住まわせ通う。そんな折、融の幽霊が出てきたという話が今昔物語にある。巻27の第2話である。宇多の前に出てきた人影が融と名乗る。この館の主人だという。宇多が、お前の子に献上されたのだから今は私の館だというと消えたという。

陽成帝が急遽退位が決まり、次帝候補でもめた時、融は嵯峨邸の皇子であると立候補したが、藤原基経は融が臣籍にあることを理由に一蹴する。ところが陽成を継いだ光孝天皇の死後、光孝の皇子ではあるが、臣籍にあった源定省(さだみ)が即位する。宇多天皇である。融の立候補が事実であったなら、融は宇多に一言いいたいことがあったかもしれない。

宇多の死後、河原院はさらに荒れる。今昔物語24巻代46話に荒れ庭に紀貫之以下の歌人たちが訪れては歌を詠む話がある。その中にはないのだが、百人一首に恵慶法師の「やへむぐらしげれるやどのさびしきに ひとこそみえね あきはきにけり」の歌の舞台も河原院だそうだ。ひとこそみえねの「ひと」は融のことだという。


そして何より「源氏物語」は源融をモデルとし、源氏の風雅な館六条院を河原院に模している。光源氏はいくたりかの人物のイメージを重ね合わせ創造されたのだろうが、融は有力なモデル候補だったろう。また「夕顔」で源氏が夕顔を連れ込み、夕顔が急死する荒れ屋敷も河原院だという。盛時の風流で広大な館、荒れ果てて後の姿、どちらも作者のイマジネーションを刺激したのだろうか。但し光は塩焼きなどはしていない。紫式部には児戯に見えたろうか。

 河原院址と云われるのは、現五条通の南、鴨川の西、方4町とも8町ともいわれる敷地だが、碑は賀茂川と高瀬川に挟まれた所にある。高瀬川は江戸時代の開削だし、鴨川の川筋も一定であったはずもない。ただこの辺だったのか、と思いながら歩いていく。

 

 

鴨川沿いに南下すると正面橋がある。 

正面橋の袂に何故か鐘がある

西に向かうと高瀬川にかかる正面橋 

そのまま西に行くと河原町通越しに渉成園の塀が見える 
おそらくは河原院の敷地の南西部に接するか、敷地内に取り込まれるかという位置に渉成園がある。

 本願寺の別邸だが入場料を払えば入れる。立派なパンフもくれる。

 渉成園の紫式部

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