物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

街道に沿って 旧北陸道 福井城下① 加賀口から九十九橋へ

2021-06-23 | 行った所

福井市街地で、近世以前、というより第二次世界大戦前の建築物はほぼない。戦火、アメリカ空軍の福井大空襲は1945(S20)年7月19日だった。その一週間前は敦賀空襲は原爆の予備弾、すなわち広島のピカドンの予行演習だったという。
加えて1948(S23)年6月28日、大規模地震が発生。被害地域は福井市のほぼ全域、近隣に及ぶ。死者は5000人を越え、阪神淡路大震災に匹敵するが、神戸と福井では人口密度が違う。戦後数年を経ない時期で耐震建物など望むべきもないとはいえ、この被害は如何にも大きく、壊滅的なものであった。

これは幕末期の福井城下の絵図(福井市郷土歴史博物館平成30年特別展「江戸・京・大阪と城下町福井」図版集より)
現代の地図と比べることが出来る。


内堀と本丸の石垣のみが残った城址(中に建っているのは県庁と県警という不粋さだが)、足羽川、いくつかの寺院は比定可能だ。
内堀以外の掘割のほとんどが埋められ、区画整理がされているが、元の道がわかるところもある。
南から福井城下に入るには、足羽川を越えなければならない。そして足羽川にかかる橋は九十九橋ただ一本。橋を渡り、北進する道は呉服町通、そして東に方向を転じ、松本通を東進、加賀御門から北進するのが北陸道のおおまかな道筋だ。城下町の常として、城と武家屋敷のエリアをを大きく迂回するルートになる。

注目していいと思うのは、呉服町通りから松本通りに曲がる辺りの北に書かれた室屋の文字である。室屋というのは醸造業者のことである。今ここにあるのは室次というガソリンスタンドだが、この店は元々は天正年間の創業という信じ難いような由緒を誇る醤油屋なのだ。当主は代々次左衛門を名乗る。室屋の次左衛門だから室次となる。現当主は第15代目の次左衛門さんである。室次のHP https://www.muroji.com/history に歴史が記されているが、書類はことごとく消失しているらしい。先代の聞き書きとして明治のころの醤油醸造業者の様子が見える。
室屋の文字のすぐ左下に「イワイ丁」が見える。この辺りの町内会名が祝町である。田原丁も見える。呉服町も今では住居表示は順化2丁目なのだがここも町内会名として残っている。

加賀口のすぐ脇に水路がある。城下図の濠の一部だろうか。

加賀口から真直ぐ南下し松本通に出た場所にある和菓子屋さん昆布屋孫兵衛の看板に加賀口御門の表記がある。

このお店の創業は天明期だそうだ。近くで城下絵図に見えるセイレンジも確認できる。

簸川神社は加賀の前田家が参勤交代の時に休んだとあるが、前田家の参勤交代には北周り経路が多く、越前を通るのは例外的な事だったらしい。


松本通は城下絵図に松本の町名は確認できるが、今のような道が東西に走っていたわけではない。松本通りの植栽は松だ。街道の並木の松とは違うようで、単に松本の松に拠ったようだ。ただ福井城下で東西に走る道はこの辺りにあった、ということだ。フェニックス通を渡り次の信号の南東角に米五がある。

米五は天保2年(1831)に創業したという味噌やさんだ。当主は米屋五右衛門を名乗っていたという。更に芭蕉碑がある。今あるのは近年のものだが、元のものは戦災で失われたが寛永元年のものだったという。「なき名たつ空とはいへど星こよい」の句が彫られている。
米五を城下図で探したが残念ながらわからなかった。

続いて右手に現れるのは室次、ガソリンスタンドだが、看板がある。

左折し南下、呉服町通に入る。呉服町というからには呉服屋が多いはずだが仏壇屋が多いような。福井一繁華な通りだったというが・・・それでもNHK前通を横断し上呉服町へ入ると北国街道の表示が出てくる。


和蝋燭屋さん、仏壇屋さん、呉服屋さん、陶磁器屋さん、尋ねればそれなりの由緒ある店だったのかもしれない。
呉服町が終わり、京町の案内板がある。

それを過ぎて九十九橋だ。

 

 

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街道に沿って 旧北陸道 舟橋から加賀口御門へ

2021-06-23 | 行った所

九頭竜川を渡る。九頭竜橋だが通称舟橋という。


天正年間に柴田勝家が北ノ庄に入っての事績に数えられる。

刀狩りの刀を鋳なおし鎖にし、船を繋いだというが、どの程度のことか知らない。舟橋は江戸時代にも継承され、四王天家というのが管理を任されていたというが、この碑は何のことかわからない。

この舟橋の船数は48艘で、美濃街道の起宿の資料館(愛知県一宮市尾西)で見た300艘の舟橋とは比べ物にはならないが、北陸道のこちらはほぼ常設だったようだ。しかも九頭竜川は崩れ川だ。維持管理は容易なものではなかっただろう。


橋の袂に黒竜神社がある。

この通りは県道30号線、通称フェニックス通りである。ほどなく大きくV字に分かれるが、ここは右へ。次のV字で左の細い方の道に入りフェニックスと別れる。フェニックス通のすぐ東側をほぼ並行して走る道を行くことになる。北陸学園会館の所で右に折れて踏切を渡る。真直ぐ行くとすぐフェニックスだ。吉岡幸の機材センターを越えて左折する。どうということのない道が続くが、大宮1丁目交差点の直近で一度フェニックスを横断する。コメダ珈琲の脇、ゲンキーの脇を通って左折。
旧北陸道を歩く:U字倶楽部( http://giwonderworld.web.fc2.com/hokurikudou/007.htm )の地図に従ってきたが、この交差点あたりは旧道を拾えているかどうか。フェニックスとお泉水通が合流し、東西方向に藤島通がクロスする大きな交差点だ。この交差点ができた時点で旧道は不明になってはいないのか。
藤島通を渡り、フェニックスを渡り、南下する。どうということはない住宅街の道だ。
お泉水通と合流。松本小学校の交差点で左折、次の路地を右折し、お泉水通のすぐ西側のわき道を行く。
踏切がある。今度の線路はえちぜん鉄道だ。


踏切を越え、南下し、加賀口御門跡に至る。福井城下の北の玄関口だ。

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街道に沿って 旧北陸道 森田

2021-06-23 | 行った所

舟寄からさらに南下、北横地、南横地を経る。この辺りは旧春江町か。直ぐ森田で、九頭竜川は近い。

福井市足羽川の九十九橋北詰に明治の道標がありあちこちへの里程が彫ってある。石碑の表面が荒れているが、「吉田郡森田村稲多へ壱里拾〇町云々」と読める。

森田村は現在福井市内だが、九頭竜川を渡った橋の北詰の町名は稲多だ。

南横地の南、磯部小学校西口の交差点の信号を西へ折れる。ここからしばらく西南西の方向へ進む。
程なく住吉神社がある。

順徳天皇御霊御駐輦所とか言うものがあるのだが、南北朝時代のものではなく明治に順徳天皇遺品を京都に持ち帰って来た時の所縁だという。なんのこっちゃ。

石丸城址に寄ってみる。

こちらは南北朝期、新田義貞と弟脇屋義助が拠った城跡だという。


公園になっている。案内板なども整備されている。

架橋の人柱の話があり、どうも石丸という地名の由来譚のようだが、肝心の架橋はどこの橋か、時代もはっきりしない。九頭竜川の橋ではないはずである。

九頭竜川を渡る。九頭竜橋だが通称舟橋という。

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街道に沿って 旧北陸道 舟寄あたり

2021-06-22 | 行った所

坂井町若宮から南下、舟寄に入る。兵庫川沿いに南下する。

  兵庫川

 


案内板があったので見る。

舟寄の由来はなかなか面白い。黒坂景久は確かに朝倉の家臣団に見える。姉川で戦死したはずである。景の字は、孝景、義景など朝倉家当主の通字である。

この案内板にはないが、舟寄節にはおはや良作の話も歌われているらしい。案内板にはコシヒカリの開発の話もあり、更に地図もあるのだが、


現在地が記してない上、方角もあいまいだ。北を上にするとこのようになるのではないかと思うのだが、間違っていたら勘弁してほしい。北に向かってみて、福島鮎川道路とやらを左に行くと福島という交差点に出るのではないかと思うのだ。鮎川は福井市の海岸部にある地名として知っているところはあるのだが、この地図では見当がつかない。
十郷用水は平安時代に起源をもつ、春日大社の荘園の十郷を潤したという用水だが、現在はパイプライン化されている。福井(坂井)平野は主に九頭竜川の扇状地に形成された平野だが、奥越から流れ下った川が扇状地の入口となる場所が鳴鹿であり、古来の十郷用水も現代のパイプライン取水口は同じ鳴鹿なのだ。現在永平寺町鳴鹿には大きな堰がある。ここから坂井平野へは主にパイプラインで農業用水が供給されている。


鹿が鳴いて取水の場所を教えたという伝承があるが、これは春日大社の使者の鹿に引っ掛けたものだろう。山師というか、鉱山、水脈を見るに長けた技術者がいたのだろう。
さらに南下すると、東側はサッカー場となった辺りにも案内板がある。この辺の道は新しく、旧北陸道(加賀街道)だかなんだかよくわからない。


この案内板の地図もよくわからない。だいたい大谷川が分からないのだ。方角を北上にするとこうではないかというのは長崎の集落を主に考えた。最近明智光秀で売っている称念寺は長崎にある。最近称念寺の東に北陸新幹線の工事が進んでいる。


十郷用水の堰が壊れた時の修繕費用をどの郷がどれだけ負担するかでもめたらしい。こうしたもめごとは昭和まで続いているらしい。

 

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街道に沿って 旧北陸道 長畑一里塚跡・おはや良作地蔵

2021-06-19 | 行った所

踏切を越えるとすぐJR丸岡駅への路地がある。そのまま真直ぐ南下する。左手に福井信用金庫を見て少し進むと、長畑一里塚跡がある。


近くに市役所や駅、信金、郵便局などもあるあたりなので、何度か通ったことのある場所ではあるのだが、来たことのない方角から通ってみると新鮮だ。


長畑一里塚の向かいにある祠は「お早良作地蔵」だ。


越前万歳と云うものがあるとは知らぬではないが、聞いたこともないのでどんなものかよくわからない。お正月の門付だと思っていたので、こんな近松の心中物もかくやと云うヘビーなものがあったとは。
図書館に「おはや良作二百回忌記念 北陸街道悲恋物語 資料集」と題する冊子があったので借りてみた。発行者は坂井町古文書の会とある。冊子ながらなかなかの力作である。坂井町御油田演仙寺ある文書と石川県の図書館にあった文書を調べて解読している。加えて越前万歳に出てくる地名を地図に落としている。しかし事件の全貌が明らかになったのかと、いうとそうでもないようだ。安達良作が加賀藩家臣の次男で、安達家が事件隠ぺいに動いたらしいので余計わけがわからなくなっているのかもしれない。後からの聞き書きの所為かおはやの身分も、良作の使っていた下女・商家の娘・茶屋娘、といろいろである。秋元屋平助娘、とあるのでそれはそうで呉服屋でもいいのだが、追いかけてきてはやを連れ戻そうとしたという義母、平助後家とあるのだが、この母の振る舞いが尋常ではない。無頼の男を連れていたらしい。とするとこれは脚抜けしようとした遊女を連れ戻す遊女屋の女将、と考えた方が自然だろう。
死んだ者は4人だが、はやと義母と良作ともう一人も、良作の連れていた家来か義母の連れていた男かはっきりしないようだが、加賀藩の史料である「政隣記」には家来は良作の自害を介助したのち縊死したとある。
ともかく彼らは宮領村・長畑村・上新庄村の三村の境にある一里塚付近で斬り合って死に大騒ぎになったのである。文化5年5月にこんな事件があったことは間違いがないようである。


冊子後ろの会員寄稿で、越前万歳の道行きでは、5月4日に金沢を出奔した良作たちが5日の晩福井の木田に宿泊し、そこで義母らに追いつかれ、6日に長畑まで引き返し、事件になったというのは時間的に無理だという説が紹介されているが、確かにそうだ。良作一人ならまだしも女子連れでは無理だ。小松や金津で宿泊し、6日に長畑で追いつかれたと考える方が自然だろう。
越前万歳の歌詞は金沢から福井までの地名を次々読み込む道行きだ。福井の松本まで来てめでたく万歳し、心中は出てこない。この冊子に紹介された歌詞では木田も出てこない。

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街道に沿って 旧北陸道 上新庄春日神社

2021-06-19 | 行った所

上関から道なりに南下すると坂井市役所のすぐ近くへ出る。市役所の向かいのJAの施設の裏辺りに春日神社がある。


あわら郷土歴史資料館で見たパネルの新庄郷の上新庄春日神社だ。

春日神社だから鹿の像もある。

そこかしこ荒れた感じがあるが、境内は馬鹿に広い。

石碑に彫られた由緒は恐ろしく読みづらい上、よくわからないのであるが十郷用水の事が書かれ、更に後白河院の時神田寄付云々とある。

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街道に沿って 旧北陸道 関一里塚跡

2021-06-17 | 行った所

金津から県道9号線(金津丸岡線)を南下、2kmも行かず、西へ曲がる。この道も曲がりながら南下するが、ところどころに蓮如道の碑が置かれている。

その道の西側、石碑のところではなく、田んぼの中に小さな塚が見える。関の一里塚だ。

金津の千束一里塚のように一里塚の雰囲気を持ってはいないが、当時も多分田んぼの中の田舎道にあったものだったのだろう。
道はそのまま下関・上関の集落に入る。河口荘の十郷の中に関の名もある。

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街道に沿って 旧北陸道 金津奉行所跡

2021-06-17 | 行った所

金津は竹田川の水運と旧北陸道がクロスするところ。自ずから物資の集積地・往来の中心ともなる。


竹田川沿いに案内板はある。市姫橋南詰を西に少し行ったところだ。

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街道に沿って 旧北陸道 嫁脅

2021-06-17 | 行った所

29号線沿いに「嫁脅」の案内板がある。あまり好きな話ではないが、蓮如伝説の一つだろう

肉付きの面と称するものを所蔵する寺があるそうだ

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街道に沿って 旧北陸道 細呂木関所跡-のこぎり坂

2021-06-17 | 行った所

細呂木関址


細呂木の集落のはずれ、観音川沿いの民家の脇に案内板がある。

だいたい県道29号線が旧北陸道に沿っているが、ここは少し外れる。本来の旧街道は集落の中を通っていたのだろう。細呂木の宿は越前最北端の宿となる。
観音川が一つの境目だろうか。西に北潟湖の風車が見えた。
JR細呂木駅はこの辺りから3kmほども西南西に当たる。細呂木駅辺りが細呂木の中心かと思っていたが、越前最北の宿場としての細呂木はこっちにあったのか。
細呂木の名前は、興福寺領の荘園河口荘の郷として細呂木郷として現れる。
河口荘には、本庄、新郷、王見、兵庫、大口、関、溝江、細呂木、荒居、新庄 の十郷が知られ、十郷用水が灌漑用水として使われる郷であるが、細呂木郷だけは地域的に離れているように見える。


関址から北へ緩く登る坂を行くと程なく吉崎へ行く蓮如道と旧北陸道の岐れ道があり、碑がある。

蓮如道は蓮如が京都から吉崎に来て道場を開いた時通った道らしい。今でも毎年、御影道中と称して蓮如の御影と共に歩く人達がいる。道程はほぼ旧北陸道に一致するようだが、寺に寄ってはいくため、ところどころそれるようだ。のこぎり坂から吉崎までは特に古い道の面影が残っていて有名なようだ。木立から木漏れ日の注ぐ山道だ。

右の旧北陸道を行ってみる。


太陽光発電のパネルが立ち並ぶところを右手に、左手に海側北潟湖畔風車軍を見ていくと、車道が尽きる。ここから徒歩となる


案内板には、ここを通った人として、義経・親鸞・蓮如・勅使・加賀藩の大名行列が挙がっている。むしろ義経は怪しいかも。北国下向の平維盛率いる遠征軍も通ったであろうし、敗走経路ともなったであろう。そして、軍勢を膨らませつつ勢いに乗る源義仲も駆け抜けたであろう。
 

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