物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

関市 弥勒寺遺跡群・円空入定塚

2023-05-15 | 行った所

白山にその源を発する長良川は、岐阜県内を蛇行しながらも南へと下ってくるが、関市街地に至って、西へと大きく流れを変える。
その長良川の北岸の一隅に、円空の入定塚がある。


同じ長良川沿い、岐阜羽島に生を受けた円空は、畿内以東の各地にその足跡を残すが、晩年を過ごし、生を終えたのはまた同じ川のほとりであった。自らの死期を悟り、自らの意思で即身成仏を遂げた円空は、稀に見る修行僧であり、宗教者であったのか。ユニークな仏像を刻んだというだけではなかったのだ。
入定塚付近からは長良川が見渡せ、近くの橋は鮎瀬橋。対岸は鵜飼の地として知られる。小瀬鵜飼の船が停泊し、出番を待っている。


円空は近くの弥勒寺という廃寺跡に庵を結んだ。


弥勒寺廃寺跡及びその周りに広がる官衙址・古墳などは古墳時代終末期から奈良時代のものだから、円空とは直接のかかわりを持ってはいない。
壬申の乱で大海皇子に与した美濃の豪族たちの中に「ムゲツ」氏というのがいたらしい。(いろいろな漢字を当てるらしいがろくに変換しないし、関市のパンフなどでもムゲツになっている)ムゲツ広麻呂という舎人がいたらしいが、多品治や村国男依といった大活躍とはいかなかったようだ。だが、弥勒寺はムゲツ氏の氏寺で、官衙はムゲツ氏が支配し、池尻古墳の被葬者は数代前の先祖と考えられている。
岐阜市歴史博物館であった壬申の乱の展示会で、弥勒寺遺跡群も展示されていたのだが、見事に見落としていた。


官衙址の建物群は郡庁の他、倉庫群がある。広範囲に発掘調査されていて、壬申紀朝明郡衙跡といわれる久留倍官衙遺跡に引けは取らないようだ。官衙の官人たちは皆、文字を書き、算木を操ったのだろう。中央集権国家とは地方地方に中央の意思を代弁する組織がなければならない。国衙に派遣された国司が、いかに威張ろうとも、官衙が動かなくては、戸籍も作れず、徴税もできない。
天武の時代は壬申功臣を優遇したという。しかし持統以降、功臣優遇は縮小されていく。功臣たちも老いていく。彼らの子孫に同じ待遇を続けることはできない。地方豪族たちも地方より都へ目を向ける。

 弥勒寺廃寺跡

官衙址から弥勒寺址を通り、アップダウンする竹林の路を抜ける。京都嵐山の竹林の道はよく手入れはされているが、観光客が多すぎる。カメラを構えた人波をかき分けるのはごめんだ。

  修善寺の竹林も人が多いうえに規模が小さい。ここの方がよほどいい。

円空資料館がある周辺は弥勒寺西遺跡と呼ばれる平安時代まで続く祭祀跡だ。木製品も出土している。

資料館はコンパクトだが、凝った造りである。円空仏の中では特に、円空自身の姿を模したという善財童子がよかった。

資料館からさらに西の方へ数百メートル行くと池尻古墳になる。

 

古墳のすぐ脇に白山神社がある。

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南越前町杣山周辺

2023-05-14 | 行った所
花蓮の咲く季節はまだ遠い。蓮池は一面小さな薄緑の水草に覆われ、その間から、蓮のまだ小さな葉が顔を出している。
蛙が鳴いている。
蓮池に向かった木陰のベンチに腰を下ろす。
陽射しはそれなりに強いが、暑くはない。風がさわさわと木々の葉を揺らす。蛙は一種類ではない鳴き声だ。
その合間に鳥の声もする。向かいの山の緑が濃い。その上の青空に飛行機雲が一筋、次第に伸び、下の方からかすんでいく。
蛙の歌が草野新平の詩に聞こえてくる。とろとろと眠気がさしてくる。


花ハス公園への道の途中に、杣山神社がある。杣山の北側を東へ走る道だ。


花ハス公園を過ぎて、東へ行くとほどなく、たくら街道という標識があり、右手に折れて街道に入る。すぐトンネルだ。
トンネルを抜けると橋がある。左手に大きな採石場がある。川は田倉川。橋を渡るとT字路になる。左へ、東の方へ行ってみる。

右手に何か案内板がある。あまりよくわからなかったが、南北朝時代の遺跡のようだ。

古耶の宮(杣の宮)なるお宮さんがあり、武士たちはその前を馬に乗って通ると落馬した。宮の正面を変えて建て替えると落馬しなくなった。

ここの馬上免はそういう意味らしい。馬上免がこの辺の地名らしい。
ここから北西方向にあるのが杣山。

南朝方新田義貞らがこもった。その前の敦賀金ケ崎上の戦いで、義貞側は敗北を喫し、「玉」恒良親王と尊良親王を失い、杣山に逃げ込んだのだ。
続く狛山の戦いでも、義貞は北朝の斯波高経方に敗れ、北へと落ちる。新田義貞が死んだのは、現福井市になる灯明寺繩手である。
瓜生保は、南越前町、南条郡飽和村出身らしい。死んだのは金ケ崎城か杣山の戦いで、墓は敦賀市樫曲にある。476号線樫曲から少し入った北陸新幹線樫曲トンネル工事現場の近くだ。

但し、碑は明治時代に建てられたものだ。
瓜生保は、確かに南朝方として戦死したのだが、北朝側についていた時期もあったはずだ。南北朝の全国的騒乱は、地方豪族もどちらかに味方せずにはいられず、どちらが勝つのかを慎重に見定めようとしたのだろう。
鈴木善那というのはさらにその下の武士であろうか。

この辺りで道を西に引き返し、今庄に出ることにする。
途中案内板を見た。田倉は宅良ともかくようだ。

田倉川


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