物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

復元遣唐使船(平城宮址)

2022-02-28 | 行った所

重源は3度宋に渡ったという。ウィキペディアの重源の項には「舎利信仰の聖地として当時日本にも知られていた阿育王寺には、伽藍修造などの理財管理に長けた妙智従廊という禅僧がおり、重源もその勧進を請け負った。帰国後の重源は舎利殿建立事業の勧進を通して、平氏や後白河法皇と提携関係を持つようになる」とあり重源は周防国徳地から用材を調達し中国に送っている。当時中国では木材資源が枯渇し、日本からの木材は貴重なものであったという。

阿育王寺に日本からモノを送る話は平家物語にもある。第3巻「金渡」である。平家物語では聖人君子扱いの重盛は治承3年(1179)死ぬ。この前後に重盛に関するエピソードがいくつか語られる。「金渡」もその一つである。安元の始めの頃、とある。後白河院と清盛の仲を取り持ってきた建春門院(平滋子)が死んだのは安元2年だ。後白河院と清盛との溝が露わになっていく。安元3年が鹿ケ谷事件だ。安元の大火(太郎焼亡)も起こる。とはいえ安元は3年までしかない。安元の初めはまだ滋子は生きていたのか。
ともあれその頃、重盛は、宋へ向かう船頭に黄金3500両を預ける。500両は礼金1000両は育王山へ2000両は宋王へ献上の上育王山へ寄進と用途を指定する。黄金は無事宋へ届き、みんな感謝して育王山では重盛の後生の祈りが継続される。このエピソードにどれ程の事実の裏付けがあるのか知らない。ただかなりの頻度で日宋間に船便の往復があったことは確かだろう。育王山と呼ばれることも多い阿育王寺は寧波、揚子江河口の南に位置する港湾都市にあり、日本でもよく知られた寺だったのだろう。

隋から唐、大国際国家唐が滅び、戦乱を統一したのが宋なのだけれども、この頃の宋は南宋だ。金に北の領土を奪われ中国統一国家としての面目もない。いわゆる中原を失い、洛陽、長安はなく、開封は皇帝を金に連れ去られた屈辱の街だ。それでも首都臨安(杭州、寧波も近い)は、十分アジアの中心、中華であったろう。
倭は大陸の国家の盛衰をどこまで意識しただろうか。漢・魏・晋・宋(南北朝の)隋・唐、唐はともかく他は新羅か百済かのような問題とは意識されなかったのではないか。その時々で朝貢し、見返りをもらう。邪馬台国は三国時代の魏をどう意識したのか。邪馬台国の所在が大和であろうと九州であろうと、航路は島伝い、朝鮮半島の沿岸を航行しただろう。その航路で自然に行けたのが魏なのか。内陸の蜀は行けない。揚子江の南の呉へ行くためには東シナ海を横断しなければならない。日宋貿易でのメインルートとなる東シナ海は卑弥呼の時代にはありえなかっただろう。少なくとも邪馬台国が使者を送った先は三国鼎立時代の一番有力なところを狙った、ということはなかっただろう。

6世紀末から始まる遣隋使のルートも朝鮮半島の沿岸ルートだったに違いない。このルートが使えなくなるのは百済が衰え、新羅と敵対関係になった以降である。とはいえ情勢は流動的でもあったらしく、表の飛鳥時代の航路は663年(白村江敗戦)後も南路に固定はしていない。それでも奈良時代以降になると渤海経由の一回を除き皆東シナ海ルートの南路を取る。


鑑真が日本に渡ろうとして何度も失敗した話とか、遣唐使船の2隻に1隻は帰ってこなかった等という話(何で知ったのかわからない)が頭にあって、東シナ海ルートはイチかバチかの大博打みたいなものと思っていたが、この説明版によれば、奈良時代の遣唐使船18隻のうち14隻が戻っている。八割近くが勝てる勝負だった、ということになる。鑑真の渡海にしても、渡航そのものが妨害され、そもそも出港できなかったものも失敗に数えられているようだ。東シナ海ルートでこれなら北路の遭難は余程運が悪かった、ということなのだろうか。

日宋貿易の時代ともなれば、羅針盤が実用化され航海はより容易なものとなっていただろう。


遣唐使の陰に隠れてしまっているが、渤海との通行も活発だ。「図説福井県史」https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/A12/A121.htm によれば、727年(神亀4)の初来日から919年(延喜19)までに、渤海使の来航が34回、遣渤海使の派遣が13回に及ぶという。

 ルート図によれば、日本から渤海に行くには日本海をなんと北海道付近まで北上し、大陸沿岸を南下する海流に乗って渤海にたどり着く。これに比べれば、渤海から日本へのルートはずっと簡単だ。もちろん両国の政治情勢もあろうが、この難易差が来航、34回、派遣、13回に現れているかもしれない。こちらの航海はどの程度のバクチだったのだろうか。

平城宮址に復元された遣唐使船は全長30メートルとあった。


「北前船」の大きさは、千石船で長さ=約28m、幅=約8m、高さ=約2.5m位だったという(http://www.pa.thr.mlit.go.jp/akita/port/akita/history02.html 秋田港湾事務所HPから)
北前船は基本的に日本の沿岸を航行する船だが、遣唐使船もそれくらいのサイズはあったことになる。ただ帆も違えば全体の構造もかなり違っていただろう。

古墳時代の埴輪の舟は、丸木舟に側舷等を取り付けた準構造船とみられる。

 三重県宝塚古墳出土埴輪

基本的に手漕ぎの舟らしい。しかしこれで少なくとも朝鮮半島との往来ができていたことは間違いない。
準構造船は琵琶湖の北「淡海 丸子舟の館」で見られる。ここには全長17メートルの現物がある。帆走の舟だし、もちろん埴輪の舟とはかなりイメージが違う。しかし、丸木舟に構造材を取り付けるという準構造船の技術は近代まで残っていた。湖とはいえ琵琶湖は大きい。場合によっては荒れるのだ(と言っても海ほどではないと言ってしまえばそれまでなのだが)意外に年代が下っても準構造船は使われていたのではないだろうか。
白村江や初期遣隋使の舟は準構造船ではなかったか。
だいたい構造船ができたところで、海を渡れるとは限らない。鎌倉時代の実朝が陳和卿に造らせたのは大型の構造船だったのだろうが、由比ガ浜に座り込んだまま、海面に浮くこともなく朽ちた。(もっとも政治的な理由で浮かせなかった可能性はある)
平城宮址の復元船は、吉備大臣入唐絵巻を参考にしているらしい。ただし400年も下った時代に描かれたものなのだが、他に資料がないらしい。
以下は復元遣唐使船にあった説明版

  

 

 

 

 

 

 

 

 

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「平家物語」の馬 井上黒

2022-02-11 | まとめ書き

戦に馬は付き物だ。馬達は武者を乗せ、戦場狭しと駆け回る。武者は防具に身を固め、弓を引き太刀を振り回す。替え馬も要る、夥しい馬が戦場へ引き出され、死んだことだろう。古墳時代中期、馬具が副葬品として大量に出土し始める。5世紀半ば以降、乱といえば馬は必要不可欠だった。伝令にも馬は走り、軍は馬とともに動いた。良馬を出す牧は産業として成立した。古代・中世・近世を通じ、いや昭和の戦争の時も、馬牧には頭数が割り振られ、戦場へ送る馬が出さされた。日本生まれの馬は満州の厳しい気候に耐え切れず、ことごとく死んでいったという。

平家物語も「軍記もの」の一つだから当然合戦が多く、馬もどっさり出てくるが、名のある馬は稀で、有名なのは宇治川の先陣争いをしたイケヅキ・スルスミだろうが、出身地や行方まで書いてあるのは井上黒という平知盛の乗った馬だけだ。(岩波文庫ワイド版)

平家物語第9巻の一の谷の合戦は平家の惨敗に終わり、名立たる強者、御曹司も討たれ、生け捕られあるいは、沖の助け舟目指して落ちていく。敦盛が死ぬ哀切な章の次が「知章最期」でここに井上黒のことが書かれる。

新中納言知盛は生田の杜の合戦の指揮をしていたが、戦敗れ、息子知章と侍一人の3騎となって落ちている。そこへ武蔵七党の児玉党の10数騎が押し寄せてくる。知章と侍が奮戦、児玉党を防いでいる間に、知盛は船に向かう。知盛は「究境」の名馬に乗っている。知盛は馬を泳がし、沖へ向かう。「海のおもて二十余町およがせて」とあるのだが、註に2キロ程とある。馬はは泳ぐとは言うけれど、鎧武者を乗せた馬がそんなに泳げるものなのか。それどころか、この馬は乗船した知盛との別れを厭い、船に慕って沖へついてくる。ついに諦め、岸へ戻る。往復5キロは泳いだのだろうか。

この後の藤戸の戦いで、佐々木盛綱が藤戸から児島へ海を渡ったというけれど、漁師に教えてもらった浅瀬で、所々馬の背の立つところのある場所を十余町渡ったのである。あろうことか、盛綱は浅瀬の秘密を味方に隠すため漁師を殺しさえしている。だが、頼朝は「昔から川を馬で渡る者はいたが、海を渡ったためしは我朝希代」と褒め上げ、佐々木に児島を与えた。

井上黒はやはり並の馬ではなかったということだろうか。
知盛が馬と共に乗船できなかったのは、船の中は逃げ込んだ人でいっぱいだったからだ。止む無く馬を岸に返そうとする知盛だが、阿波民部重能は、こんな立派な馬を敵に渡すくらいなら射殺そう、というのだが、知盛は止める。
漸く岸に着いた馬は、船の方を振り返って嘶く。その後休んでいるところを河越小太郎重房に捕らえられる。河越は後白河院に献上した。
もともと院の厩で最も大切な馬とされた馬であった。平宗盛が内大臣になった時、後白河から宗盛に渡された引き出物だった。これを知盛が気に入り預かった。知盛はこの馬を大事にし、馬の延命祈願を月ごとに行っていたくらいだった。馬は信州の井上の産で井上黒と呼ばれた。後には河越が献上したから河越黒とも呼ばれた。

長野県須崎市に井上という地名がある。井上黒はこの辺りの出身であるのか。牧があったのだろう。放牧主体で、傾斜地を走り回って育ったのだろう。おそらく二歳馬で京へ連れられたのだろう。その頃から、これは、と思われるようなたくましく賢い馬だったのだろう。
井上牧という官牧はないが誰か有力者の献上だったのだろうか。井上は、源頼信の子で頼義の弟頼季が信濃に領地を得、名字として井上頼季を名乗ったところだそうである。
横田河原の合戦で、木曽義仲と共に戦った井上光盛という武者がいる。彼はその一族だろうか。
平家物語第6巻「横田河原合戦」「信濃源氏井上九郎光盛がはかりごとに、にわかに赤旗を七ながれを作り、3000余騎を7手に分かち・・・・・次第に近こうなりければ、合図を定めて七手が一つになり、一度に時をどっとぞ作ける。用意したる白旗をざっと差し上げたり」佐伯真一「戦場の精神史」に卑怯とされなかっただまし討ちの例に上がっている。


平宗盛が内大臣になったのは、寿永1年10月(1182)であった。一の谷は寿永3年2月(1184)である。井上黒が院の御厩にいたのがどれくらいかわからないが、海を泳いだこの時、5・6歳以上にはなっていたのだろうか。競走馬の最盛期は4・5歳だという、ただそれは競走馬としての話で円熟は別かもしれない。井上黒の一の谷の馬齢は人間に例えれば、平家物語で活躍する人間がそうであった30歳前後に比定されるものだったのではないだろうか。

その後はどうなったのだろう?院の御厩からまた別の誰かに下賜されたのか。

知盛は持病があり、癲癇持ちではなかったか言われるから実際の活躍の場は制限されたものであったかもしれない。しかし物語の中の彼は、将にヒーローの一人だ。兄宗盛が武将として頼りなさすぎる所為もあるが、事実上平家を引っ張る総大将だ。
泣かせる名台詞も多い。
都落ちに際し、畠山・小山・宇都宮の面々が動向を申し出たのに「汝らが魂は、皆東国にこそあるらんに、ぬけがらばかり西国に召し具す用なし」
一の谷の後、阿波民部重能には「何の物にもなれ、わが命を助けたらんものを。あるべうもなし。」
この阿波民部重能は壇ノ浦で最終的に平家を裏切っている。重能には重能の事情もあるのだが。
助け船の中で、宗盛に対し、息子と侍を見捨て一人逃げ、助かった心情を吐露している。「いかなる親なれば、子の討たるるを助けずして、かやうにのがれ参って候らんと・・・・」
そして極めつけ、壇ノ浦の最期、「見るべきものは見つ」
この物語のヒーロー知盛だからこそ一年半に満たぬ間に、井上黒と揺ぎ無き信頼の物語が紡がれる。

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鴨稲荷山古墳(高島市)

2022-02-03 | 行った所

滋賀県高島市の安曇川の少し南を鴨川が流れている。鴨川という川は全国に珍しくない。鴨・加茂神社も多い。たいてい古い由緒を誇る。大和の御所市の高鴨神社では全賀茂社の総本宮を称していた。鴨氏は渡来系の氏族ではないかと思われている。

その高島の鴨川の南に鴨稲荷山古墳がある。


封土を失って石棺埋葬部上部を建屋で覆っている。発見は明治時代の道路工事で、それまで古墳があることを知られていなかったために盗掘を免れていたのか、多彩な副葬品が掘り出された。
*建屋の窓からのぞくと石棺が見える

近くには高島歴史民俗資料館があり、関連する展示がある。
*建屋建設前の状況
*復元模型
*説明
 石棺は二上山で採れる凝灰岩で、大和と河内の境から運んできたことになる。

継体天皇を古事記は武烈の項の最後に品太(応神)天皇五世の孫(ヲホト)を近つ淡海から上らせて武烈の姉妹と娶せて継がせたとある。日本書紀はもっと詳しく、ヲホトは近江国高嶋郷三尾野に生まれたが、父彦主人王は早くに死に、母振媛の実家の越前で育ったとある。さらに継体の妃は古事記で7人、書紀で9人を数えるが、その内二人は三尾氏の娘だ。

この鴨稲荷山古墳の主は三尾氏の関係者だろうか。
気になる煌びやかな冠や履、イヤリングなど朝鮮半島とのつながりを感じさせる遺物だが、若狭の古墳からも似たものが出土している。若狭から京都へは鯖街道が知られるが、熊川宿を通じ、この地域は若狭にも近い。


父彦主人王の墓は田中王塚古墳ではないかという。


北が下なので見慣れない地図に見えるが、こっちから見るとまた違って見える。これに琵琶湖内の水運も加わってくるのだろう。

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高島市勝野

2022-02-02 | 行った所

近江に近藤重蔵の墓があると知ってかなり驚いた。どういうつながりかわからなかった。
蝦夷地の探検家として知られる重蔵は、晩年を近江高島で過ごした。それも息子の殺人の罪の連座で配流された罪人として。重蔵は御家人の息子だが、目黒に広大な土地を所有するなど裕福だったようだ。そこの管理を任せていた長男が、町人7人を斬り殺すという事件を起こしたのだ。息子は八丈島に流された。相手が凶悪な盗賊団だったというならともかく7人も殺して流罪でよく済んだものだ。江戸時代の連座制では重蔵の近江配流もやむを得ないことだろう。
重蔵は大溝藩の預かりとなる。ただ監視は緩かったようだ。むしろ普段は入らない情報源として珍重したのかもしれない。
*


*重蔵の墓
*墓前の案内板
 墓から琵琶湖が見える

近藤重蔵の墓から湖岸へ向かうと大溝藩の城下となる。道の中央を水路が走る街並みだ。
総門址に案内所がある。
なかなか興味深い展示パネルがある。

 

 

琵琶湖は南北に細長いが、堅田の南の細い尻尾のようなところを除くと、この地はほぼ湖西の真ん中、安曇川が琵琶湖にそそぐ沖積平野らしきものが湖岸にせり出しているように見える。それだけに交通の要衝となってきた。

 大溝城は信長の甥の城で縄張りしたのは明智光秀で水城だとか、琵琶湖をめぐる城ネットワークの一角とか

それより興味は古代の方に行く。

 

 乙女が池 
「勝野の鬼江」というのは武者にとっては縁起のいい名のような気がするが、乙女が池とはまた思い切って可愛い名にしたものだ。鬼江産パールよりは乙女が池パールの方が売りやすかったのだろうが、あまり恣意的な地名変更はどうだろうか。
*池の南の山が三尾山
*仲麻呂の乱(ウイキペディアから)
*壬申の乱(岐阜市歴史博物館特別展「壬申の乱」図録から)
 三尾山を挟み、向こう側に白髭神社がある。
*湖の中に立つ大鳥居
*石段をあがったところに紫式部の歌碑がある。
「三尾の海に 網引く民のてまもなく 立居につけて 都恋しも」

 
長徳2年(996年)式部は父為時の越前国士赴任に同行し越前へ向かう。逢坂山を越え、大津から船に乗り高島の勝野で一泊、また船に乗り塩津に渡り、深坂越えで敦賀に至る。木の芽峠越えで越前国府(越前市府中付近?)に着いたはずである。

三尾の海に 網引く民のてまもなく 立居につけて 都恋しも」 
この歌は京都を出て一泊目のことなのに早くも都恋しいと言い出している。三上山も伊吹山も見えたはずだが、興味なかったか。鄙(田舎:地方)を低く見るのは平安京の貴族の通念だろうが、一年余りの越前滞在中の歌も、何を見ても京が恋しい、といったものである。事実我慢できなくなったのか、父をおいて式部のみが京へ帰っている。
歌碑は境内から数メートル上がっただけだが、琵琶湖がよく見える。三尾山まで上がったらさぞよく見渡せるだろう。湖東の山本山からの琵琶湖もよく見えたが、葛籠尾崎の陰になり、海津・マキノは見えなかった。全湖を見渡すにはこちらの方が優れているようだ。合戦で取り合いになる場所だろう。

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