物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

根上の松 小松市根上町

2023-12-20 | 行った所

根上の松は小松IC の近くの松井秀喜記念館から更に1キロ程北へ行ったところにある。小さな松林であるが、かなりよく整備されている。


根上りは、樹木の根が地上に露出していることだから、ここの松に限ったことではないがが、地名になるくらいだから、根上しやすい条件が何かあるのかもしれない。少なくとも「源平盛衰記」が世に現れてきたころにはあったのだろうか。この松は何代目かの「根上の松」だそうだ。


寿永2年(1183)平家の北国下向軍がやってくる。越前今庄の火打城を落とされた越前・加賀・能登・越中の義仲与党は、大した抵抗もできないまま加賀平野を敗走する。その敗走軍の中から井家(いのいえ)次郎範方という武者が17騎で反転攻撃にでる。「源平盛衰記」の記事である。

海岸に沿って松林の中に細い道が続く。反対側は沼地。大軍が通るに有利な地形とは言えない。加賀の住人井家はここを反撃の場所と思ったのだろう。しかしあまりに多勢に無勢、何度も攻撃を繰り返すうち、次々討たれ、全滅する。しかしこのおかげで多少の時は稼げたのか、逃げ延びたものも多かったようだ。

井家という名は、加賀国河北郡津幡にあった井家荘、または石川郡井家郷を起源としたらしいが、津幡よりは小松の井家郷の方がより地元感がある。

義経記によれば安宅関を越えた一行はこの地で白山を遥拝したということらしい。小松からよく見える白山は越前から見る山とは違う形に見える

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一向一揆の夢

2023-12-12 | 行った所

小松ICを降り、広い加賀の平野を横切るように、白山に向かって走る。小松市埋蔵文化財センターを過ぎ、トンネルを二つ潜り、山間の村落にはいる。鳥越だ。
道の駅と農村伝承館と歴史館が建っている。鳥越にある山城は、一向一揆最後の砦だ。


白山市立鳥越一向一揆歴史館は、加賀一向一揆の歴史を辿り、鳥越城址の発掘調査の成果を展示する資料館だ。一向一揆に関して大変詳しい資料館である。
ただ写真撮影は全面禁止。古文書等は仕方がないが、入口付近のパネル展示など撮らせてくれてもいいような気がする。手ごろな資料集も置いてない。
鳥越城址は近くの二曲(ふとげ)城址と合わせて史跡になっている。礎石や土塁・石垣だけでなく、建物も一部復元整備してあるということだったので、見たかったのだが、2022年の豪雨災害で土砂崩れし、まだ登れない、ということだった。生活道路でないので後回しされて行くのだろう。
二曲(ふとげ)城址の近くには行った。
 二曲城入口
こちらは入口にクマ出没の注意書き。実際、熊さんとこんにちはしかねぬロケーションにしか見えず、退散した。

以下は、資料館の展示を参考に、一向一揆の時代の概略を記してみる。一揆といっても、組織内は一枚岩とは言えないこともあるし、戦国大名たちの動向に合わせ、複雑な動きを見せることもあるようで、とても一筋縄ではいかない。わたくしのメモである。

応仁の乱は、都の政争というより全国的な騒乱として、地方に広がっていく。戦乱はいつも貧困と飢餓などを伴う複合災害となる。その中で宗教は確かに人の心を捕らえ得るものなのだろう。本願寺8代法主蓮如は、畿内から越前・加賀境の吉崎に移り、北陸での布教に成功する。信徒は、「講」という地縁的集まりを通し「御文(おふみ)」に教義を学び、団結する。団結は組織となり、ピラミッドを形成する。もちろん頂点は本願寺法主ということになる。組織は力となる。その組織の力を守護の一族は利用し、また恐れた。加賀の一向一揆勢力はついには守護富樫政親を敗死させるに及ぶ。長享2年(1488)の事である。これより加賀4郡は「百姓のもちたる国」となる。富樫氏は平安時代末期、北陸で木曽義仲に従った武者たちの中に名前を見出すことができる。以来鎌倉・南北朝・室町の各時代をそれなりの力を持ちながらと命脈を保ってきたのだろう。富樫の城は高尾城、現金沢城あたりだという。野々市に館跡の碑がある。
 富樫館跡碑
「百姓がもちたる」の百姓には注釈がいる。兵農分離以前のことだ。農民は兵でもあり、武器は持ちなれ、武装は当たり前だった。率いるのは土豪、ともいえる人々だ。その中にも階級がある。ユートピアはありえない。しかし、戦国時代にあって加賀は他の国とは違った体制下にあったことは間違いない。実際、一向一揆は強かった。主君に対する忠誠心より、宗教に基づく一味同心の方が強かったのかもしれない。16Cの一向宗本願寺は戦国大名の雄だ。各地の大名とことを構え、または同盟した。
天正元年(1573)越前朝倉氏が滅亡する。最期は自壊したかのようなあっけのなさだった。信長はとりあえずの越前の支配を寝返ってきた朝倉旧臣にゆだねる。ところが彼らは互いに仲が悪い。一向宗とも絡み合戦をし始める。一向一揆は旧臣たちを襲っていく。朝倉景鏡と結んでいた白山平泉寺も焼き討ちする。6千坊ともいう僧房に僧兵を擁した一大勢力、平泉寺はここに焼亡し、勢力を回復することはなかった。
越前も加賀に続く「百姓持ちの国」となった。これを本願寺の坊主たちは自分の領国になったと勘違いをしたようだ。法主顕如は下間頼照を代官として越前に下すのだが、これが悪かった。何しろ重税を課すのだ。戦って自分たちの国にしたはずが、前代よりも重い税を取り立てられるのだ。それに本願寺から来た坊主どもはやたらに威張るのだ。下間氏というのは代々本願寺法主の側近の家柄だという。だいたい法主からして世襲だ。上級坊主は基本的に一揆をあおり、一方では敵方とも手を結ぶ。あおられた宗徒は 進は極楽往生、退くは無間地獄と突き進む。しかしこれでは進んでも地獄ではないか。坊主に対する一揆が起こる。もはや「一揆」とも言えない。
それに信長も黙っていない。伊勢長浜の一揆を壊滅させると、北陸へ10万の兵を向ける。自壊しかけていた越前一向一揆は崩壊する。この時の織田勢の苛烈さは越前市五分市の小丸城址出土の文字瓦が証言する。
▲天正年間の府中付近の一揆を示す文字瓦
文字瓦には、5月24日に一揆がおこり、信長配下の前田利家が一揆勢を約1000人生捕りにし、はりつけや釜あぶりに処したことが刻まれている。
武生市 味真野史跡保存会所蔵 図説 福井県史より https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/B22/B222.

この頃前田利家は不破光治・佐々成政とともに一揆平定の褒美として府中三人衆として越前に入った。残党狩りとして宗徒を虐殺したと見える。文字瓦は鳥越の資料館にもレプリカが展示され、解説もされている。越前市の味真野万葉館の万葉集がメインの展示の隅に、場違いそうにこれもレプリカが展示されている。実物は収蔵庫だろうか。加賀百万石祭とやらの会場に展示したらいいのに!と思う。
本願寺は上杉謙信と結び、加賀で信長と対抗しようとするが、天正6年謙信急死。
天正8年(1580)本願寺顕如は信長と和睦する。天皇を仲立ちとして、石山開城と引き換えに、加賀の2郡を保持するつもりだったらしいが甘すぎる。顕如長男教如は徹底抗戦を主張するし、一揆衆たちも退かない。柴田勝家は金沢御坊を陥落させ、さらに鳥越城も落ち、加賀白山山麓の一向宗徒山内衆を率いた鈴木出羽守もこの頃首を取られたらしい。しかし山内衆はその後も蜂起し鳥越城を奪還したりする。最終的には天正10年(1582)鳥越城は陥落し籠った一揆勢300余人が磔で殺される。これが加賀一向一揆の最期の戦いとなった。

 文字瓦が出土した越前市五分市の小丸城址

 小丸城址の石の門

越前の一向一揆が壊滅した後に佐々成正が築城したという城だが、織田の諸兵はこんな瓦が屋根に乗っているとは思いもしなかったであろう。

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