物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

平忠度腕塚

2020-10-29 | 行った所

忠度の最期は「平家物語」第8巻に詳しい段がある。

薩摩守忠教は、一の谷の西の手の大將軍にておはしけるが、紺地の錦の直垂に黑糸おどしの鎧着て、黑き馬のふとうたくましきに、いっかっけ地の鞍おいて乘り給へり。其勢百騎ばかりが中に打かこまれて、いとさわがず、ひかえひかえ落ち給ふを、猪俣党に岡部の六野太忠純、大将軍と目を懸け、鞭あぶみをあせて追ッ付きたてまつり、「抑々いかなる人で在まし候ぞ。名乗らせ給へ」と申しければ、「是は御方ぞ」とて、ふりあふぎ給へるうちかぶとより見入れたれば、かねぐろ也。あッぱれ、みかたにかね付けたるひとはなきものを。平家の公達でおはするにこそと思ひ、おし並べてむずとくむ。これを見て百騎ばかりの兵ども、国々のかり武者なれば、一騎も落ちあはず、われさきにとぞ落行きける。薩摩守、「にっくいやつかな。みかたぞと言わば言わせよかし」とて、熊野そだち、大ぢからのはやわざにておはしませば、やがて刀を抜き、六野太を、馬の上にて二刀、落付くところで一刀、三刀までこそ突かれける。二刀は鎧の上なればとほらず、一刀はうちかたなへつき入れられたりけれども、うす手なれば死なざりけるを、とッておさへて頸をかかんとし給ふところに、六野太が童、おくればせに馳せ來ッて、うち刀を拔き、薩摩守の右のかひなを、ひぢのもとよりふつと切落す。薩摩守、今はかうとや思はれけん、「しばしのけ、十念唱へん」とて、六野太をつかうで、弓だけばかりぞなげのけられたり。其後西にむかひ、「光明遍照十方世界、念佛衆生攝取不捨」とのたまひもはてねば、六野太うしろよりよッて、薩摩守の頸を討つ。よい大将軍討ッたりと思ひけれども、名をば誰とも知らざりけるが、えびらに結びつけられたる文をといて見れば、「旅宿の花」といふ題にて、一首の歌を詠まれたる。
「ゆきくれて木のしたかげをやどとせば花やこよいあるじならまし」忠教とかかれけるにこそ、薩摩守とは知りてンげれ。太刀のさきにつらぬき、たかくさしあげ、大音声をあげて、「この日來、平家の御方に聞えさせ給ひつる薩摩守殿をば、岡部の六野太忠純が討ちたてまつるや」と、名のりければ、敵もみかたもこれを聞いて、「あないとほし、武芸にも歌道にも達者にておはしつる人を。あったら大将軍を」とて、涙を流し、袖をぬらさぬはなかりけり。

岩波ワイド文庫に拠ったので、忠度は「忠教」になっている

「ゆきくれて木のしたかげをやどとせば花やこよいあるじならまし」の歌は好きだ。
よくわからないのは名乗れと言われて、味方だ、という返事をすること。味方と云えば通ると思うほどの甘い考えは持っていなかったろうに。
あっという間に四散する駆武者どもの頼りなさ、しかし本当だろうか。富士川を前に四散した大軍、倶利伽羅に敗れ、篠原での高橋長綱の勢の落ちようは将に駆武者のそれなのだが、この一の谷に集まった者どもは、皆それなりに平家の再起に賭けた者どもではなかったか。この時点で駆武者ばかりだったということは、それ自体平家の敗因ではなかったか。忠度の死を敵も味方も悼んだという、この大将軍に股肱の郎等はいなかったか。

また一の谷の大手というが、いわゆる一の谷の合戦趾はここから西へ5kmも行くのだ。大手生田の森からは既に7kmも西進している。大手生田の森からは次々に大将級が落ちようとしては悲運に見舞われる。南は海、北は山の東西に長い戦線、余りにも戦線が広くはなかったか。忠度はどこを目指して落ちようとしたのか。海に浮かぶ助け舟か。

忠度の墓は明石にもあるという。どちらが死に場所か。

忠度は忠盛の末子、清盛の異母弟、忠度は熊野育ちだという。生誕場所もあるというが、一方母は歌の上手な女房という説もある。

 余りに狭くてっぺん判らず

腕塚は長田港間近の住宅密集地の中にあった。
長田区は震災の被害が特にひどかった地域と聞く。車両の出入り不能の住宅地であった。  
 

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大輪田泊 清盛塚・薬仙寺

2020-10-29 | 行った所

清盛塚は大輪田橋近くの兵庫住吉神社の傍にある。墓ではないと確認され移築されている。

↑清盛塚十三重石塔と清盛像

 

↑並んでいる琵琶塚は経正の供養塔だと言われてきたらしい。歩道の意匠は琵琶だろう。

↑近くに古い五輪塔がたくさんあった。

↑この辺り、経が島か、大輪田の泊か(大輪田橋付近から)

↑大輪田橋 戦災・震災の後を伝える。

↑兵庫運河の大輪田水門。

↓清盛橋を渡り、薬仙寺へ。


↑移築されてはいるが、後白河が閉じ込められていた場所だそうだ。

 

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布引滝

2020-10-27 | 行った所

これは浮世絵最後の光を放つ絵師芳年の作「清盛入道布引滝遊覧悪源太義平霊討難波次郎」明治元年。紙を3枚縦に繋いだ変形画面で滝の迫力を出している

上でテンバっているのが、死して雷となった悪源太義平。真ん中で逆さになっているのが義平の首を斬った難波次郎経房。下段中央が清盛で他に4人を数えることができるが、名前は二人分しかないのでどれか判別しがたい。一人は「平家物語」でお馴染みの瀬尾太郎兼康だ。一番下でひっくり返っているのがそれだろうか。
この絵は「平治物語」に題材をとる。平治の乱が治まって後の事、清盛は出家し福原にいる。布引の滝を見物に出かけた。お供する難波次郎は夢見が悪く気分が悪かったがそれでもついてきた。滝見物が終わるころ、空は俄にかき曇り、雷と共に悪源太義平現われ、難波経房は雷に打たれて死ぬ。義平は処刑される時、難波経房に雷になって復讐してやる、と云って斬られたのだった。ただし、「平治物語」では難波三郎になっている。(角川ソフィア文庫)
江戸にいた芳年にはたぶん布引の滝を実見したことはなかったろう。

布引滝は新神戸駅のすぐ裏手になる。1Fバス乗り場からすぐ矢印の案内がある。それに従っていくとさらにいろいろ案内がある。

 水路橋がある。

明治の設備だ。 川は生田川、どうやら新神戸駅の駅舎そのものが川をまたいで立っているらしい。


水路橋を渡り登っていく。

関西にある滝だから、都の人たちにも近しいものだったのだろう。歌碑がたくさんある。
 雌滝

 雄滝


雄滝から更に上って展望台へ。

帰路、水路橋と新神戸駅の間に猫がいた。

 クロは変わった鳥のようなかわいい声で鳴く猫だった。

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兵庫県川西市多田 多田神社

2020-10-27 | 行った所

以前明石方面に行くつもりが間違えて宝塚方面に向かってしまった神戸JCT、今日はその宝塚・京都方面、新名神を行く。
川西ICを降りるとナビは何やら心細いような道を指示するのである。川沿いの道だ。川というより渓谷といった方がいいような。猪名川、多田大橋を渡る。いよいよ多田が現れた。
多田荘、清和源氏の祖といわれる経基の子満仲がこの地を得て、本拠地とした。
だか、意外に平地は少なく、豊かな土地というようには見えない。この辺りで銀や銅の鉱山もあったというが、満仲の時代利用はどのようなものだったかは不明らしい。元木泰雄「保元・平治の乱を読み直す」には説話の世界だが、満仲はここで狩猟に明け暮れていたとある。説話の出どころは書いてなかった「今昔物語」ではないようだ。狩猟ならこのようなところでもよかったのだろう。狩猟はもちろん軍事演習であろう。


多田神社へ行く。


↑川沿いにたっている。川には赤い欄干の橋がかかる。がらがらだが有料と書かれた駐車場に停める。どこからともなくおじさんが現れ300円を徴収する。


↑そこそこ大きな神社だ。清和源氏発祥の地と書いてある。

満仲・頼光・頼信・頼義・義家の5人を祀る。満仲の子は頼光・頼親・頼信で、頼光は摂津源氏、頼親は大和源氏、頼信は河内源氏、それぞれの祖となる。頼義、義家は頼信の子と孫だ。ここは摂津の国、多田を名乗る摂津源氏の本拠なのだが、河内源氏に乗っ取られたかのような恰好だ。


頼朝が多田行綱を追い出し、ここを取り上げてしまったこととも無縁ではないのだろう。頼朝は河内源氏としてだけでなく、清和源氏の嫡流を名乗る。


境内にあった家系図には破線の挙句、家康が現れる。
それで笹竜胆だけでなく、三つ葉葵の紋が飾られているのか。源氏を名乗ってしまった以上、この神社をむげにはできない徳川なのだった。


頼光の大江山の鬼退治の歌の歌詞が書いてあった。鬼退治の話は知っていたが、この歌はさすがに聞いたこともない。

本殿裏に満仲の墓もある。

三ツ矢サイダーの創業地はここだったのか。炭酸入りの鉱水だったのか。

頼光寺にも行ってみる。

能勢鉄道という私鉄の沿線になる。やたらにややこしく丘陵地の住宅街をまわりまわって着いたが、本来の門は別方向にある。そちらは線路で断ち切られ、車は通れなくなっていたのだった。

鬼退治の荒々しさの影もない穏やかすぎる寺だった。シュウメイギクが咲いていた。

 

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以仁王をめぐって

2020-10-22 | まとめ書き

以仁王は後白河の第3皇子である。兄守覚法親王が出家のため第2皇子とされることもある。他に同母の姉妹式子と亮子がいる。さらにもう一人妹休子もいる。この妹は後白河天皇即位後に生まれている。新古今の歌人として知られる式子内親王、百人一首の「たまのをよ たえなばたえね ながらへば しのぶることの よわりもぞする 」を知る人は多いだろう、亮子内親王は殷富門院と呼ばれる。殷富門院大輔と云う人の「みせばやな をじまのあまの そでだにも ぬれにぞぬれし いろはかはらず」が百人一首に採られているが、これは殷富門院に仕えた女房の歌。
後白河の長男守仁親王(二条)は幼くして後白河の父後鳥羽の愛妃美福門院に引き取られて育つ。守仁の母は若くして死んだ。
以仁王兄弟姉妹の母は藤原季成女、待賢門院の姪である。家柄も悪くなく、女色のみならず男色関係にも乱脈な後白河相手に5人も子を生したのだから、かなり安定した関係だったことになるだろう。
以仁王は幼少時に比叡山に入る。しかし師とした最雲法親王は以仁王11歳で死んでしまう。以仁王は還俗し元服するのだが、何故寺に残れなかったかはわからない。本人の意思か別の事情があったものか。最雲法親王は天台座主だ。兄守覚法親王は仁和寺座主覚性法親王(後白河弟)を師とし仁和寺座主を継いでいる。最雲法親王が死ななかったら以仁王にも天台座主になる未来があったかもしれない。因みに、仁和寺の座主たちは平家物語第7巻「経正都落」「青山の沙汰」に登場する。経正は覚性法親王に可愛がられ、琵琶の名器「青山」を預けられ、守覚法親王にそれを返し都落ちするのである。
以仁王は最雲法親王から城興寺という寺の領地を譲られていた。比叡山延暦寺はもともと寺領なので還俗により寺に返すべきだとしたのに対し、以仁王は最雲法親王より個人的に譲られた資産だと言って譲らず、事実上以仁王の資産とされていたようである。これが後々問題となる。現在京都の東九条烏丸町に城興寺という寺はあるが、この寺の寺領であるかは知らない。
以仁王は、生来学問好きで聡明、という評価があるが、意地悪く言うと、宮廷内に希望は見えず、宗教にも逃げれず、他にすることがなかったのではあるまいか。
女性関係も当然あったろうが北陸の宮と呼ばれる長男の母親も八条院の女房の一人らしいが、つまびらかではないようだ。重要なのは八条院寵臣三位局との関係だった。
八条院暲子は鳥羽と美福門院の愛娘であり、二人から膨大な荘園を受け継ぎ、この時代に特異な位置取りをしていた。近衛の実姉であり、近衛の死後女帝としての即位が検討されたという。のみならず二条とは実の姉弟のように育ち、二条親政のバックアップをした。
八条院のお気に入りの女官三位局との関係から、以仁王が八条院の猶子となり家族同様の扱いを受けるとあっては、後白河も清盛も神経質にならざるを得ない。
後白河にとって二条は実子でありながら美福門院に取り込まれ、自らの院政を否定されたとのうらみがある。既に成人に達した息子は脅威でしかなく、以仁王は二条の再来のように思えただろう。清盛にとっては、高倉に入内した娘徳子に皇子が生まれる前に帝位候補が出来ては困るのである。以仁王は親王宣旨もなく、つまり皇太子候補に入れないスタンスで放置されていたらしい。平家物語は建春門院の妬みにより、と書くが、この辺りは後白河と清盛の利害が一致していたのだろう。
安元2年(1176)建春門院滋子が死ぬ。清盛と後白河の間を取り持ってきた気配り上手の女性の死に彼らの関係も変化せざるを得ない。
安元2年のうちに、後白河は自身のより幼い息子二人を高倉の養子にしてしまう。
この時、1161(応保1年)生まれの高倉は16歳、そろそろ親政を志向してもおかしくない歳になっていた。二人の皇子、道法法親王・承仁法親王はそれぞれ1166年と1169年の生まれである。後白河は院政の継続のため、高倉からより幼い皇子への天皇の差し替えを考えていたのだろうが、もとより平家は飲めるわけの無い話である。
以仁王は1151年生まれで高倉より10歳年長である。

安元3年の白山事件から山門の強訴の処置、後白河はなかなか強気で、平家に比叡山討伐を命じたりしている。
しかし、ここで一気に形勢逆転する。鹿が谷陰謀事件の発覚である。激怒した清盛は後白河近臣たちを一掃しする。

治承2年(1178)高倉と中宮徳子の間に待望の皇子が誕生する。この赤ん坊が天皇になれば、高倉が院政を敷ける。もはや後白河は不要である。更に後白河が重衡と盛子(清盛娘、故摂政基実室)の死に乗じ、平家支配の所領を奪ったことから、清盛は治承3年の政変と呼ばれるクーデターを断行する。後白河への遠慮も不要となった今こそ、後白河を幽閉し、院政を停止する。
高倉は退位し、幼帝安徳の即位、後白河は鳥羽殿に軟禁中の身の上だ。
とばっちりは以仁王の所へも来る。最雲法親王か譲られたとして領していた城興寺の荘園を巡る比叡山との争いに、清盛は比叡山の言い分を正しいという裁定を下したのだ。

以仁王は本気で天皇になりたい、政治を動かしてみたいと云う野心をずっと持ち続けていたとは思われない。確かに後白河の皇子ではあるけれどずっと年の離れた高倉が帝位にあり、次の候補も更に年下の弟たちだ。平穏に暮らしていければそれでいい、と云った心境ではなかったろうか。
けれど所領の問題は深刻だ。平家許すまじ!という心境にもなるだろう。そこを煽る者がいてのクーデター計画だったのだろうか。しかし源頼政を煽動者だとは思わない。平家物語では頼政は以仁王を密かに訪ね、各地の源氏をいちいち挙げて決起を促す。しかし頼政が平家に「謀反」する理由はなく、現在多くの史家は頼政巻込まれ説のようである。人相見の煽りはあったかもしれないが、本当の煽動者は八条院周りの反平家、園城寺の坊主、そして後白河その人、を疑う。後白河は確かに幽閉されているのだけれど、ここには紀伊二位(信西の妻)が付き添い、静憲が出入りしている。静憲は平治の乱で死んだ信西の息子で父ほどの切れ者ではなかったというが、鹿が谷事件にも関係しており油断ならない。私はこの人を連絡係に擬してみたい。かつて清盛に恥も外聞もなく泣きつき、二条親政派の公卿、経宗・惟方の二人を捕縛させている後白河の事だ、また泣き落とし戦術でクーデターを促したとしても驚かない。幽閉中の後白河院に手駒はほとんどない。長年放って置いた三男を思い出したのか、案外父親からの優しい手紙の一通がきっかけになったかもしれないのだ。平家追討の暁には以仁王を帝位に、と云えば八条院も動いたのかもしれない。かくて八条院に近い頼政も巻き込まれる。
「鼬の沙汰」では鳥羽殿で鼬が騒ぎ、後白河は陰陽師に占わせる。「三日のうちに御喜びと御嘆きがある」と卦が出る。鳥羽殿を出て洛中に帰れたのが喜び、高倉宮の謀反発覚がお嘆き、ということになっている。占いにかこつけてはいるが、あらかじめ知っていたこととも見える。
このクーデターは計画自体の初期状態であったのかあっさり平家に露見してしまう。頼政サイドからの露見でないことは確実だ。平家物語では、熊野の湛増が源行家の不穏な動きを察知して飛脚で知らせたことになっている。
このトラブルメーカー行家を推挙し八条院蔵人にしたのは頼政だという。行家は以仁王令旨の広報係として飛び回るのだが、頼政にしてとんだ目すりをしたものだ。八条院蔵人というなら仲家がいたではないか。仲家は頼政と共に平等院で戦い、死んでしまうのだが、厄介叔父行家の代わりに兄貴が生きていてくれたら義仲にとってどんなによかった事だろう。

平家はなんと以仁王の捕縛を頼政に命じている。頼政は以仁王に急報する。

以仁王は京都の三条高倉殿に住まいした。それ故三条の宮とか高倉の宮とか言われる。三条高倉殿は待賢門院が住まったという。この美貌の祖母の関係で以仁王はここに住まったのだろうか。
姉小路・三条・高倉・東洞院の各通りに囲まれる場所で現在京都文化博物館や郵便局がある。高倉宮の碑は東洞院に面してある。

 高倉宮址碑
隣接する三条東殿は平治元年(1159)源義朝が攻め入り後白河を拉致幽閉する。その時の火災の類焼はなかったのか。

以仁王は女装し高倉殿を抜け出す。郎党長谷部信連の助言に拠る。
この信連という格好の良い武者の事は別に書いた。
https://blog.goo.ne.jp/reminder/e/62b3a4c6671edbbf818274c2313a515a
信連は、捕縛の武士が来る前に、館を掃除している。壇ノ浦では知盛が最期を前に船の掃除をしている。戦い、それも多分負け戦になる前の掃除は、見苦しいものを敵に見せない美学なのだろう。

園城寺を目指す以仁王の道筋は、高倉通を北へ、近衛通を東へ、鴨川を渡り、如意山へとある。高倉通はわかるが近衛大路は難しい。陽明門から東へ走る大路なのだが、現在は荒神橋の東の方に残っているだけだ。平安京の内裏陽明門辺りから東へ行く道は現出水通だ。これをたどると現御所にぶつかる。平安末にはこの御所はないからかまわず突っ切る事にするとだいたい荒神橋付近に出る。

高倉通を北上、現御所中ほどで右に折れて東へ。荒神橋を渡り近衛通をさらに東へ、真如堂の北当たりを通り、鹿が谷、霊鑑寺脇へ出る。この奥俊寛山荘の道標がある。

 ここまで速足でざっと一時間ちょっとで来る。ここからが坂になる。舗装してある道の部分も大変な急坂だ。その後は登山道になる。
如意が岳は標高472m、五山の送り火の大文字山はこの山の支峰である。鹿ヶ谷から池ノ谷地蔵を経て園城寺へ至る山道は「如意越」と呼ばれ、これは京と近江の近道とされるそうだ。以仁王のルートはこれだろう。
一応ハイキングコースにはなっているようだ。但し毎年如意が岳で遭難するハイカーがいるそうだ。甘い道ではないのだろう。
よくわからないのは滋賀県側の降り口である。池ノ谷地蔵から東へ行くと皇子山カントリーというゴルフ場周辺に行きつくようである。ここからどう行くのか?小関越えの道には接続しないように見える。北の方へ回るのか。
以仁王は脚を血だらけにして園城寺へたどり着いている。頼政からの急報は以仁王が月を眺めていた時だ。夜なのだ。月明りとはいえ山中、よく歩けたものだ。疲労困憊に違いない。
ここで平家物語は天武天皇の吉野行に以仁王を重ねている。
園城寺についたのは、明け方。法輪院に御所がしつらえられる。
法輪院は南院の中の僧房で現観音堂辺りと比定されるそうだ。

 観音堂

頼政たちは自らの館に火を放って、園城寺に参集する。

延暦寺と興福寺に牒状を送ったりとここからが長の詮議・・・。三寺連合とはいえ比叡山延暦寺と園城寺は仲が悪い上に、肝心の以仁王は延暦寺との間にトラブルを抱えている。後白河と延暦寺の仲だって悪い。すんなりいくわけがないのだ。
南都興福寺からは色よい返事が来る。この清盛を味噌糞に悪く言う返牒は信救得業、後に太夫房覚明と名乗り木曽義仲の手書き(秘書官・参謀)となる。しかし南都からの援軍がすぐ来るわけではない。
六波羅への夜討ちが主張される。主戦派の乗円房阿闍梨慶秀という主戦派の老僧は、ここでも天武天皇の例を引いている。園城寺という寺は大津宮の跡地に立つというが、ここには天智-大友皇子への同情はない。
「大衆揃」で大手・搦め手、園城寺から出発しようとする。源三位頼政率いる搦め手は如意が岳へ。まさに以仁王が逃げてきたルートで向かうのだろう。大手は頼政嫡子仲綱以下、これは山科経由なのだろうか。

ところで、この挙兵について、むしろクーデター計画はなどはなかったという説もある。過敏になっていた平家が、熊野の行家が八条院蔵人になったこと、以仁王が寺領の件で不満を持っていることを結び付け、八条院の持つ王位候補の駒としての以仁王を潰してしまおう、と云うものだった。頼政も全く関与しておらず、ただ以仁王追討の命が下ったことを、好意から知らせた。しかし以仁王が逃げ出してしまったことで、その責任を追及されることを恐れ、合流のため園城寺に向かった。園城寺側では、あくまで強訴に協力するつもりで、実際の合戦までは想定していなかった。ということである。
以仁王は寺領を取り上げられたといっても、八条院の庇護がある限り生活に窮することはない。特に八条院は以仁王の娘を猫かわいがりしていて、後継者と目していた。八条院の後継者と云うのは莫大な財産の相続人ということである。こうなると、以仁王にも頼政にも動機がなく、偶発の積み重ねが大ごとになってしまった、となるのだが、そうだろうか。
以仁王は「謀反」の計画などない、ヌレギヌだ、と主張したところで平家に通じないだろうから、逃げ出すのはいい。ただ駆け込み先が園城寺ではむしろ謀反の噂を肯定してしまうのではないか。仁和寺の兄守覚法親王の所にでも身を寄せた方が穏当ではないだろうか。夜間の山登りもせずに済んだだろう。
頼政にしても邸に火をかけ、一族郎党園城寺に向かう。そのほとんどが平等院で死ぬのだ。並みたいていの決意ではなかったろう。以仁王に急使を送り逃がしたことで一味と疑われ申し開きが出来なくなったとしても、ここまでなら75歳の頼政の皺腹一つで何とかなることではなかったか。息子や養子たちの身の振り方も心配だろうが、命取られるほどの事はなかったのではないか。渡辺党などの郎党たちには別の就職先があろう。現に「競」で平宗盛は渡辺競を郎党にしようとした。やはり頼政はそれ以前に、抜き差しならず巻き込まれていたように見える。
園城寺も興福寺も協力の意思はあったが、強訴だと思っていた、と云うのは正しいかもしれない。頼政が兵を率いて入山し、いざ合戦、となったら「長の詮議」となってしまった。強訴ならばともかく、合戦までは、という僧が一定数いたのではないか。興福寺も動きが悠長すぎる。長々とした行列で北へ向かっているが、斥候だの先遣隊だのを出した形跡はないようだ。こっちも強訴だと思っていたのだろう。クーデターの計画は始まったばかりで各分担もろくに決まっていなかったのだろう。

延暦寺が園城寺を攻撃するという情報もあり、長の詮議に夜討ちの機を失い、如が岳に向かった搦め手も引き返し、園城寺では守り切れないと、一同興福寺に向かう。

平等院への経路だが、源平盛衰記には逢坂山、鵠(くぐい)坂、神無の森、醍醐、木幡、宇治、となっている。鵠坂と云うのは見つけることができなかった。神無森は山科に小山神無森町という地名がある。京都東ICの辺りである。


私は、観音堂の直ぐ後ろから出る小路が小関越えの道につながるので(図の長柄神社左手に見えるハイキングコースがその道である)、てっきり小関越えで山科に出たと思ったのだが、この道だと四ノ宮に出て、神無森を通らない。大関越え(逢坂山)をしたことになる。 しかし逢坂山越えだとやはり迂回しすぎるように思う。神無森の範囲がもっと西に広がっていたと考えることはできるだろうか。
山科から醍醐は醍醐道という道があるが、間道を伝ったのかもしれない。醍醐にある頼政道の碑は醍醐寺の裏手の長尾神社の参道にある。
 頼政道
木幡の南に頼政橋という頼政たちが通ったという伝承を持つらしいところがある。宇治病院の近くを東に入ったところである。
 頼政橋
この辺りから平等院までは歩いても1時間程度で行けるはずである。

宇治につくまでに、以仁王は6回も落馬した。如意越えの疲労も癒えず、気が休まらず、ろくに眠れもしない日々が続いていたことだろうが、平家物語の記述は以仁王には随分酷な気がする。死んだら棺に入れてくれと云っていたほど大事な笛を忘れ、信連に届けてもらう迂闊さ、落馬を繰り返す気力・体力ともに欠くありさまである。以仁王は令旨の中でも自らを天武天皇に例えている。
「よって吾一院の第二皇子と為て、天武天皇の旧儀を尋ね、王位推取の輩を追討す」
大海皇子が天智と同母の弟という記紀の記述は大いに疑ってしかるべきだが、ともかく一旦畿外に出て、取って返して権力を奪取した人物は、気力あふれるリーダーを想像せずにはおかれない。平家物語の以仁王はそういう人物としては描かれないし、むしろ腐している。

ともかく宇治橋を渡り、平等院に陣が敷かれる。宇治橋の橋げたを落とし、宇治川を結界に、平家の人馬を留め、その間に以仁王を南都に落とそうという作戦だ。この段階で頼政たちは討ち死にを覚悟したことだろう。
 宇治川
「橋合戦」は僧兵たちの活躍が華々しい。
しかし、馬筏で川を押し渡られてしまっては、騎馬の武士と僧兵では勝負にならない。頼政たちの奮戦も多勢に無勢なのだった。
 頼政墓

一足先に奈良へ向かった以仁王の一行は山背街道を南下したのだろう。以仁王の墓所のある木津川市山城町綺田神ノ木まで徒歩3時間足らず。橋合戦はそれだけの時間を稼いだのだった。
追う平家の平忠清弟景家は渡岸を果たすと、平等院での合戦に目をくれず、以仁王を追い始める。平家物語によれば、追う平家500騎、以仁王一行30人。矢を射かけられ、以仁王の腹に当り、落馬。光明山の鳥居の辺りだという。
 高倉神社

 以仁王墓
以仁王の墓の東の山麓に光明山寺の址があるという。大きな寺院だったらしい。本地垂迹の神仏一帯で神社もあったのだろう。その鳥居辺りが今の高倉神社付近ということらしい。
南都からの援軍7千余騎は遅かった。王が殺された時、興福寺の先陣はは木津川まで来ていたが、後陣はまだ興福寺門前にある。木津川を渡る泉大橋北詰から高倉神社までほぼ直線の南北約5kmである。あと少し、ともいえる距離だがまだ遠い。

この時まで以仁王に付き従っていた乳母子の六条太夫宗信は近くの池に飛び込んで隠れ、敵がいなくなったところで京へ逃げ帰る。「にくまぬ者こそなかりけれ」と云うのだが、これは少々酷なようだ。彼は武者ではない。重衡を見捨てた乳母子後藤兵衛盛長とはわけが違う。

「宮御最期」では、お供の鬼佐渡・荒土佐・荒太夫・理智城房の伊賀公・刑部俊秀・金光院の六天狗、がともに討ち死にしたとある。このうち刑部俊秀は「大衆揃」の最後で乗円坊阿闍梨閨秀が、義朝と共に平治の乱を戦い戦死した相模の山内首藤刑部俊通の子だと紹介している。「大衆揃」で成喜院の荒土佐・法輪院の鬼佐渡・律成房伊賀公が一人当千のつわものと云われている。理智城房と律成房は同じだろうか。また金光院の六天狗は、式部・大輔・能登・加賀・佐渡・備後となっている。国名は出身地か縁者の役職に関することか。金光院は北院新羅社の西南にあった寺で、源義光の創建とある。新羅三郎と呼ばれる義家弟義光の墓は新羅神社奥にある。
 新羅善神堂

 義光墓
義光流源氏は常陸の佐竹氏が有名だが、近江にも義光流の源氏がいるのだ。「源氏揃」で頼政は「近江国には、山本・柏木・錦古里」と挙げている。山本義経とその息子あるいは弟たちである。行家は近江、美濃・尾張と令旨を触れていくことになっている。山本義経らは山本山城に拠り、琵琶湖の舟を封鎖し、平家に対抗するが、平知盛に攻められ落城する。
 山本山
金光院には必ずや彼らの近い血筋の者がいたことだろう。
「宮御最期」に描かれる人たち以外にも、ここで戦死した人は多いのだろう。
千葉常胤の息子日胤もここで死んだ。常胤は下総に日胤の菩提を弔う寺を建てている。その名も円城寺(おんじょうじ)である。千葉県佐倉市にある。
 円城寺跡

以仁王の墓から南へ100mの地点に筒井浄妙の塚はもある。


筒井浄妙明秀は「大衆揃」で堂衆として紹介されている。堂衆は注記によれば「寺院の諸堂に属し雑役に当たる下級の僧」とある。一来法師は法師原とあり、こちらは「寺院の雑役に当たる僧形の下人、原は複数を示す接尾語」とある。どちらかというと一来法師の方が身分的の下だろうか、ただどちらも雑役夫であり、寺院内の下層階級だろう。筒井というからには本能寺の際洞が峠で日和見を決め込んだ大和郡山の筒井順慶が思い浮かび、大和郡山の出身ということではないだろうかと思ったのだが、「大衆揃」に浄妙の所ではなく、筒井法師として2名挙がり、注記に「筒井は三井寺総門の南、南院三谷の一つ筒井谷」とある。こっちかもしれない。
彼らの活躍は「橋合戦」に詳しい。浄妙は立派な鎧兜を着て大音声に名乗りをあげ、橋桁を外した宇治橋のゆきげたを渡って大暴れする。これは下級僧侶というよりは武者の出自だろう。その後ろから一来法師、「悪しゅう候、浄妙房」と一声かけて飛び越していく。一来法師は宇治川で討ち死に、浄妙房は奈良を目指して落ちる。この活躍ぶりは京都祇園祭の浄妙山になっている。
 浄妙山(祇園祭関係HPから)

このアクロバット的な戦いを佐藤太美氏は宇治猿楽の世界ではないかと云っている。イケズキ・スルスミ、佐々木高綱・梶原景季の先陣争いの宇治川の合戦は競べ馬だ。宇治川で行われた二つの合戦は、将に軍記物としての平家物語だ。

さて、以仁王はあっけなく殺され、クーデターは潰えるのであるが、宮の死後、令旨なるものが物を言い始める。全国的な戦乱の時代が幕あけするのである。特に頼朝は令旨を肌身離さず、以仁王生存説も利用し使いまくる。

木曽義仲の育った日義村の義仲館には実物大人形で再現したものがあるのだが、山伏姿の行家が令旨を読み上げ、義仲以下中原家の面々が畏まってこれを聞く、という様子だ。

岩波本「平家物語」には山門牒状や南都牒状は引いてあるが、以仁王の令旨はない。 
次の引用はネットで拾った。吾妻鑑のものだそうだ。
《下す
 東海、東山、北陸、三道諸国の源氏並びに群兵等の所へ

 応えて早く清盛法師並びに従類叛逆の輩を追討の事

 右、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣ず

 最勝王(以仁王)の勅を奉りて称(い)う
 清盛法師並びに宗盛等、威勢を以て凶徒を起す
 国家を亡し、百官万民を悩乱す
 五畿七道(全国)を虜掠し、皇院(後白河法皇)を幽閉し、公臣を流罪す
 命を断ち、身を流す
 淵に沈め、樓(牢)に込め、財を盗り、国を領す
 官を奪い職を授け、巧無きに賞を許し、罪あらずに過(とが)を配す
 あるいは諸寺の高僧を召し釣(こ)め、修学の僧徒を禁獄す
 あるいは叡岳(延暦寺)の絹米を給い下し、謀反の粮米を相具す
 百王の跡を断ち、一人の頭を切る
 帝皇に違逆し、仏法を破滅し、古代を絶つ者なり
 時に天地悉く悲しみ、臣民皆愁う
 よって吾一院の第二皇子と為て、天武天皇の旧儀を尋ね、王位推取の輩を追討す
 上宮太子(聖徳太子)の古跡を訪ね、仏法破滅の類を打ち亡ぼさんや
 ただ人力の構へを憑(たの)むにあらず、ひとへに天道の扶(たす)けを仰ぐ所なり
 これによって、もし帝王三宝神明の冥感あらば、何ぞたちまち四岳合力の志なからんや
 然らば則ち、源家の人、藤氏の人、
 かねては三道諸国の間、勇士に堪えら者、同じく与力し追討令(せし)め、
 もし同心せずにおいては、清盛法師の従類になぞらい、死流追禁の罪過に行うべし、
 もし勝功あるにおいては、まず諸国の使節に預かり、
 御即位の後、必ず乞いに随(したが)い勧賞を賜わるべきなり
 諸国承知して宣に依てこれを行え

 治承四年四月九日

 前伊豆守正五位下源朝臣仲綱》

宛名は「東海、東山、北陸、三道諸国の源氏並びに群兵等」 頼政の息子仲綱が以仁王から聞いて書いた、という体裁で、日付が治承4年4月9日。以仁王の館に捕縛に来たのは5月15日だから一月以上前ということになる。
園城寺で出されたものという説もあるそうだ。そうなると日付が合わない事になるが。そもそも以仁王の令旨などは偽書だろう、と九条兼実は玉葉に書いているそうだ。

クーデター計画そのものがなかった説だともちろんこの時期の令旨はありえない。

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山本山城趾

2020-10-18 | 行った所

秋の好日、山本山へ登る。
木之本インターを降り、朝日山神社を目指す。山本山は湖北、北琵琶湖の湖岸近くに立つはずである。どうやらそれらしい山に近づくにつれ、少々驚いた。意外なほど大きな山ではないか。意識はしていなかったが、この山ならは北陸道も8号線も走るときには見ていたはずである。


山本山自体はかなり端正な円錐状だが、南に張り出した部分にも峰があり若宮古墳になっている。尾根は細く北へ延び琵琶湖沿岸を巡るように賤ケ岳に向かって続く。


登り口は集落内にある。朝日山神社というより朝日小学校の脇、と云った方が探しやすいだろう。朝日山神社ではナビは出てこない。小さな祠一つの神社かと思いきや立派な神社だ。

山本山は山本義経の城山だ。この義経、新羅三郎義光流の源氏だ。義光流は常陸の佐竹となった流と近江を引き継いだ流がある。一般的に近江源氏というと佐々木氏を指すことの方が多いようだが、佐々木は宇多源氏で清和(陽成)源氏とは異なる。佐々木秀義は源義朝の妹を娶り、頼朝の旗下で名を挙げた佐々木盛綱・高綱が有名だ。

山本義経は治承4年(1180)各地に反平家の狼煙が上がるとき挙兵する。琵琶湖の船を全て押さえ、物資が京へ入ることを阻害したが、平知盛の反撃にあい、山本山城は落城.その後木曽義仲と共に京都に入った。法住寺合戦でも義仲側で、義仲の死後の消息は知れないようである。討ち死にしたのであろう。
平家物語第4巻「源氏揃」源三位頼政が以仁王に決起を促し、各地の源氏を挙げてるのだが、その中に「近江には山本・柏木・錦古里」と挙げている。柏木・錦古里はともに山本義経の息子で柏木義兼・錦古里義高である。ただ柏木義兼を義経弟となっているものもある。錦古里義高は第8巻「法住寺合戦」にも見える。

朝日山神社境内に山本義経の鎧かけの松と云うものがあった。松は何代目と称するのか若木であった。義経と云えば圧倒的知名度は九郎判官義経にあり、九郎義経の元服の地だという鏡の里の鏡山神社に義経の烏帽子かけの松というのがあった。

↑登山口。この奥にクマに注意の立看があった。

蹴上の高い階段を上っていく。「天孫御光臨御聖域・山本判官古城趾」というでかい石碑があった。
少し登ると石仏が並び、常楽寺という寺がある。

 石仏は皆似ていた。同じ人か、少なくとも同じグループの人の手になるものなのだろう

 
変わった鐘である。

寺裏手の登り口には猪除けの柵がある。

 下から小学生の歓声が聞こえるようなところなのだが、熊も猪もいるらしい。栗のイガが大量に落ちている。ありがたいことに熊さんの食事跡ではなく人が集めたものらしい。

登山道は幅はあるが傾斜はきつい。砂利道のようになっているので歩きにくい。どちらかというと登るより降りる方が怖かった。

途中で南東方向を見る。琵琶湖の見張りだけでなく、琵琶湖東部に広がる平野を見渡せる。

正面鈴鹿山脈。もう少し左手に伊吹山が見える。

山頂まで15分とある案内板の所で一服。登山口の案内板に山頂まで40分とあった。だいたいそれくらいで来ているのだろうが、まだ15分も登るのか。
これは燧が城よりきつい。

三の丸。

漸く二の丸。

 
真直ぐ下に見えるのは葛籠尾崎だ。海津大崎は葛籠尾崎に隠れ、その先のマキノ辺りも見えないが、それを除く琵琶湖全体が見渡せるロケーション。残念ながら今は樹々が茂り、竹生島も隠れてしまっている。しかし、確かにここで見張れば琵琶湖中の船を押さえられるだろう。

 

本丸辺りは広く平坦になっており周囲に土手がある。

 ただし平安末の整備とは限らない。戦国時代、小谷の浅井の部下の阿閉氏が守る城だった。山本山から真直ぐ東に向かうと小谷城になる。浅井は信長に攻められ滅びるが、阿閉は秀吉に籠絡されていたという。山本山の東に阿閉(あべではなくあつじとよむらしい)という地名がある。 

その阿閉の集落内に奇妙な建物がある。ラブホか結婚式場かという尖塔でどうも場にそぐわない。行ってみると東阿閉公民館だが別名ヤンマー会館。ヤンマーディーゼルの創始者がこの地の出身で、彼が寄付した建物だという。ドイツ風なのだそうである。

湖北水鳥ステーションで昼食、野鳥センターにも寄って帰る。

葛籠尾崎固定遺跡資料館と云うのがあったので寄ってみたかったが、ここは公民館で常時開館はしておらず、見学希望者は事前連絡をという張り紙があった。

さざなみ街道を北上、山本山の北の山をくぐるトンネル手前でしばし湖を眺める。

 

山本山は標高324m、燧が城は270mであった。但し燧が城登り口、今庄の標高は山本の標高より高いであろう。

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(滋賀・京都・奈良) 信西の墓

2020-10-11 | 行った所

山背街道を北上し307号線に入り北東に走り、宇治田原へ向かう。意外に距離がある。
信楽へ向かう道だ。宇治田原の中心地らしいところを抜け、大きな工業団地があった。そのあたりで南下し、立木宮ノ前という地名の信西の墓を探したのであるが、もっと手前に307号線から別れこの辺りに出られる道もあったようだ。


その道を伝い、京都市街から徒歩6時間 30Km足らずの場所ではある。馬を使えばもっと早かっただろう。

信西は信頼・義朝のクーデターを聞いて京から逃げ出す。「平治物語」ではこうなる
平治元年(1159)12月4日 清盛・重盛等を連れ熊野に赴く
12月9日 信西、信頼・義朝のたくらみを知り後白河に知らせようとするが果たせず
    供3,4人と大和路を南下、宇治を経て田原の奥、大道寺に逃げる
    夜、信頼・義朝、三条殿を攻撃、後白河を捕らえる。
12月10日 信西、使いを出し、京都の状況を知る。 
12月11日 信西、穴を掘って隠れる。
12月14日 源光保、木幡で信西の家来を捕らえる。
     穴の中で自害した信西発見される。
12月17日 信西の首が渡され、晒される。

信西がここへ来たのは自分の所領だったせいだが、ここは元々摂関家の所領で、忠実から頼長に譲られたものだ。保元の乱の後、信西は自分のものとしてしまった。本来は頼長の兄忠通に返されるのが筋のように思えるが、それを主張できなかったところが忠通の立場の弱さだろう。

大道寺と云うのは大きな寺だったようだが、今は小さな社のようなものが一つだけ。でもその脇に由緒を書いた看板があった。
頼長と信西はお互いその学才を認め合った仲だという。歳の功で信西の方が老練ではあったろうが、周囲のものが皆馬鹿に見える、という秀才特有の意識を隠しきることはできなかったのだろう。周囲から愛されはしなかった。
しかし信西は目的意識と実行力と持った政治家ではあったのだろう。清盛との関係も実のところ互いにどう思っていたかはわからないが依存しあった部分はあったのだろう。ここに隠れ、清盛が戻ってくるまで生き抜いて、返り咲こう、という作戦だったのだろうが、果たせなかった。穴の中で自害したと言われる。遺体は掘り出され、首は京都でさらされた。平治物語は老僧に「天下の明鏡、今すでに割れぬ」と嘆かせ、信西を悼んでいる。

宇治田原は信楽・甲賀を通り東国への道筋の一つと認識されていたのだろう。

ウィキペディアの平知盛の項で、義仲入京を前に各要衝に防衛に赴く平家軍の中で、「資盛・貞能は1,000騎で宇治田原に」という記述を見た。

岩波本の「平家物語」の記述はもっと簡単になっていいて宇治田原は出てこないのだが、押えに向かって不思議はない場所だろう。

 

北上し京滋バイパスの南郷インターに乗る。

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(滋賀・京都・奈良) 以仁王墓

2020-10-11 | 行った所

平家物語第4巻「宮御最期」 頼政は平等院で自害した。以仁王は南都へと急ぐ。しかし、伊東(平)忠清弟景家は老練で平等院の戦に加わらず、ただ以仁王を追う。光明山の鳥居で宮に追いつく。散々に矢を射かけ、宮は落馬し、首を取られた。お供の鬼佐渡・荒土佐・荒太夫・理智城房の伊賀公・刑部俊秀・金光院の六天狗、がともに討ち死にしたとあるのだが、ここの意味は取りにくい。鬼佐渡以下が六天狗とすると5にしかならず、鬼佐渡以下5人プラス六天狗なのだろうか?千葉常胤の息子日胤もここで死んだはずなのだが、彼は六天狗に含まれるのだろうか。


光明山寺は相当大きな寺院だったという。本地垂迹の神仏一帯で神社もあったのだろう。その鳥居辺りが今の高倉神社付近ということらしい。般若寺の「鳥居」は二本の笠塔婆であった。光明山寺の鳥居も文字通りの鳥居なのだろうか? 高倉神社の東の方の山の中に光明山寺跡があるそうだ。
更に橋合戦で活躍する筒井浄妙の塚は以仁王の墓から南へ100mの地点にある。彼も六天狗なのだろうか?


園城寺を脱した以仁王は宇治に来るまでに6度も落馬したという。気の毒としか言いようがない。南都からの援軍7千余騎は遅かった。王が殺された時、興福寺の先陣はは木津川まで来ていたが、後陣はまだ興福寺門前にある。木津川を渡る泉大橋北詰から高倉神社まで約5kmである。あと少し、ともいえる距離だがまだ遠い。
この時まで以仁王に付き従っていた乳母子の六条太夫宗信は近くの池に飛び込んで隠れ、敵がいなくなったところで京へ逃げ帰る。「にくまぬ者こそなかりけれ」と云うのだが、これは少々酷なようだ。彼は武者ではない。重衡を見捨てた乳母子後藤兵衛盛長とはわけが違う。


筒井浄妙の塚は線路沿いの田圃の中の茂みなので遠望できるのだが、

 道が分かりづらく、えらく回り道してしまった。宮内庁の陵墓と共に管理されているようである。古墳の陪塚と同じ扱いのようである。


筒井浄妙明秀は「大衆揃」で堂衆として紹介されている。堂衆は注記によれば「寺院の諸堂に属し雑役に当たる下級の僧」とある。一来法師は法師原とあり、こちらは「寺院の雑役に当たる僧形の下人、原は複数を示す接尾語」とある。どちらかというと一来法師の方が身分的の下だろうか、ただどちらも雑役夫であり、寺院内の下層階級だろう。筒井というからには本能寺の際洞が峠で日和見を決め込んだ大和郡山の筒井順慶が思い浮かび、大和郡山の出身ということではないだろうかと思ったのだが、「大衆揃」に浄妙の所ではなく、筒井法師として2名挙がり、注記に「筒井は三井寺総門の南、南院三谷の一つ筒井谷」とある。こっちかもしれない。
彼らの活躍は「橋合戦」に詳しい。浄妙は立派な鎧兜を着て大音声に名乗りをあげ、橋桁を外した宇治橋のゆきげたを渡って大暴れする。これは下級僧侶というよりは武者の出自だろう。その後ろから一来法師、「悪しゅう候、浄妙房」と一声かけて飛び越していく。一来法師は宇治川で討ち死に、浄妙房は奈良を目指して落ちる。この活躍ぶりは京都祇園祭の浄妙山になっている。

 祇園祭のHPから浄妙山


このアクロバット的な戦いを佐藤太美氏は宇治猿楽の世界ではないかと云っている。イケズキ・スルスミ、佐々木高綱・梶原景季の先陣争いの宇治川の合戦は競べ馬だ。宇治川で行われた二つの合戦は、軍記物としての平家物語の華やかな部分だ。

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(滋賀・京都・奈良) 山背街道

2020-10-11 | 行った所

木津川を北へ渡る。泉橋寺という寺がある。木津川にかかる泉大橋は行基の勧進によるものと伝わり、泉橋寺も行基が開いたとされる。

大石地蔵があり、南都焼亡の犠牲者を弔うためのものとどこかで読んだ気がして、そう思い込んでいたのだけれど、どうも時代が下りすぎる。ただこの発願は般若寺の真円上人とあるので、般若寺の復興と南都の犠牲者の菩提を弔うのは一つにあってもいいような。

ここから北へ山背街道をできるだけ辿る。木津川の東に、24号線、JR奈良線も見え隠れに続く。
泉橋寺のある上狛付近は由緒ありげな茶商の店がいくつかあるが、茶が一般化するのは室町以降だ。宇治の茶畑風景は平安後期の人々は見てはいない。
椿井大塚山古墳の脇も通る。ずっと「つばい」だと思ってきたが、交差点の表示には「tsubakii」となっていた。どっちだろ。大量の三角縁神獣鏡が出土したので有名だが、古墳そのものはJR奈良線に断ち切られ住宅地に浸食されている。

棚倉駅近くに湧出社がある。だいぶ古そうではある。湧出というから泉でも湧いたか。


道標がある。

もう少し北上すると蟹満寺があるのだが、以前行っている。白鳳仏があるのだが好かなかった。建物自体はとても新しく、今昔にもある蟹の恩返し話も、蟹にやっつけられた蛇に同情したくなるくらいで、パスする。

さらに北上し、高倉神社へ。

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(滋賀・京都・奈良) 安福寺

2020-10-11 | 行った所

般若寺から北へ木津方面へ向かう。
木津川を渡る手前、安福寺という寺がある。

木津川河原で斬られた重衡の供養塔がある。

鎌倉へ連行された重衡は頼朝の前でも臆せず堂々たる態度を取る。頼朝は許してもいいと思ったというが本当だろうか?敗将を許して逆転されるのは頼朝自身の体験だ。南都の大衆の要求によりというが、頼朝自身が助命の意思がなかったのだろう。
重衡を連れてきたのは梶原景時だったが、奈良へ連行するのは、源三位頼政の孫伊豆蔵人太夫頼成。南都焼亡は以仁王の乱で興福寺が以仁王の呼応する動きを見せたことへの報復が建前だ。以仁王の乱で敗れた頼政の孫と云うのはつじつまが合う。
重衡の鎌倉行は「海道下」として一段設けられているが、帰還は鎌倉から山科まで飛ぶ。11巻「重衡の斬られ」では山科から醍醐へ、更に日野で妻に会ったことが語られる。

南都大衆の重衡の刑の詮議は醜怪でしかない。それでも老僧の計らいで武士による斬首となる。
数千の大衆が見物に押し掛ける。あれ程のいくさがあったにもかかわらず大衆がこんなに残っていたのかいな。
重衡の侍、木工右馬允知時が駆けつけ、重衡の最期に立ち会う。この知時が調達してきた阿弥陀仏と重衡は紐で結ばれ、そのまま斬首される。
安福寺の供養塔にはまだ新しい卒塔婆があった。八百三十六回忌とあった。
平家物語では重衡の妻は東大寺の重源に請い、重衡の遺体を日野へ連れ帰って葬ったとある。
この妻は佐の局といい、清盛の盟友藤原邦綱の娘か養女か、安徳の乳母に選ばれており才色ある人だったのだろう。この後大原で建礼門院に仕え過ごしたことになっている。重衡との間に子供はいない。歌舞伎「義経千本桜」の渡海屋で知盛の妻に化けて、知盛と共に義経を葬ろうとする。
この近くの重衡首洗い池と不成柿がある。


JR奈良線が木津川を渡る直前の場所である。池は埋められたのかなかった。

柿はなっていた。
宗盛の斬首の場所の近くには蛙鳴かずの池と云うのがあった。貴人の最期の場所では通常の事が起こらなくなるということが言われたのだろうか。


同じ木津川南岸にある和泉式部の墓も尋ねる。
彼女もまた伝説の人として各地に墓があるらしい。

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