物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

高槻市 今城塚古墳

2021-11-11 | 行った所

継体天皇というのは古代史上たいそう特異な存在だ。少なくとも前代の大王との直接的な血の繋がりがなく、地方から畿内にやってきた人物で、他にはいない。 男大迹(ヲホド)という名前だ。父は近江にいた彦主人王、母は越前の振姫。彦主人王は早く死んだので、振姫は息子を連れて越前に戻り、子を育てた。成人したヲホドは越前にいたのか近江にいたのかわからない。結婚した相手は尾張の豪族の娘目子姫、息子が二人生まれた。
応神天皇五世の子孫だというのだが、それ以外、応神以降の大王家とは絡んでおらず、ほぼ他人状態。

応神以降、雄略までの大王は、中国南朝へ使者を送った「倭の五王」に比定されている。数が合わないのだが、だいたい雄略が最後の倭王武であることは動かない。ワカタケルの名を持つが、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣の銘からも実在とだいたいの年代の判る人物だ。
中国の宋に上表文を送ったのが478年である。

雄略の後は子の清寧が継ぐが、后も子もない。そこで、父の従兄弟の子二人を探し出して後継者にする。ところがこの二人の父市辺押磐皇子というのは、清寧の父雄略が殺している。だから二人の子供は丹後や播磨に潜んでいたのだ。清寧の後二人の皇子は互いに御王位を譲り合う。二人の名は兄が億計(おけ)、弟が弘計(をけ)・・・・それに兄弟で王位を譲り合うって中国の故事「伯夷・叔斉」にそっくり・・・だいたいこの辺りの系図に出てくる大王はほとんど兄弟・従兄弟を殺している。皇子と生まれたら大王になるか殺されるか、みたいな世界である。そこで突然謙譲の美徳の二人が出てこられても不思議な気がするだけである。おまけに おけ・をけの二人が譲り合っている間は二人の姉の飯豊皇女(いいとよおのひめみこ)が忍海宮で治世したというから、もうわけがわからない。
散々譲り合った挙句即位した兄弟が仁賢・顕宗で、仁賢の子が武烈。日本書紀の伝える武烈はまるで「忠直卿行状記」ですか、というような絵にかいたような暴君。歳も若いらしいが摂関時代・院政期と違って、直接大王の権力が大きい時代、基本的に若造の即位はないと思われる。より経験と分別あるものがよいと、引っ張り出されたのが継体だったのか。いきなり出てきた継体の正当性強化のために必要以上に武烈を貶めているのか。

継体は武烈の姉を后に迎え即位する。女系で繋いだということだろう。生まれた皇子が欽明天皇になる。先に尾張目子姫が産んだ二人の皇子は欽明に先立ち、安閑・宣化として即位したことにはなっている。欽明の子達が敏達・用明・崇峻・推古と飛鳥時代へを繋がっていく。欽明は蘇我氏と関係の深い大王でもある。

継体の晩年、筑紫の磐井の乱があった。引き金は朝鮮半島をめぐるごたごた。大伴金村:継体の失敗とされる任那割譲問題が絡む。実態はともあれ古代最後の地方豪族の反乱を押さえ、継体は波乱の一生を終える。
磐井の乱は527年のことである。だから墓は6世紀前半に求められる。

高槻市にある今城塚古墳が継体陵古墳とされる。宮内庁が継体天皇陵として囲っている古墳とはありがたいことに別物である。墳丘の残存状態は必ずしも良くなく、石室も盗掘されていたが、宮内庁指定でないおかげで、詳しい発掘調査がなされ、資料館もたっている。


大規模な埴輪祭祀跡も復元されている。

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摂津 渡辺津

2021-11-11 | 行った所

渡辺綱は鬼退治でしられた勇者だが、父は源宛という。河原左大臣と呼ばれた嵯峨源氏の風流貴公子源融の曾孫だそうだ。今昔物語では宛は武蔵の武者で平良文と争う話がある。
綱は母方の縁で摂津渡辺に住まいし、渡辺を名乗る。摂津源氏の源頼光に仕え、四天王の筆頭とされる。
綱の子孫は淀川河口の港湾を握る渡辺党として活躍した。 
瀬戸内を制した平家とはどのように棲み分けたのだろうか。
平家物語第4巻の「競のこと」は渡辺競(きおう)の話だ。以仁王の乱で挙兵した源頼政の郎党渡辺競は平宗盛を翻弄し、頼政との信頼関係の強さが語られる。宇治川を挟んでの戦いに敗れた頼政たちは次々に討ち死にし、また自害する。競も腹をかききって自害する。渡辺党の多くがここで死ぬ。

平家物語第11巻「逆櫓」元暦2年(1184)平家は屋島にある。義経は都を発って摂津国渡辺よりふなぞろへして屋島へ寄せんとす。折からの暴風雨、梶原景時らの猛反発の中、強引に出港する。

↑平家物語絵巻 出港する義経

渡辺津は現在の天満橋と天神橋の間付近だという。

 天神橋付近

 天満橋を見る

もっと西に渡辺橋という橋があるのでその辺かと思っていた。中之島はあったのだろうか?天満橋から福島に掛けて、河口とも入江ともつかぬ風景が広がっていたのだろうか。

 

ともかく現代の地形とは全然違う。天満橋の南には大阪歴史博物館があり、

 すぐ難波の宮跡が見下ろせる。大阪城も東に隣接する。難波の宮は都へ外国の文物情報の入口だった。すぐ近くに港があったという。

渡辺津は長く栄え、近世まで京-大阪間の行き来に川船が利用され、特に8軒の船宿があったことから八軒屋と呼ばれた。

新選組と攘夷派のグループが、それぞれ贔屓の船宿があったなんて、面白すぎる。

平安時代末期、天皇を辞し、責任を回避し権力だけは保持することに成功した治天の君達、白河・鳥羽・後白河は熊野詣に熱狂するが、そのルートは、鳥羽の城南宮付近に寄り、鳥羽殿の南で賀茂川等と合流する桂川に船出する。川は名前を淀川と変えて大阪湾へ向かう。

↑ 鳥羽の城南宮の案内板

上陸地が渡辺津である。

 

 ここから陸路九十九王子と呼ばれる休憩所に寄りつつ熊野を目指す。渡辺津に次いで必ず寄ったであろう所は四天王寺となる。

 熊野への道

渡辺の津は、更に鎌倉時代、東大寺の再建に活躍した重源の拠点ともなっていた。

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