二見浦は見事に観光地だ。
夫婦岩は有名だから何度か写真は見たことがあるはずだ。意外に小さい。正直あまり関心もしない。
こういう情景で正月の日の出でも見たら違うだろうか、でもそういう時は人出も多いのだろうな。
蛙の置物がたくさんある。猿田彦のお使いのカエルでもちろん帰るを掛けている。でも本当だろうか、蛙をカエルと呼ぶのはいつごろからだろう? あまり古くなさそうな気がする。
地学的にはとても面白そうなところに見える。伊勢は東西に中央構造線が走る。そういう説明版があってもよかったな。
鳥羽から伊勢志摩スカイラインに入る。ゲート近くに鹿の群れがいた。30頭はいた。なかなか海岸線らしいものは見えず、山の中を走る。何か所か展望スポットがある。
朝熊(あさま)山頂は広い駐車場と展望台、散策路も整備されている。
朝熊と書いてあさまと読む、当然浅間にも関係があるのだろうな
朝熊かけねば片参り、って伊勢神宮を欠いて朝熊だけでも片参りなんだろうか。延々伊勢まで歩いてきて、またこの山へ登ったのか、大変なエネルギーがあったものだ。
伊勢志摩スカイラインを先に行く。着いたのは五十鈴川ゲート。伊勢内宮の近くだった。
内宮には行かず、近くにあった猿田彦神社に寄ってみる。蛙のお使いはいないようだ。
ところで伊勢神宮は伊勢に鎮座する前はあちこち彷徨っていたらしい。元伊勢と称するところが何か所もあるらしい。
これは宮津の元伊勢。
亀山博物館でちょっとだけ平家物語と関係があるような展示を見た。
伊勢平氏なのだからもう少し伊勢に平家ゆかりのものが多いかと思ったが、津市の忠盛の生まれたところに平家発祥の地があり、正盛の墓というのもあったが、他は安濃川のダムの近くにあった維盛ゆかりの地とか、伊勢市のだいぶ不便なところの知盛ゆかりの地とかはどうもピンとこない。勅使で伊勢神宮に来た清盛が切った木、なんてのもあまり見る気がしなかった。
亀山の博物館のものもそういう話としておいた方がよさそうだ。
平資盛が伊勢に追放されていたという話そのものが・・・なのだが。
平家物語第七巻「主上都落」寿永2(1183)年7月、木曽義仲の上洛を前に平家は京を逃げ出す。幼帝を連れ、三種の神器なども持ち出していく。この時「印やく・時の札・玄上・鈴鹿なんども取り具せよ」と平時忠が指示を出す。いずれも宮中の宝だが、そのうちの「鈴鹿」は和琴の名器だという。この戦乱で失われただろうか。
それにしても桐の楽器はともかく、桐材を橋に使うとは思えないのだが。