物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

伊勢 あちこち

2022-03-29 | 行った所

二見浦は見事に観光地だ。

 
夫婦岩は有名だから何度か写真は見たことがあるはずだ。意外に小さい。正直あまり関心もしない。

こういう情景で正月の日の出でも見たら違うだろうか、でもそういう時は人出も多いのだろうな。

蛙の置物がたくさんある。猿田彦のお使いのカエルでもちろん帰るを掛けている。でも本当だろうか、蛙をカエルと呼ぶのはいつごろからだろう? あまり古くなさそうな気がする。

 地学的にはとても面白そうなところに見える。伊勢は東西に中央構造線が走る。そういう説明版があってもよかったな。


鳥羽から伊勢志摩スカイラインに入る。ゲート近くに鹿の群れがいた。30頭はいた。なかなか海岸線らしいものは見えず、山の中を走る。何か所か展望スポットがある。

朝熊(あさま)山頂は広い駐車場と展望台、散策路も整備されている。

朝熊と書いてあさまと読む、当然浅間にも関係があるのだろうな


朝熊かけねば片参り、って伊勢神宮を欠いて朝熊だけでも片参りなんだろうか。延々伊勢まで歩いてきて、またこの山へ登ったのか、大変なエネルギーがあったものだ。

伊勢志摩スカイラインを先に行く。着いたのは五十鈴川ゲート。伊勢内宮の近くだった。

内宮には行かず、近くにあった猿田彦神社に寄ってみる。蛙のお使いはいないようだ。

ところで伊勢神宮は伊勢に鎮座する前はあちこち彷徨っていたらしい。元伊勢と称するところが何か所もあるらしい。
 これは宮津の元伊勢。


亀山博物館でちょっとだけ平家物語と関係があるような展示を見た。
伊勢平氏なのだからもう少し伊勢に平家ゆかりのものが多いかと思ったが、津市の忠盛の生まれたところに平家発祥の地があり、正盛の墓というのもあったが、他は安濃川のダムの近くにあった維盛ゆかりの地とか、伊勢市のだいぶ不便なところの知盛ゆかりの地とかはどうもピンとこない。勅使で伊勢神宮に来た清盛が切った木、なんてのもあまり見る気がしなかった。
亀山の博物館のものもそういう話としておいた方がよさそうだ。


平資盛が伊勢に追放されていたという話そのものが・・・なのだが。

平家物語第七巻「主上都落」寿永2(1183)年7月、木曽義仲の上洛を前に平家は京を逃げ出す。幼帝を連れ、三種の神器なども持ち出していく。この時「印やく・時の札・玄上・鈴鹿なんども取り具せよ」と平時忠が指示を出す。いずれも宮中の宝だが、そのうちの「鈴鹿」は和琴の名器だという。この戦乱で失われただろうか。

 
それにしても桐の楽器はともかく、桐材を橋に使うとは思えないのだが。

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伊勢 宝塚古墳

2022-03-29 | 行った所

松坂市の宝塚1号墳は全長100メートルを超える前方後円墳である。伊勢地方では最大の古墳ではあるが、これだけならヤマト政権と関係の深い地方の首長墓として多くの地方で見られる古墳と大差はない。この古墳を一躍有名にしたのは、前方部と後方部の間に土橋付きの造り出しのテラスがあり、その周りに種々の埴輪が並べられていたこと、わけても特異な船形埴輪が発見されたことだ。復元整備されている。

 宝塚一号墳 中央から左の柵の中が造り出し

 土橋と造り出しテラス

船形埴輪そのものは多くはないが出土例はいくつかある。この埴輪は円筒状の据え置き用の台座を二つ持ち、船首・船尾を高く作ってあり、台座と合わせて高さをより強調しているようである。準構造船とみられる構造はかなりリアルである。船内に隔壁があり、舷側板を強固に固定したらしい。

 右が船首

 逆方向から
舟に乗っているのは祭祀用の器物らしいが、ちょっと見、わかるのは衣笠らしきものだ。他は太刀とか装飾をつけた鉾の類らしい。
埴輪に線刻された船の絵、現代にも残る熊野市二木島町の祭礼で使われる船の装飾との関連が指摘されている。
実際に物を運んだり、海を渡ったりする船というよりは、死者をあの世に運ぶ葬送儀礼用の埴輪ともみられるようだ。船は土橋の脇に後円部に向けておかれたらしい。土橋の反対側には2号船があった可能性があるが破片になっていたようだ。埋葬部のあるであろう後円部に向けての旅立ちだったのか。
埴輪祭祀場で有名なのは今城塚古墳だが、宝塚古墳とはおそらく1世紀くらいの間隔があるだろう。巫女などの人物埴輪、馬や鳥の動物埴輪もここにはいない。

 宝塚古墳後円部から伊勢湾方向

海岸線がもっと後退していた時代には海はもっと近かった。海からこの古墳が見えたのだろう。

 宝塚2号墳 前方後円又は帆立貝型古墳。墳上を道路が走っている。

 囲型埴輪と家型埴輪 囲型は水に関係する施設だったという。

(参考 穂積裕昌「船形埴輪と古代の喪葬」等)

 

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伊勢 鳥羽城址 

2022-03-28 | 行った所

大佛次郎に「ゆうれい船」という子供向けの本がある。最初に読んだのは小学校高学年の頃だ。十年ほど前にネットの古本屋で見つけて買った。記憶にたがわず面白かった。映画やテレビドラマにもなったらしいがそっちは知らない。戦国時代を背景に船頭の子の冒険譚と言っていいが、荒れ果てた京都から、堺、瀬戸内海、東シナ海・台湾・中国・東南アジアと話は広がる。河野三郎次郎という小悪党が出てくる。当然ながら河野水軍に関係がある。河野通信というのが平家物語にも出てきて有名だ。踊念仏の遊行上人一遍は通信の孫にあたる。「ゆうれい船」には悪竜王という東アジアをまたにかける海賊王なのか大商人なのか、という人物も登場する。この悪竜王、熊野の出身で九鬼と名乗る。
平家物語に出てくる熊野の水軍は、熊野別当湛増率いる水軍だ。はじめは平家に味方したが、鶏占いで勝った源氏に味方したことになっている。九鬼の水軍はこの熊野水軍のから出たのだろうか。

鳥羽城は九鬼嘉隆が縄張りした特異な城だという。海に向かう海賊城。

 

九鬼嘉隆は戦国時代も末期近くに現れ、織田信長の旗下で石山本願寺攻めで新工夫の鉄甲船で水軍力を見せつけ、秀吉の朝鮮攻めでも活躍する。
関ケ原では嘉隆は西軍につき、息子は東軍につかせる。真田家並の家存続策だが、当時は珍しくなかったのか。

敗れた嘉隆は答志島で自害。いったんは首を実検のため運ばれ、その為に首塚と胴塚があるとか。 

   

答志(とうし)島が見える。西行はこの辺りにも来ているようだ。斎宮にも行ったが、斎宮は空席で荒れ果てていたとか。
答志島・菅島を歌に詠んでいる。

すが島やたふしの小石わけかへて黒白まぜよ浦の濱風 

あはせばやさぎを烏と碁をうたばたふしすがしま黒白の濱 

崎志摩の 小石の白を 高波の 答志の浜に うち寄せてける 

答志島の石は白く、菅島の石は黒いといわれていたらしい、旅先の物珍しさが造らせた歌というか、西行の歌としてはいいものとは思わない。

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伊勢 くるべ官衙遺跡

2022-03-27 | 行った所

 

 古代伊勢の交通網(亀山市歴史博物館展示から)

672年6月24日、大海人皇子は吉野を脱出する。座して殺されるよりは、という日本書紀の記述にかかわらず、大海人皇子側が大友皇子、近江朝廷側に先んじ、計画的に動いたようである。(倉本一宏「壬申の乱」等)


伊賀を通り伊勢に入る。即ち鈴鹿越えである。高市皇子・大津皇子などとの合流も果たす。川曲の坂下というところで休憩したらしい。川曲坂下の場所については、諸説あるようだが、候補の一つは亀山市の一心院という寺の辺りだという。
 一心院入口
 一心院の説明版

ここを出て豪雨に合う。三重郡衙で家屋を焼いて暖を取る。梅雨末期の大雨にでもあったのか、火は衣類を乾かしたのか。

翌朝、北上し朝明(あさけ)郡衙へ至る前に迹太川のほとりで天照大神を遥拝。日の出を拝んだのか。

朝明郡衙とみられる遺跡が発掘されている。くるべ官衙遺跡である。

 

 

資料館もあり、壬申の乱だけでなく、聖武天皇の動きについても併せて展示してある。

 

 

   

 

ただ何だか、天武持統の曾孫聖武について甘いような。聖武の東国行幸は天武の壬申の乱に自身をなぞらえたものだというが、聖武自身の気分というよりほかに差し迫った大義はなかった。藤原広嗣の乱中に何をとち狂ったのかとしか言いようがないのでは。

 

以下亀山市歴史博物館展示より

  

 

 

 

 

 

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伊勢の丹生

2022-03-25 | 行った所

中学校の理科室で何かの実験の時だろうか、水銀を少し扱ったことがある。その時の理科教師は非常にまじめな顔で「絶対に触るな、これは毒だ、皮膚からでも吸収する、間違っても舐めるな」というようなことを言ったのだった。シャーレの上だったか、とろりと光る不思議な物体をちょっと触ってみたいと思った生徒は、手を引っ込めたのだった。何の実験をしたのかは忘れた。

天平の狂気、大仏建立は、金属だけで、銅499.0トン、すず8.5トン、金0.4トン、水銀2.5トンを要した。木材資源その他に関しても言うまでもない。そして何より、人工である。250万人以上が関わったとされる。なんと当時の人口の40%近かったという。全国的に徴用されたこの人たちの宿舎、食料、どう賄ったものか。でもどう働かされたにせよ、無事生きて帰れたものはいい。大仏がその全容を見せ始め、完成に向け、金ぴかの膜を被い始めたとき時、作業はまた違った過酷さを増した。メッキ作業である。
金は水銀に溶かされ、大仏本体に塗られた。加熱し水銀を飛ばすと金の被膜が残る、というのだが、どうやって加熱したのか。蒸発した水銀は容赦なく作業者を襲う。徴用されたのは当然壮健な男子だっただろう。それが廃人同様になって打ち捨てられていく。水銀中毒、これは現代に水俣病となって続く。
小さな仏具を開放的なところでメッキするのとは、巨大大仏のメッキはわけが違う。桁違いの被害をもたらしただろう。
聖武やその周りの貴族は知らんぷり出来たろうが、民衆と極めて近い位置にあった行基もこの狂気の事業に積極的に加わっている。それどころか行基が居なければこの事業は完遂できなかったろうと言われる。
 東大寺の行基堂

2.5トンという大量の水銀のほとんどは伊勢で採掘されたものだという。三重県多気町丹生には今も残る採掘跡があるという。行ってみた。

 左が古代からの坑道に続くらしい

近くに丹生神社がある。

 金属の神様か


多気町勢和資料館には水銀関係の展示があった。
ただし、古代と近代のものが中心であった。

今昔物語に二つ水銀にかかわる話があるという。一つは伊勢の水銀を鈴鹿を越えて都に運ぶ商人の話で、盗賊団を蜂の大軍を使って撃退する話として記憶にあるが、もう一つは水銀堀が落盤に合うが、普段信仰していたお地蔵様のご加護で助かる話、こっちは覚えがない。

中世と近世の伊勢の水銀がどう使われたかは松坂市歴史民俗博物館で知ることになった。展示というより、ビデオがなかなか秀逸であった。

松坂の城下町の基礎を作ったのは蒲生氏郷である。近江の日野が出身で、この辺りは蒲生野ともいう。蒲生の名字はここからきているのだろう。氏郷は織田信長に見いだされ、その死後は秀吉に仕えたが、息子の嫁に家康の娘を娶るなど徳川家康とも親交があった。ただ文禄4年(1595年)、秀吉に先立って病死している。
松坂に入っての城下町の建設は商業を中心としたものだった。信長の安土を見習ったのだろうが、近江商人の町として知られた日野に育ったことも無関係ではないだろう。氏郷は松坂から奥州会津へ転封になっているが、そこでも商業重視の町作りをしている。
江戸時代、江戸の町によくあるものとして、伊勢屋・稲荷に犬の糞と言われるが、伊勢屋という屋号の店が多かったのだろう。それも松坂商人が多かった。(でも何故か松坂商人の雄三井は越後屋というのだが)彼等は伊勢に本店を持ち、東京支店という形で最大消費地、江戸に店を構え、一商店一品目の形で商売をした。伊勢の特産は木綿等数多いが、その中に伊勢白粉がある。江戸でただ売られただけではない。伊勢参りを斡旋する御師と呼ばれる人たちが、全国的に如何に伊勢神宮が有難い所か、伊勢の風物の良さ、旅の楽しみを説いて回る折、プレミアムノベルティとして白粉を配り歩いたのだ。確かに延びのいい白粉だったのだろう。ブランド物の化粧品と言っていい。伊勢参りの人々の格好のお土産品ともなった。徒歩の長旅である、軽く嵩張らず日持ちするし、知名度もある。絶好のお土産だ。
しかし、この白粉には水銀が入っていた。ただ水銀入りの白粉が盛んに作られたのは室町から戦国時代のことらしい。水銀が枯渇してきたらしい。その後は鉛白製のものだった。どっちにせよ健康被害をもたらすものだった。

化粧品がそれを使った人に健康被害をもたらしたことはもちろんだが、制作時にもかなりの被害があったのではないか。軽粉(白粉)は赤土と水銀を混ぜ、熱して 塩化水銀の結晶を取り出したものらしい。

明治期に水銀鉱を復活させようと北村覚蔵が奮闘した。彼の考案した水銀精製装置が多気町の採掘跡にあり、模式図や解説が勢和資料館にあった。

 

 

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能褒野 ヤマトタケル

2022-03-22 | 行った所

古事記のヤマトタケルはとても魅力的な物語だが、世界中の神話が持つ英雄譚なのだろう。日本神話の中でもオオナムジ(大国主)がスサノオの与える試練を経て、スセリヒメを得る話ともちょっと似ている。
ヤマトタケルにいくつかのイメージがあるのは、いくつかの話が統合されてできた物語の所為だが、女装したり、叔母のヤマトヒメに父親が俺に辛く当たる、などと愚痴ったりするのは、可憐な少年を思わせる。その前に兄貴を引きちぎって殺すのは、狂暴すぎる。さらにイズモタケルを討つ話は、友達になったフリをし、剣をすり替える等狡猾、ズル過ぎる。もっとも佐伯真一「戦場の精神史」によれば、古来戦いは勝つためには何をしてもいいのが普通、というから、勝ったヒーローは狡くてもいいのかもしれない。征西・東征譚は、倭王武(雄略)の上表文を思わせる。ミヤズヒメやオトタチバナヒメとは素敵な男性を演じ、「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」との老人とのやり取りは、教養ある良き主人だ。伊吹の神を素手で殺すと言挙げする傲慢な男。そして傲慢さの報いとしての死、故郷を思う哀切さ。葬られてもなお白鳥になって飛んでいく魂。ここ以外、天皇もしくは準じる皇族たちは死んで葬られてお終い、なのではないだろうか。何故ヤマトタケルの魂は飛翔するのか。天皇やそれに準ずる人々の死は、何歳でいついつに死んだ。墓はどこそこにあり、としかない。ほかに例があるのだろうか。

 伊吹山 西の方から
ヤマトタケルは伊吹の神に敗れて病になって死んだ。ろくに装備を持たずに冬山登山をしたように見えるが、伊吹辺りの勢力との戦いに敗れたということだろうか。尾張のミヤズヒメのところへ帰るつもりで東へ出て、体力が持たないと最期は大和に向かおうとしたのか。

 三重県立総合博物館の展示パネルに加筆
古事記に出てくる地名は玉倉部清水・当芸野・杖衝坂・尾津の崎・三重の村、そして能褒野だ。
玉倉部は壬申の乱でも出てくる地名のようである、不破の近くか。ヤマトタケルの脚がたぎたぎしくなったところで当芸野(たぎの)というとあり、岐阜県養老町だそうだ。杖衝坂は不明、養老山地のどこかだろうか。尾津の崎は三重県桑名市、江戸時代の東海道は桑名から宮まで七里の渡しがあった。ヤマトタケルの舟を使うつもりだったか。現代の三重郡は三重県の西側だいぶ鈴鹿山地寄りだが、古代はどうだろう。能褒野は亀山市になる。鈴鹿山地への登り口だろうか。
尾津の崎から尾張に向かわず伊賀を通って大和に向かう道筋だろうか。

 

亀山市能褒野王塚古墳はヤマトタケルの墓と宮内庁が管理している古墳だ。あたりにはほかにいくつかの古墳がある。能褒野王塚古墳は4世紀の古墳だが、他の古墳はもっと時代が下るようだ。

ヤマトタケルの墓と称するものは他にもある。白鳥の飛び立ち、また舞い降りたところに白鳥陵と呼ばれる古墳がある。
大阪の河内、奈良の御所、そして名古屋の熱田神宮の近くにもある。神話の中のヒーローの奥つ城を求めても仕方のない所であるが。

能褒野王塚古墳所在地の亀山市歴史博物館にいくつか解説があった。

 

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伊勢 斎宮

2022-03-18 | 行った所

高樹のぶ子「業平」は伊勢物語を題材とした小説である。小説であるから作者の想像力と創造力による在原業平一代記であるのだが、これでやっと「伊勢物語」が読めるようになった気がする。「伊勢物語」はそう長いものではないし、120数段あるとはいえ1段ごとは短く、わずか数行というものも少なくない。歌ひとつづつを味わっていけばいいのだろうが、「物語」というとついつい前後のつながり、即ちストーリを求めてしまう。ところが各段のつながりがさっぱりわからず、それなりの長さのある段にしても、そしてどうなったのだ、と思ってしまう。突如また前にかかわりがあったらしい人との歌が出てきたりする。その辺をつなげてくれただけでも「業平」はありがたい小説だった。

「業平」の<夢うつつ>の章は、業平が伊勢へ赴き、斎宮とあう話だ。業平は伊勢道を進んだのだろうか、斎宮の敷地の広さに驚き、大きな門をくぐれば方格地割された土地に整然と白木、檜皮葺の建物が立ち並ぶ光景、清浄な竹の都の佇まい。
これは十分の一サイズで復元された斎宮歴史公園の光景そのものだ。

 復元された伊勢道

 


業平が会った斎宮は恬子内親王、斎宮制度が確立されたとされる事実上の初代斎宮大伯皇女から数えて22代目、文徳天皇の娘である。母は紀名虎の娘で、惟喬親王の同母妹である。文徳帝には惟喬親王と惟仁親王、二人の後継候補がいた。惟仁は藤原良房の娘・明子が母である。紀氏は古代からの名族だが、この時代既に藤原氏に対抗できなかった。平家物語第8巻の「名虎」は後白河院が強引に高倉帝の第4子を帝位に就けるところで長々と挿入されているエピソードだ。

神話の時代はともかく、斎宮制度が確立されたらしい初代斎宮大伯皇女は、天武の娘で母の大田皇女は天智の娘で、鸕野讚良皇女(うのささら:持統)の姉になる。天武の有力な妃だったが、大伯皇女と大津皇子を生んで死んだ。大田皇女の死後、鸕野讚良が天武の妃として大きな影響力を持つ。我が子草壁皇子のライバルとなりそうな皇子たちを殺していくのだが、大津皇子の死に際し大伯皇女が詠んだ痛切な歌がいくつかある。

神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君もあらなくに
うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟背とや見む

飛鳥浄御原令を定めた天武は律令制の大いなる推進者で、律令制とは中央集権的な法治制度を目指すものだと理解している。それは中国、唐の制度に範をとったもので、もちろん斎宮制度などはない。天皇に代わってつながりのある女性に祭祀を司らせる。最古の権力者のありようはどこでも祭政一致の巫女的な性格を有していたのはずで、巫女的な力を都から隔離する?しかし斎宮がシャーマン的な力を発揮したことはないようだ。斎宮の仕事としては、年に数回、伊勢神宮に極めて形式的なお参りをすることだけ。即物的に見れば何の為かさっぱりわからず、600年も続いたことも信じがたいほどだ。律令と相反する斎宮が何故天武の頃に確立したのか。

歴代斎宮のほとんどに馴染みはないが、恬子内親王と大伯皇女以外に多少の見覚えがあるのは、井上内親王とその娘の酒人内親王だろうか。井上内親王は聖武天皇の娘だが異母妹に藤原光明子の産んだ阿倍内親王(孝謙・称徳)がいる。斎宮から戻って光仁天皇皇后となる。息子も生むのだが、何故か夫を呪ったとして幽閉され殺されている。桓武とその周辺の陰謀とされる。その娘酒人内親王は伊勢から戻った後、桓武妃になっている。母親が謀反人として死んだ皇女を桓武が手元に引き取ったようにも見える。桓武と酒人は異母兄妹である。
この4人を見る限り、どこか時の権力者にとって都合が悪い、扱い辛い内親王を伊勢に追いやっているように見えなくもない。

復元伊勢道の両端近くにいつきのみや歴史体験館と斎宮歴史博物館がある。

 

十分の一サイズで復元された建物群はいつきのみや体験館の近くにある。

 瓦ぶきはなく、茅葺であったか、屋根が二重になっているように見える (いつきのみや体験館)

 群行時には斎宮はこのような輿に乗ったのだろうか(いつきのみや体験館)

体験館には平安時代の遊びも貝覆い・蹴鞠・毬杖など、いくつか展示してあった

 

歴史博物館では写真を撮り損ねてしまっているので、以下の解説はアスニー(京都市生涯学習総合センター)でみたものである

       

 

群行の途中は何泊する。宿泊所の頓宮は土山で見た。あいの土山、東海道の鈴鹿の西の宿に斎宮の道もあった。

 

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西ノ京

2022-03-08 | 行った所

平城宮趾は国営平城宮跡歴史公園として、広い宮域に大極殿・南門・朱雀門・庭園址・役所跡なども復元され、遺構館、資料館も充実している。
この広大な土地を調査復元、公園化を可能にしたのは、都が長岡京・平安京と遷都し、あおによしと歌われた奈良の都が荒廃し、田畑と化していたからだ。どう考えても京都の市街地でこれはできない。
平城宮には大極殿が二つある。復元されているものは、第一次大極殿で、平城宮ができた当初の大極殿。その東側に第二次大極殿がある。こちらは基壇や柱列などが復元されているだけだ。聖武天皇は、平城京を捨て、恭仁京・難波京・紫香楽宮と彷徨った挙句、平城京へ戻ってきた。そして建てたのが第二次大極殿ということになる。彷徨っていたといってもペーター・カーメンチントじゃあるまいし、百官引き連れての遷都騒ぎである。第一次大極殿は解体され、使える資材は新しい都へ運ばれている。戻ってきても住むところがないから新しく立てざるを得ないのだ。
難波の宮にも前期難波の宮と後期難波の宮がある。前期は乙巳の変(大化の改新)後、飛鳥からの遷都であったが、しばらくして都はまた飛鳥に戻る。後期難波の宮は聖武の建てたものだ。
加えて、大仏だ、全国に国分寺だときりもない。古来普請道楽で身を誤る人間は多いのだろうが、これ程のものは珍しいだろう。つくづく聖武は暗君だと思う。生育史的には同情できるし、悩み多き人生ではあったろうし、間違ってもうらやましい人生だったはずもないが、それでも大仏開眼を見、鑑真にも会い、極楽浄土を夢見て畳の上?で死ねた幸運があった。

平城京は大極殿(第一次)から真南にある朱雀門から南に延びる朱雀大路の左右に条里を五番目のように広げ、10万人が暮らす大都会だったという。東側には外京もあった。興福寺や東大寺のある部分である。平城京の南端、羅生門跡は大和郡山市の市域になる。
この大きな街が捨てられ、跡形もないと思われていた跡を拾い集め、プランの復元をした人がいる。幕末の藤堂藩士、北浦定政である。彼は騒然たる世相の中、黙々とフィールドワークを続けた。測量し、字名を拾い、「平城宮大内裏跡坪割之図」ができた。彼は国学者たちに近く、荒れ果てた陵墓の整備の機運も高まっていたころではあるらしい。どちらにせよ大変な驚きで、資料館の展示を見た。

朱雀通の西側は右京だが、西の京と呼ばれた。
かつて、奈良へ行くときは近鉄線によく乗った。近鉄奈良駅で降りると直ぐ奈良公園だ。誰もが奈良観光というと思い浮かべる場所だろう。そこから西の京へ行こうと思うと、近鉄線で西大寺まで引き返し、樫原線に乗り換える。
京都の東寺と西寺跡の間は1キロ程度だから歩いてもどうということはないが、東大寺と西大寺の間は、平城宮址を挟み5~6キロはあろうから、歩こうと思ったことはない。近鉄樫原線西ノ京駅で降りると薬師寺が近い。

 もともと観光客が多い所ではあるのだが、復興白鳳伽藍とやらが立ち並ぶと、境内そのものが些かうるさいようなおちつきのなさがあるような。

凍れる音楽が解け出ししゃべりだしたか。


平城宮趾の復元建物と比べるとどうしても安っぽさがある。

これは東塔の軒。平瓦の反りに合わせて軒さきの桁に彫り込みがしてある。

東院堂の説明版に足が止まる。吉備内親王、長屋王の妃だ。長屋王の変で夫と3人の子供らとともに死んだ。藤原氏によるフレームアップで排斥されたという。 
国宝聖観音はこの中だ。

 

薬師寺の北に唐招提寺がある どちらも平城京の条里内にあるのだが、大きな区画が用意されたのだろうか

 南門前の道が街道っぽい。

 門から天平の甍金堂を望む

 これも金堂

 軒瓦に唐招提寺の文字、こちらの建物は新しいのだろう

 境内図

 鑑真の墓

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俊乗房重源

2022-03-07 | 行った所

重源は保安2年(1121)の生まれだというから、平家物語の同時代人と言っていいだろうが、平家物語(岩波ワイド文庫版)では出てくる箇所はただ一か所、第11巻「重衡被斬」である。一の谷で捕らえられた重衡は鎌倉へ送られた後、南都衆に渡され、南都焼亡の首謀者として木津川河原で首を斬られる。首は般若寺に晒されたが、胴体は北の方佐の局が引き取り、日野の法界寺で供養する。「昨日まではゆゆしげにおはせしかども、あつき頃なれば、いつしかあらぬさまになり給ひぬ。」となかなかリアルな描写がある。そして「頸をば、大仏のひじり、俊乗房にとかくの給へば、大衆にこうて日野へとぞつかはしける」とあるのだった。

 日野の法界寺

事実かどうかは無論わからない。ただここで、東大寺大仏殿をも焼き払った重衡、再建する重源、その対比は意図的な気もしないではない。

 

国立奈良博物館の仏像館に行ったら重源がいた。重源上人座像、東大寺の秘仏のはずだから、模刻か。しかしこの頃のレプリカは馬鹿にならない、少なくとも私が見るのに何の障りもない。
肖像彫刻として知られた像だが、重源はきっとこんな容貌だったのだと思わざるを得ない。晩年の像なのだろうが、こんな爺さんに睨まれたら怖いだろうな。
重源は3度宋に渡ったという。平安時代末期、日宋貿易が盛んになったころだ。平清盛は盛んに宋から文物を手に入れていた。おそらく定期航路のようなものもあったのだろう。それでも、船乗りでもないものが、外国へ渡るという経験は一般的なものであったはずもない。
そして東大寺再建の勧進が始まった時、齢既に還暦を過ぎていた。余程の知力・体力・気力を持った人だったのだろう。

特に重源を追いかけた訳ではないが、所々で遭遇する。

 般若寺前から 

般若寺で南都の僧兵たちは、平重衡率いる軍勢を迎え撃とうとするが、本気の合戦となればもとより僧兵は武者の敵ではない。南都は焼け落ちることになる。


 東大寺南大門の説明版
南都焼亡で数百人が東大寺で焼け死んだという。仏の加護はなかった。その後、重源により再建された東大寺の伽藍で、残っているこの南大門だけだ。

戦国時代、大和は三好一族・筒井順慶・松永弾正らが相争う。奈良でも市街戦を繰り広げ、大仏殿は大仏もろとも焼け落ちた。ここでも大仏の加護はなかった。その焼亡に南大門は焼け残った。

現在の大仏殿は江戸時代の再再建だ。

 中央の唐破風が東照宮めいてそぐわない感じがする。

 境内図

南大門から入り、中門の手前で右に曲がると手向神社への参道になっていて、鳥居がある。その手までで左の坂を上ると俊乗堂や行基堂がある。重源上人座像は俊乗堂内にある。

 

 

さらに登って行くとお水取りが行われる二月堂などがある。

 二月堂

 三月堂 
三月堂(法華堂)は奇妙な建物だ。奈良時代の建造物なのだが、鎌倉時代に継ぎ足しがあったらしい。

 正面から見るとわからないが、側面からは屋根が不自然に見える。これに重源もかかわったのだろうか。

 

重源は、東大寺大仏殿再建に際し7か所の別院を設け、物資の輸送の便を図ったという。その一つは大阪にあった。古来からの難波の渡辺の津である。

東大寺大仏殿銘の軒丸瓦が出たという展示が、大阪歴史博物館にあった。↓

 

 


滋賀県多賀町 胡宮(このみや)神社は、名神の多賀SAのすぐ近く、高速道路を見下ろす位置にある。その境内というか参道というかの脇に碑があった。東大寺から仏舎利を贈られたというものだ。

敏満寺というのはかなりの力のある寺だったらしいが、元亀3年織田信長の兵火により焼失、再建されなかったとあった。
元亀3年は1572年だ。姉川の合戦は元亀元年だが、天正元年(1573)の浅井氏滅亡まで、戦火は続いていたのだろう。
敏満寺は今も地名に残っている。
その敏満寺は東大寺再建大勧進重源にだいぶ協力したらしい。それに謝意を表して、重源から敏満寺へ舎利等が贈られたというこらしい。

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大和郡山城

2022-03-06 | 行った所

県道9号線(奈良大和郡山斑鳩線)を東から西に走ったら郡山城跡の看板が目に入った。リニア云々の看板も目に入ったが、こっちは全然ぴんと来ない。

近くに図書館などの施設があり駐車場もあったから駐めて、近寄ってみる。看板近くに桜門址の表示のある石垣。


しかし、城内に入るにはどこへ行けばいいのだ。9号線沿いに歩いてみるが、入口が見当たらない。それどころか、堀は半ば以上埋まり、石垣も荒れた感じが強い。

戻って東側を見ると堀の中?を近鉄線のレールが走っている。結局、南側の橋を車で渡って中に入った。かなり大きな城跡だが、今調査中でさらに公園化の工事中のようだ。


大和郡山市は大和盆地のほぼ中央に位置しするが、中心部は西寄りだ。すぐ北に西ノ京、南西に斑鳩とあるので観光的には素通りされる市なのだろう。
ここで近世の城郭址は有力な観光資源とは言えないのだろう。
天守辺りの整備は終わっている。


上ればなかなかの眺望が望める。すぐ西に生駒から続く山並みが迫ってはいるが、城自体は平城だ。平野部に堀と石垣でできている。石垣はなかなか立派にそびえる。

こもりくの大和、周囲の山に守られし平野部。一望できる。 天気がいまいちだったので写真は案内パネル

場内には柳沢神社がある。梅が咲いていた。祭神は柳沢吉保だそうだ。

大和は古来寺社の力の強いところだ。源満仲の次男の頼親は大和国の国司となったが、興福寺と抗争を繰り返した。この頼親の子孫は、平家物語で源頼政が以仁王を焚付けるくだり「源氏揃」で「大和の国には宇野七郎親治が子供・・」と挙がっている。しかし、大和国をまとめることはできなかったようだ。鎌倉時代になっても室町時代になっても、武家政権も大和には守護を置けず、大和を掌握できなかったようだ。
 葛城市歴史博物館の展示パネルから

筒井順慶の筒井氏も元来は興福寺の衆徒で、それが武者化したらしい。筒井家も含めいくつかの豪族勢力と興福寺が互いに争う複雑な情勢の中、三好衆や松永弾正も攻め込み、混沌の合戦が繰り広げられる。果ては東大寺大仏殿が焼け落ちる事態となる。
最終的には織田信長に従った筒井順慶が、大和を統べ、大和郡山城を築くに至る。
順慶が死んだのは36歳だったという。ずいぶん曲者のイメージがあり、食えないじじいだったのかと思っていたが、意外に若死にのようである。


大和郡山城は筒井順慶が縄張りをしたが、その後豊臣秀長が拡張したものが今残る石垣のようである。
更に主を変えていった郡山城だが、最終的な殿様は柳沢氏で柳沢神社があるのはそのためだ。金魚の街だという大和郡山は、藩士の内職・副業として始まったもので、柳沢の殿様は大いに奨励したとのことである。

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