物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

金ケ崎の夢(敦賀市)

2024-04-27 | 行った所

敦賀は越前の道の口だ。ここを舞台にした有名な合戦の一つは、南北朝時代、南朝方新田義貞と北朝の斯波高経との攻防だ。義貞は高経に負け、「玉」としていた後醍醐天皇の皇子尊良親王も殺された。桜の季節は特ににぎわう金ケ崎宮はこの時の死者を祀るのだそうだ。
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* 写真右手奥は金前寺観音堂だ。建物は新しいが、この観音堂については今昔物語に説話があるほか、源平盛衰記の安元の騒動で白山の神輿が京へ持ち込まれるときにちらりと出てくる。左手の奥へ行くと鉄道遺跡のランプ小屋があったりする。

元亀1年(1570)足利義昭と共に上洛した織田信長は、朝倉義景に上洛を命じた。義景がこれを無視すると、4月、信長は徳川家康と共に越前侵攻を開始する。西近江路から若狭へ、そして敦賀へ。
敦賀を守るのは朝倉景恒。宗滴教景の養子、実父は義景祖父貞景、朝倉一族の中でも名門、宗滴の下で戦の経験も十分、実力ある武将の一人だったろうが、如何せん敦賀の兵力は少ない。金ケ崎・天筒山に拠って戦うが、大軍を前に劣勢被い難い。
景恒たちは援軍を今か今かと待っていたはずだ。義景の出陣の報は伝わったのだろうか。これが来ない、来ないのだ。景恒は堪らず降参してしまう。
織田軍は越前の中央部目指し、木の芽峠へと向かう。
ところが、突然列を乱し退却し始める。景恒は唖然としたのではなかろうか。種を明かせば、浅井長政がいきなり信長に反したのだ。挟み撃ちを恐れた信長は一散に逃げる。金ケ崎崩れである。
この時、朝倉軍はまともに織田軍を追ってはいない。どうしていたのだろう。
朝倉始末記はどうかというと「日本思想体系17 蓮如 一向一揆」では、義景は一乗谷を出陣したものの何故か浅水で引き返している。浅水は福井市と鯖江市の間になる。一乗谷からいくらも進んではいない。引き返した理由は書いてない。大野郡司で朝倉氏NO2といわれる朝倉景鏡はこれも出てきたものの府中(越前寺)に留まり南下していない。もう一つは「現代語訳 朝倉始末記」では景鏡は大野穴馬を固め、義景は敦賀まで来たことになっている。義景を恐れて信長が逃げたような書きぶりで、とても信じがたい。福井市史の「古代中世史資料編」では朝倉の諸兵の出陣がより詳しいけれど、大筋は「現代語訳」と同じようだ。異本は他にもあるようだが手に入ったのはこれだけだ。まあ軍記物だからというのはあるのだが。

もしこの時、信長が浅井長政の動きに気付かず、または浅井が動かず、そのまま織田軍が木の芽を越え、今庄、府中と北上してとしてきたら、いくら義景でも一乗谷に引き籠ってはいられまい。朝倉総力を挙げての越前防衛戦に出ていたら、どうなっただろう。元亀1年4月時点なら、姉川の戦いもまだだし、下坂本や堅田他無益の近江での戦いを強いられ将兵疲弊し、厭戦気分蔓延という状態ではなかったはずだ。結構互角の戦いになったのではないか。負けたところで、三年後の天正1年のようなみじめな終わり方にはならなかったのではないか。もし浅井長政との連携がうまく取れたとしたら、信長をはじめ羽柴秀吉・明智光秀・徳川家康の4人の運命はここで終わっていたかもしれない。

* 敦賀湾を挟み、常宮神社から見た金ケ崎。火力発電所の大きな煙突の右が金ケ崎

 金ケ崎月見跡からの北。敦賀新港の突堤が湾を横切る。奥に薄く見えるのは越前岬。

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篠尾廃寺から

2024-04-25 | 行った所

北陸高速道路福井ICを出て県道158号線を東へしばらく行くと、天神の交差点がある。その手前、左手にコンビニがある。


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コンビニの裏の田畑の中に巨石が一つある。石の上方に丸い穴が穿ってあり、塔の心礎なのだ。

そのサイズから、法隆寺の五重塔にも匹敵する塔があったとされる。そんな塔がそびえた寺は相当の規模のものだっただろう。奈良時代の越前の中心は国府が置かれた府中(越前市、旧武生市府中)だが、この辺にも大きな力を持った勢力がいたのだ。といっても驚くにはあたらない。ここから見る範囲、篠尾・成願寺・酒生・宿布といった地域には古墳がたくさんある。
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篠尾廃寺の礎石の脇に立って、北の方を見ると成願寺から宿布にかけて、山が連なっているのが見える。 成願寺の山

成願寺山の山腹には波着寺という寺の跡がある。波着とは足羽川の洪水時、水が来たということなのだそうだ。成願寺の山裾まで反乱域だったのだろうか。川は自然堤防で流路もしばしば変わったことだろう。

視線を南に向けると、158号線と足羽川を挟み、ちょうどローソンの看板の辺りに、東郷の槙山が見える。
*槙山城遠景
その頂には槙山城址があり、成願寺城と対応し、共に一乗谷の北の入口を警戒する朝倉氏の支城になっていた。
*槙山城天守跡、ただし朝倉氏のものではなく、織豊時代の長谷川氏の城郭である。
槙山城も成願寺城も、朝倉氏滅亡時には、他の越前の山城と同様に全く機能しなかった。何しろ本城の一乗谷の山城さえ使われず、義景は逃げ出し、一乗谷の館や町家はことごとく灰燼に帰したのだから

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味真野

2024-04-23 | 行った所

北陸自動車道武生ICの東側に味真野と呼ばれる地域が広がる。


*真柄十郎左衛門の墓がある興徳寺から、北東治左川の方へ歩くと勾りの里がある。

*よくわからないが継体天皇皇子勾大兄皇子の旧跡と称しているようである。

*治左川
*トミヨの生息地だ

*小丸城址は朝倉が滅び、一向一揆が滅んだあとの織田方の武将の城址、小さな砦跡のようにしか見えないが相当の城郭だったらしい。前田利家が一向一揆を虐殺したと記した文字瓦が出土した。

*城福寺は平家ゆかりの寺と伝える。花筐と称するしだれ桜があるが時期が遅かった。

花盛りの味真野は素敵なところだ

*味真野小学校校庭のエドヒガンサクラ

*池泉のエドヒカンサクラ

*この豪壮な門は豪摂寺。浄土真宗三門徒出雲路派。

万葉館には大伴家持と大伴池主とで交わされた歌や中臣宅守と狭野弟上娘子の歌も紹介されているが、小丸城出土の文字瓦もここにある
隣接して鞍谷御所址がある。足利家の支族がここに住んでいたというのだが、どういう人間か知らない。朝倉義景小宰相と呼ばれる娘を寵愛し2女1男を得たという。その娘は鞍谷御所の遠縁だというが本当だろうか。もっと身分のない娘に箔付けをしたようにも思える。
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万葉味真野苑はいつ来ても気持ちのいい所だ
*水芭蕉

ここは越前打ち刃物の里でもある。ナイフビレッジで物色できる。

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真柄十郎左衛門の墓(越前市)

2024-04-20 | 行った所

武生ICの東側に味真野と呼ばれる地域が広がる。和紙の里として知られる今立の南側で、越前市真柄・五分市・池泉などの町名になる。
越前市の東運動場のすぐ脇の興徳寺という寺に真柄十郎左衛門の墓がある。
*興徳寺

真柄を名字の地として名乗った一族は、いつごろからかこの地に根を張った地侍とか国人とか呼ばれる人たちだったのだろう。朝倉家の家臣に数えられるが、朝倉の直参というか有力武将は「景」の字のつく名が多いので、そうではない真柄氏は些か距離のある関係だったかもしれない。
十郎左衛門は普通直隆という人物だとされるが、弟直澄、または同じ十郎左衛門を名乗った父の家正との混同があるのではないか、とも言われる。
十郎左衛門は、身の丈7尺(2.1m)の巨漢で、ものすごく大きな大太刀を振り回す、越前の赤鬼と呼ばれた猛将で、まるで講談に出てくる人物のようだ。事実十郎左衛門の誕生譚を語る講談があるそうだ。
朝倉始末記にも足利義昭の朝倉館御成の際、真柄十郎左衛門が大太刀を振るって見せる余興があったとあるそうだが、私が見た本にはなかった。見たのは「日本思想体系17 蓮如 一向一揆」の中に収録されてある朝倉始末記で、もう一つは「現代語訳 朝倉始末記」だ。もっと手に入れにくい異本がいくつかあるのだろう。ともかくその二冊共に真柄が出てくるのは、義昭の朝倉館御成の時の道の警備である。どこそこの辻は誰それ、と名前がずらずら上がっている中に、「三輪小路には真柄備中守」とあるだけである。
姉川の戦いにもない。そもそも「思想体系」本には姉川の合戦そのものがない。野村とか三田村の戦いとかともいうそうだが、元亀1年(1570)6月の戦いがないのだ。4月の金ケ崎崩れの後は9月まで飛んでしまう。五月に朝倉景鏡が近江に出陣し、横山城を築城したりするのだが、織田勢が来ないとか言って帰ってきている。
「現代語訳」の方は姉川の合戦があるにはあるが、朝倉が勝って信長は徳川勢の加勢で逃げた、というようなことしか書いてない。戦死者の名などない。
ただ、二冊とも、近年病死・戦死のものが多く、千馬単位の兵を退きまわす将がいなくなり、口達者な若輩者ばかりになった、と嘆いている箇所があり、そこに出てくる名前に、前波・小林・黒坂等姉川で死んだらしい者が出てくる。これらの名は「信長公記」の浅井・朝倉の戦死者として出てくる。「信長公記」では戦死者の筆頭は真柄十郎左衛門である。
ともかく、真柄十郎左衛門という武者がいて、朝倉軍の中で戦い、討ち死にしたものがいるのは確かのようである。
*十郎左衛門の墓 馬鹿に大きな下駄がある

真柄の大太刀というのは大変有名で、真柄の大太刀と称するものを見たことがある。模擬太刀でもって見てもいいということだったが、とてもじゃないが振りかぶれそうもない代物だった。
*ウィキペディアから
姉川合戦図屏風には、黒馬に乗り、すごい形相で両手で頭上に血刀を振りかざす真柄が描かれている。ただしこの絵は天保8年の銘がある。姉川から300年近く経っている。

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義昭御所と南陽寺址(朝倉氏遺跡)

2024-04-19 | 行った所

朝倉氏滅亡の原因は、最後の当主となった朝倉義景のキャラクターや様々な要素が考えられるが、これも室町最後の将軍となった足利義昭に振り回され過ぎた、ということも挙げられるのではないか。
永禄10年(1567)に、前年から敦賀にいた義昭は越前一乗谷にやってきた。義景に将軍を奉じて上洛する意思はなかったと思うが、まさに国を挙げて、というような大歓迎会を催する。
それはそれは大掛かりなもので、義昭のために御所を新築。義昭を朝倉館に招待するため御成御殿も新築。古式にのっとり様々な儀式も執り行う。義昭の元服式や将軍就任式まであったらしい。御相伴衆やらなにやら公家衆も集まる。事実上の浪人といっていい義昭にそんな御付の人たちがいたわけもなく、みんな朝倉の招待だろうか。京都からの旅費・衣装代ももったことだろう。
御成の献上品は、太刀6振り・腰刀1振り・馬2頭・鎧腹巻三つ物各一領・堆紅の盆、絵画、小袖多数、とある。1989年出版ではあるが「織田信長と越前一向一揆」の中で辻川達雄は、太刀一振りの価格を米を通して現代のものにして3375万円と見積もっている。6振りで少なくとも3億円は超えただろう。また堆紅(ついしゅ)の工芸品は明からの輸入品で最上級の贈答品だったらしい。朝倉始末記には天文20年(1551)に三国湊に唐船が来たことを記しているし、朝倉氏は琉球貿易に手を染めていたらしくもある。朝倉遺跡の出土品には輸入品も見られるから、明の工芸がたくさんあっても不思議はないが、高価なものであったことは間違いない。
酒宴もいちいち大仰なものだった。料理80種、17献に及ぶ酒杯。一献ごとに、またぞろ献上品が奉げられる。朝倉家臣のお目見えもあるが、彼等にも献上品が必要である。将軍様から家来に下賜品があるではない。家来が御会いしてくださってありがとうと献上品を差し出すのだ。他の将軍家御成とかの例を知らないから何とも言えないが、気の遠くなるような出費が続いている。
義昭がらみの宴会は永禄11年(1568)春の南陽寺の糸桜の花見をもって終わり、義昭は美濃へ去る。義景に見切りをつけ、信長のところへ行ったのである。
この頃の朝倉と織田の関係は特別の敵対関係にはなかっただろう。単に近国の大名同士である。決定的悪化するのは義昭の斡旋により、本願寺と朝倉の和議がなってからだ。本願寺と厳しく対立する信長にとって、本願寺の味方は等しく敵となる。
朝倉は元亀年間の実り無き出兵に消耗していく。

義昭の御所址は、朝倉遺跡上城戸を出て一乗滝の方へ行く道沿いにある
*御所の案内板の地図
*御所址の遺構

南陽寺は観光地朝倉氏遺跡のメインとなっている朝倉館跡の北隣の小高い所だ。館跡からは登って英林孝景墓を回っていくが、瓜割清水の近くの民家の脇からから小道を上がっていくこともできる。
*下から見上げる南陽寺址。桜の植えてあるテラス状のところが南陽寺址になる
*南陽寺址碑
*南陽寺庭園址
*歌碑 もろ共に月も忘るな糸桜年の緒ながき契りと思はば(義昭) 君が代の時にあひあふ糸桜いともかしこき今日の言の葉(義景) 共に南陽寺糸桜花見の宴での歌だそうだ
*糸桜 朝倉遺跡全体にしざれ桜が多く植えてある。

*朝倉館跡から唐門方向

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下城戸・上城戸(朝倉遺跡)

2024-04-16 | 行った所

福井市街地から158号線で東へ向かい、右折し天神橋で足羽川を渡る。左手に直ぐあさくら水の駅だ。道なりに行くと一乗谷朝倉氏遺跡博物館がある。
観光客の大半はこのルートで遺跡に入る。

 遺跡はここから南へ一乗川に沿って続く。敦賀方面から高速道路利用でも、ナビは福井IC から天神橋経由の道を示すはずだ。


一乗谷は南北に細長い谷だ。その谷の南北に城戸を設け、城戸の内を守る一種の城塞都市だ。北のものを下城戸といい、南は上城戸だ。上下は都からの近い方を上というから、京都に近い南が上だ。北陸道を北上してくると、鯖江辺りで東へ入り大味を通って谷に入るのが最短距離だ。しかし物資の輸送などは三国湊との水上輸送が大きかったのだろう。下城戸が当時もメインルートだったのではないか。


下城戸は実際、近世の城の虎口を思わせるほど勇壮だ。


越前の中世は石の文化だといわれる。発掘された平泉寺南谷の遺構が象徴する。
朝倉遺跡の朝倉舘跡や復元町屋敷などではそれを感じない。諏訪御殿址・湯殿庭園・南陽寺庭園址には巨石の遺構があるが、庭園址なので威圧感はない。ところが下城戸は十分に威圧的だ。巨石の虎口は効果的だ。比較的近いのは下城戸の更に北の光照寺址の石組みだろうか。

 南陽寺結界石


上城戸は土塁だ。しかも後世の改変が著しい場所らしい。しかし巨石の石組みはなかったのは確からしい。

 上城戸から北、復元街並み方向

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西山光照寺址 一乗谷朝倉氏遺跡

2024-04-14 | 行った所

去年開館した福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館の駐車場に入らず進むと踏切がある。

JR越美北線だ。九頭竜線ともいう。大野を経て九頭竜湖まで行くのだ。左手にささやかな駅舎が見える。一乗谷駅だ。踏切の向こうは山だが、道なりに左へ曲がっている。そのまま行くと西山光照寺址へ出る。


イノシシの罠がある。熊注意の看板もある.
朝倉時代に栄えた寺の跡だという石積み
 背丈を越える石積石に南無阿弥陀仏と彫ってある。結界石というらしい。


 石積の前を通って行くと、何に使ったのか四角い池があり、その周りに石仏を集めた簡易な建屋が廻っている。

 
石仏がたくさんあることで知られているが、ここは一乗谷の城戸の外になる。下城戸よりも北に位置する。やはり城戸の内を外れた南の上城戸より南の盛源寺にもかなりの石仏がある。一乗城山の山中にも石仏が散乱している場所があるらしい。ここの石仏は皆大きい。豊原寺址で見た物の倍ほどもあるように見える。
 光照寺は天台宗の寺で、開祖は真盛上人。どういう人か知らない
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 案内板

福井市街地にも光照寺という寺がある。福井大仏が通称の大きな観音座像がある寺だ。朝倉の滅亡と共に廃絶した一乗谷の光照寺だが、結城秀康が福井に再興を命じたらしい。

一乗谷の光照寺は、花の下でお弁当を食べたくなるようなところだ。

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桜 さくら サクラ sakura

2024-04-11 | 日記

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