物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

福井県立歴史博物館「描かれた川と人々」展

2023-11-24 | 行った所

前波吉継は朝倉義景の家臣だった。重臣の家柄のようだが、義景とは馬が合わなかったらしい。
元亀3年(1572年)織田信長は朝倉を攻め、浅井長政は朝倉に救援を要請する。義景は出陣し、近江に織田・朝倉両軍が対峙するが、激突には至らない。この時、前波吉継は突然織田陣営に駆け込み、朝倉を裏切る。その後も朝倉方からの寝返りが相次ぐ。やがて義景は陣を引き払って越前に戻る。この頃、武田信玄は三方ヶ原で徳川勢を破る。信長を破る機会を逸したといって信玄は義景に怒り狂う。翌元亀4年(1573年)が朝倉滅亡の年となる。
信長は、前波吉継が真っ先に寝返ったことを嘉し、越前守護代にする。前波は名前を桂田長俊と変え、意気揚々としたことだろう。しかしこの男、仲間内での評判も芳しくはなかったようだ。寝返り仲間たちはアイツの下につくのは嫌だと反抗する。朝倉に抑えられていた一向一揆も暴れ出す。前波は一揆に殺された。
一向一揆は信長の家臣団により徹底的に弾圧されて終わった。

 前波橋周辺地図
前波氏の本拠は現福井市前波町だろう。前波は氏名も町名も「まえば」と読む。あさくら水の駅の足羽川対岸になる。水の駅の脇の道をそのまま足羽川支流の一乗谷川に沿って行くと、朝倉資料館を経て、一乗谷朝倉史跡になる。
現在渡岸には天神橋があるが、かつては渡し船であった。天神の渡し、または前波の渡しと呼ばれたらしい。この風景を描いた絵を「川と人」展でみた。戦前に描かれた油絵だった。
この場所は見当がつく。但し、戦国時代の渡岸はどうであったかはわからない。案外、馬で渡れる箇所があったかもしれない。川筋は意外に動いているものである。現在の長大で高さのある堤防は近代以降のものだ。近世以前は自然堤防が多いのだ。
「描かれた川と人々」展には若冲の「乗輿舟」がでていた。拓版画と呼ばれる技法で描かれた伏見~渡辺津間を川船で下った若冲の眼に映った風景である。京都・大坂間の最もポピュラーな移動方法だった。「乗輿舟」の実物を見たのは初めてだった。1巻になっている。舟の上でスケッチをしたのだろうか。時は春、のびのびと景色は移る。
現在、河川を川舟で下る機会があったとしても、若冲が目にしたような風景を見ることはない。高い堤防に隔てられ、ビルの横面が見えるばかりだろう。
 *前波橋。ずいぶん傷んでいる。橋の下に木材で支えを作っているが、それも朽ちている。
 昭和13年とある
 前波橋付近から堰を見る
 前波橋付近からあさくら水の駅 写真中央部
 あさくら水の駅から足羽川頭首工 堰を見る
 足羽川頭首工

 

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許佐羅江清水・王山墳墓群・白鬼女橋

2023-11-12 | 行った所

許佐羅江は「こさらえ」と読む。鯖江市五郎丸、もう少し南に行けば越前市という位置だ。住宅地の中に思いもかけぬ泉あり。吉江の榎清水は涸れていたので期待してなかったのだが、素晴らしい。大きなペットボトルを抱え水を汲む人が次々に現れる。
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*王山入口
古墳群となっているが、時代区分として古墳時代という時の「古墳」ではない。弥生時代が中心となる。
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小高い山なので、少し上ったところの眺望
*南 すぐ下は鯖江高校、サンドームが近い、奥の高い山は日野山
*西 三里山が見える

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山頂の尾根に方形周溝墓が連なる
墳丘は、刑場保存のため、樹脂かコンクリートで固められているようだ。欠落も見られる
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越前国府とされるのはだいたい越前(旧武生)市街地で、日野川の西岸になる。国府から北上した北陸道はどこかで日野川を越えなければならない。渡川地は白鬼女辺りに比定される。サンドーム福井の西である。

白鬼女橋が架かる。

橋の東詰めに白鬼女観音がある。

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