前波吉継は朝倉義景の家臣だった。重臣の家柄のようだが、義景とは馬が合わなかったらしい。
元亀3年(1572年)織田信長は朝倉を攻め、浅井長政は朝倉に救援を要請する。義景は出陣し、近江に織田・朝倉両軍が対峙するが、激突には至らない。この時、前波吉継は突然織田陣営に駆け込み、朝倉を裏切る。その後も朝倉方からの寝返りが相次ぐ。やがて義景は陣を引き払って越前に戻る。この頃、武田信玄は三方ヶ原で徳川勢を破る。信長を破る機会を逸したといって信玄は義景に怒り狂う。翌元亀4年(1573年)が朝倉滅亡の年となる。
信長は、前波吉継が真っ先に寝返ったことを嘉し、越前守護代にする。前波は名前を桂田長俊と変え、意気揚々としたことだろう。しかしこの男、仲間内での評判も芳しくはなかったようだ。寝返り仲間たちはアイツの下につくのは嫌だと反抗する。朝倉に抑えられていた一向一揆も暴れ出す。前波は一揆に殺された。
一向一揆は信長の家臣団により徹底的に弾圧されて終わった。
前波橋周辺地図
前波氏の本拠は現福井市前波町だろう。前波は氏名も町名も「まえば」と読む。あさくら水の駅の足羽川対岸になる。水の駅の脇の道をそのまま足羽川支流の一乗谷川に沿って行くと、朝倉資料館を経て、一乗谷朝倉史跡になる。
現在渡岸には天神橋があるが、かつては渡し船であった。天神の渡し、または前波の渡しと呼ばれたらしい。この風景を描いた絵を「川と人」展でみた。戦前に描かれた油絵だった。
この場所は見当がつく。但し、戦国時代の渡岸はどうであったかはわからない。案外、馬で渡れる箇所があったかもしれない。川筋は意外に動いているものである。現在の長大で高さのある堤防は近代以降のものだ。近世以前は自然堤防が多いのだ。
「描かれた川と人々」展には若冲の「乗輿舟」がでていた。拓版画と呼ばれる技法で描かれた伏見~渡辺津間を川船で下った若冲の眼に映った風景である。京都・大坂間の最もポピュラーな移動方法だった。「乗輿舟」の実物を見たのは初めてだった。1巻になっている。舟の上でスケッチをしたのだろうか。時は春、のびのびと景色は移る。
現在、河川を川舟で下る機会があったとしても、若冲が目にしたような風景を見ることはない。高い堤防に隔てられ、ビルの横面が見えるばかりだろう。
*前波橋。ずいぶん傷んでいる。橋の下に木材で支えを作っているが、それも朽ちている。
昭和13年とある
前波橋付近から堰を見る
前波橋付近からあさくら水の駅 写真中央部
あさくら水の駅から足羽川頭首工 堰を見る
足羽川頭首工