物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

京都 東山 高倉天皇陵

2021-10-31 | 行った所

平家物語第6巻。治承5年1月、高倉帝が死んだ。既に子の安徳帝に譲位し、院となっていた。後白河院がいるので新院と呼ばれている。まだ22歳。母建春門院滋子既に亡く、共に強烈な個性を放つ父後白河、舅清盛の間で辛い人生であった。
物語では、この後、高倉帝に関するエピソードが3つ続く。
①紅葉:紅葉を愛した高倉は御所に紅葉を植えさせるが、野分で葉がすぐ落ちてしまった。下役人たちが紅葉を捨て、残った枝木を焚いて暖を取り、酒を飲んだ。高倉は下役人を咎めず、白楽天の詩を詠じて笑った。
②葵の前:高倉は女童が気に入り近くに召し使った。それが噂となり、高倉は召すのをやめたが未練あり、「しのぶれど」の古歌を女童に送った。和歌を見た女童は宿下がりし、死んだ。
③小督:小督は美人で琴の名手。高倉の愛寵を得るが、怒った清盛を憚り身を隠す。高倉の近臣で小督の琴と笛を合わせたことのある仲国が嵯峨野に小督を探し高倉のもとへ連れ帰る。匿われて暮らす小督は女児を得るが、清盛により無理やり出家させられ追放される。

高倉が紅葉を好んだのは本当かもしれない。10歳前後の出来事というから幾分年寄じみた趣味かもしれない。「林間に酒を煖めて紅葉を焼く」と白居易の詩を口ずさむ好学の少年像だろうか。落ち葉焚きならまだしも、枝木も焚たのでは生木が燃えるものか、と思えば実話ではありがたい。
紅葉の話には未明、強盗にあった少女を助ける話が続く。少女の悲鳴を聞きつけ、奪われた衣より上等なものをやったのだ。強盗を捕まえるという発想はない。

葵の前は「源氏物語」の桐壺のようだ。しかし周りの嘲笑に耐えかねたのは帝の方だ。遠ざけてしょんぼりする帝に松殿基房は「気に入っているなら召せばいい、何なら私の養女にしても」などと云っている。まだ少年ぽい高倉が妹のような少女に気が行っている話に見える。「しのぶれど」と送るのはいかにも少年の踏ん切りの悪さだ。

葵の前は高倉より年少だろうが、小督は年上だ。たぐいまれな美女で琴の名手、という前にすでに藤原隆房の愛人であった小督はたぶん徳子より色気があったことだろう。小督は実在だが、女児を産んだこと、後に出家したこと以外は創作だろう。特に清盛による迫害はありえないだろう。藤原隆房の室と徳子が共に清盛の娘だったことからの想像だろうか。仲国の笛で小督の琴の音を探す話は美しくはあるのだけれど。

小督が女児を産む前年、公家の娘が一人女児を産んでいるようである。小督の出産の翌年徳子との間に安徳となる男児誕生、その翌年1179年には、安徳と共に西海に連れていかれる第2皇子が坊門殖子との間に生まれ、更に別の公卿の娘との間に第3皇子が生まれ、またそれとは別の公卿の娘との間に女児も得ている。その翌年また坊門殖子との間に第4皇子が生まれる。この第4皇子は後鳥羽帝となる。第2皇子は数奇な運命で、承久の変の後、子が後堀川天皇として即位し、自らは帝位につくことなく後高倉院として治天の君となった。
意外に子だくさんで、ただの純情青年でもなかったのだろうか。徳子との間に男児が生まれるまではそれなりの自重もあったのかもしれないが、その後はなかなかの忙しさだ。

高倉の墓は京都東山清閑寺の裏手にある。すぐ近くを1号線が走っていて意外にアクセスしにくい。

 

不思議なことに隣接しているのは六条天皇陵。確かに六条帝の後を襲ったのは高倉なのだが、退位時の六条5歳、高倉8歳という茶番であった。乳児で即位した六条は二条帝の皇子であるが母の身分は卑しかったという。二条帝の病篤く、急ぎ譲位となり、まもなく二条は死ぬ。齢22歳に過ぎない。後ろ盾のない六条は退位後どのように過ごしていたのか、元服することもなく13歳で死去。二条と高倉はともに後白河の子であるから、六条は高倉の甥であるが、特別の交流もなかったであろう。

工事をしていてアクセスできなかった。

たいていの寺社には参詣者用の駐車場が解放されているのだが、この寺はそうではない。


それでも観光客向けなのか小督の案内板があったりする。

 小督供養塔

 要石付近から

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武蔵国西端 秩父

2021-10-30 | 行った所

関東に荒川なる川があることは聞き知っていた。しかし隅田川の支流かな、くらいの認識しかなく、こんな大河とは思ってなかった。

 ウィキペディアより

認識を改めたのは深谷市の畠山重忠の生誕地で墓のある所へ行った時のことだ。墓は公園の中にあり、重忠の像などもあったのだが、その近くを流れていたのが荒川だった。荒川の源流は秩父の山中にある。

秩父氏は平将門の縁者が祖だという。秩父の地は奈良時代から銅を産し、馬も産した。そこを支配した秩父氏は北へ西へ進出したが家督を巡る争いも起こってくる。秩父重隆は甥の重能と対立する。重能は源義朝と結んだので、重隆は義朝弟義賢を養君にし、武蔵の大蔵に館を構えさせる。ところが久寿2年(1155)義朝長男義平が大蔵を急襲し、義賢のみか重隆まで殺されてしまう。2歳の義仲が木曽へ逃れるのはこの時で、齊藤実盛や畠山重能も助けたというがどうだろうか。
秩父氏は畠山・江戸・小山田・川越などに分流していく。
保元の乱・平治の乱を経て義朝が死に、源氏が没落すると、関東の武者の多くは平家の被官となる。義仲に攻められた平家の都落ちに際し、大番役で上洛中だった畠山重能らは平家に同行すると申し出るが、知盛は止める。「汝らが魂は、皆東国にこそあるらんに、抜け殻ばかり西国に召し出す様なし。急ぎ下れ。」なかなかのセリフである。
この間、畠山重能息子でまだ10代の重忠が、頼朝の挙兵に対応して兵を率いて頼朝方の三浦氏がこもる衣笠城を攻める。しかし石橋山に大敗したものの房総半島を回って復活してきた頼朝の鎌倉入り前に、関東の武士団は次々と頼朝の元に下るのだ。畠山もまた頼朝の旗下に入る。

秩父には武蔵7党に数えられる丹党がいる。
平家物語第9巻「宇治川先陣」は表題の通り佐々木高綱・梶原景季の先陣争い、イケヅキ・スルスミに目が行くが、畠山重忠は以仁王の乱の「橋合戦」で<馬筏>で宇治川を押し渡った足利忠綱の例に倣っての渡岸を試みる。その脇を猛馬を駆る二騎が掛け過ぎていくのだ。重忠の馬筏は「丹の党をむねとして500余騎、ひしひしとくつばみをならぶる」とある。
畠山重忠公園の所在地は深谷市畠山であった。館跡は嵐山だった。畠山は秩父の山からでたものの、秩父の武士団を率いていたようだ。

秩父の山は武甲山、非常に変わった形の山だと聞いていたが、変わりかたが自然ではなかったのだ。石灰を掘り取る内にこうなったと。

 武甲山資料館付近から


 かつての武甲山は神奈備。
秩父市に隣接する横井町の歴代民俗資料館は武甲山への信仰を伝える。武甲山資料館よりこっちの方が面白かった。

 秩父神社

 御手洗場の装飾もすごい

秩父まつり会館は秩父夜祭のビデオ等のヴィジアル展示は秀逸。神は妙見星。千葉氏の信仰したのも妙見様、関東平氏としての繋がりだろうが、どこからなのだろう。平将門や貞盛は妙見様を拝んだのだろうか。

秩父は銅の産地でもある。和銅はここにはじまる。

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埼玉県本庄市 児玉党・秋蚕の碑

2021-10-27 | 行った所

幼くして父を亡くした義仲は木曽の山中で中原家に育つ。養父兼遠、幾歳か年長であった兼平を兄として親友として、側近の家来として生い立つ。兼平の上に兼光がいる。兼平は今井、兼光は樋口と名字を名乗る。兼遠は義仲の挙兵時にはいたようだが、その後全く出てこないところから、まもなく死んだのだとされる。次の後見人は樋口兼光だったのだろうか。
寿永3年五月、義仲は大津で討ち取られる。兼平も壮絶な自害を遂げる。兼光はその時、紀伊に行家を追っていたのだ。義仲は瀬田と宇治で鎌倉軍に対処するだけではなく、厄介叔父行家にまで手を割かざるを得なかったのだ。
兼光は敗戦の報に京へ取って返す。もとより斬り死に覚悟だ。しかし、途中で旧知の児玉党の面々に出くわす。兼光は齊藤実盛の顔を見知っていたりもしているし、関東に交際範囲が広かったのだろう。「児玉党にむすぼほれたりければ」児玉党とは婚姻関係があったのだろう。児玉党は寄り合い、樋口を助ける算段をする。我らの勲功に替えて樋口の助命を願う。これを受けた樋口について、平家物語の言葉は辛らつだ。「聞こゆるつわものなれども、運や尽きにけむ」児玉党は義経を通じ、兼光の助命を願い出る。しかし院御所からの返答は死罪だった。法住寺合戦での狼藉が理由だという。更に木曽の四天王の一角を残せなかったのだろうが、何やら中国の故事を引いたお沙汰があったとか仰々しい。
京の大路を義仲らの首が引き回される。この引き回しに兼光は自ら望んで、生きながら付き従う。生き恥をさらしても義仲・兼平と共に歩む。この残酷な引き回しの後、兼光もまた斬られた。

この後の一の谷合戦で平重衡が生け捕りになるが、生け捕った庄の四郎高家は児玉党の一員だそうだ。

児玉党の本拠は埼玉県本庄市にあったとか。

雉が丘城跡に登って見れば、その地図は鎌倉街道・中山道の脇往還が走り、この地が交通の要衝であったことが理解できる。

 室町時代の築城らしいが、この場所を押さえた者が優位に立つのはそれ以前からだったろう。鎌倉街道中最大規模の市が立ったというが栄えていたのだろう。


またこの地は養蚕が盛んだ。桐生・足利・富岡と群馬県の方が有名だが、この辺りも一帯だろう。
明治の殖産興業は将に生糸の輸出に支えられていた。生糸増産のための様々な工夫がなされた。

たまたま見かけた碑なのだが「秋蚕(しゅうこ)の碑」という。


春にしか生まれなかった蚕を工夫により秋以降も孵化し繭を作らせることができるようになった。様々な方面からの反対や妨害もあったが、秋蚕は広まり、生糸増産に大いに寄与した、というようなことが解説されていた。

 

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流山 街歩き

2021-10-26 | 行った所

ほぼ南北に流れる江戸川を東に渡ると流山だ。

三郷から西へ流山橋を渡る。かなりの交通量だ。並行に走るのはJR武蔵野線。

 渡り終えて江戸川の土手上。

 旧流山橋の址が見える。

かつては丹後の渡しと云った場所とか。

 丹後の渡し址表示

 土手下に赤城山が見える

 赤城神社。後方の赤城山は群馬の赤城山が噴火した時、この山が流れ着いたという伝承があるとか。

 流山という地名の由縁だとか。

旧道沿いに 

 白みりん発祥の地とか、

 一茶が寄寓したところとか。

白みりんは発展し、キッコーマンになっている

 工場の外壁がギャラリー

少しそれると近藤勇陣屋址

近藤勇らは会津を目指し、流山に集結しようとしたようだ。流山には丹後の渡しを使ったとか。流山で捕縛され、板橋で殺される。

その先が閻魔堂。

 どう見ても墓地だ。

金子市之亟と三千歳の墓があるとか。天保六歌仙なら三千歳の相方はどうしたって直侍こと片岡直次郎だと思うのだが、ここではそういうことになっているらしい。
 猫がいた。「三千歳でありんす」と云いおった!

流山市博物館。下が図書館、上階が博物館、無料だった。三郷から歩いてきたのでいいかげん疲れたが悪くなかった。
みりんの作り方をビデオでやっていたりする。


野間土手も面白い。伝説の名馬イケズキの出身地は松戸か印西辺りだという説もあるそうだが、流山もまた古くからの馬の生産地なのだろう。
 運河にも行ってみるかな。

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利根運河

2021-10-26 | 行った所

東武野田線に運河駅という駅がある。


西に江戸川、東に利根川がほぼ南北に流れ、その間8kmくらいを運河が結んでいるのだ。
明治時代の大土木工事だ。大量物資の水上交通の便を図るために作られた。


今はむしろ親水公園として親しまれているようだ。


設計監督はオランダの御雇外人ムルデル。

オランダのアムステルダムの運河は世界遺産にもなったけれど、都市の運河だ。そのイメージは江戸時代の江戸や大阪に近いのではないか。

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鞍馬寺

2021-10-24 | 行った所

以前鞍馬に行くつもりが貴船に出てしまい、貴船から鞍馬西口とやらから鞍馬へ登ったことがある。驚くような急斜面ですっかり息が上がってしまった。登った先は奥の院だった。

鞍馬と云えば義経だが、後白河は平家の都落ちの話を聞き、鞍馬へと逃げだす。平家と共に西国落ちなどとんでもないことだ。後白河は鞍馬から比叡に向かい、比叡から都へ戻る。どうやって来たのやら。平家の監視を逃れ、脱出したはずだ。いくら宗盛がぼんやり油断をしていたとはいえ、まさかぞろぞろお供を連れて、輿に乗ってきたはずはない。鞍馬から比叡にはそれなりの用意ができたかもしれないが、鞍馬行はどうしたのか。10キロ以上は絶対あるし、半分は山道、後白河は当時50代半ば。まあそれくらいの体力・気力がなければ、平清盛・源頼朝などと渡り合えないか。

鞍馬寺の門前はこれは大した観光地だ。

門内に入り、清少納言も歩いたという九十九折(つづらおり)の参道を歩いてもいいけれど、登りはケーブルカーにする。折角文明の利器があるのだ、使わしてもらおう。というわけで、容易く多宝塔まで着く。

 本殿金堂に来たが、どうもあまりありがたくない。新しすぎて雰囲気がない。奥の院では確かに天狗も住もうかという鞍馬らしさを感じたのに、ここはただの流行っている寺だ。


↑この案内板の通り、比叡や龍ヶ岳らしい山は見える。


竜が岳は愛宕山の奥にある山らしい。しかし、眺望も今一つに思える。

 まるで猫の雰囲気の虎の狛犬?

 天狗の絵馬

 奥の院への参道。

奥の院への参道を行くと、義経縁のなんちゃらがオンパレード。この山は義経記が世に出たころから牛若丸で売っているに違いない。
 息つぎの水
 背くらべ石
 木の根道

しかし、さすがに深山らしくなってくる。地質的に、植生的にも面白いところかもしれない。
 鞍馬石

 僧正が谷の手前で引き返す。

下山は九十九折道を降りることにする。 

 九十九折道
 中門
ケーブルで一気に登った傾斜はきつかったが、こっちの道は距離こそ長いがそれ程急坂の所はないようだ。

 義経供養塔

 

 由貴神社

鞍馬の火祭はここだったのか。

階段を降りて振り返ると、鳥居の間から大銀杏。こういう仕掛けだったのか、鞍馬寺の本殿などよりこの神社の方がよほどいい。これは最初から歩いて上ればよかったかと思うほど。

 

 

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鞍馬口から鞍馬へ 

2021-10-23 | 行った所

烏丸鞍馬口より東に向かう。鞍馬街道というのが正確にどこを通っていたのかはよくわからないが、鞍馬口から始めてみる。

烏丸通に鞍馬口という交差点がある。今出川と北大路の間だが北大路寄りだろうか。
鞍馬口の交差点から烏丸より一つ東の通りを南に少し行くと上御霊神社がある。


御霊神社は怨霊封じの神社だ。その祭神達は、早良親王・他戸親王・井上大皇后・藤原大夫人・橘大夫・文大夫・火雷神・吉備大臣とあった。それぞれに無実の謀反の罪に死んだり左遷されたりしたものだが、火雷神は明らかに異質だ。吉備真備も左遷されているが奈良時代のことだし、平安初期の帝王たちを特に恨む理由もないような。

面白いのは、応仁の乱の戦闘がここで始まったことだ。細川・畠山双方どっちがどっちの味方やったやら、という戦いを数年続けた挙句、どっちも負けとちゃうか、というありさまで、京は焼け野原となったのである。

鳥居の斜め前にあった碑、尾形が緒方になっているが光琳はこの辺にいたのか。

鞍馬口通に戻り東進、上善寺という寺がある。円仁やら小野篁に縁のある所とか。

寺の前に入江九一ほかの首塚、という碑があった。何のことかわからなかったが、入江九一は幕末の長州藩士で禁門の変で討ち死に。明治に名誉回復となったようだ。

出雲路橋がある。


賀茂川を渡る。

突き当たったところで北に向かう。

道なりに京都府立植物園の東の道をたどる。
道は広いとは言えず、アップダウンもあるが住宅街らしい。

叡電鞍馬線の京都精華大学前駅の手前付近で道なりに左へ、叡電に並行するように登っていく。片側一車線、中央にオレンジのハミ禁のラインが走る道は府道40号線、鞍馬街道だ。意外に交通量が多い。それもみんなかなり飛ばす。
小野寺のバス停がある。この辺りに補陀洛寺(小野寺)があるはずなのだが、車を止めれるところがない。脇道に入ってみたが、結局わからなかった。残念である。いつか叡電かバスを使ってきてみよう。
平家物語灌頂巻「大原御幸」「鞍馬どほりの行幸ならば、彼の清原深養父が補陀洛寺、小野太皇后宮の旧跡を叡覧あって・・・」と小野寺に寄ってから静原川に沿って大原へ向かったということになっている。夜をこめての出発とは早朝まだ暗い内に向かったらしい。大原への行幸はお忍びというが、公卿6人・殿上人8人と護衛の北面少々とある。
清原深養父は清少納言の曾祖父だという。
小野太皇后とは後冷泉帝の皇后歓子のことである。藤原教道の娘で入内するが、同時期の皇后として藤原頼道の娘がいたので、影の薄い存在とならざるを得なかった。後冷泉帝の死後は小野に籠り念仏三昧であったという。この歓子の元を白河上皇が訪れている。歓子は質素ながら機知と風雅に富んだもてなしで、白河や随行者を唸らせた。中右記(藤原宗忠の日記)等の史料があるようだ。
私はこの白河の小野御幸が平家物語の「大原御幸」の本話ではなかろうかとにらんでいる。
大原御幸には平家物語以外史料はない。これは徳子に六道語りをさせたいための付け足しだ。しかし物語としてはこれ以上の終章はないであろう。

小野・市原を過ぎ、静原を通り大原へ行く道は右へ行く。鞍馬へは真直ぐ北上。しかし旧道ではなく、長いトンネルの道となる。トンネルを抜けるとすぐ貴船と鞍馬への分かれ道がある。

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高野の渡し 埼玉県宮代町

2021-10-19 | 行った所

志田(志太)義広という男がいる。本姓は源。源為義の三男である。長兄義朝(頼朝父)、次兄義賢(義仲父)、弟に頼賢・為朝・行家などがいる。
若い頃は義憲(範)を名乗り、南河内にいたらしい。やがて関東へ下り、現在の茨木県稲敷市付近の信太郷を支配し、信太先生義広と呼ばれる。先生は帯刀先生(たちはきのせんじょう)で皇太子の親衛隊長のような役職だが実際にはどんなことをしていたかわからない。関東下向時がいつか?また保元・平治の乱に際しての挙動は不明である。
保元の乱の前年、武蔵国の大蔵で兄義賢は、義朝の長男義平に討ち取られる。義賢と義広は同母である。関東にいたのなら当然連絡は取り合ったろうが、何のアクションも見られないことから、まだ関西にいたとも考えられる。
平治物語には「義朝頼むところの兵ども」として、「三郎先生義範」が挙がってはいるのだが、義広は平治の乱には参加していないと考える人が大勢のようである。義朝は保元の乱で父為義・弟の大半を殺した。関西にいようが関東にいようが、義広が加勢に駆け付けるとも思えない。

治承4年(1180)頼朝が挙兵した頃には、義広が信太にいたことは間違いない。
平家物語は行家が以仁王の綸旨を伝え歩く時、義広の所にも行ったことになっている。
頼朝は富士川の戦いの後、そのまま西進するのではなく、関東平定を目指す。頼朝は常陸の佐竹氏の金砂城を攻める。この時、義広とも対面したことになっている。お互い好感を持ったかというとそうではないようだ。義広にしたら、これが親父殺しの義朝の小倅かだろうし、頼朝にしたら協力が遅い!だろうか。
寿永2年(1183年)頼朝に反発する義広は兵を起こす。信太から下野に進軍する。鎌倉を攻めるつもりなどあったのだろうか。頼朝ではなく、義仲に合流しようとしたという見方が正しいように見える。
折角動いた義広だが、野木宮の戦いであっさり敗北してしまう。小山朝政が義広に味方すると偽り、却って奇襲をかけてきたのである。2万集めたという兵も四散する。しかし義広自身は義仲に合流し、最期まで戦う。

野木宮合戦の後、下河辺行平が、古河(こが)・高野の渡しを固めるように命じられている。古利根川がどういう風に流れていたのかさっぱりわからないが、南北方向へ流れ、東西の行き来できる場所が限定されていたのなら、義広たちが西に向かうのを止めるために渡しを固めるのは有効だったのだろう。

高野渡しがあったとされる場所に架かるのは万願寺橋、川は大落古利根川。対岸の杉戸町は日光街道の宿場町である。

 万願寺橋

 古利根川

↑杉戸側にあった案内板、地図は北が下になっている。古利根を挟み、南が宮代、北が杉戸。

宮代町には立派な歴史博物館もある。

町史がデジタル化されていて参照できるのもうれしい。

 宮代町内の鎌倉街道

 復原民家

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小烏丸のこと

2021-10-19 | 行った所

福井市郷土歴史博物館で「帰ってきた平家物語絵巻」と銘打ち、展覧会が開かれている。何故「帰ってきた」のかというとこの絵巻は越前松平家の持ち物だったから。松平家は手元不如意であったのか、昭和初期に売り立てに出したのである。現在は岡山の林原美術館にある。全12巻のそれぞれが上中下巻に分かれ、全部で36巻、専用箪笥に納まる豪華セットだ。8代藩主吉邦の娘で10代藩主宗矩正室の照光院勝姫(1720-43年)の持ち物だったとされる。享保の改革の終り頃には作られたのだろうか。この絵巻の作られたのは京都だろうが、置かれていたのは江戸・東京だろう。福井にあったことはないのではないかとにらんでいるが、なんにせよ見れたのはありがたい。林原美術館に行ったこともあるが、展示されてなかった。

この展示の関連でいくつかのものが出ていたが、中に小烏丸があった。

平家物語第3巻 「無文の沙汰の事」
治承3年(1179)重盛は病気である。嫡子維盛を呼び、酒を出し、引き出物を取らす。太刀を見た維盛は家伝の小烏かと胸を躍らすが、小烏ではなく葬式用の無文の刀だった。
岩波本の平家物語で小烏丸が出てくるのはここだけだ。重盛が持っていたらしいから、維盛か資盛が相続したと思われるが、刀の行方は知りようもない。
平家の家宝とされる刀には他に抜丸があるが、これは忠盛から清盛ではなく頼盛に渡された。

展示の小烏は、写真禁止の上に図版にもなかったのだが、月山貞一作、宮内庁御物の小烏丸の写しだそうだ。
刀身の三分の一程から切っ先に掛けて峰にも刃がついているように見える。通常の日本刀とは違う形状に見える。この形状を小烏式というそうだ。

飛騨高山の国分寺にも伝小烏丸がある。こちらは写真をガラス越しに見たというだけだが、普通の日本刀に見えた。小烏式でさえなかったような。抑々金森家から寄進された云々では無理がありすぎるのだが。

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清水八幡 源義高のこと

2021-10-11 | 行った所

清水八幡は、清水冠者と呼ばれた木曽義仲の嫡男義高の終焉の地の近くに建てられた神社である。

義仲の生涯は短く激しいものであったが、息子のそれは更に短く、ほとんど人生の鳥羽口に着いたところで絶たれたものである。


寿永2年(1183)、義仲と頼朝が使者を交わす。二人が実際に会い見まえたことはない。先鋭化した二人の対立はこの時一応の棚上げをみる。先ずは共通の敵、平家に当たるのが先、というところだろう。しかしこれには義仲の方がより多くの忍従を飲まされた。頼朝に信州侵攻され、追い詰められた格好の義仲にとってはやむを得ないことだったのだろう。嫡男が頼朝娘の婿として鎌倉に赴くことになったのだ。二人の子供同士の婚姻は和睦の象徴ではあるが、実際に結婚するには若すぎる。特に大姫はまだ幼い。時間はたっぷりある、その間、義高は事実上、鎌倉の人質だ。
義仲の嫡男義高は元服したばかり13歳、凛々しい少年だったのだろう。平家物語第7巻「清水冠者」では「義重」の名になっている。義高は吾妻鏡の名である。
義高の母のことは伝わっていない。中原家の娘、即ち、今井兼平、樋口兼光の妹という説は妥当だろう。今井は義高の鎌倉行きを最後まで猛反対したという。
鎌倉に着いてから以降の義高については平家物語は語らない。その最期は吾妻鏡が伝えるものとなる。
義高の鎌倉での待遇は悪くなかったはずだ。なにより大姫が義高に馴染んだ。恋をするには幼過ぎたはずだが、この少年を生涯の伴侶と思い定めるには、なまじ大人の知恵を理解しない幼さが一途さに拍車を掛けてしまったかもしれない。
鎌倉から、範頼・義経率いる大軍が京へ登る。義仲は大津に敗死する。
義高の年齢は、平治の乱後、平家に捕らえられた頼朝とほぼ同じだ。頼朝には義高の心のうちが解りすぎるほど分かったのだろう。だからとても生かしてはおけなかった。
いったんは鎌倉脱出する義高に、大姫の助力が伝えられてはいるが、7歳の子にどれほどのことができたことか、彼を逃がしたのは頼朝の北政所政子だろう。
大姫は、義高の死の衝撃に飲食を断つ有様に陥いる。
愛娘の悲嘆に、母政子は義高を入間河畔で斬った藤内光澄というものを殺す。鎌倉殿頼朝の命に従い、むしろ手柄を立てたつもりだったろうに、これはこれで酷い話だった。

 入間川、清水八幡のすぐ西のあたり


政子は、義高を懇ろに弔う。墓は鎌倉の北、大船の常楽寺の裏手にある。

 これは首塚である。

義高の鎌倉脱出に際し、義高の寝所で、義高のふりをして、脱出の露見を遅らす時間稼ぎをした少年がいる。
海野幸氏である。義高の脱出の成否を問わず、幸氏は殺されることを覚悟していたはずである。しかし頼朝は幸氏を殺さず,却って引き立てる。義高の死に関して、愛娘に対する頼朝の一種のexcuseだったかもしれない。 
幸氏の父又は兄は水島合戦で討ち死にしている。義仲の信頼厚い侍大将であった。海野幸氏は帰るべき家を無くし、義仲・義高の死により主も無くした。意外な度量を見せた頼朝に仕えたのは自然な流れだろう。
海野幸氏は弓の名手としても知られるようになる。
曾我物語では、曾我五郎時致を抑え損ねた端役としてだが、ちらりと登場している。富士の裾野の巻狩は、特に頼朝に許された者しか参加できなかったことを思えば、やはり厚遇を受けていたのだろう。

大姫は痛手を回復できないまま、親の勧める縁談に諾なわず、頼朝が勧めた後鳥羽への入内も不調で、二十歳で病死する。

 

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