宇多天皇の作った和歌が百人一首にあるというわけではない。ただ彼とは縁のあった人達の何人かの歌が採られている。
天皇の名前は言うまでもなく諡号ではあるが面倒くさいからそのままで書く。
先ずは光孝天皇、宇多の父親である。「きみがため はるののにいでで わかなつむ わがころもでは ゆきはふりつつ」
春の宮廷行事、薬草狩りでの歌であろうか。「きみ」は女性か男性かかもわからないが、若々しい春の息吹の歌である。
この父が天皇にならなかったら、まず宇多の出番はなかっただろう。
光孝自身は、仁明天皇という桓武の孫にあたる人の息子ではあるが、仁明の後は異母兄の文武から清和、次は陽成と、多少のさざ波はありつつも、父から子への帝位相続が続き、光孝は皇族といえども傍流になっていたのだろう。
しかし陽成帝の時、近臣が殴り殺されるという事件が起き、しかも犯人は天皇その人だという。実際のところ何がどうなったのかは不明だが、宮中は血に穢れ、まだ十代半ばの帝は茫然自失。退位は当然だっただろうが、後継者が決まらない。陽成には同母も異母も弟がいたが、その後援者たち間に確執があり、その確執から離れたところにいた時康親王が光孝天皇として即位することになったのだ。
ここに陽成の長い長い引退生活が始まる。
陽成の歌も百人一首にはある「つくばねの みねよりおつる みなのがわ こひぞつもりて ふちとなりぬる」
光孝天皇は穏やかな性格を見込まれもし、即位に至ったらしい。事実自分の息子たちを皆、臣籍に下している。皇統は陽成の周りが継ぐべきものと考えていたのか。宇多天皇となる源定省も陽成帝に臣として出仕していたのだ。
しかし即位3年で光孝が危篤に陥った時、陽成退位時の確執はまだ収まっておらず、光孝の意向により息子の源定省が推されたとされる。臣籍降下後の皇族復帰、そして即位であった。
陽成退位時に嵯峨天皇の皇子で臣籍にあった源融は天皇候補として自薦したというが、関白基経にそんな例はないと一蹴される。わずか3年でそんな例ができたのだ。
かくて新しい天皇が即位したわけだが、基経は格別源定省と仲が良かったわけでもなく、関白として権力を維持できればよかったのだろう。直ぐに阿衡の紛議を起こし、宇多に実力を見せつけている。
しかし、基経が死ぬと、宇多は関白を定めず親政に乗り出す。基経を継いだ時平がまだ若いという幸運もあった。菅原道真を抜擢し、時平を押さえた。
宇多親政の頃を寛平の治という。国風文化の土台ができた時代だという。
宇多が親政をしていた時期に寛平御時后宮歌合が開かれた。宇多の母親の主催だったが宇多も関わったらしい。この時の歌人たち紀貫之・友則・在原業平・伊勢・藤原敏行・源宗于・壬生忠岑・素性法師・凡河内躬恒・文屋朝康など古今和歌集で知られる歌人たちが名を連ね、彼らはまた百人一首にも顔をそろえている。
宇多は即位後10年で、突如息子に位を譲る。醍醐天皇の誕生である。宇多の譲位の動機は、仏道修行を志したとかいうが、動機の一つにはなってもメインとは思えない。実は何かと窮屈な天皇暮らしが嫌になった、ということではなかったか。宇多天皇は幼くして東宮に立ち、満を持して即位したような天皇ではない。自由な暮らしも知っている。何かと反感を見せる陽成院系の人脈もうるさい。早く皇統を自分の血脈で固めてしまいたいという意図もあっただろう。もちろん醍醐の後見はするつもりだ。でも道真以下の人材もいる。それを使ってうまくやってね、ということではなかったか。
ただ上皇の権威でもって抑え込むのは、後の院政の時代とは違って難しかったようだ。院政期のように天皇は子供・幼児ではなく、院の政治への介入は限定的とならざるを得なかった。
だいたい平安時代の天皇というと、初期の桓武・平城・嵯峨と、末期の院政を敷いた白川・鳥羽・後白河は相当強烈な個性を発揮しているが、他は影が薄いのが多い。幼くして即位・大人の都合で退位して、では個性の発揮ようもないのだろう。宇多はその中では目立つ人物だっただろう。
全く期待されていなかったのに即位した、という点では後白河に似ているが、9世紀から10世紀にかけての宇多の時代は、後白河の12世紀後半、まさに平安時代の終わる激動期よりは余程ぬるかったであろう。
宇多の日記は寛平御記という。天皇や公家の日記の類は一義的には子孫へ有職故実を伝えること。いつどんな行事があり、どんな人が参加し、どういう風に行われたか、だが付随して時の世相や誰かの漏らした感想なども書き加えられ、それゆえ高い史料性を持つのだが、宇多は父親からもらった猫をかわいがり、その猫が今日は何をした、うちのネコちゃんはどんなにかわいい仕草をするか、というようなことを細かく書いているらしい。生まれた時代が違えば立派な猫ブロガーになったかもしれない。
色好みの風流人で、もちろん女も大好き。
妃の温子の下に伊勢と呼ばれる女がいた。中流以下の貴族の娘だが若く美しく賢かった。恋人は藤原仲平、基経の息子の一人である。摂関家の御曹司と恋仲になり夢中になったはいいが、あっさりと捨てられてしまう。
百人一首の「なにはがた みじかきあしのふしのまも あはでこのよを すぐしてよとや」というのは、会ってもくれくなった仲平への恨み節だろうか。
そんな伊勢へ宇多は目をつける。子供も一人で来たようだが、伊勢は宇多の下も去り、別の恋をしたようだ。その相手が宇多の皇子の一人、敦慶親王というのは、現代の感覚では十分スキャンダルだが、当時はどうだったのだろう。 今昔物語に、伊勢に関する説話が二つある。巻第24巻本朝 延喜の御屏風に伊勢御息所和歌を詠む語、と、伊勢御息所幼き時和歌を詠む語、である。前者は醍醐帝が屏風に添える和歌を伊勢に頼む話である。和歌が足りなくなり、急遽、伊勢に頼んだのだ。伊勢は見事に歌を詠む。貫之・躬恒に劣らぬと云われる。後者は「幼き時」は「わかき時」と読むのか、仲平との恋物語である。
時平は自分の娘を醍醐帝へ入内させるつもりだった。美しい娘で褒子という。ところが宇多は彼女が気に入り「老い法師に給われ」と連れて行ってしまった。たいそう気に入り傍において可愛がったというが、法師にあるまじきとは思わなかったのだろう。そしておそらくはまだ十代であったろう娘としてはどうであったか。
この娘に果敢に言い寄った青年がいる。元良親王、かの陽成院の息子である。はじめは好奇心と嫌がらせを意図したのかもしれない。しかし意外に上手くいき、褒子の美しさにぼーっとなって破滅覚悟の密通を続けた。果たしてバレた。「事いできてのちに京極御息所(褒子)につかはしける」の詞書のある歌は「わびぬれば いまはたおなじなにはなる みをつくしてもあはむとぞおもふ」は元良親王のやけくそソングであろうか。
宇多は褒子を河原院というところへ住まわせ通った時期があった。密通の現場となったのは亭子院というところで河原院とは違うが、今昔物語に面白い話がある。本朝世俗編 第27巻 第2 「川原院の融左大臣の霊を宇多院見給ふこと」である。
河原院は源融が作った鴨川沿いの五条・六条あたりに広大な庭を持つ善美を尽くした館だ。源融は鴨川の水を庭に引き、海水を持ってこさせて庭で塩を焼き、陸奥、塩釜の風光を模して楽しんだという。融の死後、膨大なメンテナンス費用に耐え兼ねて、子か孫かが河原院を宇多院に献上する。宇多は気に入り、度々訪れていたと見える。そんな折、夜中に正装の男が現れる。宇多院が誰何するとこの家の主だという。源融の幽霊と知り、この家はお前の子孫からもらったのだから今では私のものだと一喝する。源融の霊はかき消えた。源融は嵯峨帝の皇子だが臣籍降下した。臣籍から天皇になった宇多に一言いいたいことがあったのかもしれない。
河原院はその善美な様が伝わり、源氏物語の六条院のモデルになり、宇多院亡き後、荒れ果てた様は夕顔の死の舞台にも使われている。
源融の百人一首の歌は「みちのくの しのぶもじずり たれゆえに みだれそめにし われならなくに」
伊勢物語の初段「初冠」にこの歌を模した歌が出てくる。
さて、宇多の譲位を受け即位した醍醐帝だが、褒子の一件などは、息子としては堪らないものだったかもしれない。偉いご隠居(宇多)ではあるが、若旦那(醍醐)としては面白くない。独自路線も模索したいし、お目付け役の番頭(道真)も鬱陶しいい。つい気の合う手代(時平)の「あの番頭なんか怪しい」という言葉にうなづく。
かくて菅原道真は大宰府に追放されることになる。道真は宇多院に「きみしがらみとなりて われをとどめよ」などと泣きついているが、院にその力はなかった。
道真は大宰府に客死するが、その後、疫病の流行・時平の頓死・御所への落雷で死傷者が出たことなどが続き、道真の祟りが噂される。道真は天神様として北野に祀られていることは誰もが知る通りだ。
百人一首に採られている道真の歌は「このたびは ぬさもとりあへず たむけやま もみぢのにしき かみのまにまに」
宇多院の紅葉狩りに随行し、奈良へでも行ったのだろうか。紅葉の山を幣(ぬさ)に見立てたのが「御趣向」といったところだが、どこかわざとらしく好きな歌ではない。
藤原時平の死後、権力は弟忠平へと移る。忠平は宇多院・醍醐双方ともうまくやっていたようだ。
忠平の歌は「おぐらやま みねのもみじば こころあらば いまひとたびの みゆきまたなむ」で貞信公の名で百人一首にある。
嵐山へ宇多院の紅葉狩りに随行したのだろうか、道真と似た場面でのヨイショ歌だろうが、こちらの方がまだ素直に読める。
醍醐の時代は次の次の村上天皇の治世と合わせて延喜・天暦の治とありがたがられ、南北朝の後醍醐天皇は自らの諡号を「後の醍醐」と指定したという。
しかし、藤原忠平の下には平将門が仕えていたことが知られる。東に将門・西に藤原純友が暴れる天慶の乱はすぐそこに迫っていた。